錬金術師の犬 - 1 -

The Horn Tablet [ Alchemist's Minion ]

二つは一つであり、決して交わることはない
偶然は角で刻んだ傷
奇跡は角で鳴らした笛
真実はこの中に
蓋を開けるのは誰

 

 

 

「う…裏切った、なぁっ!!!」
 扉を開けるなりそう言って倒れた男は、全身血まみれの状態だった。
「嫌だな人聞き悪い。騙される方が間抜けなんだよ」
 床を紅く染めてゆく男に吐き捨てて、部屋の主は椅子から立ち上がった。部屋の主はそのまま瀕死の男に近付いて、無造作に襟首をつかんで外へ放り出す。
 床から絨毯へ染み込んだ鮮血を眺め、溜息をついた。
「そろそろ潮時だ」
 その声は不思議なほどによく通る低い金属的な声だった。

 

***

 

 鐘の音が聞こえる。
 この音を聞いたのは何度目だろう。数えるのも、もう飽きてしまった。食欲も感じず、眠ることさえ忘れてしまった。
 いい加減、死にたいな。
 幾度も巡り続ける想いに、気怠げに息を吐いた。
 村人にさえ忘れられたこの暗い闇の中で、自分は一体何をやっているのか。彼は再度それを思い直した。飽いていた。
 この鐘の音は、10km以上離れた教会のものだ。鐘の音は朝昼夜の規則正しい時を告げる。しかし、今日の鐘はいささか違う音色だった。死者を弔うために鳴らされた静かな音だ。
 彼はそのことは知らない。もっとも知ろうともしなかったが。

 セツ・スフォルツァ、彼は薄暗い夕闇の中で呑気に森の中を歩んでいた。萌葱色の髪は緩く波打ち、長すぎない程度で風になびく。毛先に近付くにつれて濃緑色に変わる不思議な色をしていた。黒曜石の瞳は遠い空を見据えている。
 目的地は決まっていない。とりあえず、あの町から離れられたらそれでいい。自分はいささか一カ所にとどまりすぎた。半日ほど歩いたおかげで、町からはだいぶ離れた所にいた。
 鼻歌交じりに乾いた土を踏む。地表に出た木の根を器用に避けながら、セツはだんだんと森の奥へ分け入って行った。町の教会の鐘が、不思議とここまで響いていた。
 樹木が増えているのに、奇妙なことに朽ち果てた建物の残骸も多かった。とれかけた扉、割れた窓。それらが残っていればまだましな方で、大半が煉瓦の壁だけになっていた。屋根もない。壁だとかろうじて解るのは、石に継ぎ目があるからだ。
 自分が手に入れたこの地方の地図には、ここに町などのっていなかった。それほど前に寂れてしまったのだろうか。
 セツは興味を持ち、朽ちた建物のいくつかを覗き込んだ。遺跡と表現しても過言ではないほど古い。だが壊れ方はどこか不自然だ。煉瓦の破片を手にとって、その制作年代を調べると案外新しいことを知る。
 眉根を寄せながら、セツはぐるりと辺りを見渡した。

 さらに奥、樹木に侵蝕された一際大きい瓦礫の山に近付く。何の変哲もない。だが、彼は背筋が疼くのを感じた。
 気になるものは調べ尽くさなければならない。そんな性格が禍してか、セツは瓦礫の中へと進んでいった。
 周りと違い、この建物は二階建てであったことが、辛うじて残された階段と一際高い壁によってわかった。ここは住宅ではない。商店の類でも酒場や宿屋でもなかった。小物は落ちていない。散乱したガラスの破片、腐食した木の床。惨状は簡素だったが、その度合いは酷い。
遠くで獣が吠える叫びを聞いて、セツはふいに室内を見渡した。不思議なほどに無音だ。この一帯に、樹木以外の生命が存在していないように気配が凪いでいる。
 空恐ろしい何かを感じながら、一歩一歩室内の奥へと入り込む。残された壁を左右に見つめ、廊下の一番奥に扉を発見した。
 朽ち果て、寂れた建物の中でこの扉だけは異彩を放っている。傷一つない作りたてのようなまっさらな扉。
 セツは扉を睨み付ける。
 その扉だけ朽壊を逃れているからではない。扉に描かれたものに旋律を覚えたからだ。

 

『我キュヴィエの元に此を封ず。
発見者よ、汝に禍と恐怖を。
強者よ、汝に戦慄と死を。
勝利者よ、汝に“リディジェスターキュヴィエイル”を』

 

 キュヴィエ。錬金術を拾得した者は誰でも知っている名である。古代アマディシエナ生まれの、偉大なる錬金術師。生涯を『合成』に費やした、狂気の錬金術師。
 彼女は国籍を捨て、所属するギルドもなく、自らの研究のために世界を放浪した。様々な動植物を掛け合わせ、有象無象の生物を作り上げた。それを可能にしたのは、彼女の類い希な魔力のお陰である。

 12属性。この世界の生物は、それぞれ何らかの聖霊の属性を与えられている。だが、まれに無属性で生まれてくる者も確かに存在した。そういった者は、たいてい何の魔力もなく生涯を終えるが、それとは正反対に強大な魔力を備えている者も生まれる。キュヴィエは後者で、国家主席魔導師と肩を並べるほどの魔力を持っていた。
 余談だが、魔力には3つの階級がある。ほんの小さな炎を灯したり、日常生活範囲でしか利用法がないような小さな魔力は『魔法』。対人、対物に危害を加えうる威力を持った魔力を『魔術』。地域や国に対して危害を加えうる、また魔人や聖霊に対抗できるほどの威力を持った魔力を『魔導』。おおまかに分けられている。
 扉に描かれた文字は、特別な魔術を施されていた。術者は、自分より高位の魔力で施されたものを視ることはできない。高魔術書は魔法使いにとっては単なる白紙の本であることと一緒だ。
かなり強固な魔術文字は、恐らくキュヴィエ本人の血文字だろう。払拭のないその扉を視ただけで、彼女がどれだけ強大だったのかが想像できた。
 セツは喉で低く笑う。
 すらりとした長身の体躯を持て余すように、セツは腕を組んだ。
「リディジェスターキュヴィエイル?」
 唸るような声で発音し、それは何のことか考える。
 キュヴィエイル。ただ単にキュヴィエが造ったからそう名付けてあるだけだろうか。おそらくはそうだろう。リディジェスターという単語を自分の脳で検索し、特に聞き覚えもなく、書物で見た記憶もないことを確認する
 キュヴィエ自体が5、600年以上昔の人物であるため、現存する書物で確認する術も限られている。幸いセツは合法非合法を駆使したあげく、キュヴィエの記した全ての書物を完読し記憶しているから、“リディジェスター”なる単語を自分の脳へ調べることは容易だった。
 セツはもう一度、喉で低く笑った。
 自分にこの文字が読めているのだから、これはキュヴィエの与えたプレゼントだと思おう。
 そのプレゼントのふたを開けて出てくるものが、何だろうと構いはしない。危険であればあるほどにその価値は跳ね上がる。
 唇をほころばせたまま、セツは扉を押し開けた。 

 

***

 

 階段はまるで地底へ向かっている。
 乾燥した空気は、未開封のぴりりとした緊張を孕んでいた。
 目の前にふわふわと浮かぶ光の玉はそのまま攻撃に使える。
 五十段を数えたとき、ふいに広い空間に出た。セツは短い魔法を唱え、空間を照らすように光を配置する。ぐるりを見渡すまでもなく、彼は中央のそれを見つけた。
 四つの支柱からは鎖が伸びている。ただの鎖ではない、独特の魔導法で編み込まれた強力な鎖だ。
 鎖は音も立てずに中央の物体を雁字搦めにしている。その物体は…。セツは瞳を凝らして注意深くそれを見た。最初、それは動物に見えた。だが次の瞬間、紛れもない人間に見えた。ちらちらと画像がぶれるような感覚で、それは動物と人間の間を彷徨う。
 見たこともない異常な『何か』に好奇心が疼き、セツは一歩一歩確かに中央へと近寄った。
 それは動かない。微動だにさず、だが気配は確かに存在していた。
 手で触れそうなほど近づくと、それの下にかなり強力な魔法陣が描かれていることを見て取った。
 それは意識以外の全ての器官を強制的に眠らせるように設定されていた。眠ることも食べることも叫ぶことさえままならない。老化を待って死を願うこともできない。常人ならば何日と待たずに発狂してしまいそうな、極悪非道の封印結界。
 人と獣の間を錯綜する物体は身動ぎ一つせず、だがその二つの眼はしっかりとセツを見つめていた。
 セツは息を呑む。
 濃紺と黄緑――黄色と言うには緑に近いが、緑と言うには黄色が多い、不思議な色だ――の瞳。二色の眼球は、無感情にセツを見つめている。
「リディジェスターキュヴィエイル」
 試すように呟くと、その物体は体躯をぴくりと揺らした。セツは窺うように全身を見つめ、もう一度同じ言葉を紡いだ。
小さな反応を返す。
「リディジェスター?」
 問うように聞くと、それは上目遣いでセツを見つめた。
「キュヴィエイル」

 途端に二色の瞳が激しい感情に染まった。明らかな敵意の色。破壊欲の色。
 セツは眼を細めて一歩身を引いた。純粋な危険回避行動だ。生き物がそれ以上動かないことを確認し、セツは笑みに歪んだ唇でもう一度言葉を投げかけた。
「キュヴィエ」
  途端、室内に瘴気に似た殺気が満たされた。
セツは音のない口笛を短く吹いて、ばっと両腕を開いた。部屋の四方へ漂っていた光玉が一気に集まり、セツの前方面で壁を築く。
 純粋な光属性の魔術だ。あらゆる物理攻撃を防御する。
 その生物は姿をぼやけさせ、狼に似た肉食の獣になった。強力な鎖状結界からゆっくりと起き上がってセツに牙を剥いた。
「すごいな。見事な合成だ……!」
 感嘆の声を漏らした次の瞬間、獣が一っ飛びにセツの首元へ飛び込む。その優美な姿に、セツは期待を込めて獣を待った。

 鈍い音が室内に響いて、萌葱色の髪を持った首が床に落ちた。
 だが、光の壁は消えなかった。

  

2003/06/20

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