Koerakoonlased - 1 -

Koerakoonlased "Radid Canine"

剣聖と謳われる者は、その出自に関係なく、国すらも左右する。

***

 森の中を、手を繋いで走っている。遊んでいる訳ではない。逃げているのだ。
 二つの小さな影。その背後を付いて来る小さな鳥のような影。木の根に足を取られないように、慎重に走る。
 移動速度がそう速くはないのは、影の正体が子供だからだ。歳が近いのか身長にあまり差はない。
 若干高い方は真っ黒な髪に同じ色の瞳。左眼の下に泣き黒子が可愛い。大きくなればさぞ美人になるだろう事が伺えた。
 もう一方、腕を引かれている方は、樹木の間から差し込む光で黒髪が赤く光り、宝石のような紫色の瞳を輝かせていた。右頬に呪術師が描くような文様が刻まれているのが印象的だった。
 二人の衣服は決して悪いものではない。少なくとも、罪を犯して追われているという生活とは無縁のように見える。
「大丈夫?ミラ」
 先頭を走っていた子供が息を切らせながら聞いた。
「うん。ちょっとつかれたけど、へいき」
 何度も深呼吸を繰り返して息を整えていれば、二人に割り込むように小さな何かが飛んできた。
「オレ様を置いていくなよぅ」
 それは奇妙な生き物だった。蝙蝠のような羽をと先がとがった尻尾を生やした、人型の生き物。大きさは子供の頭と同じくらい。黒い髪に褐色の肌。尖った耳。陶器で出来た人形のような顔をしている。
「悪魔のくせに足がおそいよ、シャプトゥース」
「うるせえや!魔力がオレ様よりあるからってえらそうにすんな!」
「静かに」
 小さな悪魔と子供を止めたのは、黒髪の子供だった。
「このまま森を抜けたら、ベデガート州だと思う。そこまで行けば、きっと大丈夫だよ」
「うん!ジーンといっしょなら、どこまでも行ける」
 二人はお互いの顔を見合わせて笑った。

 ふ、と視界が暗転した。

 大人の声が聞こえる。捕まえろ、とか、そこにいる、とか、言葉の内容は大した事ではないのに、恐怖の対象として感知していた。
 だんだん視界が開けてくる。森と、大人と、子供と、悪魔。入り乱れたのは一瞬で、子供はすぐに捕まえられた。
 そう、逃亡は一日も持たなかった。隣の州へなど近づいている筈も無い。自分は事の顛末を知っている。これは記憶の再現だ。
 けれど映像は止まる事が無い。
 また暗転し、次に広がった光景は別れの場だった。
 泣きながら嫌だと駄々をこねる自分と、ひっぱたかれて頬を赤く染めたジーン。大人たちに責められる割合は殆どがジーンに向いていて、それをとめる術をもたない自分がもどかしくて悔しくて堪らなかった。
 もう一緒にいられない。出立の用意は出来ているから、すぐに王都へ向かうと大人たちが言っている。離ればなれになってしまう。すぐに帰ってきて元通りになるとは、子供ながらに思えなかった。
「しょーがねーな!じゃあ、オレ様が目印をつけてやるよ」
 悪魔が胸を張って呪文を唱えた。その途端、見る見るジーンの髪が白くなっていく。艶やかな美しい黒髪が見る影も無い。
「シャプトゥース!もどせ!おまえ、なにして――」
「いいよ、ミラ。大丈夫。気にしないで」
 焦りでさらに泣きそうになった自分へ、ジーンの優しい声が被さった。
「離れていても、大きくなっても、これで見つけやすいでしょ?」
「ジーン…、でも」
「いいの。泣かないで。すぐにまた会えるから。今度会う時は絶対にミラを護るから」
 白い髪に黒い瞳。泣き黒子。綺麗な顔。
 大人たちに引き離されながら、絶対に忘れないと誓った。王都でいっぱい勉強をして、ジーンから自分を引き離した大人たちを従えてやると決意した。
「お前が招いた結果だ。ミラビリス」
 父の声が重く圧し掛かるようだった。憎しみが鮮烈に胸中を広がった。


 
***

「ミラ!」
 子供の声が聞こえる。よく知った声。
「ミラビリス!起きろおぉおお!ミラ…うぉお!」
 瞼を開けば、顔の前に小悪魔が張り付いていた。寝覚めは最悪だ。
「いきなり目あけんなよ!びっくりすんじゃねーか!」
 ミラビリスは目頭を抑え、眠気を払う。随分古い記憶を伴った夢を見ていたものだ。懐かしさと愛おしさに自然と口角が引きあがる。
「嘘つき…」
 吐息に混ぜた独り言は誰にも聞かれなかった。子供の約束だ。それも、本当に幼い頃の。自分でさえ探すことをあきらめてしまったのだ。想い出は美しくあってもいいだろう。人のことは言えない。
 夢の中に出てきた悪魔が変わらず傍を飛び回っている。ミラビリスの髪をひと房掴んで引っ張ったり、まるで小動物だ。
「やめろ、シャプトゥース。何か用があって俺を起こしたんじゃないのか」
 素早く蝙蝠型の翼を摘めば、途端に大人しくなった。
「さっきからドアをノックしてる音が煩くてオレ様の睡眠妨害をだな――」
 そういう事は早く言え。悪魔を放り投げたミラビリスは、急いで扉へ向かった。ノブを回して引くと、若い兵士が所在無さげに立ち尽くしている。困惑の表情が一気に安堵へ変化した。
「よかった!もし出ていらっしゃらなかったら何処を探そうかと思っておりました」
「すまんな。手が離せなかった」
「居眠りしてただけだ――うぉおお!」
 投げられた事に怒っているのか、シャプトゥースが喚き散らす。眉間に皺を寄せたミラビリスは、飛んでいる悪魔を素早く捕まえて窓の外へ投げ捨てた。
 雄たけびのような声がだんだん小さくなって行くが、なま物を窓から廃棄した当の本人はまったく気にした様子は無かった。
「あの、いいんですか、使い魔をそんな」
「気にするな。どうせすぐ戻ってくる。で、俺に用件はなんだ」
 ほとんど表情を変えずに一連の動作をやってのけたミラビリスに、笑っていいのか困っていいのか判断の出来ない兵士は、とりあえずは自分の仕事を全うしようと口を開いた。
「この数年騒いでいるという、『館』が活性化しているのではないか、と議員の要請が入りました。管理人であるマクミラン顧問官の確認を取りたいとの、上からのお達しです」
「この一週間、ずっと不安定だな…。一応一日一度は様子を見に行っているのだが、それでも不安と見える。俺の睡眠時間くらい確保していただきたいものだ」
「お察しします」
 ミラビリスは兵士の棒読みじみた声色を聞きながら、部屋の中央を占めるテーブルの前に戻る。扉を閉めて部屋の内側で待機した兵士は、これから始まることに瞳を輝かせていた。
 テーブルの上には大きな設計図のようなものが描いてあった。館の設計図だろうか。図面からは大きな屋敷であるだろうという予測しか出来ない。
 立てかけてあった漆黒の杖を手にとったミラビリスは、杖の先で図面に触れた。すると前触れもなく描かれていた線が淡い青白色の光を放ち、幻想的な光を放ったまま止まる。兵士は滅多に見れぬ光景に息を呑んだ。
「同時に二本の共鳴。いつものことだが今回は大きいな」
 独り言のように呟いたミラビリスは、細めていた紫色の瞳を見開いた。
「…!」
 背を向けているので表情の変化を見られることは無かったが、これは図面の今までに無い反応だ。もう一度杖先を触れて光を消し、ミラビリスは振り返った。
「念の為、館の様子を見てくる。上にはそう伝えておいてくれ」
「わ、わかりました!」
 急いで部屋を出た。兵士は遠ざかるその背中に敬礼を返した。

 少し肌寒い昼下がり。夏よりはだいぶ弱くなった太陽の光が、黒髪を赤く見せていた。カーマ王国の夏は短い。秋の初めにしては気持ちのいい天気だ。
 そういえば、あの時もこんなふうに空の高い日だった。
 ミラビリスは、先ほど見た夢の内容を思い出して微かに笑った。
「おぉおおおおい!オレ様を置いていくなこの冷血魔導士!」
 感傷をぶち壊す声にがっかりする。本気で嫌いなわけではなく、その能天気さには助けられているとは言え、どうにも役に立たないこの使い魔との付き合いは長い。悪魔は建物を出た直後に追いついてきた。
「シャプトゥース、俺が子供の頃家出したことを覚えているか?」
 歩く速度はそのままに、ミラビリスは小さな悪魔に尋ねた。
「お前に召喚されてからのことは全部覚えてるぜ!」
 空中で器用に胸を張った悪魔は、得意げに一回転してミラビリスの肩に座った。定位置なのだ。
「半日で捕まったっけな。離れたくないって泣き喚いてたオマエの不細工面を思い出すと未だに笑いがとまらねぇぜ」
「……ああ、そう、よかったな。聞いた俺が馬鹿だった」
 相槌は適当に。
 ここはカーマ。カーマ王国。世界でも屈指の軍事国家である。国王を輩出する正統王家と、正統王家と婚姻権をもっている二十一の分王家が国と地方州を治めている。
 古代、この世界を支配していた『紅蓮の魔神』と呼ばれる魔族の血を継ぎ、赤から黒にかけての体毛と虹彩を持ち、尖った両耳を持っている。純血に近ければ近いほど赤か黒の色が現れ、正統王家では国色である赤暗色が殆どだ。市井に下れば中間である茶系統の色が多い。また、魔族の血を微かにでも残しているからか、カーマ人の魔力値は飛び抜けている。時代の流れによって薄まって来ているとは言え、王家では当たり前のように高魔力保持者が居るし、先祖返りなどで一般人にもそこそこ多い。そういう者には必ず、皮膚の何処かに霊印(いれずみ)が浮かび上がっているのだ。このような人種特徴は始祖の影響であり、始祖の姿に近ければ近いほどカーマでは喜ばれる。
 ミラビリスは第三王家マクミラン家の長男だ。光の加減で赤く光る黒髪に、紫色の瞳。肩から首、顔の右側にまで及んだ霊印。それだけで彼がどれほどの魔力を秘めて居るか伺える。
 分家は断絶できない。古代からそのような制約を受けていて、当主として認知されるのは純血を持った者でなければならず、婚姻は分家間で行い、子を残すことが義務である。
 本来ならばミラビリスは政を学ばねばならない。だが彼はすでに継承問題の煩わしさから解放されていた。マクミラン家は後継者が生まれている。ミラビリスには双子の姉がおり、姉は学生のうちに他の分家出身の男と恋に落ちて、卒業と同時に結婚。すぐに出産。男は婿となって姉と一緒にマクミラン州で統治者として修行中だろう。
「ギュスタロッサの屋敷か?」
 思案に耽っていたミラビリスの髪をひっぱり、シャプトゥースが尋ねてきた。
「そうだ。ここ何年も、ずっと騒いでいる剣があるだろう。あれが最近特に煩い」
「ご主人様がついに見つかったのかもよ?武器に封じられた悪魔は使って貰わないと外に出れない。オレ様みたいな自由がなくて不憫なやつらだ!」
「6歳の俺に召喚されてそのまま使役され続けてる弱小のお前が言うな。魔具に失礼だ」
「なんだとこの!」
 髪の先に噛み付いた小悪魔を指ではじき落として、ミラビリスは歩みを速めた。どうも胸騒ぎがする。
 家督継承と関係の無いミラビリスは、故郷に帰って政治の手伝いをしても良かったのだが、研究者として王都に残ることを選択した。どうせ故郷に帰っても、目的は無い。
 研究対象は『ギュスタロッサ』。その館と武器について。
 カーマ古代、ギュスタロッサというひとりの武具匠は様々な武具を世に残した。魔導士としての能力も高く、匠は『紅蓮の魔神』縁の悪魔や魔族を召喚しては自分が作った武器に封印した。その武器は使うものを選ぶ。武器が認めた者でなければ、触ることさえ適わない。
 武器は匠の館に封印され、館そのものも人目につくことが無いよう強力な古代魔術がかけられている。館の場所というのは地図に表現できない。選ばれた者が訪れたとしても、二度目というのは殆ど無かった。剣聖クラスに成れば、叙任義務に付随して館と懇意に出来るだろうが、カーマにはここ暫く剣聖は生まれていない。
 現状では探そうとすればするほど見つけられない。例え地図をかけたとしても、その地図の通りに館は現れたりしないのだ。
 では何故そのギュスタロッサを、ミラビリスが研究しているのかといえば、彼はギュスタロッサの屋敷に出入りできる能力があるからだった。
 館の場所は図解できないが、彼は直感で辿り付く事が出来る。それは館に認められたのだろうという意見が多い。滅多に存在しない召喚士としての能力を保持しているからとも言える。
 ミラビリスは、若干6歳で悪魔を召喚してしまう程の能力を秘めていた。過去を見てもマクミランとはそういう家系だった。
 黒い蝙蝠みたいな悪魔を片手でじゃれさせながら、ミラビリスは引きずられるような感覚に身を任せる。昼下がりなのに薄暗い、蔦の這う高い塀が横にあることに気が付き、安堵した。この塀を辿っていけばギュスタロッサの正門だろう。
「おお。なんか一段と煩ぇことになってんぞ、このなか」
「具体的に何がどう、と言えればお前も役に立つのにな」
「オレ様より強い相手にそんなことが出来るわけないだろうが!」
 シャプトゥースの能力は本当に低い。ならば何故使役し続けているのかといえば、思い出であり、ミラビリスが一人では寂しいからだ。
 高位魔族を召喚して使役できたとしても、世話が大変なので長続きしないだろうとミラビリスは思っていた。
 暫く歩くと、格子扉が見えてきた。いっそう厳重に蔦が覆っている。ここが入口である。果たして中に入るべきか。隙間から屋敷を覗き込んだ。誰か侵入している痕跡はない。
 研究室の部屋で図面を見た時には、人が近づいているような反応を示していたのだけれど。
「誰か近寄ってくる気配はあるか?」
「これだけ煩かったら人間の気配なんて一発でわかりそうなんだけどなーわかんねーなー」
 ぐるぐると辺りを見回しながらシャプトゥースはつまらなそうに言う。ミラビリスも目視で確認したい衝動に駆られたが、館の前で回りの景色を観察することは出来ない。場所を確認しようと振り返った瞬間、館の姿は消えているのだ。
「仕方ないな。少し待つか…。新規の騎士位でも来るかもしれないし」
「中に入ってりゃいいだろ。玄関前なんて何も無くてつまんねー!」
「俺が出迎えるわけにもいかんだろうから、却下だ」
 つまんねーつまんねー、と繰り返しながら飛び回る悪魔をどうやって静かにしようか考えていたミラビリスの耳に、足音が聞こえた。明らかにこちらへ向かってくる。咄嗟に悪魔を捕まえてポケットに押し込んだ。
 ギュスタロッサの魔具に呼ばれた者だろうか。そうならば今日新たに騎士位が生まれることになる。
 ミラビリスは期待に逸る鼓動を感じながらも、ぎりぎりまで振り返らなかった。
「ここ、あなたの家?」
 声を掛けられた。低音。男だ。ミラビリスはそれで漸く振り返ることが出来る。屋敷を認識するこの男の傍に居る限り、魔術に締め出されることは無い。
「いいえ。ここはギュスタロッサの館です。ご用件を――」
 振り返ったまま、ミラビリスは言葉を失ってしまった。
 白い髪だ。
 男は白い髪をしていた。南国風の衣装と。腰に剣をさしているから、剣士だと判断できる。けれど凡そカーマ人らしくない格好。どうして、ギュスタロッサが選ぶのだ。魔神の血を身体に宿したカーマ人にのみ呼びかけるプライドの高い魔具なのに。
 白い髪。雪のような白さ。夢を思い出す。
 長身に、甘い表情。なかなかの美形。吸い込まれそうな漆黒の瞳、その左眼の下に泣き黒子があった。
「ミラ…?」
 男がポツリと漏らす。ミラビリスは一瞬何を言われているのか解らなかった。今では姉と使い魔しか呼ばない愛称。
「ミラビリス?」
「何故…」
 どうして俺の名前を知っている、いやそうではなく、俺は目の前の特徴に良く似た人物を知っている。けれど目の前の人物は男だ。軽い混乱に言葉を紡げないでいると、ポケットから這い出てきた悪魔が甲高い声を上げた。
「ユージーン!」
「…シャプトゥース?じゃあ、本当にミラなのか」
 男の困惑顔が期待と喜びに移り変わる。
「おおお!オレ様の術もけっこうやるじゃねぇか。目印の白!カーマじゃよく目立つ白だぜ!」
 誇らしげに飛び回る悪魔の声を理解するまで少しかかった。ミラビリスは目を瞬かせる。
「ジーン…?」
 それは夢で見た少女の名前だ。一緒に逃げようとした子。確かに特徴は一致しているけれど、性別がまるっきり違うのではないだろうか。美しい女性になっていると思っていた。確かに見目はいいだろうが、目の前の男はどうみても男だ。
「この髪の色と、顔の霊印。昔とかわってなくてよかった。あんなに可愛かったからどんな美女に育ってるかと思えば、やっぱり裏切らないね。面食らった」
 男がしみじみと呟いて、ミラビリスの頬を撫でた。剣を扱うに相応しい指が、霊印をなぞる。
「ジーン!ジーン!オマエ剣士になったのか!」
「そう。傭兵をやりながら世界を巡ってる」
 シャプトゥースに驚くことなく返事をして、ミラビリスを引き寄せた。腕のなかにすっぽり収めて抱きしめる。
「あー、幸せすぎて泣きそう」
 抱き込まれたミラビリスは相手がまぎれも無い男であることを身体で体感し、一気に正気に戻った。でかい女かとも思ったが、やはりどう考えても男だ胸が無さ過ぎる。柔らかさというより固い。
「お前…、男だったのか!」
「は?」
 例えるなら猫のような怒り方。素早い動きで離れたミラビリスに、男は――ユージーンはぽかんと口をあけたまま。
「え、何で?俺の何処を見て女?」
「思っていたとも!俺とそう大差ない身長で、髪も長かった!」
「ああ…、昔は小さかったから。師匠にやたら食わされてみたら案外育ってね」
「ぎゃはははは!馬鹿だなミラビリス!」
 腹を抱えて笑う悪魔に、ミラビリスの怒りは沸点を超えた。暢気に飛び回る小さな身体を捕まえて、力いっぱい放り投げる。断末魔の遠吠えは今度は遠く木霊した。
 あっけに取られていたユージーンは、肩で息をするミラビリスと見て破顔した。昔と何も変わっていない。とりあえず今はそう思えた。
 杖を持っていないほうの指を掴んで引き寄せる。
「何」
「待たせて、ごめん」
 指先に口付けを落とす。貴婦人へ挨拶するような仕草。生まれてこの方、晩餐会などで行ったことはあれど、されたことは無いミラビリスは、咄嗟に手を振り払った。
「やめんか気持ち悪い」
「ミラ?」
 自分の指とミラビリスを見比べながら、それ以上何か言うのは雰囲気で憚られたユージーンは大人しく黙った。
「お前、どうしてここに来た?」
「ここに来なきゃならないような気がしたから、かな。なんかことあるごとにカーマに戻らなきゃとは思ってたんだけど、戻っても収まらないし。師匠が死んで、傭兵の仕事も暇が出来たし、一度呼ばれるままに探してみようかと思ったらここに来てた」
「…どのくらい前から呼ばれていると思った」
「そうだな、五年ちょっと?」
「……遅刻しすぎだ」
 ちょうど問題の剣が活性化し始めた時期と重なるのではないか。ミラビリスは運命の悪戯か、ギュスタロッサの気紛れか、どちらにしろ溜息をつくしかなかった。これでひとつ上に報告できるだろうけれど、色々厄介事もありそうだ。
「ミラ?」
「ギュスタロッサを知っているか?」
 ミラビリスは問いかけながら、鉄格子に触れるよう合図した。
「うわ」
 ユージーンが手をかざした途端、覆われていた蔦がしゅるしゅると自立して引っ込み、格子扉がひとりでに開く。あまり見られる光景ではないから、驚くのは仕方が無い。一歩後退ったユージーンの背中を押して塀の中に入れば、やはり自動的に扉は閉じられた。
「なんか、聞いたことはあるけど、俺カーマから離れて長いからね」
「国民不幸者め。ギュスタロッサはカーマ人にのみ使役される悪魔や魔族を封じ込めた魔具を作った匠の名だ。現在では魔具そのものを言う。ここは、その魔具が封印された館だ」
「へぇ」
 きょろきょろと珍しそうに辺りを見回すユージーンは、先頭を歩くミラビリスを常に視界の端に収めていた。久しぶりの再開にしては何処か冷たくて余所余所しい。寂しいけれど、様子を見よう。
 この季節に咲くはずのない花や草木をかき分けて館の扉の前で一度止まる。ミラビリスは手をかけない。
「今の俺は調査官ではなくて案内人だ。お前を優先しなければ館の面目が立たない。開けてくれ」
 色々と疑問点を問いただしてみたいが、ミラビリスの顔を見下ろせば、質問はすべて後だ、と紫色の瞳が語っていた。仕方なくユージーンは扉を開ける。随分古ぼけた印象を受けていたのだが、軋むことすらせずにすんなりと扉が開いた。
 足を踏み入れて、暗い室内に一斉に明かりが灯った。それだけでも充分高度な魔技術が使われていると解る。
 ユージーンはこめかみを指で抑える。耳鳴りのような音が酷い。呼ばれていると感じた感覚が、いっそう強く揺さぶってくるようだった。
「お前を主と求める魔具がこの中にある。その呼び声に応えてやれ」
 ミラビリスの声が遠く聞こえた。ユージーンはふらりと歩み、目を凝らしている。
 魔具に呼ばれた者たちが自分の武器を手に入れるときは、どんな者でも今のユージーンと同じ状態になる。一心に声を聞き、その発生源を捕らえるために必死に耳を澄ませる。ミラビリスは何度もこの場に立ち会ってきた。位の高い騎士が生まれないかとそのたび期待する。
 しかし、現実は厳しかった。現在のカーマには剣士が少ない。魔法術を扱うものが圧倒的だ。騎士という総称は主に剣士に使われるものだが、ギュスタロッサに認められ位を与えられた者全ての総称でもある。その昔、カーマは剣士より魔術師の方が少なかったけれど、今の時代の波は逆なのだろう。魔術師の騎士が多い。
 騎士位は上から金剛、青玉、赤玉、黄玉、という位名を与えられ、対応した宝石がはめ込まれた指輪を証として与えられる。金剛はそれだけで異質。その下の位との差は歴然。雲泥もいいところだ。金剛位は須らく剣聖と呼ばれ、国王に助言を行ったり軍事的最高責任者として名を連ねたり、カーマ全土の剣士達から賞賛と尊敬を一身に受けることになる。
 剣聖は自称で為るものではない。また、努力でなれるものでもない。剣聖本人が居れば叙任がもっと楽に行えるのだが、現在はそれもギュスタロッサが行っていた。
 ギュスタロッサの館では、魔具と指輪が与えられる。その結果を見て、人々は騎士位を知る。ちなみにミラビリスの右中指には青玉の指輪が嵌めてあった。現状で最高峰に違いはないが、魔術師であるというだけで価値は並だ。それに、マクミラン家では青玉か赤玉が普通である。
 右の廊下を歩いて行ったはずのユージーンは、正面の階段から降りてきた。片手には剣を持って、それでもまだ眉間を擦っている。
「はい」
「はい、じゃない。俺に渡してどうする。自分の武器だろう、自分で持て」
「ああ、そうか。いや、そうじゃなくて、まだ足りない気がして」
 ちぐはぐな会話は、致し方ない。ミラビリス本人も、杖を授かった時はそうだった。
 しかし足りないというのは、どういうことだろう。通常与えられる魔具はひとつ。二つで一組の魔具は、同じ場所に収まっているのが普通だ。
 目を凝らすように正面を見据えたユージーンは、ひとつ唸ってから階段の裏側へ歩き出した。
「お、おいっ!」
 空いた手はミラビリスの腕を掴んでいる。初対面は剣と主の二人きりという概念があったので、一緒に探しに行くことに戸惑った。むしろ唐突に手を繋がれて純粋に驚いた。
 何を言っても離してくれそうにないユージーンを背後から睨みつけながら付いて行くと、階段の下に扉があった。ミラビリスにとっては見覚えがある。隠し部屋に続いている階段だ。杖と図面の合った部屋。調査に来た時には決して開かない扉だ。
「大丈夫、俺がいるから」
 逡巡するミラビリスに、ユージーンが笑いかける。根拠はないのだが、何故か安心してしまう笑みだった。
 すんなり開いた扉の奥へ足を踏み入れれば、侵入者を待ち構えているように明かりが灯り、階段を下りきれば小さな部屋に辿り着いた。
「これは、凄いね」
「魔具以外のものも多い。歴史的価値の高いものや、貴重品、ガラクタ、統一性は無い」
「なんかオモチャ箱の中にいるみたいだ」
 ユージーンの発言も尤もだ。この部屋はナイフの横に鍋の蓋が置いてあるような無造作さがある。
 腕を解放されたミラビリスは、滅多に入ることが出来ない室内を隈なく記憶しようと必死に辺りを見渡した。ユージーンはぐるりと室内を一瞥した後、戸惑うことなく一角へ進む。バケツやら椅子やらを退かして、白色の何かを引き抜いた。
「…これだ」
「短剣か。それと合わせて双振り。珍しいこともある」
「ああ、耳鳴りが止まった」
 ベルトに短剣を鞘ごとはさみこんで、ユージーンは階段を上ろうとした。だが、ミラビリスはまだ室内をうろうろしている。
「ミラ、何してるの」
「この部屋はそう簡単に入れない。覚えておかないと…」
「…ガラクタ置き場はあんまり他人に見せたくないんじゃない?」
「……身も蓋も無い事を言うな。よく知らんくせに」
 そういう考え方は今まで無かった。
 それに、ミラビリスの魔具もここで発見したのだ。ガラクタと一緒くたにされることは、青玉としてのプライドが傷つく。
 青玉で思い出した。
「ジーン、お前、指輪は?」
「え?…何?何の指輪」
「剣と一緒に指輪が置いてあったりしなかったか?」
 そう言われて、ユージーンは首を傾げる。自分は気がつかなかったが、とりあえず手にもった長剣をもう一度検分した。形はカッツバルゲルに似ている。鞘から引き抜くと真っ黒な鋼だった。変わったところは無い。もう一方、腰に挿した短剣を引き抜いた。
「…軽いとおもったら、ソードブレイカーか」
 呟いたユージーンはどこか苦笑混じりだ。ミラビリスはその刀身の白さに唖然とした。聞きなれない剣種に、ギュスタロッサでは歴史上珍しい白鋼。
「これも特に、変わったところは…――、あれ」
「何だ」
「いや、鞘に収まらなくて。なにか引っかかってるのかな」
 長剣を立てかけたユージーンは、短剣の鞘を腰から抜いて逆さに振ってみた。ころりと小さな金属が転がり落ちて、ミラビリスの足元で止まる。
 二人の視線はその金属に据えられたまま。しゃがみ込んだユージーンは、指輪とはこれかと指で摘む。どうして鞘の中に入っていたのかは、この際気にしないことにする。どうもこの館というのが現実とかけ離れているところがあるから。
「…そんなまさか」
「ミラ?どうしたの」
「……金剛石。なんて事だ」
 剣聖は剣士でなければならず、金剛石は剣聖でなくば与えられない。
 人が選ぶのではないから、選考基準はシビアだ。だからこその、誇り。与えられる権力と、名声。

 その日、カーマ王国に久方ぶりの剣聖が誕生した。

  

喜佐一的新世界。初出:【お嬢様の本棚】様
個人的にこれけっこう気に入っています。
2008/5/10

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