- Love is blind -

Koerakoonlased

「うわ、わっ…!」
 廊下を小走りに歩いていたミレニエラは、角を曲がった途端にひとりの男とぶつかった。
 重い音が幾つも響いて、足下を見下ろせば分厚い本が散乱している。真っ黒な髪が、差し込む光を吸収するほど。尻餅をついた男は、ずり落ちた眼鏡を押し上げて笑った。
「大丈夫?怪我とかは、ないかな」
「…貴方こそ、怪我はなくって?」
「僕は平気。いつものことだ」
 照れくさそうに笑う男は、立ち上がりながら本を拾い集めた。
 手伝うわけでもないミレニエラは、無様に転がった男と本を眺める。古ぼけた本のタイトルは、全て歴史に関するものだった。
「一人でお持ちになる量じゃなくてよ」
「誰にもぶつからなきゃ、持てる量さ」
 重ねた本を、よいしょ、というかけ声と共に両手で抱える。
 端から見れば加害者であるミレニエラが、ぶつかった礼もしないことに嫌味でも言われたのかと勘ぐれば、男は無邪気に微笑んでいた。どうやら、嫌味ではないらしい。
「…重そうね」
「うん。重たいね」
 ひょろりと長身の男が両手に抱え、顎まで隠れるほどだ。困った顔を見て、ミレニエラは一冊奪い取った。
「本当に重たいわ」
「ええと…」
 困惑が顔一杯に広がって、男は眉間に皺を寄せる。
 目の前の少女は、魔導師のローブ姿だ。学院高等部の紋章が縫いつけられているから、自分の後輩だとは解ったけれど、こんな所で何をしているのだろうとも思う。
 ここは大学院の研究室棟で、大凡高等部に所属するような学生は訪れない。
「何処へ行くの?」
「え?」
「一冊くらいなら、手伝ってあげてもよくってよ」
「あ、ああ。ありがとう。助かるよ」
 ミレニエラが何かを手伝う事など、これまで一度と言って無かった。もっとも彼女の双子の弟に対しては過剰なまでに世話をやいていたけれど、それでも肉体労働を手伝う事など皆無だ。
 高等部の、しかも魔導科ではすでに周知のことだが、彼はそんなこと知りもしない。だから驚きもせず純粋に感謝の気持ちで微笑んだ。
「此処にはどんな用で?」
 廊下をゆっくりと歩きながら、横に並ぶ少女に声をかける。
「オルミガ老師をやりこめてきたところよ」
 その名は、魔導研究の教授の名だ。偏屈で頑固で融通が利かないと、表でも裏でも有名な御仁。確かに高等部でも教鞭はとっているが、老師は生徒達を子供として扱うからあまり生徒受けは良くなかった。悪い人物ではないのだが。
「…それは、勇ましい」
 彼は苦笑を浮かべた。話の内容に興味は無いが、その現場を見てみたかったと悪戯っぽく告げる。
 ミレニエラはちらりと男を見つめ、両手で抱えた分厚い本に視線を戻した。
「貴方、お名前は?」
「あれ、申し訳ない。名乗ってなかったね」
 足を止めて、随分下にあるミレニエラの顔に視線を向けた。何故かこちらを向いてくれないけれど、気品漂う姿から想像して、きっと彼女はどこぞのお嬢様だろうと思っていたから気にも留めなかった。この年頃が警戒心を持つくらいには、年上だという自覚はある。
「僕はバスティアン・ベデガート」
「ベデガートと言って?」
「そう」
 君は?と問い返そうとしたときに、ミレニエラの瞳が男を射抜いた。赤紫の瞳は少女らしい大きさで、とても可愛らしい。日の光に赤く輝く長い黒髪と相まって、彼女の美しさを際だたせている。左頬に、華を思わせる霊印が描かれていた。
 これは、随分と魔力の高い現れだ。彼は美麗さに見惚れた。
「第十三王家ベデガート家の?」
「しがない研究員だけれど」
 苦笑を返せば、少女は視線を戻してしまった。王族に対して、何か気構えがあるのかと少し残念に思う。こんな所でこの歳になっても学舎に居る事は、王族ではそう多くない。家督に関係のない者か、余程の物好き、でなければ軍人になっている事が普通。まさか王族だとは思わないだろう。
  一般人にとっては、王家に連なる者に対して、カーマの歴史と風潮から礼を取る。王族に対する気後れか、それとも、王族がこんな所に居ることに対する落胆か。
 ちなみに王族と同じ家名を持つ一般人というものは、カーマに存在しない。
「君の名を聞いても?」
 警戒させないように穏やかな声で問えば、今度は驚愕に見開いた瞳で凝視された。その反応は、何を馬鹿なことを聞くんだ、というもので、バスティアンは首を傾げる。まさか王族は自己紹介をしないとでも思っていたのだろうか。けれど育ちの良さそうな雰囲気から考えて、名乗らないわけもないだろう、とも思う。
「ミレニエラ・マクミランよ」
 ぽつりと落とされた言葉に、バスティアンは固まった。
 マクミラン。魔を少しでも囓った者で、その名を知らぬ筈はない。第三王家、魔導のマクミラン家。二つ名さえ冠するその家名は、数字の大小があっても平等であるという王族の中で、畏怖を持って呼ばれるほど強大な地位にある。
 裕福なお嬢様どころではない。彼女は立派に姫だった。
「M2…?」
「それは弟のこと。私はレディと呼ばれていてよ」
「Lady M2」
 思わず呟いたバスティアンに、ミレニエラは上目でウィンクを送る。
「貴方は、ミレニエラと呼んでよくってよ」
 茶目っ気たっぷりの少女の笑顔に、バスティアンは目元を染めた。眼鏡で隠せているか、妙に気恥ずかしく思う。
 バスティアン・ベデガート、二十八歳。
 真冬のカーマで、彼に遅い春が訪れた瞬間だった。

 後に彼をほぼ強引に婿として迫ったミレニエラは言う。
「非力で喧嘩も弱くて歴史馬鹿だけど、あのひとの困った顔が可愛かったの」
 と。

  

バスティは断じてロリコンじゃないとここでフォローを入れておきます(笑)。当時ミニーが15〜16くらいだったとしても…!ただ、普通に可愛かっただけなのに、気付いたら外堀を埋められていたという。 あれです。食パン口にくわえて「いっけな〜い!遅刻しちゃう!」の男女逆版。
麻里子様へ捧ぐ。
2009/03/06

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