"Viper Hoax"

geter様以外の持ち帰り厳禁!! 織葉様へ>>>912,345 hit

「もしかして…、カラスか?」
 
 カラスは殺し屋だった。
 拷問や誘拐などを請け負う何でも屋じみた殺し屋ではなく、指示された目標の息の根を速やかに止める、暗殺専門の殺し屋だった。
 凶器はナイフ等の刃物、飛礫、毒薬等で、扱い方は殆ど職人技に近かった。どの血管を裂けばいいのか、飛礫をどの急所に当てればいいのか、薬の致死量はどの程度なのか、効率よく命を絶つ方法ばかり覚えていった。
 カラスが指示される目標は、カラスの生活圏とは完全に係ることの無い人物ばかりで、住む世界すら違っていた。だから仕事は殆ど作業だった。良心の呵責の在り処よりも、誰にも発見されずに『仕事』を終えて帰らなければ、空腹を満たす前に自分が殺されていただろう。
 文化的な生活を知る以前に、言語と同じレベルで教え込まれた技術は、カラスが成長して大人に危険を感じなくなってから漸く、分類するなら犯罪行為にあたると理解した。理解してもそれしか生きるすべが無かったので、別段問題は無かった。情で感じる罪悪感とは無縁だった。罪悪を感じる根源を知らなかったのだから。
 生ではなく死の側を歩んでいたが、有る意味で無垢と言える。
 どうやら自我が目覚めても暗殺者でありつづけたのには、催眠暗示で雇い主に縛り付けられていたからだと、他人から知らされたけれど、その暗示が解かれた後でもカラスの性格は変わらない。ただ、殺し屋家業からは足を洗った。
 虜でもあった暗殺業に代わったのは、気ままな海賊業だった。
 暗示をかけられ、ずっと命のやり取りを繰り返したあげく誘拐された。救いの無い人生に思えるけれど、誘拐犯は恋人に変わり、そのまま海上生活に馴染んでしまった。誘拐犯は、救命者であり守護者になった。
 そして、第二の人生を歩み出してから、数年が経った。

 海上都市エデューマ。
 どの国家にも人種にも属さない、商業都市。数多の法が無い代わりに、無数の危険が集う複合港町。
 ここは、魅朧率いる海賊船団の主要拠点のひとつだ。専用の港を持ち、種族の縄張りを確保している。見分けかたは簡単。黒装束に金髪金瞳。トレードマークのそれは、真似できるものではない。詐称すれば報復の結果は死が待っている。選ばれた者のみが誇れる海賊最高峰の証。
 カラスは海賊の一員になってみて、新しい世界を知った。
 海原には海賊と称する集団が思いのほか多いという事。その三分の一程度が魅朧を族長とする種族集団である事。漆黒の海賊船に手を出すのは、命知らずの愚か者だという事。他の人間は、金髪金瞳じゃない海賊には、畏怖も恐怖も抱かないという事。
 また、最強の海賊集団が実は海の龍であるという事は、あまり知られていない。隠しているわけではないようだが、本質を知るものはそれこそ少ないだろう。人間よりも強い海洋種族程度にしか認識していない事が殆どだ。

 カラスは、エデューマの歓楽街をひとり歩いていた。気配を殺し、人目に触れないように移動するのは、暗殺者として生きてきた間に染み込んだ技術だ。
 カラスの衣服は魅朧達海賊と同じような物だが、灰色の髪と青磁色の瞳が、一体何人なのか分からなくさせている。
 龍の縄張りでなければ、ならず者のひとりとして映るだろうが、それにしては小奇麗な顔をしていた。混血ゆえのエキゾチックさにしなやかな肢体が夜を渉る。魅朧に出会った頃は痩せた野良猫にそっくりだったが、この数年でちゃんとした食事と睡眠を与えられたお陰か、カラスはずいぶんと美しい青年に育った。
 夜のほうが人通りが増える歓楽街。昼と夜の境目。曖昧な時間だ。視界の端で偶然カラスを捕らえてから、ずっと見つめる男が居た。
 彼は気配を殺して人ごみにまぎれているカラスを見失うことなく目で追って、検分している。そのうち何かを確信したのか、豹のような足取りで近づいていった。その機敏さはカラスに勝る。
「もしかして…、カラスか?」
 声をかけて、手首を取る。肌ではなくて金属の感触に驚いてすぐに離した。
 カラスと言えば、自分の隠密歩行を簡単に見破られるとは思っていなかったので、声を上げそうなほど衝撃を受けた。悲鳴と困惑を押しとどめ、腰に留めたダガーを抜いて相手の首元を狙う。
 誰何する前に殺す気はない。寸でで止める技量は十分。だが相手の方が一枚上手で、ひらりと切っ先をかわして、己の獲物でそれ以上の攻撃を奪った。
「…ッ」
 手首に感じる痺れ。小さな舌打ちがカラスの唇から漏れる。瞬間的に一歩数歩下がって間合いを取ったカラスは、そのままぽかんと口を開けたまま固まった。
 濃い茶と灰色が混ざったマントのフードが外れ、光に透ける金糸の髪と青空に似た印象的な瞳の男が、驚愕と苦笑を微かに滲ませて佇んでいた。さらりと音がしそうなほど長い前髪が、片目を覆った。
「その隙はお前を殺すと何度も言ったのだが、あまり身になっていないようだ」
「……え、…『蛇』?」
「ああ」
 カラスが漏らした呟きは、二度と会うことはないだろうと記憶の片隅に押しやっていた人物の呼び名だった。祖国であるミネディエンスで、溝鼠のように生きていた頃の師匠とも言えるひと。
「ホントに、『蛇』なのか?」
「その名で呼ぶのは、もうお前くらいのものだろうが」
 空けた間合いを縮める事もできず、カラスはまじまじと男を見つめる。視線の強さに表れた警戒心に、『蛇』と呼ばれた男は穏やかな笑みを浮かべた。
 カラスが十歳になるかならないかの頃知り合った時ですら、今と同じ外見をしていた。老いの無い姿は高位魔力保持者の証のようなものだ。当時は幼すぎて解らなかったけれど、今はその実力の程が想像出来る。懐かしさと、そして恐ろしさがちらついた。
 上背は魅朧に近い物があるが、体格は骨と皮と言うように細く、逞しい印象は受けない。ミネディエンス人らしい金髪碧眼だが、金糸の髪は毛先へ行くほど色が抜け落ちていた。それは常に毒物を一定量摂取しているための副作用みたいなものだと教えられた事を思い出して、未だその習慣を続けているのだとカラスに確信させた。
「何故、ここに。『蛇』の狩り場はミネディエンス国内だけだろう」
「冷たいな。久方ぶりの邂逅だと言うのに」
「貴方が俺を殺しに来たのかもしれない。俺はもう貴方の知っている子供ではないよ」
「それはそうだ。お前は成人する前に死ぬと思っていた」
 男の長めの前髪が顔に陰を作る。傾げた首の所為で出来た影は視界を遮るだろう。日陰者には致命的だと言ったのは、彼自身ではなかっただろうか。昔はもっと髪が短かかったように思う。
「目標が死んだ事に気付く前に殺すのがプロだと、アンタは言ってた。俺を『狩り』に来たわけじゃないのか」
「それはお前の『狩り』方だろう。私の専門は毒物」
「同じだ。でも、アンタと飯を食いに行く事は止めておくよ」
「毒殺は経口とは限らない」
「そこまで言うなら、狩られる前にアンタを殺さないと」
 物騒な会話の応酬だが、二人の雰囲気は何処か和やかだった。
 『蛇』は、カラスに毒物の扱いを仕込んだ。致死量、配合の仕方、保存方法、必要なことは何でも教えた。カラスが毒を摂取することになっても簡単に死なないよう、少量の毒物を体内に入れて続けて耐性を付けさせたり、プロとして十分な技術を叩き込んだ師匠。
 全面的に信頼していた訳ではない。恐らく信用もしていなかった。けれどカラスは『蛇』のことが嫌いではなかった。
「積もる話は、私の店でどうだろうか」
「アンタ、店なんて持ってるのか…。本当にミネディエンスと関係ないのか」
「もし『狩り』の最中なら、お前は私に気付く事は無かった」
「…そう、か。あのアンタが、声をかけてきたんだもんな」
「懐かしくてね」
 微かに嗤った『蛇』は、「こっちだ」と短く言って歩き出した。カラスは、付いて行くとは言っていないのにと、肩を竦めて苦笑した。思えば昔もそうだった気がする。あまり人の話を聞かない。
 かつての師匠の店というものにも興味があるし、急いで済まさなければいけない用事もない。警戒心だけは忘れずに、カラスは男を追った。
 殆ど会話もせずにいくつかの通りを過ぎ、裏道を抜けて、ごちゃごちゃと小さな店が連なる路地に出た。建物と建物の間にある隙間は、人が殆ど通れないくらいに細い。店の看板と扉と小窓だらけで、一度じゃ何処に何があるのかわからない。
 ここが街のどのあたりか検討は付くけれど、カラスにはあまり馴染みのない、立ち寄ることのない区画のひとつらしい。
 『蛇』は迷い無くその中を進んでいた。黒い木製の扉の前で止まり、ノブ下の鍵を開け、魔術の施錠も解除する。中にはいる途中、カラスは扉に蛇の彫刻が施された金属のプレートを見た。
 なるほど、屋号も兼ねているのか、と。
「へぇ…」
 薄暗い室内の、壁一面の棚に収められた様々な瓶。中央のテーブルには瓶類の他に乾燥させた草や根が束になって置いてあった。日光を遮るために茶色の瓶が多い。透明な瓶の中身も、粉であったり粒であったり、色も多岐にわたっていた。
 自分の知っている物は無いかと物色を始めるカラスを遠目で見ながら、『蛇』は音もなく笑った。まさか本当に、故国を離れこんな場所で出会うとは思いもしなかったのだ。
 それに、カラスの様子が、ミネディエンスでのそれとは一変していた。
 大凡応接には適していない古ぼけたテーブルにマグを二つだして粉茶煎れる。茶菓子は無い。それは昔から同じだ。室内を一周して机の前にやってきたカラスへ、マグを勧める。渋そうに眉根を顰めたカラスは、マグの中身を嗅いで、舌先で味を確かめた。
「…残念ながら毒は入れていない」
「あ、いや、すまない…。アンタだからさ、つい、癖で」
 その反応を、『蛇』はマグの向こうから見ていた。一つ二つ思うところがある。それはきっと、以前と様子を変えた一因でもあるのだろう。
「で、アンタはいつこの街に来たんだ?」
 人なつこい笑みを浮かべるカラスは、澄んだ青磁の瞳をしていた。死んだ魚のようにどんよりとしたものしか見ていなかった『蛇』は驚いた。
「四、五年になる。教会と騎士団が揉めてな、火の粉が降りかかる前に逃げて来た」
「俺と同じようなものか」
「最後に会ったのは、精霊でも殺せる蛇毒を回した時だったな」
「そうか、それが最後か。制裁と報復に逃げ続けてよく覚えていない」
「お前がしくじったと聞いた時には、消されたかと思っていた。エデューマに逃げて来たのか?」
「…いや、そう言う訳じゃないけど」
 歯切れの悪さは、それ以上聞くなということだ。裏で生きた者として、その程度の分別は覚えている。
 『蛇』はもう一度、改めてカラスを見つめた。最後に見た記憶では、痩せこけた野良猫そっくりだった。警戒心の固まりで、孤独と空腹に怯えていた。けれど今は、血色も体格も良くなって、少年から青年に脱皮を終えたばかりの、瑞々しいまでの美しさを備えていた。本来の素材は悪くない。それを磨いた者が居るのだろうと検討を付ける。
 ミネディエンスで生活していた当時は、教会からの指示でカラスに毒物の扱いを教えていた。何かあったときに始末しやすいように、懐かせておく程度には可愛がっていた。恐らくそれは本人も知っていて、それでも孤独を癒してくれる相手が居なかった。情が湧かないでもなかったが、成人できずに死ぬ貧民街で生活していれば、教会に楯突いてまでカラスを守ってやろうとは思わなかった。
 自分が十分薄情だと理解している『蛇』は、だからこそ今こうしてカラスと出会えたことが嬉しかった。今ならば、カラスはすぐに死ぬような状況に居ない。いつか自分が殺さなければならないような、そんな世界はお互いに捨ててしまったようだし。
 黒装束に灰色の髪と白い肌が映えている。翳りのない表情を確かめて、『蛇』はもう一度笑った。
「何にせよ、出会えて嬉しいよ。カラス」
 変化の原因を、知りたいと純粋に思った。

 

***

 

 魅朧が目覚めると、直ぐ側に馴染んだ気配が無かった。上体を起き上がらせて欠伸をひとつ。サイドボードから煙草を一本引き抜いて火を付けた。深く吸い込んで、再度込み上げてきた欠伸と一緒に息を吐いた。
 久しぶりによく寝た。あまり熟睡する方ではないので、体がだるいと感じる今のような寝方をするのは何年ぶりだろうか。
「カラス…?」
 気配を感じない事はわかっているけれど、それでも呼びかけてしまう愛おしい名前。あれは俺の財宝の中でも一番すばらしいものだ。龍の本能が疼く。魅朧は立ち上がり、煙草をくわえたまま室内にカラスの影を探した。
『街に行ってくる』
 ぶっきらぼうな字が紙切れに綴られ、食卓の上に置いてあった。
「ああ、そうだった」
 目が覚めたら買い物に行くなんて話していたのだったか。半年ほどの航海を終えて、暫くエデューマに滞在する予定だった。
 カラスも随分慣れたもので、もともとゴロツキ相手に怯む性格などしていないから、エデューマ内であれば一人で行動させても問題ない。本心では、何時いかなる時でさえ側に置いておきたいのだが。
 きっとカラスは、目覚めてから一応、魅朧に声をかけたのだろう。前日に一緒に行くとは決めていなくても、殆ど一緒に行動しているのだ。魅朧が起きる気配を見せないから置いていったに違いない。
 魅朧とカラスは肉体関係も愛情もある仲だが、恐らく人間のペアよりは冷めているかもしれない。お互いに、一緒に行けなかったからと怒るということはないし、この程度の約束ならば、反故になってもそれほど後に残らない。
 遅れたら迎えに行けばいい、後から追うことだって出来る。それが定着している。信頼と信用、ある種の絆に似た繋がりがあった。
 だから魅朧は、着替え終わって船を出た。いつものように、カラスを迎えに行くために。

 エデューマはいつもと同じ。龍族の縄張りでは、魅朧の姿を見て声をかけてくる者に軽い挨拶を返し、縄張りを出てからは、海賊王を知るものは関わらないように避ける姿に嗤い、同族は目礼や片手を上げて来るのに頷いた。近道に花街の側を通れば、女達が盛んにアピールしてくる。後ろ手を振ってやれば、可愛らしい不満の声がかけられた。
 この街はいつ来ても変わらない。
 人と店の変動はあるけれど、基本的な特色は変わりない。魅朧はその長い寿命と好奇心のお陰で、エデューマの隅々まで知っている。ドラゴンの感覚を広げてやれば、恐らくどんな小道でさえ把握することが出来た。
 魅朧はカラスの匂いを追って、足取りも軽やかに通りを進んだ。
 カラスの好きな店は、古ぼけた本屋や武器屋。特に魔術書の豊富な店には長居することが多かった。雑貨屋や薬屋の類も、必要ならば立ち寄る。けれど、趣味のために何かを漁るということは殆ど無かった。そもそも、趣味という概念が抜けていた。人の子はもう少し享楽を求めて然る者だと思っていたけれど、どうやらカラスはその生い立ちの所為か、傾ける情熱が薄かった。
 今回の航海で、そこそこ大がかりな強奪を行った。人間が仕切る海賊船をひとつと、軍艦をひとつ。楯突く者を屠っただけとドラゴンならば言うだろうが、歴とした殺戮に代わりはない。平凡な生活をしていた人間ならば、味わうことは無いような物だ。魅朧はカラスを誘わなかった。海賊の一員としておいているが、カラスは根っからの海賊ではない。
 奪う、殺す、血なまぐさいそれに参加させたくない。そんな感傷があったわけではないのだが。しかしカラスは、いつだか宣言したように、黙って魅朧の側に寄り添い、同族と変わらぬ働きをして見せた。これで、褒めてくれというのなら褒めても良かったのだが、カラスは何も求めなかった。戦利品に興味もないらしく、ただ魅朧の側で戦うだけ。度胸の据わり方は、海賊よりも上だろう。
 人を殺すことに快楽を覚えてしまえば、人として欠陥かもしれない。同種を征服するという暗い歓びは、やはり心の闇を引き出すだろう。けれどカラスにとって、それはただの作業だ。それが暗殺者としての生き方だ。軍人にでもなれば、立派な英雄になれたかもしれない。
 けれど、そういう感情とは無縁だからこそ、カラスは希有だ。逆に、カラスの持つスキルを殺すことはきっと、カラスを真綿で絞め殺すようなものだろう。
 魅朧は嗤った。
 魅朧は人間ではない。人間の上位に君臨する種だ。ひとを殺すことに罪悪は感じない。同じ感覚を共有するカラスが、愛おしいと素直に思える。カラスはきっと、人間の中では生きていけない。自分の側に置くことが、彼を最高に生かすだろう、と。
 足取りは軽やかに、彼はエデューマの路地を進んだ。

 

***

 

 汚れた身なりで、骨の太さがそのまま体の大きさだというような子供を、目の前に連れてこられたときは、人体実験の素体でもくれるのかと期待した。
「こいつに毒の扱いを仕込んでやれ」
 司教の皮を被った男に告げられたとき、何の酔狂かと疑った。けれど自分も臑に傷を持つ者として大人しく従うしかなかった。
 子供は嫌いだ。
「毒殺技術と、耐性をつけさせろ」
「こんな体じゃ、耐性を付ける前に死ぬぞ」
「死体は役に立たない。使い物にならないと生かした意味がなくなる」
「……」
 聖職者のローブの下で、男が嗤った。
 仕方なく、彼は子供を連れ帰った。子供は恐ろしく無言だった。何も言わず、ただ従うだけ。これでは物と変わらない。
 毒の耐性を付けるためには、微量の毒を摂取し続けなければならない。それには有る程度の体力が必要で、最初はそこから始めなければならなかった。とりあえずひと月、飯を食わせながら毒物について教えた。あまりに物を話さないので口がきけないのかと問えば、子供は、
「あなたが会話の許可をくれないからだ」
 と、呟いた。十にもなっていない、淀んだ瞳が男に教えたものは、この国の膿だったのだろうか。盛大な溜め息で返せば、初めて子供は怯えた様子を見せた。
 少しずつ会話らしい物をするうちに、子供が何を畏れているのかが解った。子供の名前を知ったのは、引き会わされてひと月経ってからだった。
 カラスは毎日教会に行った。血臭を漂わせて帰ってきた時に、この子供が何をしているのか知った。生まれたときから暗殺の技術を叩き込まれていると知ったのは、さらにひと月後だった。歳は関係ない。カラスも男も、立場は同じだった。
 司教からの殺しの依頼を一度でも受けてしまえば、国を出る以外に抜け出す術はない。それ以後、子供を物として扱うことは無かった。そのかわり、子供として扱うことも止めた。
 カラスは数年で、毒物に関する大凡を学んだ。
「一番怖いことは何だ?」
 男は一度だけ尋ねた事がある。
「俺が死ぬ事だ」
 カラスは答えた。
「要らないと言われることが、怖い」
 たった一度聞いたそれは、カラスの本心だったろう。司教にどんな扱いをされているかは想像に難くなかったけれど、それでもカラスは破棄されることが怖いと言った。
 不憫だと思わなくもなかったが、そんな精神を持たせたのは大人である自分も同じだったから、男は同情の一切をよせることは無かった。
「殺しは楽しいか?」
 こんな事を聞いたこともあった。
「作業に楽しいもくそもあるか」
 カラスは答えた。
 そこに感情が無いことが、せめて救いだったかもしれない。安堵したと同時に少し悲しくなった。壊れているけれど狂ってはいない。けれど、長生きは出来ないだろうと思った。その頃にはもう、カラスは師匠の手を離れた。
 彼は良い兵器だ。けれど、人間ではない。

「『蛇』?」
「…ああ、昔を思い出していた」
「見た目は変わらないくせに、中身は老けたのか」
 そんな軽口をたたける感情を、どうやって学んできたのだろう。
 『蛇』はこの街に来て数年。エデューマで何者が頂点にいるのかを学んでいる。
「それは、海賊の衣装か」
 疑問系ではなく、ほぼ断定で尋ねた。
 カラスは数瞬考えてから、微かに頷いた。
「人間がドラゴンと共に居るのは、珍しいだろう」
 カマをかけた訳ではないが、カラスは唇の端を微かに上げて笑った。
 黒衣の海賊は、そう多くない。もっとも、最強の海賊と呼ばれる者達が黒衣を纏う所為で、他の海賊達は黒を倦厭していた。だから、黒衣の海賊は自ずと限られてくる。
「…そう表だっては居ないけれど、何人かはいるよ。混血も有る程度」
 ドラゴンという種は、この街に居着いて知った。その数々の噂と、いくつかの真実。なるほど、海賊ならばカラスの居場所を作れるかもしれない。人ではない、しかも海賊ならば。もっとも、彼らは殺しを楽しむが。
「だから毒物の摂取を止めたのか?」
「…え?」
 鳩が豆鉄砲を食らった顔、というのは今のカラスの表情を言うのだろう。そんな事を言われるとは思っていなかったのか、カラスはほんの少し後退った。安物の椅子が軋んだ。
「なんで――」
「私はプロだ。解らないはずはない」
 『蛇』はカラスに近寄った。音も無く。シャープになった顎のラインを指で辿り、両手で頬を包み込む。眼前に広がる驚愕に微笑をたたえながら、碧眼は皮膚や髪を捕らえていた。
 耐性を切らさぬように、常時毒物を摂取している肌の色ではないし、髪の質ではない。
 逃げようと思えば逃げられるのに動きを止めてしまったカラスの、その滑らかな肌を、かさついた指で辿った。
「それとも、耐性毒を調達することが出来なかったのか?」
 規制の厳しいミネディエンスでは、ここより粗悪な毒物が横行していた。今ならば、もっとマシなものを回す事も出来る。カラス程の逸材を、毒物を教え込んだ筐体を零に戻すのは忍びない。
「『蛇』、俺は――」
 言いかけたその時、店の扉が無造作に開けられた。
「閉店中だが?」
 カラスと同じ漆黒の海賊服に、金髪金眼。長身の男は、鋭い双眸を顰めて、無言で入り込んできた。
「客、というわけでは無さそうだ」
 乱暴に閉められた戸に、男の機嫌を読んだ。『蛇』はくつりと喉の奥で嗤った。素性は簡単に想像出来た。
「魅朧…、な――」
「俺のもんから手を離しな」
 カラスの声を遮って、魅朧はゆっくりと近付いてきた。舌打ちが大きく響いた。
「魅朧?海賊王の?」
 『蛇』は大人しく身を引いた。まさかそんな大物が来るとは思わなかった。
 魅朧はカラスの感情をとばして、カラスに触れていた男の感情を先に読んだ。下心があって触れていたのならば、その痕跡は色濃く残る。感情は、強ければ強いほど後に残る傾向がある。しかし、魅朧が読み取れたのは、強烈な好奇心だけだった。
 次いで読んだカラスの感情は、単純な驚きだ。こちらも特に下心や警戒心を感じなくて、安堵したと同時にその無防備さに若干腹が立った。
「俺は邪魔か?」
 魅朧は『蛇』の問いかけには答えずに、質問で返した。
「願ったりだ。大海賊と知り合えるのは、金になるからな」
 『蛇』は芝居がかった風に片手を広げ、室内を見回すように促した。
「主に毒物を専門に扱っている。私は『蛇』。見知りおいてくれると有り難い」
「『蛇』ね」
 魅朧は興味無さそうに室内を見渡して、カラスの側に近寄った。自分はあまり毒物に詳しくはない。詳しいとすればカラスだ。
「あー…、魅朧。俺はミネディエンスに居ただろう。毒物の扱いを師事したのが、『蛇』なんだ」
「師匠ってやつか」
「ああ。俺が仕事で使う物を回してもらっていた。『蛇』が居なきゃ、毒薬の知識なんてまったく解らなかっただろうな」
「そう大したものではないけれど。卸問屋みたいなものだ」
「俺に使った毒刃の仕込みは、お前の仕込みか?」
 魅朧がカラスと初めて出会ったとき、カラスは魅朧を殺すために斬りつけた。狙った首筋は外れて頬を掠っただけだったが、その傷は暫く跡に残った。類い希な回復力を持つ龍族に、それも最大強の力を保持している魅朧に傷を残したのだから、大した毒だった。
 『蛇』はふむと唸り、記憶を合致させるためにマグに口を付けた。丁度話の途中でも話題になっていたから、結びつけることは容易だった。
「あれは毒草だけを食って育った毒蛇を共食いさせて作った、人外に害を与えられる猛毒だ。企業秘密だからレシピは教えられないが、そうか、貴方が味わったのか」
 とすれば、あのときのカラスのターゲットはドラゴンだったわけだ。司教は随分無謀な事を考えたものだ、と『蛇』は苦笑した。
「良ければ、どんな症状が出たか知りたいのだが」
「俺が生きてる。結果はそれだ」
「なるほど」
 手強いな、とそれ以上追求することはせず、『蛇』はカラスに視線を戻した。気まずそうな表情を浮かべ、やはりそれも初めて見る顔だと思い至る。
 魅朧の金眼がそんな『蛇』を射抜いていた。感情の読み取りが上手くいかない。魔術による障壁の類ではない。機微は感じるけれど、深層を覗くことが出来ない。はっきり言うとかなり不満な状況だ。お陰でカラスの感情の方が際だって感じる。
「カラス、先ほどの話に戻るが、暫くエデューマに居るのなら、耐性毒を回すが」
「え、…あ。…いや、もう、必要は無い。…と思う」
 両手にマグを持って、何やら歯切れの悪い返答に、『蛇』は首を傾げた。
「耐性は常用しなければ簡単に薄れてしまう。それは些か勿体ないな…」
「あれは、血肉を武器にするためだろう。薬物耐性ならまだしも、今は必要ないんだ。それにミネディアを出てから、俺は毒物を摂取していない。耐性を付けるなら、最初から始めなくちゃだめだと思う」
「…ああ、だから最初の頃に味があったのか」
 黙って聞いていた魅朧が、ふいに口を挟んだ。
「味?」
 聞き返した『蛇』に、すぐ答える事はせず、魅朧はカラスを顧みた。何のことか解っていないという表情と感情が一致していて、こういう所が安心する。
 言い淀んでいるわけではないけれど、プライベートな内容だ。その手の羞恥心はカラスの方が強いから、どうした物かと思う。しかし二人の視線が意味を問うていたし、このときばかりは『蛇』の感情も読み取れた。
「体液にも毒があったんだろ?俺には問題なかったが、相手が人間ならけっこうな代物だ」
「…は?」
「…ふむ」
 遠回しすぎて理解出来ていないカラスと、何となく察知した『蛇』の差。魅朧は張り詰めた殺気に似た気配を消し、穏やかな苦笑を纏った。
「キスにセックス。飽きるほどしただろう?キスは今も変わねぇけど」
「な…!」
 がた、と勢いよく椅子を引き、瞬間的に赤面したカラスを相手に、両手を挙げて降参のポーズを取る。
「馬鹿か、あんた」
「酷ぇな、おい」
「その為の耐性毒なんだ。用途は正しい」
「『蛇』、あんたそんな性格だったか」
「ミネディアでは、お前の容姿じゃあ使えない術だ。必要はなかったから教えなかった」
 恋仲である魅朧と、師匠であった『蛇』が相手では、カラスの分が悪い。言い訳も説教も思い浮かばずに、カラスは仕方なくそっぽを向いた。感情の幅が怒りに向いていることに魅朧はいち早く気付いた。残念ながらこの場でなだめてやる気はなかったが。
「それは感謝しとくぜ?初物を頂けた。俺好みに仕込んでやるのも楽しいしな」
「魅朧ッ!」
「まあ、寝技まで仕込んだなんて言われちまえば、この街に住めねぇようにしてやったがな」
「…おや、それは怖い。私の体内毒はカラスのそれより酷いから、どちらにせよ手ほどきは出来なかったと思う」
 当時カラスに教える事はなかったけれど、『蛇』が姿を見せて殺しを行う時、それは褥と相場が決まっていた。もっとも滅多に無い内容だったが。
 『蛇』は低く笑っていた。カラスに喜怒哀楽があると言うのは、楽しいことだ。当時それほど意識していなかったけれど、どうやらそれなりにこの弟子が可愛かったらしい。それが解っただけでも、国を出て良かったと思う。安堵。
「人の外側に居て初めて人間になれるとは皮肉だ」
「…?」
「いいや。独り言だ。それより、もし『仕事』で私の品が必要になるのなら、いつでも言ってくれ。色は付ける」
 ぬかりなく付け加えて、『蛇』はカラスに出したものと自分のマグを取り上げた。これは彼の遠回しな退出要求だった。それに気付いたカラスは釈然としないまでも、立ち上がった。用があるのなら、また来ればいい。
 曖昧に、社交辞令的な次の再開を望む挨拶をして、カラスは店を出ることにした。魅朧はさっさと先に行ってしまっている。
 扉まで送って、『蛇』はふいに昔を思い出した。
「カラス、殺しは楽しいか?」
 いきなり何を聞くのかと小首を傾げたカラスは、特に何を考えるでもなく答えた。
「楽しむ必要はないだろう」
 扉を閉めてから、『蛇』は室内をぐるりと見回した。袖の中に隠し持っていた小瓶の一つを棚に戻しながら、唇が歪むのを押さえられなかった。故国に居た時よりも居心地の良い環境。権力に縛られない自由な生活。思いがけずに再開出来た弟子と、弟子を変えた男。
 『蛇』は声を上げて嗤った。

 

***

 

 いつの間にかエデューマは、最も活気のある時間になっていた。この街は、日が暮れた方が活気づく。龍族の縄張りに戻って来ていた魅朧とカラスは、行きつけの酒場で夕食を取っていた。
 魅朧の専用席になっている中二階のテーブルからは、一階の喧噪が僅かに和らいで聞こえた。煩いことに変わりはないが。
 カラスは物思いに耽っていた。『蛇』のことは、今日再開するまで殆ど忘れていた。確かに数少ない知り合いではあったが、故郷の事自体が、思い出にしておくのも嫌なことだった。仕事内容が嫌だったわけではない。あれは感情と別物だったと、今でも言える。
『殺しは楽しいか?』
 そう、聞かれた。何故だろう。世間一般の規範では、人殺しは罪にあたる。罪悪を感じろとでも言うのだろうか。それは無理だ。そんなことを思っていたら、今この場に生きて居なかっただろう。今更どうして、そんなことが気になるのか解らない。
 それとも、それを楽しめという意味だったのだろうか。
「楽しむな」
 唐突にかけられた声に、カラスは戸惑った。一瞬何を言われたのか理解できず、数瞬考えてから魅朧が感情というより思考を読んでいた事に気付いた。
「あの男に何を吹き込まれたか知らねぇが、深く考える必要はない」
「魅朧」
「俺たちが殺しをやるのは、それが人間より上位に居るからだ。頂点に居るからこそ、殺しで快楽を得られる」
「魅朧は、楽しいのか?」
 あらかた夕食を食い終わった魅朧は、酒瓶を片手にいつもと変わらない様子だった。
「強者の特権でな。楯突く奴を嬲り殺せる事は、自分がどれだけ上位に居るかを再確認する、わかりやすい手段だ」
 そういう人間も、居ないわけではない。けれど大概において、それは既に人間の心を持っていない。
「…楽しいのか」
「そうだな。強烈な遊びの延長だ」
 それが龍という種だし、そもそも彼らは人間の味方ではない。
「だが、お前は人間だ。興奮する程度にしておいたほうが無難だろうよ」
「自分の技術が衰えていない事に興奮するかもしれないけど、殺しに興奮はしない。そういうのが、よく理解できないよ、俺は」
 それはきっと、カラスが暗殺を終えて司教に報告したとしても、一度として褒めて貰ったことがないからだろう。有る意味、司教の教育は正しかった。
「戦うことをどう思う」
「わからない…。生きるための術だ。俺の価値だと思うけど」
「俺の側で戦うことは?」
「安心できる。見てるだけ、とか、待ってるのは耐えられないから…。役に立つなら使って欲しいし、あんたを守ることが出来るなら、嬉しい……んだけど」
 フォークにジャガイモを刺しながら俯くカラスを、魅朧はじっと見つめていた。観察するような視線にカラスは気付いていない。
「俺の為に殺すのか?」
「殺しは結果だ。目的じゃないよ。…もしかして、魅朧は、俺が戦闘に出ることが嫌なのか?」
 そういえば一度として考えたことが無かった疑問だと、カラスは改めて思った。
 人が人を殺す事は、龍族にとって忌むべきことだろうか。生態系という規模ではなくて、文化的に見る人間の感情を意識しなくてはならないのだろうか。
「俺は、お前がお前であれば、それでいい」
 その答えに、カラスは黙るしか無かった。

 

***

 

 深夜のエデューマ。眠りに就くことは程遠い。けれど歓楽街を離れれば、確かにひとはひっそりと眠りについていた。
 『蛇』は、唐突に晒された殺気を全身に浴びて、突如覚醒を余儀なくされた。全身を巡る血が冷えて、強烈な危機感を感じる。
「カラスに何を仕込んだ?」
 跳ね起きることも出来ない『蛇』に声を落としたのは、壁に寄りかかった魅朧だった。黄金の瞳が薄ぼんやりと光っていた。
「言葉は選べよ?蛇一匹食ったくらいじゃ、腹はふくれない」
 魅朧は身動きの取れない『蛇』の背を睨み付け、少しばかり殺気を緩めた。『蛇』、深呼吸。
「…軽い自白剤の一種だ。中毒性は薄い。昔のカラスならば、あの程度の量では効果が出ない」
 自白剤。
 カラスは口喧嘩に弱い。そもそもあまり会話が得意でない。自分の要求を述べる事は元より、意見を伝える事すら苦手だった。発言を強制されていた頃と違い、今では出会った頃より話すようになったとはいえ、それでも魅朧はカラスの言葉を聞くよりも感情を読み取った方が意思の疎通が簡単だった。
 そんなカラスが今日、随分と良く話していた。それも、聞かれたことならば特に。微かな異変に気付いたのは、感情と会話にズレがあったからだ。尋問するつもりはなかったのだが、畳み掛けるように質問をしてやれば、いつもは深く考えてから発言するカラスが、感情を殆ど無視していた。
「効果時間は」
「三時間もすれば切れるだろう。もうとっくに切れている」
 『蛇』は漸く慣れてきた殺気に、睡魔の類を一切奪われてしまった。体を起こして、ぱさついた金髪を掻き上げる。隠し立てをするよりは、喋ってしまった方が益だろう。
「試した。最後に故国でカラスを見たときより、あの子は随分と変わっていた。本当に本人かどうか、とか。中身はあまり変わっていないようだったがな。口が廻るのは、見ていて愉快だった。
 あれは遅効性だから、完全に効果が発揮される前に手放したのは、ただ単に私の保身だよ」
「殺してやろうか、人間」
「流石ドラゴン、脅しじゃないところが凄い。カラスは幸せ者だ」
「………」
 魅朧は、やはり一向に読めぬ感情の波に苛立った。
「気持ち悪ぃ野郎だ」
「人間は誰しもドラゴンの言いなりになるわけではない。私はカラスとはまた違ったタイプの殺し屋で、相手の心理につけ込むことが得意だ。拷問も好きだ。思考の読み合いが仕事だったのだ。本心を隠す事すら、薬で制御できるのさ」
「お前の事なんざ興味ねぇよ。俺のもんに触るなと忠告に来てやっただけだ」
「ドラゴンは独占欲が人一倍強いと聞いた。私がカラスの心を乱した事が、それ程気にくわないとは驚いた」
 図星だった。しかし魅朧はその事実をおくびにも出さず、唇の端をほんの少し持ち上げた。
「解ってて挑発するとは、お前は真性のマゾだな。ドラゴン流の拷問ってやつを試してみたいか?」
「私に何を吐かせたい。話すことはない。それでは拷問と言うより私刑だろう」
「俺はどっちでもいいぜ?」
「今の暮らしが気に入っていてね、願い下げるよ。長いものには巻かれる質なんだ、私は」
 『蛇』はわかりやすい意思表示として、両手を挙げて見せた。
「大丈夫。もうカラスに手は出さないと誓う。何か仕掛ければ仕返しに来る怖い保護者まで居るんだ、平穏を乱されるのは勘弁」
「俺が信用するとでも?」
「どちらでも構わないさ。私は、あの子が人間らしくなったところがみれただけで満足だ。あなたに感謝でも贈ろうか?」
「それこそ勘弁だな。――いいだろう。今回だけは見逃してやる」
「…それはどうも」
 それっきり、殺気が消えた。魅朧が居た筈の場を、闇に目を凝らして見た『蛇』は、何者も居なくなった事を確認して自分の肩を抱いた。押さえつけていた恐怖が、震えとなって全身を駆けた。

 

***

 

 出て行ったときと変わりなく、音もなく自部屋に戻った魅朧は、自分のベッドの中で心地よさそうに眠るカラスの横顔を確かめて破顔した。素早くブーツと外套を脱いで、その傍らに潜り込む。
 暖かさを求めて胸元へと擦り寄ってくるカラスの髪に口付ける。鼻先を押しつけられて、微かな笑みが吐息に混じった。
「…アルラウネ、ベラトルム・アルブム、それにスズラン?」
「起きてたのか」
「いや、毒草の匂いがしたから、目が覚めた」
 魅朧はカラスに見えないように苦笑する。自分の伴侶を、少しばかり侮っていた。
「『蛇』に会いに行ったのか」
「…まぁな」
 隠しても拗れそうなので、魅朧は正直に告げる。
 不満と疑問と心配。カラスの心情を察知した魅朧は、夕食時のカラスを思い出して、元通りになったことに安堵する。
「アトロパを使われたのか、俺は」
 魅朧の胸元に顔を押しつけたまま、くぐもった声でカラスは呟く。
「何?」
「なんかおかしいと思ったんだ。昔もよくやられたことがある」
「知ってたのか」
「気付いたのは船に戻ってからだ。アトロパ。軽い自白作用とか、強く興味の引かれた事を必要以上に深く考える作用がある。あんな軽いのに引っかかるなんて最悪だと自己嫌悪に陥った」
 人殺しが楽しいか、だと。今更そんな事を聞いてどうなる。その程度で自家中毒にかかるような精神ならば、とっとと自殺していただろう。馬鹿馬鹿しい。今はもうすっかり思考が晴れていて、何を思い煩ったのかと胸中で吐き捨てる。
 感じる苛立ちと、やはり師匠は信用出来ないという確信。魅朧に変な気の回し方をさせてしまった。毒物は自分の専売特許なのに、尻ぬぐいをさせてしまうなんてと、落ち込んでしまう。
「俺にとっちゃ、正当な主張を含めた脅しをかけに行っただけだぜ?」
「…脅し」
「ああ。俺のカラスに手を出すと、生きたまま食うぞってな」
「……」
 魅朧なら、割と本気でやりそうだ。カラスはこの数年で、魅朧がいかに嫉妬深いか知っている。海賊王と畏れられる男は、カラスを引き合いに出した途端に独占欲剥き出しの冷酷な生き物になる。その暴力性がカラスに向いた事は無いが、出来れば遭遇したくない体験だった。極端な話、カラスに触れる者にさえ気にくわないらしい。
 そこまで考えて、カラスは気付いた。魅朧が『蛇』の店に来たとき、カラスは『蛇』に顔を捕まれていた。それも至近距離で。特に性的な意味なんてなかったけれど。それでも、だ。
「…もうちょっと危機感を持ってくれよ」
「………そう、する」
 たったあれだけの触れ合いすら許せないという魅朧の心の狭さが、嬉しいと感じてしまった。カラスは熱を持った頬を見られないように、ぎゅっと顔を押しつけた。困った、束縛されることは、気持ちの良いことだ。
 これでは、うかつに肩を組んだり馬鹿騒ぎも出来ない。けれど元々それほどスキンシップが得意ではないから、問題ないかもしれない。構われるのは魅朧だけでいい。
「…アトロパの効果は切れてるんだよな?」
 ぐるぐると巡るカラスの思考に、魅朧は面白半分に聞いてみた。船に戻るまで不快だった苛立ちは面白いくらい見事に吹き飛んでしまった。
「あれは会話に効果的なんだ」
 暗に思考は作用されていないと告げている事にカラスは気付いているのだろうか。
「…おー、じゃあ、アレもう一回飲んだら、お前が俺に愛の告白とかをペロっと言ったりするのか。貰ってくりゃよかったな」
「馬鹿じゃないのか…。本心を自白しても意味ないだろう。黙秘してる内容を聞き出すのは、プロでも気を遣うんだ」
「…ああ、本心。聞くまでもねぇか」
「……は?―――…ッ!」
 これは、あれか。愛しているんだという事実を強要されて言わなくても、伝わっているだろう、今更何をいうんだ。とかいう遠回しな告白になるのか。
「ち…、ちくしょう」
 はめられた感が心一杯に広がったカラスは、せめて顔だけは本当に見られないようにと、魅朧にしがみつく力を強めた。こんな恥ずかしい思いをするくらいなら、『蛇』に誘導尋問とか拷問の対処法をしっかり学んでおくのだった。後悔しても遅いのだが。
「お前ほんと可愛いよな。そうやって俺の腕ん中に居ながら、うっかり他の野郎の事なんざ考えるあたりが」
 獰猛な獣のように喉を鳴らして、魅朧は含み笑いで間を取った。
「俺を煽る天才」
「知るか…ッ!」
 手品師のような素早い指使いで、カラスの夜着に不届きな侵入をはたした魅朧は、暴れる猫を可愛らしく手込めにしてやろうと決めた。
 無駄だと解っていても抵抗するカラスは、どんな毒物よりも一番質が悪いのは魅朧だと改めて実感した。

 エデューマは今日も平和だ。

  

織葉様へ捧げます!
「カラスの過去を知る同じ殺し屋(or仲間or幼馴染)の登場で心乱されるカラスと、自分以外に心乱される(心奪われる)カラスにちょっぴり嫉妬な魅朧」で、切ないシリアス系というリクエストでした。
シリアスか…ぎりぎりシリアス、か。切なさは…ない…です、ね…。すみません…。
「カラスの過去を知る殺し屋」をカラスに興味のないオッサンにしてしまったおかげで、色っぽい事が介入してこなくなってしまったのが敗因です。今回はカラスに焦点をあててみました。わりと普通の青年にみえて、人間としてどっか破綻しているというカラスのうらっかわを書きたかったのですが、どうも消化不良気味かもしれません。なんだか解りにくいあげくに萌の少ないものになってしまって申し訳ありませんですっ!
お納めいただけると嬉しいのですが…!リクエストどうもありがとうございました!!
2008/09/23  贈呈

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