ふ、と机から顔を上げた。
取り急ぎ処理しなくては成らない元老の編成に負われ、徹夜をしていた明け方のことだ。索冥は夜食を取りに行っていて、この場にはいない。かわりに二股尾の白い虎が傍らにいるが、重ねた前足に顎を載せて身動き一つしなかった。
ランドールはやってくる気配に、その瞳を金色に変えた。私室の執務室より寝室に入って、しばらく開けてさえいないつづらの一つに手をかける。素早く着替えて、テラスへと向かった。
この天空城で一番高い王の部屋、いささか寒く風も強いそのテラスに出る。王の住まう螺蛇(ラダ)区は、あらゆる外敵から守られるために天の魔導を駆使した結界が張られている。しかし、その気配は精霊魔法など無意味であることを誇示するかのように、悠然と近付いてきた。
漆黒の鱗と、今は暁に染まった金のたてがみ。一角の鋭い角と、長い尾。
皮膜のような四枚の翼をはためかせて、漆黒のドラゴンはテラスに降り立った。さすがにその巨体は乗り切らないと見たのか、着地したときにはその姿は人間のそれと酷似していた。
その鱗と同じ漆黒のロングコートと、金の髪、そしてドラゴンであったときと全く代わりのない黄金の瞳。
「生まれたての海の王が何用か」
朗々とした声で、アマディシエナの王はその人物に問うた。
「……白銀の鱗と、鋼のたてがみ。龍族の瞳。両の翼をどこへやったんだ、ランドシェリオール」
長身のその男は、テラスの欄干によしかかりながら、痛そうに瞳を細めた。
「我の姿はそんなに酷いか、魅朧」
結んでいない鋼色の髪を風に嬲らせたランドールいや、天の竜ランドシェリオールは両腕を広げて見せた。
「元の姿に戻ることさえ出来ねぇとは哀れだ。そんな脆弱な人間の器に入り込まなきゃならない程病んでるとは思わなかった。可哀想に…」
いつも黒い軍服を着ているのに、今は流れるような白銀の法衣を纏っていた。
何処か病的な、皮肉気な笑顔が、翳りを見せていた。
「海の魅朧、我の縄張りを侵してまで、何用がある」
「お前さんを見に来た」
嘲りとも取れる天の竜の笑顔を真正面から見据えて、魅朧は真剣に告げる。恐らく、これが最初で最後の会見になるだろう。
「同種の死期をこの眼で見るとは思わなくてな。せめて顔くらいは見ておこうと思ったのさ」
「悪趣味ぞ」
「………悔いは無いのか。それを聞きたかった」
悔い。
無いわけがないだろう。
それなのに。
「そんなもの、生まれいでた時より捨てている。我の望みは、ただ一つなり」
その、既に死んだような金の瞳で、ランドシェリオールは笑った。
「種を滅亡させる結果になってもか」
「我は種より己を貫く」
翼を折られ、全身ぼろぼろになりながらも、それでも譲れない物がある。
白銀の法衣が、暁の朱に染まり、悲壮感と共に風に漂った。
「海の王よ、お前は間違えるな」
黒龍が天空から海に帰って数日後、一つの種が滅び去った。
ものすごく久しぶりにランドールとか。何となく、きっとこんな会話があったんじゃないかな、と。
2003/12/19