錬金術師の犬 - 2 -

The Horn Tablet [ Alchemist's Minion ]

 それは穏やかに意識を覚醒させた。

『キュヴィエ』

 それにとって忌むべき言葉。嫌悪すべき名前。支配される呪文。
 その名で束縛する者は、殲滅の対象だ。
 身体に焼き付く痛みを残す魔導師の鎖は、この体躯を千切るようだ。
 ごとり、何かが落ちる音が聞こえた。微かな血の臭いに一瞬歓喜に震えた。だが、結界に逆らった負荷に耐えきれず、それはどさりと身を沈めた。
 蒼と碧の瞳をもったそれは、音のした方向に視線を巡らせる。捕らえたのは人間の身体。それも中途半端に壊れた身体。身体と首が繋がっていない。自分が引き裂いた。

 ああ、また意識が沈み込む。

 それは鈍る思考で考えた。次に目覚めるのはいつだろう。
 闇に落ちる一瞬前に、生首が言葉を発した。
「痛いな」
 瞳を閉じたそれは、声だけを聞いた。やけに金属的な声だ。
「首を切られたのは初めてだ。仕返し、するぜ?」
 喉を震わせるような笑い声が室内に響いた。光る壁がだんだん小さく圧縮されてゆき、子供の腕ぐらいの太さで輝いた。
 空間を切り裂く振動を風に残し、光る棒はその生き物を貫いて床に縫いつけた。
「……………!!!」
 カッっと見開いた両目は、苦痛を色濃く見せている。声の出せない身体での精一杯の抵抗だ。
 セツは立ち上がると、ぐちゃぐちゃに破けた首をさすってそれを見つめた。
「躾のなっていない犬だな」
 冷徹な微笑を浮かべ、愉悦に喉を鳴らす。
「キュヴィエの戦利品は、俺が調教してやろう」
 笑い声を押さえもせず、セツはその生き物に近づいて結界封印に触れた。
 体内に流れ脳に吸い込まれてゆく魔導の系統を正確に読み込み、口の中で幾つかの魔術を組み合わせた呪文を呟く。ぐっと、床を押すと、鋼が裂けるような音を立てて床にひびが入った。
 それは大きく瞳を開く。身体を覆う苦痛の重みと意識を混濁させる闇が一瞬にして消える。びくんと大きく痙攣し、それは人の形を留めた。
 途端に襲ってきた腹部の痛みに、身体を貫く魔力を思い出す。
「……ぃ………っは……」
 あまりの痛さにそれは喘いだ。
 激痛にうずくまるそれは身動ぎもできずに、まるで標本体のように床に這い蹲る。
「リディジェスターキュヴィエイル」
 邪悪ともとれる笑みを浮かべながら、セツはそれの顎を強引に掴んで顔を上げさせた。
 それは随分と美しい顔をしていた。
 薄い赤紫色――桃色よりは紫に近い――の髪は、癖のないさらさらと音さえしそうなストレート。長い睫毛、見事な弧を描く柳眉、薄いが形の整った扇情的な唇。何よりも、その左右色違いの瞳に惹き付けられた。
「今よりお前の主はこの俺だ。この血を身体で覚え、絶対服従を誓え」
 セツは自分の親指を食い破り、血の流れるそれをこの生き物の口元へもっていった。痛みに瞳を潤ませたそれは、拒むように身じろいだ。途端に腹部から脊髄へと痛みが駆け抜けてきつく瞳を閉じた。荒い息をつく、それはまるで人間のような仕草だった。
 セツはそれを楽しそうに見つめて、問答無用で傷ついた指を咥えさせる。抵抗しながらも喉が上下して、血を飲み込んだことを確認し、セツは光の針を消した。
 ひゅっと浅く息を吸い、床にへばった生き物が痙攣した。光が貫いていた部分は、特に怪我が残っているわけでもない。奴隷着のような純白の衣服にさえ傷一つない。あれは魂その物を縫いつける魔導だった。
 並でなく消耗した体力を取り戻そうとするように、その生き物は意識を手放した。
 セツはそれでも笑みを消さず、力を失ったその生物を抱きかかえて出口へと向かう。これ程愉快な気分は、生涯でそう何度も無いだろう。
 くくく、と忍び笑いが室内に残った。

***

 長い間眠っていたとき特有の、頭が白く濁っているような不快感がリディジェの意識に食い込んでいる。
 空気を吸い込むことさえ上手くできず、呼吸の音がやけに荒く耳に残る。薄ぼんやり開いた瞼の向こうは、奇妙にぼやけて滲んでいた。
 体中あちこちが痛かった。指先を動かそうとして、微塵も力が入らないことに愕然とする。だが、今までそうだったではないか。全身の激痛は初めてだが、身体が動かないことなど大したことではない。リディジェはそう考え直し、痛みを耐えることに意識を集中した。
「起きろ」
 低い金属的な声で、セツは足下にうずくまるそれに呟いた。
「苦しいか?」
 興味などまるでなさそうに。
 リディジェは悲鳴を上げる四肢を無視して、半身を上げた。
「いい子だ。お前をここまで運ぶのは大変だったんだ。感謝して欲しいな」
 ふんと、鼻で笑い、顎で指し示す。蒼と黄色の二色の瞳が驚愕に見開かれた。
「初めて見るか?プルヤルピナ自治領だ」
 身体の半分に重心をかけて腕を組む。
 鬱蒼とした森に極彩色のテントが隙間を埋めるようにランダムに敷き詰められている。樹木から空いた空間には、背の低い建物や市が開かれ、多彩な色を持つ翼を持った人々が地と空とを行き交っていた。
 純粋に驚いているリディジェを細目で眺めて、セツはマントを脱いだ。そのマントをリディジェに被せ、梱包するようにぐるぐると姿を隠してから軽々と抱え上げる。
「部屋に着くまで、大人しく寝ていろ」
 その言葉を聞き終わる前に、リディジェは意識を手放していた。

  

プルヤルピナがどこか知りたい方は、設定をご覧下さい。
2003/06/22

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