Amadiciena Chronicle [ act.5 ]

Amadiciena Chronicle

 サギタリウス区下層街アルトラ。
 ランドールと索冥は、ユンカーへ下りたときと同じ格好で街を歩いていた。二人は必要以上に辺りを警戒し、必要以上に姿を隠しながら。
 アルトラの奥まった路地の一角、小さな店が幾つも重なった中にその居酒屋があった。ランドールは慣れた態度でその店へ入り、定員と客の驚きを無視して店の奥の奥へと入っていった。
「おい、今の公嵐か?」
 開いた瓶ビールを片手に、無精ひげの男が呟いた。
「アクセライ、那備を出せ。緊急だ」
「裏にいるよ、嵐弩。理由は聞いても無駄だろ?表の連中が騒ぐ前にとっとと行っちまいな」
 鍋を磨く、眼鏡をかけた地味な女が暗い店の奥へと顎で指した。室内の暗さと薄汚れた服装だが、彼女がどの女よりも有能で固有の美しさを持っていることをランドールは知っている。
「礼を言う」
 軽く頷いてランドールは店の裏口をくぐり抜けた。住民に見捨てられたようなその場所で、以前より大分不機嫌な那備が芋の皮を剥いている。
「意外と早かったな、嵐弩。もー、あの女何!?俺を馬車馬のように扱き使うあの女は何様!?」
「アルトラのボスの奥様だよ!芋の皮も上手く剥けないくせにでかい口叩くんじゃないよ。目離すとすぐどっか行くくせに」
 耳ざとくアクセライが怒鳴り返した。その声に肩をすくめる那備は、そうとう厳しく使われたに違いない。
「ユンカーから区庁舎へ案内してもらおうか、那備」
「前から聞きたかったんだが、そんなに調べまわってどうすんの?俺が出てってすぐにユンカーが焼かれた。アクセライに聞いたけど、アンタここを仕切ってすぐに姿を消してるんだって?そこの色黒の兄さんと」
 と索冥を睨んだ。もちろんいつものように無視を決め込む索冥は、苛立たしそうに通路の奥を見つめている。
「俺は自分の成るべく者に成っただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
 ランドールは口元を皮肉に歪めて、そう言った。

 第十区サギタリウスから第七区ビルゴへ行くには、第八区リブラと第九区スコルピウスを抜けていくより、一度螺蛇区に出てから区境の円周を歩いた方がずいぶんと早い。中層区の入り組んだ町並みを右へ左へ行くことは、下手に姿を曝す事になってしまう。円周といっても全く光の差さない廃道を通るのだ。その道の存在は殆ど知られていない。那備でさえ知らなかった廃道の中で、何故知っているのかと問われたランドールは、螺蛇区は庭とかわらないという答えが返ってきた。
 ユンカーに出た時には夕刻より少し早い時間だった。焼けた瓦礫を片づける住民や怪我に顔をしかめる浮浪者が三人を見つめていた。それをあらかじめ予告していた索冥の提案により、三人はマントのフードを目深にかぶって国の中心核へと素早く進んだ。
 来瀬の放った殲滅の炎は、ユンカーから区庁舎への抜け道にも及んでいた。焦げて崩れた木材や煉瓦をどかして、那備の誘導で一行は光の差さないじめじめとした通路の階段を警戒しながら上っていった。

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 ビルゴ区庁舎が昼食後の午後の就業を開始した丁度その時、禁軍左将軍に仕える二人の士官が受付に区庁との面会を仰いだ。
「アポイントメントはお取りですか?」
 マニュアル通りの返事を返す受付嬢に、軍服に身を包んだ二人の女性は失笑する。
「我々は王の命により下された勅命を、左将に代わり遂行しに参った。抜き打ちであるこの査察にアポイントメントなどが存在しては意味が無かろう」
 背の高い女性――杜栖(モリス)は勝ち気な顔に笑みを乗せて受付嬢に言った。
「区庁も随行なさった方がこちらとしても手間が省ける。連絡するなら早いほうがいいぞ。我々は先に最上階へ上がらせてもらおう」
 区庁舎の最上階は、たいてい区長の執務室であり家でもある。
 まったくの無表情で、杜栖の上司シャナイヤが狼狽える受付嬢を背に厳重警護された昇降機へと向かっていった。重力を司る術を縛って固定されてある昇降機は丸い石版である。テラスかベランダの様に凝った柵が設えてあるのはきっと区庁の趣味であろう。淡く点滅した七つの石が柵の一つにはめ込まれている。一番右側の石を押して、二人の軍人は舎を上っていった。
 七階に着いたときには、数人の秘書が二人を待ちかまえていた。
「ビルゴ区長、来瀬様がお待ちです」
 慌てた様子を微塵も見せない秘書は、軽く頷いたシャナイヤと杜栖を奥へと招いた。カーテンや絨毯、調度品の至る所に繊細な細工が施されてある。来瀬の趣味が気に入らないシャナイヤは、険悪そうに眉を寄せた。
「査察だなんて、いきなりね。軍事的査察なのかしら、事務的査察なのかしら、教えていただける?」
 執務室の区長席に悠然と座る来瀬は、二人の禁軍兵士に尋ねた。
「査察の内容は公開できません。国王の命で派遣されたに過ぎませんので、苦情の方は直に王へと訴えられるがよろしいでしょう」
 シャナイヤは憮然とした態度で告げた。
「貴方が把握しておられるビルゴ区と、この庁舎内で行われている業務を拝見できますかな?」
 同姓でさえ惹き付ける魅惑的な笑みを浮かべて杜栖は区長へと手を差し出した。来瀬は溜息をついて立ち上がり、杜栖の手を取って昇降機へと身体を向ける。
 途中、秘書が来瀬の耳に囁いた。それは査察がビルゴ区だけではないと報告が入った事実と、計画していた事が成功に終わった報告だった。それに微笑みを浮かべて頷き、来瀬は業務を説明すべく意識を切り替えた。
 三区の区庁舎でも訳の分からない査察によって庁舎内が混乱の体を見せていた。三区と七区の査察情報はあっという間に広がり、それとともに他の区へ一斉に緊張が伝わった。自ら再点検に走る区長、もみ消しに精を出す区長などがその日から不眠で区内を駆け回ることとなった。

 同時刻、元老の中でも有力者である忠那の屋敷で、その屋敷の主の命が尽きようとしていた。背中に刺さったナイフから部屋着へと赤いシミが広がり、そのシミは絨毯へと移っていく。魔術によって動きを封じられ声を上げることもできない忠那は、生気の消えかけた目でいつも踏みつけていた長毛の絨毯の毛先を眺めた。
 背中のナイフは一撃死するには甘い刺さりだ。痛覚が鈍り痛みは感じないが、じわじわと近づいてくる死に神の足音を嘲笑とともに聞いた。
 私が呼ぶまで面会謝絶で人払いをしていたことが、かえって仇になってしまった。忠那は自嘲気味に胸中に吐き捨てる。最後に見た犯人の後ろ姿を思い浮かべ、その次に妻を思い浮かべた。美しく微笑み、赤茶色の髪の赤子を撫でる妻を。若かったあの頃に、戻れるものなら戻りたい。高い志と、希望に満ちたあの頃に。妻と共に築く筈だった美しい生活に…。
 誰もが羨む権力を保持していても、それを使って死を逃れることはできない。堕ちるにはそれ相応の代償を払う必要があるのだ。


 空に帰ることができなかった湿気が、漆黒の通路を充満している。無光の中を迷わずに進む那備は、無意識に震えた手のひらをきつく握りしめた。
 後ろから着いてくる二人の気配は、どことなく曖昧で那備を苛立たせる。嵐弩が螺蛇区の住人であることは何となく気が付いたが、最後尾を守るように着いてくるサチャ=ユガ人もどきが気になって仕方がない。身分で言えば嵐弩よりは下だろう。嵐弩を守る姿勢が伺えるから、護衛か何かなのだろうと思っていた。だがそいつはまるで対等であるかのような態度を隠しはしない。
 索冥のことをあれこれ考え、那備は前道を睨み付けた。そしてふと、護衛だと思っていた人物の名前すら知らないことに気が付いた。サチャ=ユガ人のように見えるが、嵐弩も彼も一度も肯定していないし、否定もしていない。名前すら知らない事に眉を寄せて、しばらく考えてからその思考を払拭した。今考えてもしょうがない。俺は道案内に過ぎないし、よほどの不意を付かなきゃこの二人にも勝てないのだから。那備は聞こえないほど小さく息を吐いて歩くことだけに集中した。
「………!」
 索冥が息を呑んだ。突然の反応にランドールが振り返り、下僕の反応を窺う。闇の中ですらわかってしまう覡魁の気配をよんで、王は索冥に近付いた。
「どうした?」
 低く小さい言葉だが、索冥にはそれで十分だった。魔術を使い二人の周りに結界を敷き、それでも警戒するようにランドールの耳元へと囁いた。
「忠那が死にました」
「…………何?今か?」
「たった今気配が消えました。死因まではここからでは解りませんが、事故死ではない気がいたします」
 索冥の言葉に、ランドールは大きな溜息をついて壁によしかかった。ずるずるとそのまましゃがみ込み、がしがしと頭をかく。
「あっちが先だったか…!オレとしたことが読み間違えた。……っくそ!」
 来瀬を丸め込んでから忠那を裁こうと思っていたランドールは、己の甘さに舌打ちした。索冥はそんな王に手を差し出して立ち上がらせると、軽く背中を押した。
「立ち止まるのは、まだ早い」
「……ああ」
 訝しがる那備を促し、三人はまた歩き出した。
「もう少しで着くよ」
 那備の声がじめじめした通路に響いて消えた。

**---**---**

 ビルゴ区庁舎区長自室側にある壁が、がたりと揺れた。人一人通れる位の薄い隙間から、那備がするりと姿を見せた。元々薄暗く人気の無いその通路を気にかける者などいなかった。それに加え今は抜き打ち査察の最中で庁舎内が均等に混乱していた。上から調べていったお陰で、魔力のないランドールでも解るほどに最上階は閑散としている。
「到着っと。で、嵐弩、どうすんの?」
 足音一つ立てないで暗闇から這い出てきたランドールは、壁によしかかる那備を見つめてからぐるりと辺りを見渡した。
「……区長室へ」
 音のでない口笛を吹いて、那備は歩き出した。左に二度右に一度曲がった時、今まで見たこの部屋の扉より一番重厚な木製の扉が右手に現れた。
「ここだよ。中に誰かいるねぇ」
 那備が興味深げにランドールをかえりみた。
「気にするな。堂々と行く。お前も着いてこい」
 無表情に告げるランドールの瞳は、藤色から金へと変わっている。ゆっくりと扉を押し開けて、三人は中へ入った。


「何か不都合があったかしら?」
 来瀬は二人の禁軍兵士に話しかけた。勝ち誇ったように赤い唇をつり上げる区長は、銀の巻き毛を指でくるくると辿っている。
「不都合らしい不都合は見あたりませんね。まぁ、私たちは目であり耳であるだけで、判断するのは王ですので」
 にっこりと色目を使う杜栖は、来瀬の肩に手を置いて親しげに話しかける。そんな杜栖の行動に全く興味を寄せないシャナイヤは、手にしたボードに何かを書き付けて区長に目を向けた。
 シャナイヤと杜栖にとってはこの査察で悪事が発覚しようとしなかとうと実にどうでもいいものだった。頭をへし折るのは王であり、兵士達はただ単にこの区庁舎内部を混乱させ攪乱できればよいだけのこと。それを知らない来瀬にはかわいそうだが、きっと二度と会うことはないだろうと二人は考えていた。
 すっかり日の暮れた空を眺めて、シャナイヤは王の身を案じた。きっともう既にこの建物内にいることだろう。我らが盾とならずして帰るとはなんと心がざわめくことか。すっかり区長と打ち解けた雰囲気を醸し出す杜栖に目配せし、シャナイヤは帰城の意を示した。
「では区長、今日の査察はこれで終わりです。恐らくまた明日別班が来るかと思われます」
「そんなことを明かして平気なのかしら?」
「ええ。意味があるのは今日だけですので」
「『今日』だけ、とはどんな意味で?」
  敵を睨み付けるようなギラギラとした目つきをシャナイヤに向けて、来瀬は杜栖の手を払った。
「抜き打ちであることに意味があるとすれば、これ以降の査察が今日より意味があるとは思えませんから。と言うのは私の意見であり、事実ではありませんからあしからず」
 そう、と一言言ったきり来瀬は何かを考えるように口元へ指を持っていった。
 ぴたりとそろった敬礼を残し、二人の禁軍兵はビルゴ区庁舎を後にした。二人は特に何か会話を交わすでもなく、無言で城へと歩みを向ける。ゆっくりとだが警戒を怠らずに。
 数名の部下と共に昇降機へと歩き始めた来瀬は、めまぐるしく様々なことを考えていた。去り際に言い残したシャナイヤの言葉が気にかかったいたのだ。聞き返した時に焦りもせず、さも当然だといった口調で言葉を発したあの態度。あれが嘘であるとは考えられない。でも何かが引っかかる。
 昇降機の振動を足の裏で聞きながら悶々と考えを巡らせたが、最上階に着いてみても何に気になったのかさえ解らず、重い足取りで区長室の扉の前に立った。

 来瀬は扉に手をかけて、そのまま手を下ろした。
 自分がここに来ることは、区長室にいる秘書には解っているはずだ。扉の開閉は秘書の仕事。昇降機が告げる合図と共に、秘書は扉の前で待機している。だが、その秘書の姿は何処にもない。忘れているだけかとも思った。馬鹿らしい査察に手順が狂わされただけかと。少し考えてから、来瀬は部下を先に部屋に入れることにした。
 軋んだ音を立てて、扉が手前に開かれる。部下に続いて部屋に入って来瀬は息を呑んだ。入り口から大股で二十歩程歩いたところにある区長席に設えた机の上に那備が座っていたからだ。
「よう」

 のんきな口調で那備が手を振った。那備が座る反対側の壁に長身のサチャ=ユガ人に似た人物がよしかかっている。愛嬌を振りまいている那備とは正反対の、あからさまに憮然とした態度で腕を組んでいた。誰だと問う前に、区長席が窓の方を向いていることに気が付いた。
「……………ノーラ」
 一人残しておいた秘書の名前を小さく呼んだ。殺されているのかと思った。だが、自らが特別注文したふかふかのソファの上にその姿を見つけて、来瀬はほっと息を吐き出した。
 攻撃態勢を維持している来瀬の部下達は、主人の命令を待って危険な緊張した雰囲気を漂わせていた。細い優美な手で部下を下がらせて、来瀬は鋭く那備を見た。
「何の用」
「つれないなぁ。あんなに仲良かっただろ、俺達」
「さあ?わたくしは貴方のことなど知らないわ。それで、何の用なの。区長室に無断で侵入したことの弁解はあるかしら?無いのなら帰ってもらえる。出口はそこの窓で結構よ」
 燃えるような憎悪を宿らせた瞳で、来瀬は那備に言い放った。
「お前に用があるのは私だ」
 区長席から聞こえてきたのは、ハスキーな低音。怒りも悲しみも含まれていない無機質な声だ。
 軋んだ音一つ立てずに椅子がくるりと正面に向いた。そこに座っていたのは那備よりも若い青年だ。来瀬はランドールをじっと見つめ、相手の動向を窺った。
「お前……」
「無礼者が。私に向かって非礼だろう。控えろ」
 足を組み肘を突いた格好は、不遜なちんぴらか何かか。だが眼鏡の奥で光る金色の瞳が常人にあり得ない威圧的な気を放っていた。
「…………」
「私が誰だか解らないのか?この座を狙っているくせに案外調べていないんだな」
 小賢しく笑うランドールを見据えて、来瀬は部下に攻撃を指示した。広い区長室を来瀬の部下数名が散開し、一斉に攻撃魔法を唱え始めた。那備は素早く防護結界を自分にだけ張り巡らせて、いつでも攻撃できる姿勢を保った。
 左右から浴びせられる様々な要素を含んだ攻撃魔法が区長席一体を襲ったが、直撃する前に水が大地に吸い込まれるように魔術が打ち消されてゆく。炎は塵のように消え、水は蒸発し、土塊は霧散してしまった。驚愕を隠せない来瀬の部下達は、それでも怯まずに次の詠唱に入った。
「無駄だと思うがな」
 金の瞳を悲しげに伏せたランドールは、詠唱が終わる前に一瞬だけ莫大なプラズマを放った。水面に波紋が広がる様に、バチバチという放電が室内を駆けめぐる。
 短い悲鳴とうめきを残し、数人の部下は床に這いつくばった。全身麻痺の様な痺れは生死に関わるものではないが、すぐに治る様な軽いものでもない。放電は見事に来瀬だけを避けていた。
「まだ足掻く気か?」
「勝手にわたくしの部屋に侵入しておいて、無礼なのはあなた達じゃないかしら?」
 自分の味方は誰一人いないのに、来瀬の自身は揺るがなかった。
「私は賊ではないのだよ、来瀬。その身を預かっているのは私だ。お前が生きるのも死ぬのも私の言葉一つで決まることを、いい加減気付いてもらいたいな」
 ランドールは立ち上がり、机をぐるりと回り込んで正面から来瀬を見つめた。
 その言葉を聞いて、那備の瞳はすっと細まった。『生きるのも死ぬのも私の言葉一つで決まる』そんな言葉があってたまるか。だが那備自身も下層街を仕切っていた時分にいくつもの命を無駄に使った事がある。非道なことをしていることは理解しているが、いざ他人に言われてみるとこんなに腹の立つ言葉はない。
「王座を狙っているのだろう?私自ら出向いてきてやった事を有り難く思うんだな」
「…………ランドール王か…」
 呟いた来瀬はそれでも自分の言った言葉に自身がもてなかった。王自らが動くなんて事があるだろうか。王は動いてはいけない。高みから見張るのが仕事のはず。だが、もし目の前の青年が王だとしたら、あの褐色の肌の男はこの国の覡魁に違いない。何の権限も持たないくせに、この国で一番力を持っている人間ではない人間に、区長ごときが勝てるわけがない。その事実を噛みしめながら来瀬は震える手で手のひらを握る。
「即位式で私の顔をよく見ていなかった様だな。気付くのが遅い」
「何の物的証拠を持って私が王座を狙っていると断定します?」
「証拠はいらないだろうが。簒奪の意が無ければ私はお前に会いに来たりはしない。まさか白を切り通す訳じゃないだろう。私の温情だ、潔く認めろ」
 そういわれて素直に頷く来瀬ではない。野心に燃えた瞳が陰って、哀れそうな色合いに光った。翠玉の瞳が見つめたのは、珍しく表情の消えた那備だった。
 自分たちの計画に途中参入し、引っかき回したあげくに寝返った男。もとより信用していなかったとはいえ、捨てきるには惜しい男。来瀬が怒りに握りしめた拳は白くなり、長い爪が手のひらに食い込んだ。
「何故貴方のような男がこの国の王になったのだ。わたくしでも何ら変わらないはずでしょう。どうしてわたくしが王の座を願うことすら叶わないの」
「それは天に聞け。私に答えられる問題ではない。だが、この国で私ほど王に向いている者はいないと断言できる」
「……どうして」
「国民の期待も命も全て背負って、それでも天に逆らう意志があるからだ」
 はっきりと断言したランドールに、来瀬よりも索冥が過敏に反応を返した。天に逆らうなどできるはずがない。目の前の王は何を言い出すのか、と。
 ランドールの言葉に意識が乱された索冥の一瞬の隙をついて、ランドールのすぐ横にいた那備が動いた。
「………!!」
「冥土の親父からの贈り物だよ…」
 息を詰めて、ランドールが目を見開く。金色の瞳が瞬間的に藤色に戻り、すぐに金色へ変わった。
 王の異変をいち早く察知した索冥は、那備が動くよりも早く霊獣を具現させる。白い虎のようなテンクーンが姿を現し、牙を剥きだして那備の喉元へ食らいついた。まるで肉食獣の獲物のように身体を浮かせた那備は、声を発することもできずにテンクーンによって床に打ち付けられた。
「主上っ!」
 索冥はランドールの腰に刺さった短剣を見て、口汚く罵った。その罵りが王へか那備へか自分へかは定かではないが。
 痛みは感じないただ熱いだけの腰の疼きを感知して、ランドールは舌打ちした。ふらついた身体を索冥に支えられ、人外の生き物と同化した身体も大したことはないと気付いた。
「傷口を元に戻します。我慢してください」
 口早に言った索冥は、ナイフの柄を握って一気に引き抜いた。
「……っ!」
 ナイフと共に鮮やかな血液が噴き出し、ランドールは歯を食いしばる。持てる力を全て使って回復魔法を唱える索冥は、王の細い身体を支えながら焦りに心が冷えた。魔術のお陰で死ぬような怪我ではないが、王の身体に危害が加えられた事実に言いようもない怒りと自らに対する後悔の辛苦を飲み込む。
 一部始終を眺める来瀬は逃げることも忘れて、かくりと膝を折った。

**---**---**

 獣に食らいつかれた喉からは、鮮血と空気が漏れ出ていた。瀕死の那備を見下ろし、傷が癒えたランドールは言葉を詰まらせた。
「アンタを、殺そうと…した奴だぜ……俺は…。なんでそんな…泣きそうな…顔…」
「どんな罪人だろうと私の民であることに代わりはない」
 静かに怒る索冥を手で制し、ランドールは那備の側にしゃがみ込んだ。
「どうして忠那を殺したんだ?」
 ランドールの問いに、那備は何故それを知っているのかとは聞かなかった。代わりに苦痛に歪んだ顔で微笑みを返した。
「自分の気持ちに…素直に生きてる…だけ。…正直アンタのことは…好きだぜ。…でも、憎いと…思ったんだ…よ」
「…………」
「無様だ…な。……殺してくれ…けっこう、痛い……」
 その言葉に返事を返せず、ランドールは立ち上がって後ろを向いた。王を脅かした者を生かしておくことはできない。それがどんな聖人だろうと。それが掟でありこの国の理だ。
 残酷であるべき事を理解しているランドールは、護身用に持っていたナイフを懐から取り出し逡巡に揺れる気持ちを感じた。
 自分の手が血に染まっていることは知っている。解っている。躊躇うことはない。
 暗い瞳で那備を振り返り、ナイフを握りなおしたとき、ごぼっと音を立てて那備が血を吐いた。そのまま何度か咳を繰り返し、那備の瞳から精気が消えた。
 瞳を閉じ短い黙祷を捧げたランドールは、ナイフをそのまま握りしゃがみこむ来瀬に近付いていった。その金色の瞳は何の迷いもなかった。
「謀反は死をもって償うもの。例外は認めない。わたくしは派手に動きすぎたようだわ。倒せると信じていたのに」
 那備の姿を見つめながら、来瀬が瞳を閉じた。
「忠那が死んだの…。残念だわ」
 全てを吐き出す様に淡々と告げ、どうして、と呟いた。
「答えは那備が持っていってしまった」
「そう………。貴方なんかより、私の方が王に向いているわ。絶対に」
「お前はもう少し待てばよかったんだ。私がこの国を覆すまでの間。残念だったな」
「どうかしら…」
 何も映さない緑色の瞳は空を彷徨う。ランドールの手からナイフを奪い、ゆっくりと自らの首筋へと持ってゆく。
 無慈悲な金瞳に藤色の悲しみを見て、来瀬は絶世の笑みを向けた。
「それでも、私は貴方を恨むわ」
 音は無かった。動脈から吹き出した鮮血がランドールの衣服を汚し、七区長の美しいからだが床へ崩れ落ちる。
 来瀬の最後の言葉は、瞳を閉じたランドールの胸を深くえぐった。
 血痕が飛んだ眼鏡を外し、ランドールは溜息をついた。深い、後悔の類を全て吐き出すような溜息だった。
「夢見が……悪そうだ」
 索冥に向けて、ぽつりと漏らした。

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  七区長自害の事実は、国民全土に震撼をもたらした。だが国民以上に恐怖を感じたのは他でもない元老達と他区長だった。七区長来瀬だけではない、忠那の屋敷からその忠那自身の死体が見つかったからだ。
 ランドール王がその場にいたという事実は知られていなかったが、来瀬の件を少しでも知っている者にとってそんなことは何の意味もなかった。来瀬が王の座を狙っていたことは事実でありそれは変えようはない。半ば賛同しかけていた元老員はランドールを引きずり下ろすことを一時闇に沈め、形ながらも従うことにしたのだった。
 忠那邸を捜索した禁軍兵は、書斎から王が立案した覚え書きを発見し、改めて王の案が検討されることになる。宰補はすげ替えられ、元老の中にもランドールに味方する者が増えてきた。
 来瀬の事件が鎮火して半年、禁軍の一部は解体された。
 左右将軍と各々の士官達により再編成された禁軍は、新たに治安維持を含めた警察部門が設置され、治安が悪い代名詞だった下町街が一斉に整備されていった。
 軍が一段落し、その利点が元老達にも解りかけた頃、ランドールは自室に籠もることが多くなった。ランドールが信用する元老達が政治を進めている頃、王自身は埋もれるほどの資料の中から天について調べ始めた。
「叛意を示すのですか?」
 索冥は王にぽつりと呟いた。
「裏をかく相手がお前でなければ楽なんだがな」
 ランドールは下僕に告げて、椅子の上で伸びをした。
「お前も手伝わないか?」
「馬鹿なことを。止める気はありませんが、手伝う気もありません。貴方の真意を『燕雀』である私に教えていただけるのであれば、考えなくもありませんがね」
 皮肉下に吐き捨てた索冥は、ランドールを睨み付けた。
「親に逆らうのは、怖いか?」
「エルシノアは私の親ではありません」
「じゃあ同位体だろう?私に同化した鴻嵐鵠がしきりに鳴くんだ」
 索冥の視線に気付かない振りをするランドールは、首を左右に揉みほぐして再度机に視線を戻した。
 しばらく書物をあさっていたランドールは、急にやってきた息苦しさに目を見開いた。
「………っく……!」
 胸を押さえて咳き込む王は、索冥の気配を近くに感じて舌打ちしたくなった。
「主上……」
「出て行けっ……索冥…」
 荒い息の合間の命令はランドールにとって必死なものだったが、索冥はそれを聞かなかった。
「隠さずとも知っています」
 索冥は音もなく近づいて、ランドールの握りしめた拳をとり、ゆっくりと開かせた。
「貴方は私無くしては生きられない。私が貴方無くしては生きられないように」
 憎しみとも愛しさともとれる瞳で、手のひらに着いてた血痕を舐めとった。
「時が来れば、貴方を殺して差し上げよう。それが天を覆す。貴方は、ただ言えばいい」
 淡々と述べて、索冥は苦痛に耐えるランドールの唇を塞いだ。ランドールが瞳を閉じる前に見たのは、索冥の琥珀色の瞳に映る殺意だった。

**---**---**

「私を利用したのか」

 私と同じ要素の貴男を利用したとは言いません。使用したのです。
 手や足を使うのに、何か理由があって?

「…憎むべき相手を、違えたようだ」

 いいえ。貴男は愛しすぎていたから憎んだのです。
 私は『王』を愛するように貴男を作った。その想いが報われないからと、貴男は『王』を貶め、辱めることで、愛を憎しみにすり替えた。
 元は同じ『想い』であることに変わりないのに、方向を歪めたのは私ではなく貴男。

「詭弁だ」

 憎しみなさい。それほど強い『愛』はないのだから。

**---**---**

 その日は、唐突にやってきたわけでも徐々にやってきたわけでもなかった。終わりの日を決めたのは、誰でもない。王自身だ。

 肋骨が砕ける音と、心臓が肉体から離れる音がランドールの耳の中で大きく響いて聞こえた。それは索冥も同じだ。血管が千切れる音が他人事のように実に馬鹿馬鹿しく体内で爆ぜた。
 混ざり合う視線は、お互いに解けそうになくきつく絡み合っている。その感情の色は憎しみに似ている。鋭く、それでいて清廉とした負の感情が、矛盾ともとれる『何か』が、お互いに渦巻いていた。
 索冥の白い法衣のような着物が右腕から順に赤に染まっていく。おびただしい量の出血なのに、床に血溜まりができていないことがいっそ不思議だった。
 ランドールは生理的な咳をした。呼吸が苦しかった。ごほ、と喉が不快な音を立てて、口の端になま暖かい血がこぼれた。
 腕が、胸を突き抜けて、背に伸びていた。衣服を破り、背から異形の手首が突きだしている。
 その手のひらに握られた心臓の欠片は、秘かに波打って未だ生きていることを断片的に伝えていた。
 ごほ、とまた咳き込んだ。吐き出した空気と一緒に、血が飛んだ。
 索冥の腕が貫いたさきは、決して広いとはいえない、ランドールの背だ。ランドールは本当は、脆弱な身体だった。本人の気力で、他人には決してそうとは見られなかったが。不思議なほどに。
 互いに冷めた眼差しで、終わりの時を過ごした。
 ランドールの血に塗れた唇に、微かに微笑みが浮かんだ。索冥が初めて見る、純粋で美しい笑みだった。
 血の気が失せたランドールの腕がゆっくりと上がり、索冥の額の霊印に触れた。そこは霊獣の角に匹敵する小さな聖域のようなものだ。
 鉄錆びた、だが断固とした口調で、空間に響く命令が索冥を打った。

「連いてこい…」

 その瞬間、索冥の瞳が弛んだ。微笑みの様な瞳だった。
 二人は、霞み、原子崩壊の砂嵐に似たそよ風をおこし、やがて消えていった。
 形は、残らなかった。

 想いと衝撃だけが残された。

 


憎しみを連れて行こうと思った

  

最期まで読んでくれた貴方に 数多の感謝を(2003年完結)

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