Tablet of the Horn - 2 -

The Horn Tablet [ Gran Grimoire ]

 階段を一段ずつ下りるたびに、脈動が聞こえるようだった。
 不思議なことに下へ行くほど明るくなってくる。白、白、白。ただ、純白だった。一点の穢れも残さない、無色の白が続いている。石の継ぎ目に沿って、時折光が走っていた。
 幻想的と言えばそうなのだが、あまり気分のいい景色ではない。人を不快にさせるような、神経をざわざわと揺する色だった。
 階段を下りきってしまえば、そこは不思議な空間が広がっていた。影の差さない床では、境目も見えずにただ白いだけ。壁も天上も床も全て白くて、何処までこの部屋が続いているのかさえ解らない。地平線すら見えそうだ。振り返れば、階段の位置すら見失っているだろう。
 その部屋の中央に、ぽつんと何か色の付いた物が無造作に転がっていた。
「あれか…」
 一歩進むたびに、無数の影や声がまとわりついてくる。
「マス、ター…。何…気持ち、悪い…」
「―――…安心しろ、俺も同じだ」
 リディジェスターは口元を抑えながら、セツの腕に縋り付いていた。
 この要塞は天の聖霊の力で浮いている。巨大な構造物を天へ引き上げている力の接点は、どうやらこの純白の空間らしい。それならば、この場は高次元に近いのだとも言える。聖霊の力が強い箇所。
 聖霊にも性質がある。天の聖霊は、創主の生まれた世界に近い生き物だ。清らかで、聖なる。魔物の性を持つリディジェスターには、いささかに苦痛を伴わせる空間ではあった。
 それとは別に、セツにとって煩わしい。彼には、自らを生かす精霊の声がうっすらと聞こえていた。その姿は見えないが、気配は感じられる。ただ白いだけの無限に思える空間に、彼に関わって死んだ者や、彼女に関わりのある精霊達などが、浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
『お願い。やめて、セツァ』
 耳元で聞こえた声に、セツは眉を寄せた。
『そんなことをしては、あなたが消えてしまう』
 ――黙れ。
 取り合う気は全くない。
 一歩、また一歩。無造作に落ちている、それを手にするために足を進めた。
『私のいのちを、無駄にしない―――…』
「黙れ、ガルナ…!」
 幻聴のようなそれを遮って唸り、セツはリディジェスターを引き寄せた。片腕で腰を抱き、噛み付くように唇を奪う。
 咄嗟にしがみついてくる指、人と魔物の二色の瞳。
 唇を離し、セツは鉱物的な笑みを浮かべた。訳も分からずに見返すリディジェスターの耳元で、しっかりと、一言も間違えずに呪詛を吹き込む。
「愛しているぜ、リディジェスター」
「……は…?」
「俺が最期に閉じこもっていた、あの部屋の扉をあけてみろ」
 きょとんと瞳を見開いた魔獣の頭を撫で、セツは躊躇わずに『角刻板(タブレットオブザホーン)』の元へ辿り着いた。
 それは、古ぼけた魔導書だった。何の変哲もない。華美な装飾もなく、題名も記されていなかった。
 恐れずに、拾い上げた。

“聖霊及びそれに属する精霊と契りし者よ。それを分かつは我が骨の刻まれし写本を紐解くがいい”

 手の平を通じて声がした。声と言うよりは、音に近かったが。
 ――俺を、殺すことができるのか?
 セツは尋ねた。

“それは等しくお互いの性質を甘受した者が、他者を殺すことにより完了する”

 ちらりとリディジェスターに目をやれば、何事かと見つめ返したきた。この魔獣には聞こえていないらしい。

“我が子らである霊たちとの結びつきを断ち切りたいのならば、それ相当の代償を支払うことを呈示する。己が最も愛する者の手で、己を愛する者を屠ること。その負荷に霊は耐えきれずに死を願うだろう”

『やめて、セツァ―――』

“汝に、それを成すことができるか?”

 リディジェスターに殺される為に。自分を殺させる為に肌を合わせ、睦言を囁いて。契約という名の好意を利用して。
 しかし、嘘は付いていないと。

“我はただ、それを見守る為だけに造られた、聖霊王の角で刻まれたグリモールである”

 魔導師と使い魔の契約は、人間同士が行う契約よりもよほど強固なものである。それに逆らうことは、できない。
「リディ、リディ、最期の命令だ」
「………いやだ」
 何を言われるのか、本能で嗅ぎ取ったのだろうか。リディジェスターは首を横にふった。後ずさろうとする獣の手を取って、心臓の位置に持ってくる。
「リディジェスターキュヴィエイル」
 片手には魔導書を持ったままで。
「俺を、殺せ」

“己の夢を叶えるため。自分の存在を変えぬため。理想のために、魂さえも売れるということを、知っているか?
 血と剣で道を記す人の子よ、永遠の無変化に抗う人の子よ、うつろう者として生きよ。
 聖別を退け、生命を嚥下し、それを知らぬままに生きよ。
 ―――有るべき場所へ、還るがいい”

***

 魔性の獣には、低神や精霊を喰って、能力を上げる事が出来る。魔族として人間と契約した場合は、術者との契約が切れれば、その魔力を肉体ごと喰うことで、自らの魔力を増幅することが出来る。
 魔獣の本能が記憶する、理。
 どちらの場合にせよ、それが甘美であることに変わりはない。
 聖なる存在との一線を引く望みは、殺戮と血と肉を求めることだ。
 だから、少しでも、ひとくちでも口にしてしまえば止まらない。
 無理矢理抉り出された肉から、赤く黒い鮮血を浴びてしまえば、もう理性は働かなくなった。本能が、主の血を肉を求めていた。
 野生のままに、唇を、爪を、血に染めて。
 白い長毛の獣は、真っ白な部屋で人を喰った。
 主人は、何も言わなかった。ただ黙って魔獣を見ていた。その漆黒の瞳が光を失うまで、暫くかかった。視線に曝されたなかで、本能に任せているのは苦痛意外の何物でもない。
 躯は、血を求めている。
 心は、もっと別のものを求めていた。
 本能は理性を裏切って、ただ苦しみだけを与えていた。止めてくれといくら叫んでも、爪や牙が動きを止めることはない。
 涙すら零れない、自分が呪わしかった。
 終わることのない苦しみの中で、死んでしまえればどれだけ楽になれただろう。
 その瞬間全てを忘れてしまえるかもしれない。
 叶えられることは、無いだろうが。

 聖霊は高次元の生き物ではあるが、神ではない。また、聖霊は自然発生したものでもない。
 聖霊を生み出した神は、天界の神の一人であるが、この世界の人間と高次元の生き物たちの接点として聖霊を生み出した。人間のように繁殖することはなく、せいぜい生まれ変わることが精一杯の、永遠を生きる生き物として。
 だがその神は、人間が聖霊に依存するほどに関わることを恐れた。制作者は破壊権を持っている。並大抵の魔力では退けることもできない聖霊を、人間と引き離すことが出来るように、自らの角を一冊の本として残した。
 しかし自らの子供を殺すことになるかもしれないその術を、ただ易々と受け継がせることはできない。
 聖霊を殺すのには、愛することが必要だった。
 悪魔は愛を理解しない。無償のそれを擬態はしても、理解はしない。
 もし献身的な愛情が生み出せたならば、命を奪う権利を与えよう。お互いに痛手となるだろう。苦しいと泣き叫ぶだろう。
 命を奪うと言うことは、そう言うことなのだ。
 誰がどの場で死のうとも。
 それは等しくお互いの性質を甘受した者が行える。
 一方の献身では有り得ない。
 最も悲しい、愛を確かめる方法にもなるのだった。

 獣の足下に、人の姿をした何かが立っていた。
『聖樹ナシュカザ、その巫女である葉姫ガルナの御霊、確かに受け取った』
 血塗れの床の上には、もう何も残っていない。
『腐った肉体を使役する前に、御霊の研磨が行えることに感謝しよう。魔界の血を引く獣よ。人間に受肉した魂の分離は、完了だ』
「煩い」
 獣は唸った。
『……喰べ残しが、あるな』
 角がある何かは、手の平から破片を落とした。
『本来死んでいたはずの、ひとの魂だ。我はそれを研磨する術を持たぬ。汝に与えよう』
 ごと、と分厚い本が床に落ちた途端、その白い空間は消えて無くなった。あれは仮初めの中有。天霊が一時ばかり造り出した天界に近い場所。用が済めば、本来の姿に戻る。
 獣はただ、項垂れたままで出口に向かった。
 独りで。 

***

 騎獣を呼ばずに、このまま海に落ちようか。
 そんなことを考えて、それで死ねる保証は何処にあるのかと思い至る。死にたいほど淋しい。
 突然死んだのならば取り乱しもしようものだが、我が主を殺したのは自分である。血と、肉を喰らい、その魂を飲み込んだ。自分が半分でも魔物であることを、これ程恨んだことはない。
 精霊に生かされた身体の、何て甘美なことか。
 獣の性には勝てなかったと、絶望が胸を締め付けた。こんな身体など、こんな魂などいらない。主のいない世界など、何の意味があるだろう。
「アンタは…ひきょうだ」
 掠れて声にならない音で、呟いた。涙など出なかった。涙で流してしまえる悲しみを通り越している。
 神でもいい、悪魔でもいいから、誰か嘘だといってくれ。俺にセツを返してくれ。俺が生きている意味が、何処にも存在しなくなってしまった。
 首にかけられた笛に返り血が着いていた。こんなもの、粉々にしてやる。
 握りしめた陶器のそれにヒビが入る直前、リディジェスターはふと思い出した。

『俺が最期に閉じこもっていた、あの部屋の扉をあけてみろ』

 主の言葉が甦り、手の力をゆっくりと抜く。
 自暴に走るのも、自棄に陥るのも、最期の言葉の意味を確かめてからでもいいだろう。その内に人の魂を抱いたまま。

『“リディジェスターキュヴィエイル”
その名を持つ者よ、『ゼファ』を目覚めさせよ』


 扉には、ただそれだけ刻印されていた。
 不思議なことに刻印の結界は魔物の物だ。セツは精霊の力と人間の力しか無いはずだ。どうしてこんな刻印があるのだろう。
 逡巡に眉を寄せる。開けようか、迷った。

「お前が開けなくて誰が開けるんだ、そうだろうワン公」

 それは神聖王国と言われた国で耳にした魔物の声だった。何故、そんな者の声が聞こえるのか。

「知りたいならば、問え。行動に移せ」

 エルドーアンはけたけたと笑いながら、セツがよく口にした台詞をはいた。それすらも許せなく思い、リディジェスターは怒りに扉を拳で叩く。
 ビシリ、と刻印にヒビが入った。エルドーアンをどうにかするにしても、その気配は扉の向こうから漂ってきている。不快だ。主が何かしていたその部屋に、下級の魔物が住み着くなんて。
「やっとお出ましか。待ちくたびれたぜ」
 無光の室内で声だけが響いていた。その気配は闇その物だった。声は聞こえども、姿は何処にも見あたらない。
「お前の中にある、喰ったばかりの魂を私に渡してもらおう」
「……拒否する」
「拒否しようが私は奪うだけだ」
 ごお、と瘴気がリディジェスターを包み込み、皮膚から染みて体内を通過していった。あまりの苦しさに膝を折って喘ぐ。
「待っ……!」
 こんな魔物に、主の破片を盗まれてたまるか!
 夜目さえ効かない室内をよろよろと這いずり、瘴気の軌跡を追った。身体の一部に硬い物が当たり、それが何か大きな箱状の物だと気が付いた。少しでも明かりが有ればそれは柩だと解っただろう。
 瘴気はその中に入り込んでいた。
 死に物狂いで蓋をあける。
「返せ…、俺のっ…」
 声は殆ど嗚咽に近かった。

『私がセツに手を出す理由を教えてやろうか』

『あいつが私に何をしたと思う』

『私の体を構築したのは、あの卑怯者の錬金術師だ』

『肉体の檻をくれたのは、あいつが初めてだったんだぜ…?』

 四方からエルドーアンの声が響き、煙が風に押し流されるように霧散してゆく。

『お前を造り出した女と同じだ』

『返してやるぜ、この身体をな』

 それっきり、声は聞こえなくなった。
 しかし、柩を暴いたリディジェスターにはどうでもよかった。それよりも、無理矢理にでも初めて喰わされた、何より守りたいと思った魂を。糧に、契約の完遂報酬にされたそれを取り戻したかった。
 真っ暗闇の中で、柩に手をつっこんだ。直後に手を戻す。
「………?」
 中に何か入っているのだ。冷えてはいるが、柔らかい何かが。恐る恐る、もう一度それに触れてみる。
 ――――人間…?
 指が、震える。知っている気がして。この『何か』を、前にも触れたことがあるような気がして。
 腹から胸元を辿り、鎖骨が指先にあたり、喉元まで来たときに、
「…ッ!?」
 その手を取られた。手首を掴む感触は、忘れようがない。嘘だろう。嘘だ。
「うそだ…」
 こんな、嬉しい嘘があるか。幻覚か夢で、気が付けばやはり一人なんじゃないか。
 へたり込んだリディジェスターの頬を、涙が伝った。瞳が、胸が、焼け落ちそうに熱かった。
 精霊の気配は全く感じられないのに、瘴気に近い闇の気配が濃いというのに。それは紛れもなくて。
 冷えた指先が、魔獣の頬を撫でた。涙を拭っている。ぎしぎしと柩が軋んで、中の人物が上体を起こしたようだった。
 震えて、嗚咽をもらすリディジェスターの唇に、乾いた唇が押し当てられる。ぺろりと舐めて、くつくつと笑い声がした。その仕草は、体が覚えていた。
「狡い…俺がッ、どれだけ…」
 漏らした呟きは、再度重ねられた唇に遮られた。
 濡れた音を一つ残して、その唇は獣の耳元へ移動する。
 一番聞きたいと願った、何処か金属的な声が。たった一言、始まりの言葉を紡いだ。

「リディ」

  

作中で、セツとリディが聖霊の女と人間の男と云々いってるのは、ホントはセツjrでも造ろうかと思った名残です。結局、jrではなくて本人が帰ってきちゃいましたが…。
いや、本当はセツ死ぬ筈だったのに!殺す気満々だったのに!(笑)飼い犬がだだをこねるから、造魔になってみました。
とりあえず完結。待っていてくれた読者の皆様、どうもありがとう。本当にありがとう。
後半は、いつもメールを頂ける春臣苗様の御陰です。
2004/10/13

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