残った聖霊は小さくなる獣を見つめながらしばし沈黙したが、炎の聖霊が沈黙を破る。
「ずいぶんと気に掛けていますが、あの青年に何を見たんですか?」
「……悲劇」
ぽつりと漏らす。
「死、裏切り、決別。あいつは何を感じるかわからんが、悲劇以外のなにものでもないと思う」
「イスタリアが?それともアストラエアが、ですか?」
聖炎霊の気配は、別人かと思うほど穏やかだ。かがり火のごとくさりげない暖かさで、空を眺める聖水霊を後ろから抱きしめた。
「どっちも。それに、あいつらを取り巻くすべてのものにとって悲劇だろうな」
「あなたは?」
「……俺にも、悲劇だよ。愛する者が翌朝、自分の横にいなかった。その気持ちは痛いほど判りすぎる。それでも自分が生き続けなきゃならない、そんな螺旋状の拷問には耐えられない」
「それで、反魂の外法を教えたんですか?霊薬に呪文など初めて聞きましたよ」
反魂の外法。それは遙か昔、神と聖霊と人間が共存していた頃の秘法。
「…うん。今の聖霊には禁呪だし、並の人間じゃ成功しないけど、あいつは成功するよ。寿命の大半と魔力を失う代わりに」
あなたは、私の世界のすべて
そう言って、いつも微笑みかける、その笑顔こそが生きる糧
束縛は愛であり
愛は行動を伴い
行動は陶酔を呼び覚ます
幾多の愛を残そうと
あまたの闇が我等を引き離そうとも、この愛が失われることは無い
宮殿の中は静けさに包まれていた。
休み無く砂蛇を飛ばし続けて、首都サチャ・ユガに戻ってきたのは、出発してから三日目の夕刻だった。
イスタリアはサチャ・ユガを治める女総統エウノミアの妹である。
砂漠の民は元来、親俗に比べて驚くほど他人への情が薄い。総督の生死なら心配しようものだが、総督の妹の生死には興味が湧かない。
アストラエアは宮殿の中を走った。たまに出くわす侍女達は何事かと驚き、その両腕に聖炎霊の霊印を見つけて、納得したように自分の仕事に戻る。
辿り着いたイスタリアの部屋の前に、二人の砂漠の焔が立っていた。むき出しの両腕以外は、真紅の装束に身を包んでいる。
「アストラエア!?貴様っ、どこに行っていた!?」
抜刀まではしなかったが、怒気を孕んだ同僚の声が廊下にこだました。入室を制そうとする二人をかいくぐって中に入ると、部屋は仄かに明るかった。
人の気配がする。
寝室へとゆっくりと歩むが、どうしてか足取りが重い。心臓が破裂しそうなほどに耳元で五月蠅く、背を向けて逃げ出したいほどに足が竦む。
「ようやく帰ってきたか、裏切り者め」
白いレースの天蓋の影に、かがり火に滲むような総統が座っていた。
「……裏切り…者?」
朝と夜の静寂の間で総統はレースをよけた。
「い…イスタリア……?」
枕元に座る姉と同じ褐色の肌と薄紫の銀髪が、炎の影に揺らめいて見えた。アメジストの瞳は閉じたままで。
総統は妹の髪を梳きながら、抑揚無く言葉を紡ぐ。
「最後まで、ずっとお前の名前を呼んでいたぞ。お前の消息をずっと心配していた」
「………」
「一番大切なときに、お前はイスタリアを裏切ってどこへ逃げた」
「……逃げてなど、いません」
目の前に闇が降りたようだった。暗い室内に関係なく感じられる気配の中に、イスタリアのものは無い。
「死の病でさえ、癒せる術を手に入れてきたのです」
エウノミアは訝しげに振り返った。年若い砂漠の焔のただならぬ様子に、一時恐怖が心をよぎる。
腰に巻かれたバックの中から、布に包まれた小瓶を取りだした。それは闇の中でさえ仄かに燐光を放ち、波打っているようにも見える。
「……何をする、アストラエアよ」
責めた声色で問う総督に応えを返さずに、アストラエアは小瓶の蓋を開けた。直に触れた指先に激痛が走り、あまりの冷たさに火傷をしたが、心に痛みは届かない。
枕元に座る総統を脇へ押しやって、イスタリアを間近で見つめた。その顔にはいつもの生気はなく、嘘のように土気色をしていたが、まるで長い夢を見ているようだ。
「“開け、下界の門”」 ビナー・ポルタ・インフェルナ
あらかじめ教えられていたことを模倣するような自然さで、身体が勝手に動く。
紡ぐ言霊と動作の情報は間違いなく頭の奥で解凍されている。
「“善霊の力によりて、落ちるものを解放せよ”」 ゲニウス・ボヌス・ゲブラ カオスス・ネツァク
唖然とする総督を後目に、アストラエアは小瓶に指を浸し、イスタリアの額に朱に染まった指を走らせた。
戸惑うことなく古代文字(フサルク)を書き終えると、小瓶に口を付けて中身をすべて吸い出し、イスタリアに口付けする。鮮血の霊薬を口移すと、身体の力という力がすべて抜け出たようだった。
そのまま立っていられず、枕元に這い蹲るようにして倒れ込みながら、それでも言霊を紡ぎ続けた。
「“天頂より時の見張りを駆逐せよ。輝かし上界の門へ”」 メディウス・コリエー・テイワズ・ホロスコプス
言霊を発するごとに、魔力が凄まじい力で引き抜かれてゆく。
「“輝かし上界の門へ”」 ポルタ・スペルナ・ハ・ゾハル
イスタリアの額に記された古代文字が淡く発光しだした。それに触発されたように、部屋を満たすすべての物質が小刻みに震え出す。
「“下れ、上界の門”!」 アクアリア・ポルタ・スペルナ
その瞬間、夜は昼となり、昼は夜となった。閃光があたりを包み込み、視覚と聴覚を麻痺させた。
様々な怒濤のような悲鳴があたりを包み込んで、次に気付くとすべてが元通りになっていた。
エウノミアはしばし呆然としていたが、即座に立ち上がって寝台に駆け寄ると、言葉を失った。
「総統!!何事ですか!?」
ただならぬ何かを感じて、砂漠の焔が足音もなく寝所に分け入ったが、エウノミアと同じく驚愕した。
「そ、総統…、何が…」
「……妾にも、判らぬ。だが、医術師を呼べ」
―――歌のように聞こえた。
砂漠の女王は、横たわる男女を眺めながらぼんやりとそう思った。
* * *
宮殿内が混沌としていた。総統と砂漠の焔、それに高位の魔導師達がそれぞれの見地から、沈痛な議題に向き合っていた。
医術師達がイスタリア調べた結果によると、イスタリアは息を吹き返していた。意識はないが死ぬことはないらしい。だが、魔導師達は呪いだと言った。生きてはいるが、生きているだけだ。強力な力によって生を得ているが、おそらく自我はないだろう、と。
一方アストラエアは罪人と同等の監視を受けながら眠り続けていた。
濃紺の髪は見事に白髪に変わり、瞳の色も色素を失って淡い紫色に変色していたが、それ以外は何も変化がないように見える。それ以上のことが判る人間はこの場にはいない。
ようやくアストラエアが目覚めたときには、総統の判断ですべてが決まっていた。感情に靄がかかったようで、思考が上手くまとまらない。まるで自分の半身を失ったように、己の魔力を感じ取れない。
総統の間に連れられて、二人きりで命を受けた。
「古より伝わるように、反魂の法は外法ぞ。主の行為は砂漠の焔を耐え難く汚すものだ。よって、焔蛇紋を燃やし尽くす。主の両腕は尊敬の紅から、忌むべき屈辱の灰に変わるだろう」
砂漠の焔の霊印(イレズミ)は魔力で彫られているため、容易に消すことはできない。
彼らは聖炎霊の象徴である真紅をすべての良い象徴と見なすかわりに、燃え尽きた後の灰色は悪しきものとしている。砂漠の焔の誇りである焔蛇紋を灰色に変えられることは、もっとも重い罪の者に取られる処分だった。
「イスタリアは……?」
自分の処分よりも、彼女のことが心配だった。
「お前のおかげで、二度と笑うこともなくこの世に黄泉帰ったぞ。我が妹の苦しみは妾の苦しみも同じこと。これ以上お前の顔など見たくもないわ」
生きている。彼女は生きている。それはアストラエアにとって何よりの祝福と同じだった。
「会わせて、ください」
「ならぬ!!己の恥を知るがいい。お前は砂漠の焔に引き渡した後に、国外に追放する」
「会わせてください」
「妾に同じ事を言わせるな。お前はイスタリアを目覚めさせた以上に何を望むのだ」
自分が望んだのは、彼女を生かすこと。アストラエアは黙った。
「お前に砂漠の焔を欺けるのなら、誰が我が妹に謁見しようと妾は気付かぬかも知れぬがな」
それは砂嵐と形容される女王の、最高の譲歩だった。
その日以降、サチャ・ユガでアストラエアを見た者はいない。
彼は聖水霊の言葉を信じ、魔の森に逃げ戻った後、幻獣大陸を横断して、中央の大陸に渡るが、それは語られぬ講釈である。
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