教頭と司書のはなし 2

学園物パロディ

 それから暫く教頭は図書室にやってこなかったが、彼の存在を忘れることはできなかった。生徒同士の喧嘩があったらしくて、きっとその処理にまわっているのだろう。その事件はいただけないが、結果としてありがたい。考える時間が出来た。しかし考え事にはまりこんで、常連の生徒達にからかわれてしまうのは、もう重傷だろう。
「なに、どうしたのよ」
「…何って、なに」
「注意力散漫すぎ」
 重傷だ。
 唇の感触が残っている気がする。思い出すたびに頬が熱くなりそうだった。いい大人が何をやっているのだろうかと、馬鹿にすることは簡単なのだがそうもいかなかった。
 相談できる内容でもない。
 溜息と供にずるずるとカウンターに額をのせて、またそうやって思考に陥るのだ。
 そんなことをしている間に昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。ぞろぞろと教室へ帰る生徒達に適当に挨拶をしながら、室内を見回る為に立ち上がる。
「あ。ヒルド」
「何よ」
「図書室は制服着用な。いつも言ってるが、ブレザーを着てこい」
 多分何度言っても無駄だろうと思いながら。黒いセーターを着た彼女は、笑いながら舌を出した。
「あんたの恋煩いがどうにかなったら考えてあげる!」
 幸い彼女が最期の生徒だったから、他に聞かれることはなかったが。何て事を言い出すのだろう。最近の若い子はわからない。
 恋煩い、そう言われてしまえば、なんて反論しようか迷うのだ。
 第一好きでもない野郎にキスされて黙っていられるわけはない。殴りつけるなり、できる。そういう抵抗をまったくしなかったのは紛れもない自分だ。
 確かに、自分は、彼が嫌いではない。むしろ好意的に見ていた。だが、それが行動に移そうと思えるほどの物ではないと思っていた。第一彼は雇用者側の人間で、ついでに言えばここの校長と並ぶ富豪の一族だったりする(もとより彼らはその容姿からして親族だろうが)。学校経営なんて道楽なんだろう。
 そんな相手と、対等だと思えるわけもなく。しかし「キスされたくないか」と問われれば、素直に否と言ってしまえる自分が居た。
 容姿と財力と地位、それだけあれば選り取りみどりの筈だ。自分はただ学園内での遊び相手に過ぎないのだろう。理解しているが、彼はきっと誠実な人物だろうと、期待している。
 要するに、幾ら考えても答えは決まっているのだ。
 多分惚れた方が負けている。
 ただ、いつもやってくる彼が来ないだけで、安心しつつも寂しいし、この中途半端な状況を打開できないのがもどかしいだけなのだ。
 カーテンを整えながら窓の外を見れば、グラウンドで生徒達が陸上競技をしていた。
「呑気そうで、いいな…」
 ぽつりと漏らした声は、殆ど聞こえるかどうかの物だったのだが、
「そうか?」
 応えに、死ぬほど驚いた。気配が全くしなかった。耳元で聞こえた声は、忘れようもない低音だ。心臓が壊れそうなほど鼓動を打ち、どんな顔をしていいのかさえ解らなくて振り返ることも出来ない。
 ああこれじゃあ、意識していますと言っているようなものだ…。
「漸く一段落がついてな、やっと来ることが出来た」
「あ…の、…」
 するりと腰に腕を回されて、後ろから抱かれるような体勢になる。誰かに見られたら、いやそうじゃなくて、なんでこんなに近くにいるんだこの人!
「書庫を見せてくれ」
「あ。…ああ、はい」
 そう言えばそんなことを言っていた。過剰反応している自分が馬鹿みたいではないか。
 不自然にならないようになんとか腕から抜け出して、カウンターの裏に逃げるように戻った。休憩室から鍵を取りだして、書庫の扉を開ける。微妙に距離を取って、どうぞとすすめた。一緒に中に入るのは、緊張するから避けておきたい。
 そんな心境を解っているのか居ないのか、メリアドラスは悠然と振り返ってカグリエルマを射抜いた。
「案内を、してくれるのだろう?」
「え。あ…」
 さっきからろくな単語を話せていないな。頭の片隅でそんなことを考えながら、しかたなく薄暗い室内に入った。
 古い紙と、新しい紙と、ちょっとカビ臭い匂いが入り交じっている。書庫独特のこの匂いが、実は割と嫌いではない。
 図書室の表に出すには惜しい専門書や、処理前の親書が乱雑にならんでいる。何でこんな所にあるんだろうという、絶版本の類が紛れ込んだりしているから不思議な場所だ。
「何を…探しましょうか?」
 よし、ちゃんと声が出た。
「ラバートン名義の本はあるか?」
 それは闘争を題材にすることで有名な、決して新しいとは言えない人物の名前だった。たしか、生徒が読むには難解すぎるからと、奥の方にしまった記憶がある。
 記憶を頼りに書庫の奥まで進み、秘蔵本の山の中でそれを発見することができた。
「とりあえず、二冊ほどありますが―――あの…、教頭?」
 手に取った二冊をひょいと奪われ、空いた隙間に戻される。背中には本の背表紙が当たり、正面には逃げ場を奪うように教頭が立っていた。
 傷一つない長い指が顎を捉えた。ほんの少し上向かされて、強制的に視線を合わせられる。薄暗く光りさえ入って来ないような場所なのに、紅玉の瞳がきらりと光ったような気がした。
「ちょ…、いい加減に」
「私が嫌いか?」
「そうじゃなくて、あの」
 なんでこんなに過剰な程近くにいるんですか。その視線の強さから逃れようと、何とか横を向こうとするのだが、許してもらえなかった。
「お前があまりに可愛い事を言うものだから、抑えきれなくなって困るな」
 にやりと口角を上げて微笑み、唇がお互いに触れるかどうかのところで囁かれる。
「一目惚れだと言ったら、信じてくれるか?」
 俺は言葉を失った。

 その日から俺は、教頭を呼び捨てに出来る関係になりました。

  

20041023

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