この世界で。
閉じられた箱庭で。
その広い海原のなかで、人間は知ることのない島がある。
本当に小さな、小さな島だ。
嵐が来たら海の底に沈んでしまいそうな。それほど小さな島だ。家一軒建つ隙間があるかどうか。
エメラルドグリーンと青磁色の海が、波の音を連れている。
ここは、鳥さえも飛ばない。
嵐が来ることもない。
ただ穏やかに凪いだ海が視界一杯に広がっている。
その島の中央に、ポツンと花が咲いていた。白い小さな花が、時折思い出したように掠めてゆく風に揺れる。
ここは安息の地。静寂の墓。
この小さな島をぐるりと囲むように、黒い塊が横になっていた。長い首を巻いて、その尾は海にはみ出ている。猫のように丸くなることはなかったが、花を囲むように守るようにじっと黙っている。
黄金のたてがみが太陽に煌めいて、漆黒の鱗が乱反射を繰り返す。皮膜を張った四枚の翼は、きちんと畳まれていた。
閉じられていた瞳が、すっと開いた。黄金色に黒い瞳孔。まるで爬虫類のそれだ。
ざば、と波を弾き返しながら、一人の男が現れた。
「やっぱり、ここにいるのか、魅朧」
長く癖のない髪を一つに纏めたエルギーが、龍の姿を解いて砂浜に立っている。
「次の『魅朧』は鴉(ヤァ)だろうからな、俺はお前の娘に負かされるまでここにいるぜ」
エルギーとノクラフの娘は、魅朧に劣らない力を持って生まれた。幼名を鴉(ヤァ)と言う。
その名は、魅朧が晩年に愛した者の名前を戴いている。しかし、魅朧がその名を呼ぶことはもう無いだろう。
あまりに愛おしすぎて、もう呼べない。
「鴉に、早く俺を負かしに来いと伝えてやれ。早くしねぇと、俺の寿命が尽きちまうぞ」
ドラゴンの寿命は長いが、それが尽きるときは意外にあっけないものだった。元来この世界から生まれいでたものなだけに、その身体は形を残さずに消えてしまう。
「船には、もどらないのか?」
「………」
エルギーが訪ねると、魅朧は鋭い牙を剥きだした唇を歪めた。瞳は、遠くを見通す。
「あそこには、思い出が多すぎる」
皮肉げな、笑みだった。
そのまま長い首を巡らせて、白いその華を守るように。瞳を閉じて黙り込むと、エルギーが切なそうな笑みを残して海へ戻った。
残される者は、辛い。しかしエルギーとて、魅朧と同じ様な年かさだ。自分も愛する妻を残していかなければならないのか。
残される者の痛みは、解り合うことも分け合うこともできない。
眠れない夜を何度経験し、その長きにわたる命を憎んだりもする。
ドラゴンは、転生することはない。精霊とは違う生き物だ。箇々は一度きり。
幸い魅朧の愛する者は、その魔力の高さからか人間にしては幾分長い時を過ごした。
せめて、この悲しみを味わうことが彼ではないだけマシである。残される悲しみなど、知らなくていい。残してゆく悲しみは、終わりと共に消してしまえる。
掛け替えのない物を残す。
同じだけ残酷な想いを残す。
救いも癒しも有りはしない。
ただ黙々と過ぎてゆく。
それでも、不幸だとは思わない。精一杯、限りあるからこそ、愛し合えたと誇れる。
この世界で、最強の生き物すら支配できない物がある。
その名を、時間と言う。
大事な名前を胸に秘めたまま、黒い龍は消滅のその時までこの小さな島に居ることだろう。
こればっかりは、どうしようもない。
めいっぱい、幸せだったんだ。本来、有限のものだから、精一杯生きたんだ。悔いは、無い。
その後どうなるとのお問い合わせが多数だったので生まれた話です。
2004/2/23