Merrow

geter様以外の持ち帰り厳禁!! 那岐様へ>>>200000 hit

 まずったな…。
 カラスはぽつりと口の中で呟いた。
 頬に感じるのは冷たい床板の感触。暗い室内を見渡そうにも、後ろ手に縛られたまま床に転がされているために、辺りを観察することもままならなかった。
 それに加えて、当て身を受けた腹には鈍い痛みが残っている。人の気配を感じないことに安堵しつつ、カラスは黙って身体の力を抜いた。
 定期的に揺れを繰り返すこの動きは、慣れた物だった。自分は船に乗っている、それだけは漠然に感じていた。ただこの船が、自分の帰るべきそれではないことも、どこか遠くで理解していた。
 こんなことなら、言うことを聞いておけば良かった…。
 長嘆に後悔を混ぜながら、カラスは青磁色の瞳をゆっくりと閉じた。

 

***

 

「ウォリム…、何?」
 初めて耳にした聞き慣れない単語に、カラスは眉を寄せて聞き返した。
「ウォリム・ル・モディ。人間の海賊の一派だ。最近俺達の事を嗅ぎまわってるらしい」
「あんたの傘下に無い海賊組織が、まだ有ったなんて驚きだ」
 海原の王者と謳われる、スケイリー・ジェット号。その漆黒の海賊船は、尊敬と畏怖の象徴として港町に名を轟かせている。黄金の髪と瞳を持った船員達。その船員を束ねるキャプテン魅朧。人間離れした彼らの実体を詳しく知る者は多くはない。
「俺達龍族の数は、人間より少ないからな。それに海は広い。全ての海は俺の物だが、人間を立ち入らせない程、俺の懐は狭くないぜ」
 鬣のような髪に、爬虫類に似た瞳、そのどちらも見事な黄金色だ。彼こそ海賊王と名高いキャプテン魅朧。彼はニヤリと口角を上げて笑った。
「他の海賊なんてどうでもいい。俺に勝てるわけは無い。んなことより、気にかかることがあってな…」
 真剣な表情に戻った魅朧は、細めた瞳でカラスを見つめた。
「何…?」
「……いや。お前、出航まで船から出るな」
「なんでだよ」
 スケイリー・ジェット号は今、エデューマと言う水上商業都市に入港していた。この都市は何処の国も所属しないかわりに、軍や法律が存在しなかった。密売品や麻薬、様々な違法品が取り引きされ、酒場に賭場や娼館の類がひしめき合った一種の無法地帯であり海賊達のたまり場である。
「なぁ、何で?」
 船長室のカウチに身体を預けた魅朧に、カラスは猫のような仕草で近付いた。
 カラスが魅朧の元に来てから既に季節は五度程巡った。幼さの残る青年は、この五年で立派な青年へと成長した。魔力値の高い者特有である不老の影響なのか、極端な老いは見せてはいない。少し細くなった頬のラインは、静かな美貌を引き立てて見る者の目を奪う。人種を特定できない灰色の髪には微かに金が混じり、肩でくくれる程度の長さになっていた。何かに脅え、警戒心を剥き出しにしていた青年は、海賊王の片腕になれるほどに成長した。
「俺達が龍だと、噂ではなく真実として知っている奴ってのは多くねぇ。知られたからと言ってどうってことないし、隠してる訳でもねぇ。ただなぁ、なんつーか、奴等の思想が過激でな」
 どこか歯切れ悪く呟きながら、魅朧はカラスを引き寄せる。身体の上に乗り上げ、腰を抱いて顔を埋めてしまえば、とりあえずカラスの詰問からは逃れられた。
「あんたも、大概に置いて過激なタイプだ。違うか?」
「解っているなら、大人しく俺の言うことを聞いておけ」
「………」
 是とは言わないカラスの内心は、しっかりと魅朧の言葉を否定していた。カラスは殊更、守られるだけを良しとしない。出会った当時は帰る場所を知らぬ怯えた瞳をしていた。だが彼は、守られるだけではなく、魅朧に出会って初めて誰かを守りたいと思うようになっていた。
 正義感や庇護欲に混じって、微かに自己を卑下する感情を感じて、魅朧は顔を上げた。
「足手まといじゃねぇよ」
 魅朧は人の心を読む。これは全ての龍族に言える事なのだが、その長である魅朧は感情を読む能力が一番強かった。
 最初の頃には戸惑っていたカラスだが、言葉で表現することが苦手だった彼には魅朧が感情を読むことが苦痛には成らなかった。戸惑いは確かにあった。だが、拒絶する前に、龍族の長はその優しさでもってカラスを懐柔してしまうことに成功した。
「お前が弱いとも思っちゃいねぇから安心しな」
 にっ、となだめるような笑みを浮かべて。
 少年のように笑う船長に微笑を返して、カラスは魅朧に擦り寄った。
 この五年で成長したことは他にもある。魅朧にすら解らぬように、感情の機微を隠す方を学んだ。
 騙しているつもりは、ない。魅朧を信頼しているし、愛している。
 だが、どうしても悟られたくない思いがあった。
 自分の存在が、魅朧の迷惑に、枷になる。そんな事を心配しているなどと、絶対に知られたくはなかった。

 黙って言うことを聞くのは癪だったが、魅朧が船内にいる間は確実に船外へは行かなかった。
 エデューマは帰港と言って過言でない。裏路地が何処に繋がっているのか、どの店に誰が居たのか覚えている程に精通している。
 この無法地帯でも、スケイリー・ジェット号とその船員、そしてキャプテン魅朧は一目置かれている存在である。特徴的な髪や瞳の色に、人間達はへたに逆らう事はない。そして例外的に、カラスにもそれが適用されている。
 あの魅朧に気に入られた人間だ、と数々の陰口や陰湿な喧嘩に巻き込まれてはきたものの、カラスは決して屈することはなく、逆に打ちのめす事の方が多かった。最初の頃は手をだしていた魅朧だが、カラスがそれを拒否した。子供の喧嘩に親が出てくるなという理屈と同じだと。
 お世辞ではなく、カラスは強い。手を出してもカラスを負かす事が出来ないと解った、諸海賊やエデューマの住人はスケイリー・ジェットの船員で有ることを認め、以来カラスに因縁をつけることはなくなった。
 そんなわけで、エデューマはカラスにとってすでに安全な場所であった。 
 筈だった。

 

***

 

 苦みのある甘さ。その匂いは初めて嗅ぐものだった。
 気を失っていたのは短い時間だったらしく、小さな窓から差し込んできた光の量がほんの少しばかり減っただけだった。
 最初に匂いを感じた。ゆっくり似瞼をあけると、視界がぼやけて二重に見えた。動きにくい体で頭を振った。
 人の気配は無い。
 思考が散って行きそうな中で、取り敢えず縛られた両手をどうにかしようと考えた。確か袖に仕込んで置いた、小刀があった筈だ。右手の指先が、左手首を辿って袖を捉える。堅い感触を確かめて安堵した。どうやら、此処に武器を仕込んでいたことを気付かれていなかったらしい。
 何とか苦労しながら、手首を縛るロープに切れ目を入れようとした。
 その時。
『その武器を隠して…。早く』
 耳元で女の声が聞こえた。
 カラスは咄嗟に手を止めて、視線だけで辺りを窺う。やはり、人の気配はしない。この異常な香りで、幻聴でももたらされたのだろうか。うつらうつらと、そんなことを考えた。
『彼が、来る。お願い、隠して…』
 今度ははっきりと聞こえた。
 革靴の音と供に。

「気が付いたか?」
 鉄の牢にもたれ掛かった男は低音で囁いた。
 不自由ながら頭を上げると、長身の男が立っていた。逆光でよく見えない。カラスが瞳を細めると、その男はゆっくりとしゃがみ込んだ。しかし、怖ろしく隙は見えなかった。
 辛うじて解ったのは、塩で焼けたような茶色の髪と、眼帯をした顔。以外にも容姿は整っていた。
「具合は?」
 カラスは答えなかった。答える気など、毛頭無い。
 すると男は、牢の隙間から手を伸ばし、カラスの髪を掴み上げた。
「あまり私を怒らせるな。せっかく手に入れたのに、壊してはつまらない」
「…お前」
 続けようとした言葉は、掴まれていた髪を放された御陰で、話すことができなかった。
「私ははウォリム。ウォリム・ル・モディ。お前の飼い主になる男だ」
「はっ…。一介の海賊風情が何を吠える…」
「生意気だな。魅朧も居ないこの海原で、お前は俺の物になるしかない」
「嫌だね」
 吐き捨てると、ウォリムと名乗った男は唇を吊り上げて笑んだ。
「試しに逃げ出してみるがいい。もしこの檻から抜け出せたら、お前を自由にするか考えてやろう」
 くつくつと笑う声が耳障りだった。
「……目的は?」
 取り敢えず、カラスは静かに尋ねた。恐らく、魅朧にまつわる事なのだろう。よくよく俺はあいつに迷惑をかける存在だと、胸が痛んだ。
「簡単だ。私はお前が欲しかった。一目みたときからお前を俺の物にしようと決めていた。狂おしい程の愛を、お前は感じたことがあるか?」
「は…?」
「カラス、お前は自分が思うより、多くの男を誑かしている。魅朧だけの物というのは、些か勿体なすぎるだろう?欲しい物は奪う。海賊の理念に従って、私はお前を盗んだだけだ」
 指を切り落とした革手袋ごしの手の平が、カラスの頬をなぞった。そのまま唇を辿り、顎を通り越して首にかかった。
「ッ…!」
 ぐ、と力を込めて首を掴まれた。絞め殺されでもしそうな、握力だった。
「一番楽な方法を教えてやる。お前が私を誘ってみろ」
「ふざ…け、な…」
「マワされたいなら、そう言え。私の船のクルー達は、私より品がないのだが、それでよければ」
 声を上げて笑ったウォリムは、唐突に首から手を放した。
「精々、誘い文句でも考える事だ」
 男はそれだけ言うと、幾分急ぎがちにその場から消えた。捕虜をいたぶる時間は、あまり無かったのだろうか。カラスにしては幸いだったが、それでも状況が変わるわけではなかった。
 まず、体の自由を取り戻すことが先決だろうと、咄嗟に隠したままだった小刀を使って手首の縄に切れ目を入れていった。今度は声が聞こえなかった。
 ブツッ、という音が聞こえて漸く両手が自由になった。手首をさすりながら、小刀を袖に戻した。ずるずると床を這いずって、動きの鈍い身体を壁にもたれかけた。
 革ベルトで留めてあった二刀のダガーは消えていた。宝飾品は最初から身につけていなかったが、手首のバングルとピアスだけは別だった。スケイリー・ジェット号の船員を証す、黒瑪瑙が埋め込まれていた。ピアスはそのままにされていたが、バングルは消えていた。喪失に気が付かなかった己に、カラスは奥歯を噛む。
 ウォリム・ル・モディ。
 つい最近魅朧から聞いたばかりの名前だった。はっきり言って、名前以外の事などしらない。だが、ウォリムはカラスの事を知っていそうだった。それが余計な焦りと、いくばかの恐怖を生む。
 ただ、喉が渇いた。苦く、甘い香りに包まれたまま、カラスは溜息とも喘ぎともつかない呼吸を漏らす。日が落ちかけて帳を下ろす空が気になり、光源をつくろうと魔力を集中させた。闇の中に置かれることは、良くないことのように感じた。
「……?」
 カラスは攻撃系の魔法が殆ど使えない。魔法による攻撃と、相性が悪かった。その代わりに彼は、あらゆる補助魔法に特化している。様々な人種の混血と、恐らく父親の血脈に流れていた高い魔力値の御陰で、その能力は常人を遙かに上回る。使い慣れたそれならば、呪文や動作の類を必要としないほどに。
「…なん…で」
 だが、彼は己の魔力に裏切られていた。
 力を集中しようとすればするほど、気力が削がれた。胃が反転するような気分の悪さを感じる。カラスは、魔力が全く引き出せなくなっていた。
「う…そ、だろ……」
 今まで身近に感じていた物をばっさりと切り取られて、カラスは愕然とした。両手を広げて、虚ろに眺めてみる。
 喪失感に耐えきれず、ありったけの力を集中しようと拳を握った。
『やめて…!』
 胃の中身が逆流する前に、悲壮な女の野声が聞こえた。ウォリムが来る前に、小刀で縄を切ることを止めた声と同じだった。
『そんなことをしては、貴方が傷付いてしまうわ』
「何なんだ、お前は…」
『私はシレナ―――ウォリムの、妹』

 

***

 

 せっかく陸についたのに、船から出られないというのは苦痛だった。船で生まれ、海に還る龍族ならばストレスなど感じないだろうが、カラスは混じりけのない人間であり、陸の人間であった。
 これで、船員達が皆上陸することがないのならば、我慢もできる。だが、カラス以外の船員達は思い思いにエデューマの街を往き来した。言い出した魅朧でさえそうなのだから、カラスは船の中で一人苛立っていた。
 甲板で煙草を噴かすのさえ、飽きた。ちょうどその煙草が切れたとき、カラスはついにエデューマに下りようと決めた。姿を消す魔術を使えば、見られることもない。魅朧がいきそうな場所に行かなければ、案外簡単に帰って来れそうだと思った。
 船員が居ないことを見計らい、感情を読まれないように心に壁を作って、カラスは簡単に船を抜け出した。
 この前寄港したときに、エデューマ唯一の古書店で魔術書をひとつ探すように頼んでいた。そろそろ手にはいるだろう。とりあえずそれさえ手に入ったら、少しは退屈が紛れるかも知れない。
 姿を消したまま、カラスは最短の路地を走った。花街を抜けていくのが早いが、人が多いためにそこを通るのは避けた。
「―――――そうだ」
 聞き覚えのある声が、すっと耳に入ってきた。魅朧だ。カラスは咄嗟に心に障壁を張った。もし、ばれたら何て弁解すればいいのか解らない。そんな罪悪感に苛まれた。慣れた動きで気配を消して、ばれないように。
「今の所大人しくしてるが、そろそろ限界だろうな。―――そっちの様子は?」
「大人しいもんよ。ウォリムの一家がもめ事を起こしたって噂すら届いてないわね。客として相手にしてるけど、それっぽいことは全く聞いてない」
 魅朧ともう一人の声は、熟年の女の声だった。
「疑うなら、殺してしまえば?」
「噂にいちいち反応してられねぇよ。俺もそこまで暇じゃない」
「ふふ…、人間に骨抜きにされたの?海賊王の名が廃るわよ?」
 鈴を鳴らすような女の笑い声。彼女は、魅朧を深く知っているのだろう。
「あんたの大事な坊や、黙って船に残ってるなんて思えないんだけれど?」
「大丈夫だろうよ。まぁ、今日あたり動けなくなるまでヤっちまったほうが良い気がするが」
「あらぁ…、アタシ達のことはお見限り?娼婦相手にお話だけってのは、いただけないわ。色代を弾めなんて言わないから、坊やが陸にあがらない今くらいは遊んで行きなさいよ」
「…おい、こら」
 苦笑が混じった魅朧の声。衣擦れと女の笑いと、微かな喘ぎ声。
 カラスは急に冷えた心に気が付いてその場から静かに立ち去った。魅朧と約束したことが急に馬鹿馬鹿しく思えて、姿を消す術さえ解除した。
 路地を抜けて、大通りに出た。露天で溢れる通りを横切って古書店へ向かった。エデューマで此処だけと言っていい落ち着いた雰囲気を醸し出す古書店は、老婆が一人で切り盛りしていた。この老婆、ただの老人ではない。その昔剛の者を張り倒した女傑の海賊だ。趣味が講じて、引退してからこの店を開いたらしい。
「やぁ、よく来たね」
 カラン、とドアベルが鳴り終わる前に老婆が声をかけた。彼女はカラスを可愛がってくれていた。白髪には様々な宝石やビーズで飾ってある。人間にしては長生きだ。
「久しぶり。こないだ頼んだ本は届いてる?」
「おや残念…。船便が手違いでね。二、三日後に届くと思うよ。いいタイミングだ」
 幾分がっかりしながらも、そのまま帰るのが勿体ないので、カラスは店内を物色することにした。
 この店は静かだ。客など来ているのか解らない。そんな古い紙の匂いが漂う、この店が気に入っていた。初歩魔法の書を眺め、その中に魔導書を見つけて驚いた。試しに開いてみるが、論文は読めても発動形式は読みとることができない。カラスは魔術師でも、より上級の部類に位置しているが、やはり魔導書は読むことができなかった。
 魔法、魔術、魔導。大きく三種のレベル分けをされる魔力は、己の力と同等の術しか目にできないという理があった。
 つらつらと背表紙を眺めていたとき、カランと乾いた音が聞こえた。革靴が床板を鳴らす軋みに、珍しく客が来たのかとぼんやり思った。
 ―――パシャン。
 魚が水面に跳ねるような水音に、カラスは顔を上げた。本屋で水音を聞くことはない。不思議に思って左右を確かめるが、店主もみえなければバケツの類も見当たらなかった。恐らく勘違いだろうと検討をつけ、視線を書物へ戻したとき、
 ―――パシャッ。
 幻聴ではなかった。背後から聞こえたその有り得ない水音にカラスは振り返る。黒い影が見えたと思ったときには、腹部への一撃で意識が薄れた。
 ドアベルが鳴る。老婆は不思議に思って扉を覗いた。店を出るときには、カラスが何か言う筈なのにそれがなかった。
「―――…カラス?いないのかい?」
 応えはなかった。 

 

***

 

『この船には人間しかいないけれど、魔導品を扱える者がいるの』
 女の声は、カラスのすぐ側から聞こえた。時折、ちゃぷちゃぷと波の音が聞こえる。船底を波がなぞる音ではなくて、もっと身近に聞こえるのだ。
『貴方の魔力は、香で封じられている。迂闊に魔力は使わないで…。貴方が傷付いてしまうから…』
 繊細で、儚い声だった。
「お前は何処にいる…?」
 カラスはまだ、自分が幻聴でも聞いているのかと思っていた。この匂いでおかしくでもなってしまったのかと。
『貴方にこの姿が視られればいいのだけれど、魔力を封じられてしまっていたら、姿を視てもられることができない…』
 でも、と彼女は囁いた。ひやりとした感触が肩に触れる。ぎくりと身を強張らせて、カラスは黙った。
『触れることは、できる?』
 ほっそりとした指が、カラスの手を取った。そのまま手の平を包み込んで誘導する。顔の形状に触れ、髪に触れさせた。濡れたようにしっとりとした、不思議な感触だった。抵抗することも億劫なカラスは、そのまま指が触れるに任せた。
 首を辿り、胸元まで来たときに、さすがに手を引っ込めようとした。彼女は――その胸にふくらみを感じて、彼女が声の通り女だと確認したのだが――服を身につけていなかった。
『どうしたの…?』
「どうしたの、って…」
 女性の裸体をなで回したことが無いに等しいカラスは、しどろもどろになって答えを濁した。
 しかし、シレナと名乗った彼女は許さずに手を取り直し、胸を通り過ぎ腹を越えて腰に触れさせた。
「…え?」
『解るかしら』
「鱗が、ある」
 彼女はくすりと笑った。
 声の聞こえた方へ、カラスは視線を向けた。そして、見た。うっすらと儚げな、半透明なその姿を。南国の海に似た、エメラルドグリーン色の蒼い髪。衣服を身に付けずに形のいい胸を晒す上半身と、一つ一つが宝石に似た青い鱗に覆われた魚の尾が腰から下、人間の足に相当する所に生えている。
『驚いたわ…。見ようと思えば、貴方は視ることが出来るのね。魔力の存在を無視して。――龍の影響を受けている所為だからかしら…』
 人間は染まりやすい。業を受け入れることが容易な生き物だ。その身が魔に染まることができるように、混血として耐性の薄いカラスは、魅朧の側にいてその影響をほんの少し受けていた。曇り空に似た灰色の髪に、染めた物ではない金が混じるようになっていた。
「人魚がどうして海賊船なんかに…」
『ウォリムに、兄に憑いているの』
「憑いて…?」
『私は半分生きているけれど、半分死んでいる。兄は人間と人魚のハーフだったから、海で暮らすことはできなかった。一族に弾かれ、人間の海賊に拾われた』
 カラスは黙ってそれを聞いた。ウォリムの事を少しでも知っておくために。
『ある日彼は、一族に舞い戻った。そして私を攫って陸に上げた』
 人魚の鱗や人魚に関する物を船に祀って置けば、その船は嵐にも耐え抜くというジンクスがある。
『人魚は人間でもないし精霊でもない。その二つの混血が死に絶えずに生き残った種族。私たちは海に住む者として、人間や精霊に忠誠は誓わないけれど、海竜にだけは従う』
「龍に?」
『そう。貴方の王に。貴方は人間だけれど、あの魅朧が決めたひと。私は貴方を助ける』
 助ける。彼女はそう言った。やはりこれは幻覚だろうか。
『だから、お願い、もう少しだけ頑張って。この船は脚が早い。必死にエデューマから離れている。貴方が逃げる場所は、この船には無いの…』
 彼女は自分の鱗を一枚ちぎり取った。
『私が、魅朧を呼んでくるわ…。それまで待っていて…』
 鱗を口に含み、シレナはカラスに口付けた。それは海の味がした。
 そしてふつりと、彼女の姿は消えた。
 ―――パシャン。
 魚の尾が、水面を打った。

 船底を開ける音が聞こえて、カラスは瞬きをした。どうやら眠っていたようだった。甘い匂いは殊更きつく、身体の動きが鈍い。眠っていたという意識さえなかった。
 革靴が床板を鳴らす。ウォリムが来たのだろう。あまりの倦怠感に、牢が開けられた事すら気が付いかなかった。
 ウォリムはカラスを見下ろしたまま、感嘆の吐息を漏らす。逃げ出せるならやってみろと言ったが、まさか縄を解いて移動できるとは思っていなかった。
「喉が渇いていないか?」
 低音の囁きは愉悦を含んでいた。
 カラスはそれに答えず、ふいっと顔を背けた。その態度にウォリムはくつくつと笑い、手にしたワインのコルクを開けて直接口を付ける。一口目は飲み干し、次の一口は口に含んだままでカラスの顎を捉えた。
 青に灰を混ぜたような瞳でウォリムを睨み付ける。眼帯をしていない瞳は、深い青だった。
「…っん…!」
 仰向かされ、薄く開いた唇を塞がれた。引き剥がそうと抵抗するも、易々と押さえつけられてさらに深く合わせられる。通常で有れば、少しでも手を出そうとする輩には、それ相当の仕打ちをしてのけるカラスだが、今はそうすることができなかった。魔術に頼ることも出来ず、怠さを訴える身体は自由にならない。
 顔を背けようと出来る限り必死で抵抗する姿を盗み見ながら、ウォリムは愉悦感に浸った。手首を掴んで壁に押しつけ、さらに深く貪った。
 カラスは嫌悪感に鳥肌を立てながら、夢中で藻掻いた。力の差を見せつけられる事に苛立ちながら、少しの隙も逃さないように。
「ふ、…ッ…!」
 舌を絡め取られて喉をくすぐられ、流し込まれたワインを嚥下する。それでも飲みきれなかった物が唾液と供に口の端を伝った。
 ほんの短い時間だけれどカラスには長時間に感じられて、相手の舌を噛みきってやろうと噛み付いた。
「…っ、危ないな」
 瞬時に悟ったウォリムは咄嗟に身を引いた。カラスは荒い息を付きながら、未遂に終わったことに舌打ちした。
「さすが野良猫だ。その声が喘ぐ様を聞けないのは残念だが、大人しくしていたまえ」
「ドラゴンに食い殺されないうちに、改めな」
「そう言っていられるのも、今のうちだ。大人しく私にその身を預けるといい」
 素早くスカーフを抜き取って、それをカラスに銜えさせた。吐き出せないように頭の後ろに回して固く結ぶ。
「何処を噛まれるかわからないからね」
「……――――!!」
 にこりと悪びれもしないウォリムは、押さえつけていた手首を放してカラスの服の袖を探った。そして、目当ての小刀を見つけた。カラスは思わず眉間にしわを寄せる。近くに放って凶器を与えることを避けたウォリムは、小刀を牢の向こうへ投げ捨てた。
「牙を抜いて、爪を折って。私に逆らえなくしてやろう」
 スケイリー・ジェット号の船員特有である漆黒の衣服を、殆ど破くようにして開いてゆく。首筋と胸元が眼下に晒されて、ウォリムは己の唇を舐めた。これが、欲しかった。
「っ!…ン、…んーっ!」
 肌触りを確かめるように、指で丁寧になぞっていった。途端にカラスが抵抗するが、くぐもった呻きしか出すことができなかった。身をよじろうにも馬乗りに乗られているし、手を使おうにも押さえつけられていてままならない。
 せめて魔法が使えればと、悔しくて悔しくてカラスは口内に詰め込まれたスカーフを噛みしめた。涙だけは見せてなるものかと、必死で耐えようとした。
「気が強いな…そういう所が、そそる」
 低い笑いを隠そうともしないウォリムは、カラスの喉へ口付けた。ちゅ、と濡れた音を立てながら、ゆっくりと唇を落としていく。
 浮いた鎖骨に歯を立てて、筋肉が付いていても薄い胸に鼻を寄せた。色付いた突起へ舌を這わせ、ぺろりと舐めた。ぴく、とカラスの肩が跳ねる。
「いいね…慣らされてる。何処まで乱れられるのか、試してみようか」
「…ッ…」
「この魔導師の香はな、私の様な特殊な人間には殆ど無害だが、お前のようなそこそこの魔術師には最適なんだ。病み付きになると、身体が疼いて仕方が無くなる」
 突起を嬲りながら、肌に密着して囁く。
「楽しみだろう…?」
 いい加減カラスも限界だった。憤慨するままに、シレナの忠告も忘れて魔力を思い切り引き出した。その瞬間、体内を締め付けるような激痛が走り、雷に打たれたように身体を硬直させた。四肢を動かすことすら出来ぬほど体力を消耗したらしい。ぐったりとなったカラスは、ウォリムに抵抗すら出来ずに自滅した。
 もう少し痛みが強ければ気絶できたのかもしれないが、意識はぎりぎりのところで保たれた。それが、耐え難い苦痛には違いない。
 自害しようという気は起きない。ただ、無抵抗であるのが悔しい。
「慣れるんだ、カラス。無駄なことは止めて、私に全てを委ねればいい。大丈夫、魅朧のことなどすぐ忘れるさ」
 そんなことは有り得ない、と。口が使えなくても、心の中で吐き捨てた。
 麻痺したように動けなくなったカラスの拘束を解き、ウォリムは両手で愛撫を施した。少しでも反応を返す敏感な箇所を見つければ、執拗に責め立てた。徐々に下肢へ下りる唇が、へそ近くで止まった。
「私たちは似ているんだよ。お互いに混血だ。お前はどれだけの人種が混じっているのか解らない程だし、私は半分人間ではない」
 ゆっくりと、まるで見せつけるようにカラスのズボンに手をかけた。
「これでも、人魚の血を引いていてね。人間の薬物には、強い」
 味見をするような手つきで、へそから股間へと指を這わせる。ぎり、と布を噛みしめたカラスの反応を、ウォリムは笑ってみていた。
「海賊でお前を知らない者はいない。強く、美しく、そして――――征服欲に火を付ける」
 厭らしい手つきで急所を撫で回し、耳元で低く囁いた。
 カラスはただ、ひたすら耐えた。
 魅朧、と胸中深くで名を呼んだ。

 

***

 

 漁船よりは大きいが、商船よりは幾分小さめの標準的な海賊船。乗組員は20に満たないその船は、全力疾走で何かから逃げていた。この船の船長は今、牢屋でお楽しみ中である。船員達は特に飢えている訳ではなかったので、船長にやっかんだりはしなかった。第一、喫水下の牢には特殊な香が焚きしめられていて、少しでも魔力を持つ者にとっては苦痛でしかなかった。
 取り敢えずは少しでもエデューマから遠ざかり、暫く身を潜めるという目的を達成するべく、帆に風を送ることに専念していた。
 船長が攫ってきたものを、見つけられたらタダでは済まない。
「おい……。風が…、凪いだ」
 船員の一人が呟いた。
 船の動力である風は、魔法使い達が精霊魔法を使って呼び出した物だ。それが、術を解除したわけでもないのに、ピタリと霧散していた。
 その時海底では、ちょっとした小山程の生き物がものすごい早さで駆け抜けた。精霊魔法を問答無用で解除するその力は、ドラゴンの物だ。
 甲板の上で作業をしていた乗組員達は、波の消えた海に黒い影を見た。次の瞬間波が一斉に引いて、水のクレーターの中心に投げ出される形になった。異変に、ただ左右を見渡すしかできない。船員の一人が漸く、牢屋への扉をむちゃくちゃに叩いて船長を呼んだ。

 下肢を晒され、際どいところまで舌の愛撫を受けていたカラスは、ウォリムが場を離れた隙にズボンへ手を伸ばした。のろのろと、殆ど痺れたような身体に鞭を打って、何とか身に付ける。言葉を奪い続けた猿ぐつわを引き剥がして、忌々しく床に投げ捨てる。牢の鍵が開いている事に気が付いて、よろけながら外に出た。
 まず、放り投げられた小刀を拾って元の位置に戻した。ぐるりと見渡すと、ごちゃごちゃと荷物がおかれた一角にテーブルを見つける。その上に、二本のダガーと腕輪が一つ無造作に転がされていた。
 暗闇の中で光を見た気がした。出来うる限り素早く近付いて、まず腕輪を元に戻した。ダガーを腰のベルトに挟んで、カラスは荒く息を吐き出した。
 と、ものすごい音がしてカラスは背後へ振り向いた。
 木造船に鉄で補強を施してある船の壁を、槍のような物が貫いている。黒い、それはまるで爪の様だった。裂けた場所から放射状に海水が漏れて来ている。
 ―――爪?
「………魅、朧…?」
 身体を引きずりながら、カラスはそれに近付いた。確かに、黒い刃物に似たそれは爪に見えた。光沢を放つ表面に触れると、濡れてはいたがどことなく暖かかった。
 立て続けに、四つの爪が船壁を貫き、まるでえぐり取ろうというようにゆっくりと侵入してくる。海水がものすごい勢いで船の中を満たすべく吹きだしてくるが、カラスは怖いとは思わなかった。
 自分は水中種ではないとか、そんなことは全てどうでも良くて、ただ魅朧の側に行きたかった。爪にぎゅ、としがみつく。
「魅朧…」
 震える声で、囁くように呟いた。
「ここから、出して」
 ばりばりとつんざくようなものすごい音を立てて、5本の指が船体をえぐり取った。木片に傷が付かないように、ドラゴンの指が優しく身体を包み込み、カラスはそのまま身を任せた。
「…ッ!!」
 途端押し寄せてくる海水に必死で呼吸を止めた。前準備を何もしていなかった御陰で、息は長く続かなかった。
 がぼっ、と肺から最期の空気が押し出され、カラスは水を飲んだ。苦しさを訴えるように魅朧の指に爪を立てて。身体は呼吸を求めて水を吸い込んだ。
 これは溺れるどころではなく、危険なのではないかとパニックに陥ったカラスはしかし、唐突に呼吸が苦しくないことに気が付いた。
 エラがないのに、呼吸ができた。
 なぜだろうと考えているのも束の間、黒いドラゴンは指を広げてカラスを水中に漂わせた。ゆっくりと身を沈め、首の付け根を見せる。鮮やかな黄金色の鬣が、海の中でもなびいていた。背に乗れと言うことだろうと納得したカラスは、金糸の鬣にしがみついた。カラスがしっかり捕まったことを感じたドラゴンは、ゆっくりと、人間が耐えられる速度で海面へ上昇した。
 カラスは、ものすごい勢いで海水を吸い込む船を一瞥した。
 ドラゴンは海面に出ても上昇をやめなかった。重さを感じさせぬ程ふわりと風に乗り、四枚の羽をばさりと広げた。その姿は、優美でいて怖ろしい。
 空の中心では、月明かりが煌々と下界を照らしていた。
 船のすぐ近くに迫り上がってきた巨大な生き物の出現で、海賊船の甲板の上では船員達がただぽかんと口を開けていた。
 しかし、その中で一人。
 茶色い髪に眼帯をした船長だけは、射抜くような深海色の瞳でドラゴンを睨み付けた。
 カラスもまた、ドラゴンの上から眼下を見下ろしてウォリムを見つめた。ついさっきまで、自分を犯そうとしていた人物。怒りと屈辱感に歯を食いしばった。
『アレが、ウォリムか。―――小物が。笑わせる』
 唸るような低音は、ドラゴンから発せられた。海賊王と名高い、魅朧の声だ。彼は剥き出しになったカラスの感情を読みとって、宝石の様な黄金色の瞳を細めた。
 ばさ、と翼をはためかせて、龍が吠えた。
 地平線の向こうから、引いた潮がものすごい早さで津波を呼んだ。周囲をぐるりと高波が水面を走り、中心点である船へ向けて襲いかかる。
 月明かりの元で波に気付いた船員達が、口々に何か喚きながら小さな甲板を逃げまどう。それでもウォリムは、魅朧を睨んだまま不適な笑みを浮かべていた。
『人魚の加護は消えた。あの船は海の藻屑と変わるだろう』
 呟いた声はカラスにしか聞き取ることは出来なかった。
「人魚…。シレナ?」
 彼女が魅朧を呼んでくれたのだろうか。
 カラスはただ、荒れ狂う波に飲まれようとする海賊船を見下ろした。同情は一遍も浮かばなかった。  

 

***

 

 漆黒の海賊船に乗り込むまで、魅朧は何も言わなかった。カラスも何を発していいか戸惑い、困惑を残り香のようにまとわりつかせたまま思考に蓋をした。
 魅朧はその長い首を甲板に近づけ、カラスを船に戻してから海へ潜ってしまった。
「怪我はないかい?」
 呆れと心配が混ざり合ったような複雑な表情で、ノクラフがカラスのそばに近付いた。そろそろ、空は白みかけている。
「迷惑、かけたな…。ごめん」
 思えばこの船の船長である魅朧の言を守らなかった自分が何より悪いのだ。罪悪感で押しつぶされそうになったカラスは、ノクラフの顔をまともに見ることができないままに謝罪した。急遽出航しなくてはならなくなった船員達へも、申し訳なさが募った。
 一番謝りたい相手は、消えてしまったから。
 しかしノクラフは、カラスの濡れた髪をくしゃりと撫でて、首を横に振った。
「何も教えない魅朧も悪いわよ。アンタは感情を読むことが出来ないんだから、言葉で伝えなきゃいけないことも有るのに」
 忘れるのよ、言葉を。
 ノクラフは苦笑した。洗い立てのバスタオルでカラスをくるんで、船内へ導く。海水を落とさせたかったことも確かだが、ボタンが引きちぎられて開いたままの胸元に痛々しい跡を見つけてしまってから、すぐに洗わせてあげたかった。
「大丈夫よ。もう」
 ぎゅ、と抱き寄せて、ノクラフは船長室へカラスと歩いた。

 バラストの淡水を利用して、立派な水道設備を備えたこの船で個室のシャワーがある部屋は少なくはないが多くもない。その一つである船長室のシャワー室で熱い湯を浴びながら、カラスは項垂れていた。
 結局自分は、魅朧の手を煩わせる。
 いくら魔力が高かろうと、所詮人間なのだ。力が強いわけでもない。魔術が使えなければ、何も出来ない。
 見下ろした自分の身体のあちこちに、他人が付けた跡が残っている。石鹸を含ませたスポンジで、力一杯擦った。それで消えるわけではないのだが、今になって初めて指先が震えていることに気が付いた。
 香の威力も、さほど残ってはいない。使い続けなければ時間と供に効果は薄れるのだろう。
 冷静になった頭で思い出せば、後一歩で汚されてしまうところだった。カタカタと震えが全身に飛び火し、カラスは押さえ込むように自らの肩を抱いた。
 自分が時折欲望の対象として見られることがあることは解っていたつもりだが、魅朧という加護を外れると自分はこんなにも弱い。船主の命令を守れなかった罰だと、ひたすら思いこませて震えを何とか止めようとしても、次から次に思い出してしまって止まらなかった。
 火傷しないぎりぎりの熱さまで温度を上げたシャワーを頭からかぶりながら、頬に涙が伝ったことに気付かない振りをした。込み上げる嗚咽を押しとどめ、必死に耐えた。泣く権利も、怖がる権利も自分には無いのだと言い聞かせた。
 魅朧を信じなかった自分が悪い。魅朧が他の誰かと触れ合うことすら許容できぬ、自分の心の狭さが悪いのだ、と。
 涙と震えを耐えれば耐えるほど、胸が痛んで鼓動が止まりそだった。
「ぅ…、っ…く…」
 噛みしめても漏れる嗚咽の合間に、少しでも言い訳を考えてしまいそうで自己嫌悪に陥った。船員達の全て、より魅朧に何を言われるのかが怖かった。
 ウォリムの側では、決して恐怖を感じなかった。ただ怒りと憎悪だけで意識を支えた。だが、住み慣れた船長室に着いた途端、糸が切れたように緊張が切れたようだった。
 そんな戸惑いを見かねたように、シャワー室の扉がノックされた。
 まさか誰か居るとは知らず、カラスはびくりと肩を震わせた。感情を読まれないように障壁を張ろうとしても、冷静になれずに上手くいかない。
「ノクラフは、お前を少し一人にしてやれと言うんだが……そんなこと出来るかよ」
 扉によしかかったのか、軋んだ音が聞こえた。
「耐えられねぇから、出て来い」
 硬質な声は怒りを含んでいるのでも、呆れているのでもなかった。
 出来ればドアを破壊したくない。
 いつの間に帰ってきたのか、魅朧はそんな軽口までたたいてみせた。だが、次に紡いだ言葉には苦痛が滲んでいた。
「お前を抱きしめたくて気が狂いそうだ」
 カラスははっと顔を上げた。シャワーを止めて、体も拭かずにそのままバスローブを羽織った。
 扉は、カラスが引くよりも先に押し開けられた。腕を取られてシャワー室から引き出され、次の瞬間にはカラスは魅朧の腕の中にいた。
 後頭部と腰を硬く抱き、魅朧はカラスの肩に顔を埋める。濡れることなどまるで気にしない。確かめるように、きつく抱きしめた。
「無事で、よかった」
 吐き出された魅朧のセリフに、カラスは青磁色の瞳を見開いた。おずおずと魅朧の背中に腕を回してしがみついた。
「ごめん、魅朧……。…ごめん、なさい」
 何度も、うわごとのように。
 迷惑をかけて。約束を守れなくて。信じられなくて。
「…ごめ――――」
 言葉の続きは、口付けによって遮られた。優しく、紳士的なキスには全てが籠もっていた。啄むように何度も繰り返され、その度に確認させてくれる。
 どれだけ心配していたのか。どれだけ焦ったのか。そして、ウォリムに対する気が狂いそうな怒りと殺意。
 立って居られなくなり、ずるずると壁を滑り落ちて床に座り込んでも、口付けは繰り返された。漸く解放されたのは、カラスの震えが完全に止まってからだった。
 顔を上げた魅朧は、ローブの胸元から覗く地肌に、自分が付けた物ではないキスマークを見つけてふつふつと怒りを燃え上がらせた。カラスはその視線を感じながら、いたたまれずに視線を横へ反らした。
「未遂、だよ……」
 絞り出すような声だった。抵抗できなかったことが悔しい。魅朧以外に触れられたことで、魅朧へ罪悪感を覚える。
「お前の所為じゃない」
 感情を読んだ魅朧は、すぐさまそれを否定した。
「放っておいて悪かった。弁解させて貰えば、お前が見ちまった娼婦とは何もしてねぇよ。丁寧にお断りを入れておいたから、未遂っちゃあ未遂だ、俺も」
 何時の間に感情を読んでいたのだろう。魅朧はばつが悪そうに、再度カラスの肩に顔を埋めて唸る。
 これでも反省してるんだぜ、と苦く呟いた。安心させるように何度か背を叩いて、カラスは穏やかに微笑んだ。
「シレナ…、人魚には会えたのか?」
 カラスを助けるために魅朧を呼ぶと言って消えた彼女は、何処へ行ってしまったのだろう。
「お前が消えて、エデューマ全域を虱潰しに探してる途中でな。陸に上がった人魚は、寄生主より離れると長く持たない。俺に場所を教えて、姿を保て無くなったんだろうな。消えちまった」
「……俺の為に。犠牲にさせてしまった…」
「気にしなくていい。俺が力を分けておいたから死んでるわけじゃねぇ。『兄の責任を取る』んだってよ。人魚が消えればあの船の加護は消滅する。退けた分の水害を一回で返してやったんだ。彼女は俺が出向くことを知っていたから、お前に鱗を飲ませた」
 去り際シレナが優しく口付けたのを思い出した。宝石のように輝いていた鱗を一枚、口移しされたことを。
「俺の鱗には劣るが、人魚の鱗も海中で呼吸が出来るようになる。効果が有るうちにお前を救出できて良かった」
 魅朧は猫のようにカラスの首筋に鼻を擦り寄せて、浮いた鎖骨をぺろりと舐める。
「あの野郎…。俺の大事な物に跡なんぞ残しやがって。船を沈めても収まらねぇから、ウォリムを八つ裂いてやろうと思ってな。お前を下ろしてから海域に戻って見たんだが、人間の死体が沈んでてもそいつの死体は消えちまってた」
 心底悔しそうに。
半分でも人魚の血を引いているせいか、普通の人間より海に対する耐性はあるのだろう。だが、海で生活できない男は、あの海原で何処へ逃げることが出来たのだろう。
 一体誰に報復すればいいのか。苛立つ魅朧を宥める様に、カラスは有難うと呟いた。不思議と、気持ちは落ち着いていた。
 カラスの安心を感じ取った魅朧は、ゆっくりと顔を起こしてカラスの瞳を見つめた。泣きそうな感情の吐露で知った、時折気にかかっていたカラスの深い疑惑。それを取り除いてやろうと思った。
「俺はお前が迷惑なんてちっとも思っちゃいねぇよ。お前の存在が、行動が迷惑になることなんて、まして負担になる事がある筈がない。確かに俺達ドラゴンは人間より遙かに有能だが、俺はお前を見下す気なんてさらさらねぇよ」
 知られたくなかった本心を知られ、それでも魅朧は否定してくれた。カラスはただ、苦笑を返す事しかできなかった。どう足掻いても、この龍王に敵うわけはない。
「ごめん。ありがとう」
「ああ。……考えすぎなんだよお前は。もっと単純に、俺はお前を愛してるしお前は俺を愛してる。それだけ考えていればいい」
「……うん。そう、だよな」
 くつりとお互いに笑い合って、魅朧は気が付いたようにカラスを抱き上げた。床の上では何かと不便がある。
「本体で俺の上に乗ったのは、お前が初めてだぞ?」
「今度はもう少し楽しい状況で乗りたいな」
 あの時はドラゴンの背に乗ることをまともに考えて居られる状況ではなかった。大人しく魅朧に運ばれるカラスは、そのがっしりとした肩に腕を回した。
 カラスの言葉に魅朧はニヤリと笑って、
「…そうだな。ベッドの上でなら幾らでも乗せてやるぜ?」
 と、本気とも冗談ともとれる言葉を吐いた。
 途端絶句して、次には文句を言おうと開いた唇は敢えなく塞がれてしまい、二人はいつものベッドで重なり合った。
 朝日を背にしながら、スケイリー・ジェット号はエデューマへと帰路についたのだった。

  

大変お待たせいたしました!待たせすぎました(土下座)
お題は「「Liwyathan the Jet」魅朧とカラス。カラスがちょっとピンチ…!?」でしたが、クリアできているかなぁ…。思いのほか長〜くなってしまいまして、制作時間が無駄に長引いてしまいましたがはうはう。エロを書かないと言いましたが(作者が)、あまりに待たせてしまったのでちょこっとでも
入れようかとおもったのですが、どうもダラダラと話がおわらなそうだったので、やっぱりサービスシーンは有りませんでした…。申し訳なく(泣)。
20万ヒット、どうもありがとうございました!
2005/3/23

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