ポルタ・スペルナ Porta superna

***聖霊奇譚***© 3a.m.AtomicBird/KISAICHI***

 

 


 無数の影があなたの眠りを脅かす
あなたはそこでひとり
忘れ去られた全ての約束を守り続ける
あなたはひとり
いつまでも

万人に与えられる別れを認めはしない
あなたはひとみを閉じる
華のようにすがすがしい歌声を忘れはしない
あなたは目覚めない
永遠に
あなたは私を見ない
永遠に

 大小さまざまな岩を越えながら、やっと森が見えてきた。岩と岩の絶壁の合間に、急に発生した緑の空間。不自然なまでに青々とした緑が、この谷の始まりを告げている。
 魔の渓谷『ディガムバーラ』。

 心も体もぼろぼろだった。
 首都サチャ・ユガを出て二日、砂蛇(砂漠を飛ぶ蛇で、人を乗せることができる。性格は温厚。草食)を休ませる時を除いて休み無く走り続けてきた。それでもまだ時間が足りない。
 僕は、どうしても探さなくてはならない。命を削ってでも、地の底にはいつくばってでも、何に変えても探さなくてはならない。
 額に巻いたバンダナの下、その髪と同じ濃い紫色の双眸には、狂気のごとき強い一つの意志が宿っていた。
 砂蛇は森を走ることができない。森より少し離れたところに飼い葉を残してつないでおく。野生の獣に襲われたら帰りの足が無くなってしまうので、護符を首に下げておいた。

「すぐに帰ってくるからな。それまで休んでおけよ」

 首をなでると砂蛇は擦り寄るように顔をめぐらしてとぐろを巻いた。
 これで思い残すことはない。ディガムバーラでは何が起こるかわからないので、荷物も少ない。携帯食料に水、袈裟懸けに背負った大降りの三日月刀を頼りに小走りで森に侵入した。
 自分が住んでいるところは砂漠の都で、これだけたくさんの木々の茂る場所を見たことがない。当然森の走り方など知りもしない。地面に気を配ると枝に頭をぶつけてしまう。
 ここにはたくさんの植物がひしめいている。背の高いもの低いもの、蔓があるのも、実がなっているもの、花が咲いているもの、細長い葉、自分がすっぽりと入りそうなぐらい大きな葉。また鳥の声も豊かだ。獣の気配もそこかしこに感じる。しかし、いっこうに姿が見えない。背後にいるような気がして振り返ると、途端にその気配が消えてしまう。
 見ず知らずの場所で何かを探すことは、言葉に表せないほどの困難を極める。
 その何かが精霊や妖精の類ならまだ探しやすいかも知れない。また、少しでも魔法を使えたらより探しやすいだろう。だが、魔法は使えない。しかるべき時まで、体奥に溜めておかねばならないからだ。
 危険の潜むこの森に単身入り込んだのには訳がある。自分は聖霊を探すのだ。この渓谷の奥に潜んでいると言われる、水の聖霊を探し出さねばならない。そして、どうしても願い入れて貰わねばならないことがある。

* * *


 切り立った崖から眼下に広がる樹海を眺める人物がいる。覆いも囲いもないその先端に寝そべっている。その髪は深く澄んだ湖に照らされ月光のようで、その瞳は空を映す水面のようだ。絶世の女神のごときその顔には、無邪気な笑みがのっている。
 見た目は成人前後だが、断定できない不思議な美貌だった

「おもしろい人間が入り込んでいる」

 耳に美しい、心地よく低い声が言葉を紡ぐ。女性のそれにしては低い。ずいぶん華奢だが、骨格は確かに男のようだ。

「サチャ・ユガの砂の民だ。両腕に焔蛇紋がある。『砂漠の焔』か」

 誰に話しかけるでもない。野に咲いた真っ赤な花の花びらを一枚、また一枚と千切っては崖の下に落としている。高所の割には穏やかな風がその花びらを地へと導いていった。

「この俺を捜しているな」

 そう言うと、声を立てずに微笑った。

「アルナルリデュカ、キャンシガスタ」

 声に惹かれたように、二頭の獣がその後ろに現れた。発光する髪と紫色の肌を持った獅子と真っ青な鱗を持った大蜥蜴。
 遠く樹の下を駆けるサチャ・ユガの青年を眺めながら、凄艶に微笑んだ。

「死なない程度に遊んでやれ」

 言われるが早いか、二頭の獣は入り込んだ人間めがけて空を翔た。

* * *


 進行を遮る何かの木の蔦を切り払うと、少し拓けたところに出た。全身いたる所にひっかき傷だらけだ。露出のない服装のから唯一覗く褐色の肌の両手には、幾筋ものみみず腫れができていた。
 生い茂る樹木の隙間からほんの少しだけ空が見える。それだけでは太陽の位置はわからないから、今がどれくらいの時刻なのかもわからない。地面は広いのに、枝を広げた数々の樹木の所為で木漏れ日さえ少ない。 
 足を止めて辺りを窺いながら水筒に口をつけた。生ぬるくまずい水を嚥下すると、渇いた喉が引きつるように痛んだ。

「!!」

 そのとき、明らかに今までの獣の気配とはまったく違う何かの気配を感じた。自分の前方と後方。殺気でも悪意でもないが、なんだか不鮮明な獣の気配。それも、かなり徳の高い獣だ。
 剣を構える。臨戦態勢をとりながらじりじりと前に進む。こちらの気配はバレている、いや、視認されている。相手の姿を確認したしっかりとした間合いだ。
 だが、応戦している暇はない。できれば逃げてしまいたい。今は戦うときではない。探さなければならないんだ。
 前方の気配が動いた。そっちを先に剣を構えたが、次の瞬間後ろからものすごい衝撃を加えられた。前方に集中した瞬間を突いて、後方の気配が攻撃してきたらしい。それにしてもこのスピードは化け物じみている。
 その攻撃をもろに食らって吹き飛ばされた。

「……ぅ…」

 呼吸も伴わないまま呻いて立ち上がる。
 1ナブ(10m)程先に、紫色の肌でたてがみが赤くその毛先は黄色い不思議な獅子がこちらを見ていた。これがおそらく先ほどの気配の一つ。もう一つは…。
 本能で振り返り剣を凪ぐと、黒曜のごとき鋭利な爪がねらっていた。剣と爪とがぶつかりあって火花を散らす。が、力に負けて剣ごと後ろに倒れ込む。とっさに受け身を取って立ち上がるが、剣は獅子の方に弾かれてしまった。墓標のように地に立っている。
 黒曜の爪は、青い鱗の大蜥蜴だ。その瞳は濁り無き翡翠で、爛々と輝いていた。
 次撃を予想して左右に警戒しているが、両獣に動きはない。すると獅子が剣の方に歩み寄り、その口で剣を引き抜くとこちらに向かって投げた。

 どういうことだ?

 呆気にとられながら剣を拾う。
 瞬間、二頭が動いた。牙をむきだして攻撃を繰り出してくる。こちらは反撃どころか防御すらままならないというのに、爪の攻撃は止むことがない。森の独行で傷ついた身体に、今は深い切り傷が増える。これでは負けは確実だ。
 幾ばくもないままに、呼吸は上がり腕がしびれてきた。だが、二頭の攻撃は不自然に規則的だ。こんな変な戦い方をする獣など見たことがない。
 思考をめぐらせた一瞬の隙をついて、大蜥蜴が鞭のような尾の一撃を繰り出した。まともにそれを受けて後ろに吹っ飛ぶ。どれだけ飛ばされたのか、太い幹に背中を強打して地面に落ちた。

「イスタリア……」

 そしてそのまま、意識も闇へ、落ちた。

* * *


「何で魔法を使わないんだ?」

 興醒めしたようにつぶやいた。

「何を遊んでいるんですか?」

 後ろから掛けられた声に振り返ると、真っ赤な長髪に眼帯をした男が腕を組んで遠方を眺めていた。青銀の髪の青年と同じく年齢不詳の感はあるが、年の頃は三十の少し手前といったところか。
 品性と野蛮さを同時に併せ持ったような精悍な顔立ちが、どことなく面白くなさそうに見ている。

「おもしろい人間がいるぞ」

「おもしろい?」

「『砂漠の焔(デザートブレイズ)』が単身でこの渓谷に乗り込んでいる」

「ほう。都の番犬が…。あり得ないことですね」

 蒼い瞳は喜色を含んでいて、口唇には笑みがのぼる。

「……また、悪い癖ですか」

 赤髪の男は諦めたようなため息をついた。

「我々はあまり人間に干渉しないほうがいいんですよ」

「俺はただ一つを除いて何者からも自由な生き物だ」

 人外の美貌を持った者の、その尊大で傲慢な言葉。
 言われた赤髪はのどの奥で笑った。

「あなたのお好きなように」

 それに満足したのか青銀の髪をそよがせながら、己の獣を呼んだ。

「アンリ、キー、その人間を連れて来い」 

 常人では決して仰ぎ見る事のできない距離からものを見、命令を下す。二頭の獣もそれを聞き、主人の命令に忠実に従った。
 程なく二頭は二人の前に舞い降りた。牙で傷つけないように獅子が青年を銜えている。主人の前にそっと降ろす。青年はぴくりともせず、その身体は大小様々な傷でぼろぼろだった。
 二頭の獣は主人の次の命令を待って少し離れた地面に座った。

「若いな……。死にゃあしないだろう」

 たいして重要じゃなさそうに言う青い瞳も、サチャ・ユガの青年と変わらぬほど若い。

「私は向こうにいますよ。人間など嫌いですから」

 真紅の髪を翻すと、複雑な文様を刺繍された黒衣をはためかし、樹木の影に消えた。
 残った一人は、地面に伏した青年の顔の側に屈み込み、傷一つない優美な手で頬を何度か叩く。小さなうめきを漏らしただけで目覚めるには至らない。今度は顔の上に手をやる。するとその手の平に小さな水球が現れた。水球は次第に大きくなり波打つ。
 何かの制約が一瞬で切れたように、突然水球が割れた。
 顔面に水を被った青年は、あまりの冷たさに意識を取り戻し、自分を見下ろす類い希な美貌に瞳を疑った。

* * *


 サチャ・ユガの青年は、自分の褐色の肌とは正反対の抜けるような白さを持つ肌と、その不可思議な髪と瞳の色に思わず見とれた。 

「この森に何の用だ?」

 詰問というには口調が優しかったが、美しすぎるその容姿は恐怖心を湧かせた。内に起こったそら寒い何かと戦いながら、褐色の青年はやっとの事で口を開いた。

「あ…、あなたは……、げほっ…」

 そのまま言葉に成らず何度も咳をする。二頭の獣にやられた傷は、体内にも深く影響を残していた。

「何故魔法を使わない?その両腕の焔蛇紋は飾りか?」

 美貌の君が言った言葉は、青年の心を深くえぐった。焔蛇紋とは、砂漠地帯を統治する大国サチャ・ユガの女王直属下に措かれている戦闘部隊『砂漠の焔』の証のようなものである。炎を崇めるこの民族は、炎の聖霊サラマンドルを崇拝している。聖炎霊の紋章はこの民にとって、とても意味深い。焔蛇紋を戴けるものは全ての民の尊敬の的であり、それを身に戴きし者にとっては自らのプライドも同じであった。
 青年は心中でひどく憤慨していたが、悪意すら欠片も見せぬその清らかな青い瞳に気を静めた。

「僕は…アストラエア。魔法は知っていますが、この身に溜めているため、使えません。……あなたは、どなたですか?」

 苦しい呼吸でつっかえながら、何とか言葉を絞り出した。

「俺は、水に属せし者達を統べる者」

「四大聖霊王!聖水霊!?」

 アストラエアは目を見張った。自分を見下ろすこの美しい者が、必死に探してきた者だというのか。
 そして気付いた。気配が、無いのだ。無いと言うより、自然の川や湖、そんなものを相手にしている感じだ。

「何の、用だ?」

 せせらぎのごとき静かさで、もう一度問う。

「あなたに、頼みがある!かなえて貰えるのなら、僕はどんなことでもします!」

 腹を押さえながらアストラエアは聖水霊に詰め寄る。その気迫に聖水霊は音もなく後ろに下がった。それでも追いつこうと必死にもがくアストラエアの目前の地面が、一直線に燃え上がった。
 聖水霊はそれを見て顔をしかめたが、片手で炎を払った。呆気にとられたアストラエアの前には、黒く焦げた地面が残る。

「そこまで必死になる理由を聞かせろ、人間。それによっては考えないこともない」

 水を統べし者は腕を組み、傲慢なまでに見下ろしている。その傲慢さでさえ美しく思える何かが彼にはあった。

「イスタリアに霊薬(エリクサ)を!どの病にも効くと言われる万能薬(パナケア)を分けてください!!」

 『霊薬』と、そう聞いた瞬間に、聖水霊を取り巻いている気配が、肌を裂くような極寒のそれになった。穏やかな表情はそのままで、発する気配だけは確実にこの世のものではない。
 アストラエアは後悔しかけたが、神だろうと悪魔だろうと敵に回す気で来たのだ。恐怖で凍えそうになる心にむち打って、もう一度頼む。

「人間の魔術師が造るものではない、本当の霊薬を造れるのは聖水霊だけだと聞きました」

 霊薬もしくは万能薬は錬金術師達の間で常に論議される物質である。錬金術自体はとてもマイナーな部類なので、術師数の数は少ない。しかし、その業績は高等なものが多く、各国の王宮には医術師と同格の地位をおいている。
 そのどちらもが違う物質だと唱えるものもいれば、どちらも同じ物質だと唱えるものもいる。また、どちらも『賢者の石』だと唱えるものもいる。

「霊薬を、何に使う?人間」

 聞こえた声は聖水霊のものではなかった。敵愾心をまったく隠していない、威圧的な深い低音。
 アストラエアは身震いした。聖水霊とはまったく正反対の、身体の芯から焦がすような驚異的な気配。

「答えなさい、人間よ。霊薬を何に使う気ですか?」

 一言一言が全身を苛む。まるで火あぶりにされているようだった。
 真紅の影が近づいて来た。その怒りのような気配の中に、一点だけ暗い邪気が潜んでいる。気分が悪くなりそうだ、と褐色の青年は呻いて口元を押さえた。

「あんた、脅かすなよ…。俺がせっかく遊んでたのに」

「普段なら黙っていますが、これは別です」

「ああ、もう。わりと重傷な人間にあんたはきっついって」

 聖水霊はうずくまるアストラエアに手をかざして、風を掬うような動作をした。
 全身の痛みが消えていた。多少の具合悪さは残るが、体内外の傷や疲れが一瞬で吹き飛んでいる。

「浄化再生…?」

「いいや。系統は浄化再生だが、厳密に言うと違う術だ。そんなことが聞きたいのではないだろう人間。忠告しとくが、俺よりもこっちを怒らせないようにしろよ」

 聖水霊は自分の後ろを顎で示した。濁りない真紅を纏った男を見上げて、アストラエアは息を飲んだ。

「え…、聖炎…?」


 隠されていない真紅の瞳の一瞥に、二の句をつげられない。

「私のことなど詮索しないでよろしい。霊薬を何に使うのか、と聞いている」

 有無を言わせず青年の言葉を遮り、焔のごとき隻眼は見下して先を急がせる。

「……イスタリア、僕の何よりも大切な女性です」

 アストラエアは、痛みを我慢するように口を開いた。

「彼女の身体は蝕まれています。彼女が美しく聡明に年を取るに連れて、彼女の魂はその体外へと抜け出てしまうんです。何人もの医術師や錬金術師が彼女を看ましたが、治療することはできませんでした。
 でも、僕の前では微笑うんです。自分がいつ死ぬかもしれないと知りながら、いつも僕に微笑うんです。僕の方が見ていて辛いときもあった。何度も彼女を失う夢を見ました。どんな悪夢よりも、身が竦むほど怖ろしいです」

 頭を垂らした青年は、震える拳を握りしめながら話す。

「二日前、彼女は意識を失いました。かろうじて息はありましたが、もう長くはないでしょう。……僕には耐えられない。イスタリアのいない日常など地獄も同じです!お願いです!イスタリアに、霊薬を使わせてください!!」

「そんな願いなら、この世界の至る所に充満している」

 聖水霊は冷たく言い放つ。

「知っています!所詮人間と、罵っていただいてもかまいません。世界中でどんなに人が死のうとも、僕は何とも思いません。ですが、僕は朝目覚めたときに、彼女を失った絶望を味わいたくない!!」

 狂気に憑かれたように、アストラエアは己を見下ろす二人を睨みつけた。正反対の色を持った二人は、無表情に青年を見返す。

「イスタリアを救えるのなら、僕は何でもするでしょう!!僕の血肉の一欠片にいたるまで!」

「その結果が悲劇に終わっても、それでもお前は霊薬が欲しいか?」

「彼女が生きているのなら、誰に言われようとそれは悲劇ではありません!」

 必死に叫んだ。アストラエアにとって、イスタリアは彼の人生の全てよりも愛おしい人物だった。
 聖水霊は青年の濃紺の瞳を見つめた。瞳の奥底を洗うような、背筋の凍る様な視線だった。

 ―――見透かされている。

 一点の濁りのない、神聖とまで感じる眼差しに、アストラエアは怯えた。
 それから、強い瞳の色を消すと、聖水霊は小さくため息をついた。

「わかったよ……」

「な、ジー…!!」

「いいんだ。ここ何百年有るか無いかの俺の気まぐれだ」

 聖水霊の承諾に困惑した隻眼の男は、彼だけがわかる直感で何かを察知した。長い朱色の髪を風に遊ばせ、そのまま押し黙った。

「アストラエア、と言ったな。俺はお前じゃなく、お前の愛する者の為に霊薬を分けてやろう」

 その言葉を聞いた青年は、救われたような顔で水の聖霊を見上げた。

「俺の霊薬は呪文も含む。使えるのは一度だけだ。使えるかどうかはお前の魔力次第だが、溜めておいてよかったな。……目を閉じろ」

 言われるままに青年は濃紺の瞳を閉じた。聖水霊はゆっくりとした動作で右腕を動かし、
人差し指と中指を、バンダナの上からアストラエアの額に押し当てた。 

「――――――」

 歌うような声が聞こえた気がした。視覚では何も感じない分、聴覚を敏感にしていたのに、それでも何かの音にしか聞き取れない。
 それがあまりに美しかったので、ふと気を抜いた瞬間、額に燃えるような激痛が走って、とっさに瞳を開けた。

「呪文はお前の中に。さて、問題の霊薬だが…」

 言いながら、人外の美貌を持った聖水霊は両手を合わせ、ゆっくりと手を広げていった。優しく包まれるように、その手の平の中に、水晶のような菱形の小さな小瓶が現れる。それは日の光に照らされて、乱反射を繰り返した。

「手伝って」

 聖水霊は後ろを振り返り、あからさまに不機嫌そうな隻眼の男に猫なで声を使った。

「私がどんな想いかわかりますか?」

 怒っている。容赦なく怒っている。

「身に滲みるほどわかってるよ。後でちゃんと聞きます」

「………今回だけにしてくださいね」

 盛大にため息をついて、黒のローブからナイフを取り出した。

「な、何をするんですか」

 霊薬を貰えることに純粋に喜んでいたおかげで、聖霊同士の理解不能な会話も気にならなかったが、目前で繰り広げられる光景を危険に感じて思わず問うた。

「霊薬が欲しいんだろ?俺達は自分の意志では自分を傷つけられないから、手伝ってもらわなきゃなんねーの。いくらあんたが『砂漠の焔』だからって、人間に手伝って貰うのは癪だろ。なら、俺より各上の奴にやってもらった方が後腐れ無くていいじゃん」

 何をやるのかは聞けないが、聖水霊のあっけらかんとした台詞の中に潜む『各上の奴』と呼ばれた真紅の男に目をやった。
 やはり自分の確信は正しかったのだ。間違いはない。肌を焦がす圧倒的な気配、冷血で残酷で不浄を燃やし尽くす力に、アストラエアは見惚れてしまう。よもや聖水霊を探していて、自分たち民族が崇める聖霊に会おうとは。

「後腐れますよ、私は。……我慢してください」

 言うなり、隻眼の聖炎霊はナイフを滑らせた。

「っ……」

 呻いた聖水霊の白い肌、左手首に赤い筋が走った。
 アストラエアは霊薬の原料を悟った。零さぬように小瓶に移し入れた、聖水霊の純血こそが、世に噂される霊薬だとは。
 小さな小瓶の六分目ほどで、ふたを閉めた。すると、聖炎霊が傷ついた聖水霊の腕を取って、傷口に自らの口唇を寄せた。

「……あのさあ、いや、まあいいけどさあ…」

 何とも生ぬるい返事を返しながら聖水霊は黙ってしまう。人間の青年も違う理由で黙ってしまう。めまぐるしく色々なことを考えながら、目を離すこともできずに凝視していると、ばつの悪そうに聖水霊は口を開いた。

「見なかったことにして聞け…。霊薬はただ与えればいいってもんじゃない。お前の頭に刻みつけた手順で行ってこその霊薬だ」

「……はい」

「お前の狂気のような愛情に免じて、すべてが終わったらもう一度俺に会いに来い。助けてやる」

「助け、ですか?」

「ああ。今はそれだけ覚えておけ」

 言い終わると同時に、聖炎霊は口唇を離した。何事もなかったように、見事に傷が消えていた。

「直に触るなよ、火傷するぞ。――入り口まで送ってやるから、これ持って早く行きな」

 鮮血の入った小瓶を布でくるみ、青年は腰のバックに丁寧にしまう。聖水霊は岩陰に伏せる大蜥蜴を手招いて、アストラエアを背に乗せた。

「いいか、この森に逃げてこいよ」

 ―――逃げる?

 言葉の意味を計りかねる青年を無視し、聖水霊は大蜥蜴の腰を軽くたたいた。途端に大蜥蜴は空に舞い上がり、渓谷の入り口へ向かって天を翔ていった。