Buried Flame

UZUMEBI

 楽園は落ちた。
 救いの女神は死に、黄昏すら終わりを告げる。
 贖物の咆哮が響く。
 この世は終末。

 

***

 

 荒廃とした大地に、どんよりと厚い雲が覆う空。草木は枯れ果て、泉も干上がった。
 それでもここには、人が住まう場所がある。七つの鳥居と、五つの封印柱によって世界から区画分けした、限られた者だけが居住を許された『楽園』。
「今年は麦が豊作らしい」
「でも果物は不作かもしれないと長は言っていた」
「…そうだな」
 星も月も見えぬ夜空の下、青年が二人大樹の元で身を寄せ合っていた。
「『楽園』にも、影が見えてきたのだろうか」
「日が差さないのだから、何処にいても影は見えないさ」
 肩を落とす小柄な背を、封印の守り手である青年は力強く抱いた。
「大丈夫、お前は俺が守るよ。東雲シノノメ
葛城クズシロ…」
 東雲と呼ばれた青年は『楽園』の女神に仕えるカンナギのひとりだった。
「封印柱を建ててから女神の声が聞こえないんだ」
「妹も、佐為サイもそう言っていたが、カンナギ長は大事ないと仰っているのだろう?」
 東雲と葛城は幼なじみだった。子供の頃から一緒に育ち、葛城は武人となって『楽園』の守人に任命され、東雲と葛城の妹である佐為は女神に仕えるためカンナギとなった。
「…近いうちに、女神に拝謁を賜る。彼女の様子を見に常世へ向かう」
 囁くような細い東雲の声は不安の色に染まり、葛城の庇護心を掻き立てる。
「無事に帰ってくれ。一緒に行けないことが辛いな…。けれどお前には俺が居る。『楽園』には女神の加護もある。お前は俺が命がけで守ろう」
 腕に抱いた東雲をひきよせた葛城は、その唇に口付けた。
 それはささやかな逢瀬。一瞬の幸せだが、何物にも代え難い時。
「君にも、僕が居るだろう?」
 東雲は口吻の合間に囁いた。啄むような優しい交合に酔いしれる。彼らには外の世界など見えていなかった。夢のようなこの時だけが全て。
「ああ、お前だけ。お前だけだ」
「僕だって、君を守るよ。君しか、いないんだ。君を守ることが出来ればそれで」
 身の穢れを厭うカンナギと守人の関係は、『楽園』の住人達に見つかると追放に合うだろう。けれど若い彼らはお互いの感情を抑える事は出来なかった。咎められると、それ以上の強さで引かれ合い愛し合った。
 この世界と同じように、いつか破滅を呼ぶ関係だと解っていても、止めることは出来ないだろう。

 一瞬の夢から覚めた東雲は、今はもう得ることの出来ない温もりを思い出そうと己の肩を抱いた。この夢は確かに体験した出来事だ。あの頃の何も知らぬ愚かな自分と、今ではすっかり姿も変わってしまった。
 『楽園』は偽りだ。
 封印柱の一本が燃え落ち、狼煙のような細い煙を上げている。守人に見咎められることのない現世からそれを眺め、東雲は自嘲気味に嗤った。
「一抹の夢には、明日は無い」
 現実は考えていたより悲惨だった。
 終わりを迎えた世界。再生の道はまだ微かに残っている。それは『楽園』の解放を意味する。疲弊した世界は、必死に生きていた。
 『楽園』は、常世とこよ現世うつしよの狭間にある。同時に世界の礎たる女神を守るための聖地でもある。そこに付住する人々は現世の人間とは切り離され、独特な文化と生態を保っていた。遙かに優れた能力と寿命で君臨し、まるで己が神であると言わんばかりの傲りを持っている。人ではない。されど神でもない。
 七つの鳥居で現世の人間を遮断していた『楽園』の住人達は、世界の終末が迫った時、封印柱を建てた。その封印は、決して人間をこちら側に入れないよう、鳥居よりも強力な楔だ。
 世界に打ち込まれた楔は、常世に生わす女神を削ぐに十分な残酷さを伴っている。『楽園』の長であるカンナギ長や長老達はそれを知っていた筈だ。けれど自分たちだけが生き長らえる為に偽りを吹き込んでいた。疑う術を『楽園』の住人は知らない。
 東雲は女神に告げられた。
 瀕死の女神を救う為に送られた常世で。無知その物だった当時の自分を思い出して東雲は皮肉気に唇を歪めた。瞼を閉じれば、あの時の光景を簡単に思い出せる。
『老害の罪を贖うため、おぬしが贄にやられたか』
 やせ細った体から発せられる声は、しわがれた老婆のそれに似ていた。
『わらわにはもう力が無い。この世界にも無い。封印柱を壊せ。この世に『楽園』など、本来在りはしないのだ。『楽園』は両世の中有。永劫は本来有り得ない』
 女神との拝謁を希望したのは東雲本人だった。カンナギ長からは、世界を救う為だと説かれたけれど、女神の元へ訪れて帰ってこられる保障は無いと知っていた。けれど葛城や、他の住人達を救うことが出来るのならと、秘めた決意の元訪れた先で、残酷な現実と向き合った。
 安寧に生きていられるほど、今の世界は優しくはない。
『鳥居だけなら人の子にも打ち破る事が出来ただろう。だが封印柱はそうもいかぬ。あれは世界を殺す。それほど凶悪』
「しかし、封印柱が無ければ、皆死に絶えます」
『すでに現世の人間は死に絶え始めておる。『楽園』が無くなれば、望みはある。今更人の身に戻るが厭だとは、傲り高いにも程がある。その欲望が世界を殺すのだ』
 東雲は、今まで教えられていた事とは正反対の事実を上手く飲み込めないでいた。
『遠からず『楽園』は滅びよう。『楽園』の絶叫は、世界を癒す。叶わなければ、その時が世界の終焉』
「ならば、僕に何が出来ますか。ただのカンナビである僕に」
『封印柱を壊せ。『楽園』を燃やし尽くすがいい』
 一片の救いすら見いだせないような、女神からの残酷な声に東雲は震えた。出来るはずがない。『楽園』には葛城が居るのだ。愛する者を傷付ける事など、出来ない。
 すると女神は瞳を細め、東雲の胸中を見透かしたように囁いた。
『葛城を救いたいのならば、『楽園』を焼くがいい。我が最後の魂と力をそなたに』
 女神は最後に微笑んだ。絶世の微笑は、命の最後の輝きだ。
贖物あがもの の神として化生せよ』
 流砂のように消え去った女神から、東雲に向けて光が放たれた。抗う事も出来ずにその力にさらされた東雲は、暫く気を失っていた。彼が目覚めたとき、女神の姿も神殿の外観すらも無く、砂塵舞う荒野に取り残されていた。
 艶やかな黒髪からは真白く色が抜け落ちて、女神の体に施されていたのと同じような文様が皮膚の上に浮かび上がっていた。文様は闇のように黒く、まるで凶事を一身に背負ったような異形となり果てていた。
 こんな姿を葛城に見られてしまえば、きっと悲しむだろう。彼には何も告げずに来たのだ。
 けれど同時に、女神の苦しみも解ってしまった。
 彼女が永き時に渡り味わった苦痛、『楽園』という悪を知りながらそれでも民を手にかけることの出来ない葛藤を知った。授けられた力と同時に与えられた知識と記憶に、気が狂いそうになった。耐えられたのは、葛城を救いたいという願いがあったからだ。
「封印柱はあと四本」
 七つの鳥居は既に焦土と化している。
 『楽園』を滅ぼす事で彼が生き残れるのなら、喜んでこの身を穢そう。
 カンナギ長や長老が見る夢に、未来は無い。事実を知らぬ住人達から罵られようと、この力で全てを焼こう。世界からの復讐で身を焦がそうとも、この炎で地を舐めよう。
 東雲の中で埋もれた炎は、破壊の色を宿していた。

 

***

 

「とんだカンナギも居たものだな」
 髭をたくわえた長老の一人が、カンナギ長に向けて悪態を付いた。
「まさか東雲が女神を殺すとは思いもしなかった」
「あやつには贄として穢れを贖って貰うつもりでおったのに」
「不義の疑いあるカンナギなど、死んで当然。神殿が焦土となった今、あやつも生きてはおりますまい」
「確かに、カンナギひとり贄として贖わなければ、神殿だけでは穢れを食い止められないだろうからな」
「こちらには佐為が居る。あれを女神として御祓させればよかろう」
 長老の言葉を気にもせずカンナギ長が言い放つ。
 『楽園』を守護する封印柱の守人である葛城は、賢者達の言葉を聞きながら歯を食いしばった。
 彼は東雲が女神の元へ行った真実の経緯を知らずにいた。住人達を守る為に生贄として神殿に送られたと後から教えられ、愕然としたのだ。
 あいつが女神を殺す事などありはしない。彼は誠心誠意女神を敬っていたし、何より心の優しい者だった。
 潔白を訴えたい。けれど証明できるものなど何一つ持っていないし、相思相愛の仲に合ったなどと告げれば、東雲が悪意の矢面に立たされることは想像に難くない。
 不義などと邪推され貶められるような醜い関係ではなかった。お互いに深く愛し合っていただけなのに。隠し通していた仲だが、何処からか漏れていたのだろうか。誰一人告げた事など無かった。
 歯痒い思いに苛まれながら、葛城はそれでも黙っていた。せめて自分に出来ることは、彼が救おうとした『楽園』を守る事だ。
「常世への道が消えたことは、好機かもしれん。あちらを守る力を、『楽園』維持のために使う事ができる」
「十分に力を取り戻した後、再度道を繋げればよい。そのための現人神だ」
「佐為の力は強い。女神の代わりとして、十分に『楽園』を生かすだろう。我らは残りの封印柱を守り、終末を乗り切るのだ」
 長老の一人が、守人達へ命を下した。四本の封印柱を守る守人達は恭しく頭を垂れた。

 封印柱の中でも一番強力な麒麟柱の番屋に戻った葛城は、秀麗な表情を歪めて力なく椅子に腰掛けた。
「贖物の神は強い、そんな不抜けた態度では守るものも守れないぞ」
「…わかっている」
 贖物の神、それは『楽園』を破壊しようとする凶物の名だ。ひたすらに破壊を求め、炎でもって焼き尽くす力は強大で、第一の朱雀柱は守人諸共焼き尽くされた。
「幸いにも女神が奉られる。佐為が女神となるのなら、安泰だろう」
「先の女神は老いていたのだ。だから東雲になど討ち取られたに違いない」
 それは違う。そう叫ぶことが出来ればどれだけ楽だろうか。
「…俺たちは封印柱を守り抜き、この『楽園』を永続させればいいのだ」
「そうだ、葛城。お前は守人の中でも強い。これ以上攻撃などさせはしない」
 代わりに告げた台詞に賛同を得ても、葛城は素直に喜べなかった。この『楽園』は犠牲の元に成り立っている。救おうとして汚名を被せられた東雲の命によって。
「滅ぼさせやしないさ」
 あいつの為にも。

 

***

 

 この世は終末に向かっている。
「気付かぬ愚かな『楽園』の民よ、その安寧が世界を殺すと思い知ればいい」
 漆黒の仮面で顔を隠した東雲は、白虎柱の天辺に降りたった。人には有り得ぬ飛翔力は、まさに神の力と錯覚する。
 突然の襲撃に、守人達は混乱していた。封印柱を守る為にその周辺に張り巡らされた結界があった筈だ。易々と破れるものではない。
「贖物の神が降りたぞッ!!」
「矢をつがえろ!」
「奴を打ち滅ぼせッ!!」
 一斉に放たれた矢は、東雲の纏う炎によって消し炭と化した。塵さえ蒸発させる力は、守人達には凶悪に映った。
「終末の叫びが聞こえないのか。『楽園』こそが世界の害だと解らないのか」
 東雲の声は笑いを含んでいた。縋り付き力を振るう守人達の、その源は『楽園』そのものの力だ。彼らが戦う度に世界は悲鳴を上げている。けれど箱庭の中にはその声すら届かない。現世の荒廃は全て封印柱が遮断しているのだ。
 身に纏う破壊の炎が白虎柱に移り、じわじわと焦がしていく。大地に打ち込まれた楔を消そうと東雲は高らかに嗤った。それは狂気の叫びに似ている。守人の攻撃は届きはしない。それだけの力を、彼は女神から与えられていた。『楽園』を落とせば消え失せる力。恐らく命も共に尽きる。
「守人たちよ!怯むことはない!贖物の神を退けるのです!」
 その時響いた声に東雲は気を取られた。ほんの一瞬、火の勢いが弱まる。
「女神様!」
「佐為様がお出でになったぞ!勝利は我らに在り、守人達よ奮え!」
 射かけられる矢が増し、東雲は柱の天辺を蹴って中空に舞った。
「佐為が女神だと…?」
 生き物のように踊る炎が矢を舐め上げ、焦げ臭さが漂う中で東雲は呟いた。
「彼女に力はない。女神は死に、力は僕の中にある」
 戦乙女に似た姿で、地上にいる彼女は守人達を鼓舞している。佐為も女神に仕えるカンナギだ。世界の礎たる女神が消えた事を感じない筈がない。葛城は何も言わないのだろうか。彼の姿は見かけないが、やはり戦っているのだろうか。
 東雲が攻撃の手を緩めていることを優勢と見たのか、守人達の攻撃が激しくなった。
「贖物の神を滅ぼしなさい!」
 何も知らぬくせに。
 東雲は下界を見下ろして自嘲の笑みを零した。
「制裁の炎よ、遠慮は要らない」
 何のために牙を剥くのか。世界が枯れ落ちようとしているのに。この炎が焼く先は、唯一の救いであるというのに。
「壊れてしまえ」
 縋り付く価値など、『楽園』に在りはしない。
 東雲の周りに幾つもの炎が浮かび上がり、それは身を寄せ合って大きさを増していく。けれど彼らを殺したい訳ではない。だから東雲は柱に向けて炎を振り下ろした。火に触れなければ消え去る事はない。ただ白虎柱のまわりだけ根こそぎ焦土となればいい。
 この炎は、世界を生かすためのもの。
 火玉の砲撃が降り注ぎ、封印柱に罅が入った。幾つもの破片となって地へ落下する光景は雨に似ていた。
 望んで殺したい訳ではないが、巻き込まれて死んでしまうことは気にならない。降伏せず、逃げず、刃向かってくる相手だ。東雲は瞳を細めて、混乱する『楽園』の封印柱を見下ろしていた。
 消火する術もなく、守人達はじりじりと封印柱から離れ始めた。被害を最小限にしようと足掻いている。東雲を討とうとする矢は無かった。
 ふいに佐為を視界に捕らえた東雲は、次の瞬間、驚愕に身を固くした。寸でで避けた頬の傍を、強弓から放たれた鉄の矢が抜ける。風を切る音が鼓膜に響いた。漆黒の仮面に罅が走る。かけた部分を手のひらで覆い、一矢報いた人間を睨み付けようと、東雲は鋭い眼光で見下ろした。
「…葛城?」
 見間違える筈はない。魂が結びついてもおかしくないほど共に時を過ごし、尽きぬ言葉で愛を交わした相手だ。
 しかし今、葛城は佐為を守るように立ち塞がり、東雲に牙を剥いていた。腕の中に抱いて、お前を守ると甘く囁いた声が東雲の耳元に残っている。彼が今守っているのは、彼の妹だ。東雲ではない。腕の中に抱く相手も、東雲ではない。
「…君の中に、もう僕の居場所は無いのか」
 灰煙の中で呟いた言葉は、誰の耳にも届かなかっただろう。
「僕は…」
 葛城は、贖物の神が東雲であると知らない。向けられた殺意の理由も、攻撃の意味も。贖物の神になってしまった東雲は、事実を晒すほど優しくない。
「…君のために」
 ぽつりと呟いて、口角を上げた。崩れた仮面の一部を手で覆ったまま、東雲は炎の中へ身を躍らせた。どよめく守人達。葛城は背後に佐為を隠し守ったまま、少し後退った。摂理に反する光景は、異様だ。炎の中にある人影は、熱さを感じないのか平然と佇んでいる。飛ぶような軽い足取りで浮かび上がり、東雲はそこへ降り立った。
 葛城は目の前に顕れた『贖物の神』を睨み付け、腰に佩いた剣に指をかける。
「封印の楔は、世界を傷付ける牙」
「なに…?」
「『楽園』が世界の息の根を止める。女神の死によって存えた王国に、何の価値がある」
 真白な髪と、漆黒の仮面。覗く顔を覆う手のひらは、奮う炎の色が反射してさえ真珠のような白さで輝いている。声色は火の爆ぜる音にかき消され、見る者には東雲が男なのか女なのか人であるのかも解らなかったが、不思議とその内容は聞き取ることが出来た。
「凶者の言葉に耳を傾けてはなりません!」
 葛城の背後から出ることもなく、それでも佐為は高く吼える。ちらりと視線をやった東雲は、それだけだった。偽りの女神に興味はない。愛しい思い出を穢すような者に、くれてやる情けもない。
 炎を差し向ける事はしなかったが、東雲は一歩近付いた。
「君はもう、忘れてしまったのか?」
「何を…」
「……もっと声を聞きたいのに」
 記憶を探れば、すぐにでも思い出せる甘い声。囁きに抱かれても、直の声には敵わない。
 しかし葛城の視線は、殺意と同等だった。攻撃を加えないのは、ただ守護対象を背に抱えているからだ。
 轟音が響く。封印柱が折れた。消炭すら蒸発し、楔の根まで焦土に代えていく。
「残念、時間だ」
 東雲は笑い声を立てた。何も知らぬことは、愚かだ。外界を蔑み、存在することが害だと知りもせず。ただ目先の生と過去を守るためだけに、守人は戦っている。
「思い知ればいい」
 ゆっくりと、けれど一部の隙さえ見せぬ動きで、東雲は葛城の耳元に囁いた。どんな守人だろうと敵わないような身軽さに、葛城それでも一矢報いようと試みるが、剣が鞘から抜き出された時には、既に贖物の神の姿は何処にも無かった。

 その日、第二の封印である白虎柱が落ちた。
 けれど朱雀柱と違い、生き残った守人も多かった。彼らは残った封印柱を守るために、総力戦の構えを取る。非戦闘員の住人達すら弓を持ち矢をつがえた。女神として奉り上げられた佐為に導かれ、それが中有とも気付かずに。
 だが贖物の神には微塵の容赦も無かった。彼はただ『楽園』を壊すことにだけ尽力していた。今守るものなど、ない。破壊が、未来を生かす。
 人ならざる者達の激化する戦いの中、贖物の神は玄武柱と青龍柱も打ち崩した。残りはついに最後の封印柱である麒麟柱のみ。
 薄汚れ傷付き草臥れた姿であってなお、残酷で無慈悲な炎が楽園を焼く。

 

***

 

 唯一残った封印柱は、全ての御魂が集められまばゆい輝きに満ちていた。『楽園』で死を迎えた者全ての魂が、常世へ向かわず礎となっている。それは死者をも鞭打つ行為に他ならない。
 佐為は麒麟柱を見上げて爪を噛んだ。次の女神だと言われたとき、勝った、と思ったのに何一つ上手くいかない。何に勝ったのか自分でも訳がわからないのだが、確かに勝利したのだと優越感が全身を痺れさせた。
 男のカンナギなど、女神の手足でしかない。守人より使い勝手がないのに、威張っている者が多かった。結局女に助けを求めるくせに。だから佐為はカンナギの男が大嫌いだった。
 これで兄を一人占めできる。
 兄と幼なじみである東雲が贄として常世へ行った時は、影でほくそ笑んだ。あいつの未来は、もう無いのだと確信した。
 それなのに、居なくなったというのに、兄は自分を見てくれない。悔しい。新しい女神は私なのに、何故。
「佐為、あまり近付くと御魂に降られる」
「平気です。私は女神ですから」
 それはいっそ盲信に近かった。カンナギ長や長老達が、口を揃えて『楽園』を救うのは佐為しか居ないのだと説いていた。現世は死に往く。巻き込まれるわけにはいかないのだ、と。
「この御柱なら凶神を滅ぼせます。何物でも数には負けるものです」
「贖物の神、か…」
 葛城は連日の戦いで疲労した体から力を抜きつつ呟いた。
「あれはきっと、常夜からの厄災。世界を滅ぼそうとする、害悪です」
 佐為の揺るぎない瞳に射抜かれ、葛城は視線を逸らした。『楽園』は未だ現世に呑まれる事もなく、かといって常世を喰らうわけでもなく、ただそこにあった。封印柱の在った場所だけ焦土の煙が立ちこめているけれど、それ以外に変化は無い。無さ過ぎた。
 このところやけに東雲の事を思い出す。
 贖物の神と、誰が呼び始めたのか定かではないが、あれは一体何者なのだろう。東雲が消え、先の女神が死んで現れた破壊の凶事。贖物とは、罪穢れを贖う物のことだ。一体何の罪穢れを贖って、その名になったというのだ。
 それとも、奴を倒すことこそが贖いなのだろうか。
 声が、何処か似ていたのだ。白髪に漆黒の仮面という異形ではあったが。君、という呼びかけは、東雲にしか言われたことはない。
 移り変わるようにして出現したから、そんな錯覚を覚えるのかもしれない。戦うことに不得意な東雲が、率先して破壊を招くとは考えられなかった。
『思い知ればいい』
 耳元で囁かれた言葉は、焦げた煤のようだった。こびり付いて、なかなか消えない。個人的に覚えられるような事をした覚えはない。凶神に恨まれるほどであれば、厄災を引き起こす引き金は己にあるのではないか。
 葛城は麒麟柱を見上げながら、読めない未来の暗さに唇を噛んだ。
 あの日、第二の封印柱を失った日、贖物の神が葛城へと言葉をかけた所為で彼の立場は幾分緩んでいた。血縁者が女神佐為であるお陰で咎めはないが、同じ守人連中の視線には疑惑が潜んでいる。
「兄上が『楽園』で最強であることを、あの凶神は察したのです。だから…」
 目敏く葛城の顔色を読んだ佐為が、疑問を払拭するように断定を告げる。
「だからきっと、贖物の神を倒すことが出来るのは兄上に他なりません」
「……」
 果たしてそうだろうか。己の能力に疑いは無いが、心は晴れない。
 日が陰り紫色に溶けた雲に向かって、消えることのない狼煙が立ち上っていた。

 現世は酷い有様だった。それでも崩壊はまだ先だ。無くなった封印柱のお陰かもしれない。けれど最後の一本は、とても強力だ。あれを壊さなければ、やはり世界は心中する。
 戦いを繰り返すにつれ煤で汚れ傷付いた東雲は、決して癒えることのない体をさすった。肉体の痛みはもう感じない。ただ突き動かされるような激情で立っていた。
 『楽園』を壊すことは、己を殺すことだ。きっと、世界を生き存えさせることができれば、自分の役目が終わると東雲は理解している。
 もとより命は捨てている。葛城を生かそうと決意したその日に、己の未来は絶たれたものと覚悟は決まっていた。
「君が望む未来に僕が存在しないのなら、それでもいい」
 歩調はすでに確かではない。
「僕を忘れることは許せない。君は僕に生かされるのだと思い知ればいい」
 遠く雷鳴が響く。それは世界の悲鳴に似ていた。
 四本の狼煙の中心に、最後の封印柱がある。あれを燃やす為には、東雲の存在を焚付にしなくては。
 思い出すのは幸せだった日々だ。愛を囁き、力強い腕で抱かれた時。今となれば残酷でさえある記憶を糧に、東雲は立ち向かう。決意の炎は決して消えない。頬を伝う涙は、無意識に流れ落ちる。止まらぬ雫でも、胸の痛みを癒すことは出来なかった。

 

***

 

 『楽園』は戦場になった。
 かつて緑豊かで清流が煌めいていた美しい姿は跡形もなく、焦土と残骸が制裁の炎によって灰に変わっていく。激しくも穏やかな火種があちらこちらに点在し、触れた者は全て呑まれた。
「皆、励みなさいっ!麒麟柱を堕とされるわけにはいきません!」
 『楽園』に祭り上げられた佐為が、守人の能力を高めるために祈りを唱える。恐れや痛みを消された戦士達が、覇気を放って炎を圧す。鬨の声がその場を埋め尽くしていた。
 迫り来る矢と覇気を受けながら、東雲は無尽蔵に炎の砲撃を繰り返す。かつての同胞を討ち滅ぼし、容赦のかけらも見せずに封印柱を目指し飛んだ。
 あと一歩、もう少しで触れられる。ぼろぼろになった体を引きずって。戦の音は殆ど聞こえていなかった。彼は笑っていた。同時に泣いていた。
 地平線に低く、陽炎のような太陽が昇る。
 封印柱へ、細い指が伸びた。
 その、瞬間。
「…っ…」
 心臓を、鋼が貫いた。
 響く歓声。
「させはしない」
 低い声だ。擦れた囁きに似たそれが、東雲の背後から耳元を掠めた。
「あいつが守った『楽園』を、堕とさせはしない」
 ぐ、と深く入り込む剣の熱さを感じながら、東雲はゆるりと首だけで振り返った。
「葛城…」
 動きを捕らえられた東雲は、それでも痛みを感じることは無かった。肩を、腕を捕まれた力強さは、よく知ったものだ。
「あいつ…、佐為か…?」
「お前は知らぬだろう。俺が愛した者の名など」
 それは誰だ。自分ではないのか。
 ここまで来て裏切られているのかと、東雲は嗤った。ひとの子の武器など、足止めにしかならない。封印柱までこの近さならば、もう己を止める事は出来ない。
 嘲笑に漆黒の仮面が落ちた。
 東雲は貫かれたまま一歩進み、その指先で麒麟柱に触れた。空間が揺らめく。波動のような軋みを火が舐めた。柱が脈動する。その身を巻く注連縄が燻り始める。御柱の崩壊を促す力は、たったそれだけの小さなものだが、確かに滅びを謳っていた。今までの派手さは無く、また、恐怖を煽るための演出も必要ない。
 最後の封印を壊す一手は、随分と呆気なく、しかしそれで十分だった。
 炎が生み出した風が、白く色の抜けた東雲の髪を流した。贖物の神のかんばせが、はじめて露わになった。
「……東雲?」
 こぼれ落ちた葛城の声は、戦場の轟音に掻き消えることなく響いた。
「まさか…、そんな。嘘だろう」
 崩れ落ちる東雲の体から剣を抜き取った葛城は、それをそのまま放り投げた。傷付いた体を抱き寄せる。
 周りを囲む守人達は、何事かと固唾を呑んでいた。葛城の一撃が寸でのところで贖物の神を止めたのではないのかと、困惑の表情を浮かべる。佐為に救いを求める声も彼方此方から聞こえ始めた。
 包む喧噪は葛城に届くことはなかった。ただ、腕に抱いた贖物の神をひたすらに凝視する。
「ようやく…、気付いたのか…」
「東雲、本当にお前なのか」
「久しぶり、…だな」
 体を動かす力など残っていなかった。本来の女神から与えられた破壊の力は、炎となって彼の中から全て放たれている。後はただ、燃え滓のような意識が微かに繋ぎ止められているだけ。それも直ぐに消えてしまうだろう。
「最後が君の腕の中なら、本望だ」
「何を…、待ってくれ、…何故なんだ!俺はお前の為に…!」
 治療師を、と葛城は叫んだ。けれど近寄る者は居なかった。遠く守人に護られ、佐為が憎しみに染まった形相で唇を噛んでいる。
 葛城の絶叫に籠もる想いを、東雲は受け止めた。最後の最後で、忘れられていたわけではないのだと理解した。ならば遺恨など無い。
「…この終末は、封印柱が…『楽園』が生んだもの」
 煤で汚れた指先が力なく持ち上がり、葛城の頬を撫でる。
「愛しているよ、…愛していたよ、君を」
「東雲…!」
「君を守るために、僕は『楽園』を焼き尽くした」
 意識がだんだんと擦れてくる。それでも東雲は語ることを止めなかった。
「常世の女神の力を持って、世界を生かす為に…。僕を贖物として、『楽園』は滅び、現世へ還る」
 東雲は泣いていた。
 意志ではない。その涙が何処から溢れてくるのかさえ解らないまま。ただ、腕の暖かさだけが彼を安らかに救っていた。
「君は、…生きて」
 砂粒のような光が東雲の体を包んでいく。東雲を構成する全てのものが、光に変わって天へ地へと消えていく。
「東雲!待て、いくな…ッ!」
 頬を辿る指が滑り落ちた。留めようと差し出した葛城の手は、粒子を掴むことが出来ずに宙を混ぜた。こぼれ落ちた言葉の意味を、すぐに理解することなど出来ない。憤りに似た絶望が葛城の体を渦巻き、がむしゃらに東雲を求める。
 涙の最後のひとしずくが、地へ落ちる前に光に変わって消えた。
 確かに感じていた東雲の重みが消えた。抱きしめた形のままの腕が、頽れる。
 『楽園』を守る最後の封印柱が、みしみしと音を立てて燃え上がった。大樹を形取った御柱が崩壊する音は、美しい歌声に似ていた。
 それすらも、やがて煙になり果てるだろう。
「あああ――――…!!」
 嘆きの絶叫が、葛城の喉を裂いた。それは『楽園』が軋む声と同じ。
 東雲を殺して生かされた未来など、救いも望みもしない。そんな未来など欲しくはない。
 自分は何も知らぬと、今になって思い知らされた。絶望と恨みが生んだ痛みの火が、葛城の胸に埋められた。どれだけ泣いても消すことは出来ない炎となって、葛城を焼くだろう。

 

 かくして、『楽園』は枯れ落ちた。

  

志方あきこ「埋火」より

志方あきこさんの新アルバム「ハルモニア」の中にある曲のひとつです。友人が「これいいよ〜これ好きだよ〜」とキャッキャしていたので、どれどれとちゃんと聞いてみたら、なにげに萌えっときました。志方さんスキーの方の気分を害してしまったら申し訳ありません。忘れてください。
この曲で小説書いてくれ、と珍しく要求がやってきたので、喜々として書いてみました。もう原曲あとかたもない。たぶん、受け攻め逆のほうが王道で面白いと思うのですが、あえて狂気に走る方を受けにしてみました。やっぱり書いてみていまいちでしたが(笑)。設定とかは、超即席です。
2009/04/25

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