Tablet of the Horn - 1 -

The Horn Tablet [ Gran Grimoire ]

覆す
全てを

***

 騎獣が手に入っても、セツはなぜかこの大陸から出ようとはしなかった。
 かわりに光の差さない闇窟の様な部屋を借り、そこに強力な結界を結界を張って一日中閉じこもった。リディジェスターは主が何をしているのかと疑問に思い、その度に問いただそうとするのだが、そこから出てきたセツに抱き寄せられ身体を繋げているうちに、気が付けばセツはまた消えていた。
 睦言は囁かない。だが、触れてくる指や、唇が愛を語っている錯覚に陥る。
 そんな日が四日以上続いた。

***

 明かりは蝋燭だけ。
 大振りな机の他には、死体を収める棺がひとつしかない部屋だった。何枚もの紙が散らばり、その全てに記号や呪文、方陣などが書き記されている。大小さまざまなフラスコに薬品、魔術道具などが並べられていた。
 知識を収めた本はない。その全ては脳の中に収まっている。
 セツは小さく息を吐き、低い声で名を呼んだ。
「エルドーアン」
 それは彼が未だ子供の頃よりなじみのある魔の名前だった。
「…お前から呼ぶのは、初めてじゃねぇのか?」
 美しい男の姿だった。男にしては、少し美しすぎるくらいだ。色とも言えない闇をまとったその存在は、蝋燭の明かりを反射させながら浮き上がる。
「エルドーアン、……お前本当は、女だろう」
 黒曜石の瞳をもったセツが、闇を睨み付けた。返答は返ってこないがどうやら笑っているらしい気配が窺える。セツも、笑った。
「お前が俺に構う理由が、少し解った気がする」
「生意気言うんじゃねえよ。人間風情が私を理解できる筈はない」
 にぃ、と紅い唇がつり上がる。エルドーアンは鼻を鳴らしたが、それは気分を害したからではない。むしろ逆だった。
「俺に付きまとった理由は…。いや、聞かなかったことにしてくれ」
「臆病者め」
 たしかに、自分は臆病者だろう。不思議とリディジェスターの顔を思い浮かべた。二色の瞳で、見つめてくるその顔を。
「後顧の憂い、か……」
「嫌な野郎だよ、お前はな」
 甲高く、笑う。
「間違いなく、お前は俺の望みを聞くだろうな。―――そうだろう?エルドーアン」
 全て計算し終えた答えが、一枚の紙に綴られていた。ざっと目を通して、セツはそれら全てに魔術でもって火を付けた。
 冷えた熱の揺らめきの中で、二人は対峙した。
 エルドーアンは闇を一層濃くし、ただ黙ってセツを見つめる。

「愛しているぜ、セツァゼフィルス」

 紅い唇が最期に呟いた言葉。

***

 その獣は馬のような体躯をしていた。身体だけは馬のようだが、全身を覆う長毛と、猫のような尾、二本の角の生えた獣じみた顔がとても不気味だった。
「天翔る獅子の様に早くはないが、地上の獣の中でこれほど空を翔るのに長けた種族もいまい」
 聖土霊ノームが、獣の首を撫でて教えてくれた。
「一頭…?」
 リディジェスターの言葉に、女は頷く。
「二人くらい容易く運ぶだろう。それに、帰りは一人しかおらんだろうからな」
 何気なく漏らした言葉だが、リディジェスターは暗く沈んだ。此処を出れば、一人になってしまうのだ。
 子供のように駄々をこねようか。セツが籠もった御陰で、これ程離れがたくなるとは思わなかった。この時がずっと続けばいいとまで、願ってしまった。
 自分をおいていく彼が憎い。それと同じくらいに愛しいと思う。出来ることならば、やはり彼の望みを叶えてやりたいと。
 セツはノームに礼をいい、借りた部屋はそのまま誰の手にも触れないようにしてくれと一つだけ頼んだ。ノームはしばし沈黙した後、長嘆と供に頷いた。
「行くぞ」
 騎獣にリディジェスターを乗せ、その背後にセツが乗り込んで、手綱を引いた。いななきとも唸りともとれる声を発し、騎獣は空高くへ舞い上がる。
 それは初めての体験で、澄んで冷たい空気に驚きながらも、リディジェスターは何も言わなかった。
 太陽が昇った時から、地平線に下るまで空の旅は続いた。
 途中、休憩はなかった。もし休憩があったとしても、リディジェスターには苦痛でしかなかっただろう。セツと何を話したらいいのか、解らない。
 言葉を発しようと唇を開くたびに、背後のセツがそれを無言で止めていた。耳元やこめかみに口付けされ、手綱を握る手が時折頭を撫でたりした。
 どんな原理なのか、空中に巨大な影が見えたところで、セツはやっと唇を開いた。
「いい子だ、よく我慢したな」
 子供扱いはあんまりだと思ったリディジェスターが振り返って文句を言おうとした、その唇は深い口付けに遮られてしまった。

 天空要塞。
 遙か昔は大国として名を馳せていた、錬金術と法の国である。空中からは菱形の様に見えたその一角に着地すれば、あまりに酷い様相だった。人の気配がない訳ではない。生活をしている様子も窺えるのだが、そこはあまりにもスラムじみている。
 だが不思議なことに、高次元の精霊の加護が下りていることをリディジェスターは読みとった。
 こんな場所のどこに、主の探し求めた物が眠っているのだろう。

「離れるなよ、リディ。この国は、この世界の何処よりも治安が悪い」
「……あんたの望みが叶うまで、しっかり守ってやるよ」
 精一杯の強がりなのだが。
 しかしセツは、魔獣の葛藤も全て解っているようだった。
「アレは王宮のどこかに有るはずだ。ノームが正しけりゃ、この国の最期の王がそれを『読んだ』らしいからな」
「なんでそんなこと」
「この国には昔、王に仕える御子がいたらしい。聖天霊エルシノアが王を操っていたとまで言われている。だが、その御子は最期の王を境に姿を消した」
 既に日が落ちて、月光が辺りを照らすだけの閑散とした地を眺めながら。
「こんなでも錬金術のメッカでな。その術を少しでも知ろうと、アマディシエナの歴史や文献は一通り目を通す」
 一つ路地に入れば、建物の通路のようになっていた。階段が有ればそれを昇り、上へ上へと目指す。王宮はこの要塞のてっぺんにある。
 国交など絶たれて久しいこの国で、騎獣などという珍しい物をつれ歩く訳にはいかない。セツは着いてそうそう騎獣を天に放した。ノームから貰った呼び笛をリディジェスターの首にかけ、二人ともマントを目深に被って目立たないように地を進む。
 途中何度か野党らしき者に出くわしたが、たいして鍛えられてもいないので、魔術とリディジェスターの戦闘力でどうとでも切り抜けることが出来た。
 そろそろ月が昇りかけている。セツは適当な空き家に勝手に侵入し、魔術でもって結界を敷いて野宿を決めた。幸いなことに過去は民家であったろうその家には、ベッドの類が残っていた。
「何とかなるか…」
 埃の具合を調べて、風の魔法をひとつ。塵芥が吹き清められたが、それでもあまり就寝したくない代物だ。これなら床のでもいいだろうとリディジェスターが提案しようとしたとき、セツは革手袋をとって素手でベッドに触れた。
「…便利だな」
 リネンの類が新品同然に戻っていた。
「この手の技は意外に魔力を消耗する。理論を説明してやってもいいが、休憩したいだろう?」
 めんどくさそうにマントを脱いで、ベッドの背にかけた。殆ど無い旅装の中から携帯食料をとりだして、二人分に分ける。水分を補給することは大歓迎だが、物を食べたい気分ではなかった。二人とも。
「……あんたは、平気なんだな」
 ぽつりとリディジェスターが呟いた。ベットに腰を下ろしたセツは、魔獣を見つめる。全て諦めたような悲壮さに、どこまでいっても俺は酷い奴だな、と自嘲気味に笑った。
「リディ。来いよ」
「…こんなとこでするのか?」
「ベッドがあって他に誰もいないんだ、気兼ねする事もないだろ」
「そんなんばっかだな…」
 呆れて肩を落とした。その行為自体嫌いではないのだが、もうすぐ自分の目の前から消えていこうとする人物の望みにしては、些か即物的すぎる。
 感傷的な心情など無視されてしまい、リディジェスターは眉を寄せている。そんな魔獣を引き寄せて、腰を抱いた。丁度腹の位置に顔をうめて、長嘆する。
「……マスター?」
「一つだけ、お前に残してやれるものがある。俺の理論が正しければ、だが」
 それは何かも言わず、セツはリディジェスターを自分の方へと引き寄せた。連日、暇が有れば貪り続けた躯には、点々と情事の痕が残っている。服の隙間から肌を舐めて、新しい痕をつけた。
「…っ…」
 あとはもう、言葉は要らなかった。

***

 何時の頃か、セツは僕を愛称で呼んだ。
 情が移ったかと思ったそのたった短い言葉は、睦言にも成り得ると知った。名はその者を縛る鎖である。
 人間ほど弱い生き物であるのならば拘束力は極端に低いが、魔物や精霊の類にとって、それは魂と同じだ。
 獣は名前を、殊更正式名称を呼ばれることを嫌がった。それはそうだ。自分の首を絞められていると同じだからだ。
 だがしかし、愛称で呼ばれることは喜んでいるようだった。
 どんな生き物であれ、主に可愛がれれることを厭う者はいない。
 真名を呼ぶのは、最期まで取っておこう。
 ベッドの中で、犬のように主に縋って眠るリディジェスターの髪を撫でながら、セツは『部屋』に遺しておいてきた物の事を考えた。
 偶然だが必然だかしらないが、この魔獣と出会ってから随分と自分は変わってしまったように思う。猫だって三日飼えば情が移る。だが、ペットにするには些か感情豊かすぎだった。自分の傍に他人がいることがこんなに楽しいことだっただろうか。
 初めはただたんに、稀代の錬金術師が造りだしたキメラ、その程度の価値しか見ていなかったのに。使い魔にしては、反抗的で。
 どんな扱いをされようと、それがどれだけ拒否するべき内容だろうと、この魔獣は甘受するのだ。それがただ単に契約の服従で有れば、これ程まで迷う事も無かったはずだ。
 あんな物を、造ってしまったのは、ひとえに迷いの所為だろう。
 誰かを愛するということは、その相手についての責任を持つことだ。
 憂いを、少しでも軽くしてやろうと、思う。精霊の混じり合った躯では、肉体が死んでも魂は精霊の転生に巻き込まれてしまう。それだけは、避けたかった。
 この躯から精霊を分離してしまえば、肉体は滅びるだろう。だが、魂は自由だ。そのまま消滅してしまえる。それが、願いなのだ。
 いい加減、過去の女に振り回される人生など、うんざりだ。彼女より愛しいと思える生き物を、見つけてしまった。
 誰よりも生きていたいと思わなければ、愛する女の魂など欲することはしないだろう。本当の意味で、彼女を愛していたのだろうか。精霊は転生できる。所詮道具に過ぎないと思い知らされてからは、死にたいと呪うことしか出来なくなった。
 だが、もう少しだけ、生きていたいと。
「どちらにせよ一度死んだ身だ。これ以上何を恐れる必要もない」
 『知』の触覚を持った手の平を組んで、セツは薄く笑った。
「飼い主の責任ぐらい、果たさせて貰おうか」


 この国には――いや、国と定義することさえ危ういのだが――浮浪者と無法者しか居ないように見えた。上へ上へと行くにつれ、その設備がどれほど高度であったのかが窺えるのだが、稼働を止めてしまったそれらの遺産を再度生まれ変わらせることが出来る人物など、もうこの国には居ないように見えた。
 セツとリディジェスターは洞窟のような通路を縫って、ようやく上空に近付いた。上辺の王宮だけは未だに荘厳さを失っていなかった。何らかの魔法が働いているのか、肌寒い温度にも関わらず、草木が茂っていた。
 王の住まう区域だ。十二の自治区とそれを統括する天上の王宮。この巨大な要塞が天に浮かんだままであるように、かつて王が暮らしていた区画はなんとか高潔さを保っている。12の階段が螺旋状に城をかたどっている。白や銀を主とした色調で、花や緑が事欠かない空中庭園のようだった。
 その一つの階段を昇って、二人は漸く城に辿り着くことが出来たのだった。
「ここには、人が居ない」
 リディジェスターが辺りの空気を嗅ぐような仕草で呟いた。
「遮蔽が…してある。多分、聖霊か何かの」
「通りで俺には感じない」
 その身を精霊と混ざり合わせたセツには、感じ取ることの出来ない類の魔術なのだろう。魔の性質を帯びたリディジェスターが侵入できるのだから、特に害はないだろうと思いつつも、セツは革手袋を外した。つるつるした石で造られた門に手の平を当てる。
「高位魔術師か、それ以上、この城に害を与える者を排除する遮蔽か。人の心理をスキャニングするなんて大規模な結界、人為的な物じゃないな。攻撃性もないし、随分無関心な遮蔽だ」
「…ただ、荒らしたくないだけ?」
「おそらく」
 その所為でこの区画は損壊を免れているのだろう。滅びかけた国に居城だけ残っていて何になる。民がいない国など、国と呼ぶことも出来ないのに。
「『角刻版(タブレットオブザホーン)』を探すのには打ってつけだ」
 人間に邪魔されないだけ捗るかもしれないが、それにしたってこの広い城の中でどうやってそれを探そうというのか。
 それがどんな形をしているのかさえ解らないのに。
 リディジェスターがそれを問えば、探す箇所はあらかた決めてあると答えが返ってきた。どんな形であれ、それは書庫の中に紛れ込むような物ではないだろうと。あるのならば宝物庫だが、その可能性も低い。
 それが使用されたであろう場所を探すにはまず、王の縁有る場所を探す方がいい。執務室や後宮の類を。それとも他に、儀式がかった部屋でもあるかもしれない。
 どちらにせよその機密性が高まるほど、場所は奥になるだろう。
 主従は場内に足を踏み入れた。全くの無音の中、磨き上げられた石の床に日の光が射し込まれていた。足音も耳に届く頃には儚く消えていくような。本当に閑散としていた。どれほどの美しさを残していようと、この場所が栄華を誇っていたとは到底思えない。完璧すぎて冷えた印象を残す柱達。ただそこに人の温もりがないだけで、気分が悪いほどの静寂を生んでいる。
 街にいたときと変わりなく、ただ上を目指していた。
 階を一つ上るにつれ部屋の装飾が豪華になってゆく。華美た装飾であったり、質素ながら品の良いものだったり。途中幾つか上階に行けないフロアがあった。階段の類が一切ないのだ。何か仕掛けがあるのかと部屋を全て見回ったら、ただの小部屋が見つかった。
 その部屋には扉が無く、石床と中央に台座のようなものが有るだけだった。台座には水晶に似た透明度の高い丸い石が乗せてあり、セツがそれに触れると床が迫り上がってきた。
「まだ動くとはな…」
 その仕掛けは錬金術と魔術の合わせ技らしく、この国ならではの物だった。
 そうやって最上階に辿り着いても、セツが探す物は見つからなかった。王の執務室は最初から荒らされ、そこだけ生々しく無惨な印象を与える。書類の類も散らばっていたものの、セツには無用の物だった。
 私室。最上階のそこはもっと酷い有様だった。まるで強盗が入ったような。一体この国の最期はどうなっていたのだろう。
 寝室まで歩いていくと、ぱきりと何かを破壊した音が聞こえた。セツが足を上げると、どうやら眼鏡を踏んだらしい。
「確かに人間は生きていたんだな」
「ここだけ、なんでこんなに荒れてるんだろう」
 他は全てに置いて無機質だったのに。
「案外、これを残しておきたかったのかもしれないぜ。この部屋に誰か居た、その事実を」
「よく…わからないな」
「解らなくていい。聖霊の思惑なんざ、理解しない方が身のためだ」
 ぐるり、と眺めながら。
 セツとリディジェスターはこの空中要塞のてっぺんにいた。角刻板が見つからなくて、リディジェスターは一人安堵していた。セツは一人気むずかしそうな顔をして、王の私室を掘り返している。サボり気味に後ろをついてまわって、一つ気が付いた。
「手袋…」
 ぽつりと口に出してしまってから、しまったと口を噤む。別にそれが悪いことではないのだが、何故か罪悪感に似たものを感じてしまう。
 セツはくるりと振り返り、リディジェスターの頭を撫でた。いつもの革ではなく、直に感じる暖かさに泣きそうになる。
「この手は最大の触覚。錬金術師が最終的に求める物だ。触れば何であろうとその構造を読むことが出来る。錬金術師が、その術をマスターしていく課程で、この手を手に入れられるかどうかが非凡か平凡かを分ける」
 いつもは肘まである革手袋で覆われている。それはまさに『魔法の手』だった。
「真上にないのなら、軸を探すか…」
 セツは呟いて、おもむろにしゃがみこんだ。
 素手で床に触れ、瞳を閉じる。全神経を、手の平に集中させていた。右手だけでは足りなくて、ついに左手まで床に着けた。
 それは血液が血管の中を巡って体内を循環するような感覚に似ていた。目で見るのではなく、もっと別の器官で感じる。触感が網の目のように広がって、その物体を読みとっていく。
 極限られた範囲でそれを行うならば、その物質の原料を特定するだけになる。だが、あまりに広範囲でそれを行えば、建築物の構造を透過で読みとる事もできた。だが、範囲が大きくなればなるほどに、術者が疲弊する。体力も魔力も消耗してしまう。
 セツはこの部屋から、下へと触手を広げた。寝室の床、寝台の下。床に目に見えぬような切れ目が付いていた。そこから空洞が続いている。それを辿る。
「…ッ…」
 バチ、と放電に似た光が走った。
「セツ?マスター?」
 リディジェスターが心配そうに駆け寄ってきて、息を呑んだ。
「…やってくれる」
 セツの右手が黒く焦げていた。回復魔術を唱えても、暫く痛みが引かないような強烈な物だった。
 おもむろに立ち上がって、寝台を睨み付けた。魔獣に命令して、寝台を退かすように言った。リディジェスターは手足を使うのではなく、念導力的な力でもって寝台をひっくりがえした。
「…大丈夫、か?」
「死ぬのも焦げるのも大差ないだろ」
 ふん、と鼻で笑って。
 もう一度床に手を付けた。がたん、と床石が外れて、闇が口を開いた。それは中枢へと伸びる螺旋階段だった。

  

2004/10/13

copyright(C)2003-2008 3a.m.AtomicBird/KISAICHI All Rights Reserved.