母が死ぬ間際、彼女は幼い俺に告げた。
「サラマンダーに会いなさい。あの人は、どんなことがあろうと、貴方だけには力になってくれるから」
少女のように若い彼女の微笑みは、随分と幸せそうだった。
***
砂漠の民は、民族意識が強い。だが、他人種を差別するような意識ではなかった。むしろ、他国から見れば生活しにくいこの砂漠の国にわざわざやってきた者達を大いに歓迎し、そして受け入れ、良い意味で珍しがる。
そう言う意味では、彼には非常に住みやすかった。
砂漠の民と同じだが、それより艶やかな空色の銀髪。汚れのない澄んだ青玉の瞳。褐色の肌を持つ砂漠の民が賞賛の目で見る、白磁の肌。
だが彼は、何処の街に移り住んでも、職業だけは似通っていた。
ある時は酒場で歌を唄い、ある時は高級クラブで酒をつぎ、時に女よりも女らしい仕草で男を惑わせるのだった。
『彼』と称するのだから、彼は確かに男であり、彼は進んでそうしているわけではなかったが、もともと余所者であるために、食べていくには仕方のないことだった。
その容姿は優美であり、時に繊細で、そして蠱惑的だった。平均的な女性より身長は高かったが、骨格は華奢であったために、女装をするとまず間違いなく女性にしか見られない。しかも極上の美女に。
しかし彼は、どんなに金を積まれようと、その身体に触れさせるような仕事だけは絶対にしなかった。
彼は人間が好きだったが、自分の信頼を寄せるまでには至らなかった。
天涯孤独の身になったとき、真っ先にやったことといえば、母の遺言だった。
「サラマンダーに会いなさい」
永遠に続くと思っていた日常が母の死によって音を立てて崩れたとき、次の目標がそれになったのだ。自分の感覚をフルに使って、その気配を感じた。だが自分はまだ若いのか、正確な位置まではわからなかったし、またサラマンダー自身の居場所も時として異なっていた。
それでも彼は、母と過ごした砂漠の東端の小さな町を出て、西へ西へと旅をした。
自分が何であるか、どういう存在であるか、その全てを知っていたし、人間には到底考えられない程の力を持っている。それを隠しながら人間に混じり、時に逃げ時に馴れ合い砂漠の首都へまでやってきた。
自分が病んでいることにさえ気づかずに……。
***
全ての砂漠の民の故郷、砂漠の都サチャ・ユガ。オアシスに点在する小さな町とは違い、中央の大陸の大都市と比べても劣らない。
代々女王が統治し、その直属下に置かれている軍『砂漠の焔』は、その戒律の厳しさと特殊性で世界的に名を馳せている。
もうすぐ夜が明けて住民が眠りにつくそんな時間に、その『砂漠の焔(デザートブレイズ)』の一人が、小さな店の帳をくぐった。
「すみませんが、今日はもう閉店―――」
「人を捜している。金は倍出そう。頼む、時間がないんだ」
店主の制止も聞かずに、その『砂漠の焔』――顔の半分を薄い布で覆っているので、女性だとわかった――彼女はずんずんと店の奥へ入ってきた。両腕をむき出した深紅の衣装。そのむき出しになった両腕には『焔蛇紋(サラマンドラ)』と呼ばれる魔術で書き上げた霊印(イレズミ)が、彼女の地位を物語っていた。
目元までターバンで覆った店主は、傍若無人ともとれる彼女の態度に溜息をついて、まあいいでしょう、と低く呟いた。
「おかけなさい。探し人というのは?」
明らかな焦りを隠しもしないこの女性は、差し出された椅子に頷いた。その仕草の全ては繊細さなどなく、どちらかといえば男性的な動きだ。
「青銀の髪をもった女だ。純粋なサチャ・ユガ人ではないらしく、肌の色は白い」
「たったそれだけですか?」
店主は呆れた。
二人の間にある机の上には乱反射を繰り返す水晶、壁にはいくつもの備え付けの棚があり専門家でなければわからないような数百種の薬の瓶が並べられている。
店主は低い声で唸りながら、蝋燭の炎を小皿に移して、ちらちらと生き物のように跳ね回る炎を眺めやった。
「約一ヶ月半程前から、惨殺魔が現れている。それは東の町から始まり、二週間後、十日後、七日後、と首都に上陸した」
ふうん、と面白くなさそうに炎を操る店主は『砂漠の焔』を流し見た。流し見た、といっても、ターバンの布でかくれているため、そんな雰囲気としかいえなかったが。
「首都の最初の殺しがあってから、三日後、その二日後と期間が短くなってきている」
「で、次は今日だと?」
「ああ。なんとしても見つけださなければ、沽券に関わる」
「その女性の特徴を詳しく教えていただけますか。できれば名前も欲しいところですが」
店主の要求に、彼女はぐっとつまった。褐色の両手を握り、射抜くように店主を見つめた。
「それが判らんから、貴殿に依頼をしているのだ。貴殿は腕のいい宿曜師だと聞いている」
店主はそれを否定も肯定もせず、口の端を持ち上げて老獪に笑んだ。
「唯一判っていることは、その女は水属性と思われる魔術を使うこと、というだけだ」
「思われる?」
「そうだ。しかもかなりの使い手だ。通常我々が魔術を使う場合、どんな小さな魔法であろうと、呪文や動作が必要だ。それにもかかわらずその女はなんの呪文も動作もなく、術を発動させる」
「………ほう」
彼女はイライラと机を指で叩く。
「いいでしょう。見つけてあげます」
店主はにやりと笑って席を立った。
「有り難い!―――どこへ行かれる?」
「名前が判らないので、通常とやり方が違うんですよ」
眉間にしわを寄せた『砂漠の焔』をその場に置き去り、店主は店の奥へと姿を消した。
薄暗い室内には明かり一つなく、それなのに何の不自由もしていないように部屋の真ん中に立ち、店主はターバンを捲り上げた。
呪文や動作も無しに魔術を発動できる者は、この世に数名。私の勘が正しければ、その女は――――……
ターバンの下に隠れていた店主の素顔は、どこか年齢不詳の感じがする男性だ。深紅の瞳と白い肌は、サチャ・ユガではとても珍しい。左目の眼帯には、魔封じの刺繍が何重にも施されている。その眼帯をまくると、どこかまがまがしい灰色の瞳が現れた。灰色の瞳を囲むような三本の傷跡が痛々しく、しかし精悍に見せていた。
店主は両目を見開き、どこか遠くを見つめる。瞳孔が一瞬広がりそして縦に伸びた。
「見つけた」
含み笑いを漏らしながら、店主は店に通じる帳を開いて『砂漠の焔』に告げた。
「ベサーナス街の酒場『金の井戸』の裏路地です」
「何!?」
「お行きなさい。次の犠牲者がもうすぐ出そうです」
「スマン!!心遣いに感謝する」
捨て台詞を残して『砂漠の焔』はかけだした。その後ろ姿に、店主は意味深げな笑みを残して囁いた。
「………どうぞ、お気をつけて」
そのまま、店主の姿は消えてしまった。
***
砂漠の民は、日の沈んだ後に活動する。日の高い日中は室内で過ごし、夕暮れからは炎を焚いて明け方まで仕事に励む。これはこの民族特有の生活習慣である。
もうすこしで太陽が昇りそうだ、というそんな時間。たった一瞬だが一日で一番闇が濃くなる。
石で舗装された地面に、コツコツと靴の足音が微かに響いている。足音の主は、流れるように艶やかな空に銀が溶けたような美しい髪を風になびかせていた。
性別の判らないような、だが確かに顔は美しく、三国一の美女も舌を巻きそうな妖艶さを持っていた。
目線の先には一人の男がぶらついている。相当酒を飲んだのか、その足取りは定まっていない。青銀髪の美人はくすっと笑って、優美な仕草で男の首に手を伸ばした。
「お止めなさい」
かけられた声は低い男性の声だった。
「そんなことをしても悪化するだけです」
勢いよく振り返った美人は、濁った青い目で声の主を睨み付けた。声の主は先程『砂漠の焔』が尋ねた宿曜師だった。
「邪魔を………するな!!」
その声は美しいが、どこか病んだような響きがあった。
宿曜師に向けて、水の刃が風を切った。串刺しになるかと思えたが、じゅっという蒸発音をのこして、水の刃は消え去った。
異変に気付いた飲んだくれの男は、悲鳴ごと息を詰まらせて、そのまま全速力で転げるように走って逃げていった。
蒸気が起こした風に、宿曜師のターバンが解けた。隠されていたのは、深紅の髪。カーマ人特有の赤毛ではなく、まさに炎のような深紅だった。
眼帯に隠されていない赤い瞳は、どこか哀れっぽい視線を向けている。
「無駄ですよ」
ぎり、と歯軋りする銀髪の美人にむけて、宿曜師は優しく微笑んだ。そのまま眼帯を取り去り、灰色の瞳で一瞥を向ける。
「あなたに私は倒せない」
邪悪な気配を漂わせる灰色の瞳に射抜かれた、青銀の美人はふらりとよろけた。
「ジーベルス」
縦の瞳孔が一瞬広がり、燃え上がるような灼熱の気配に囚われた。青い瞳を驚愕に見開いて、ジーベルスと呼ばれた美人はそのまま何も言えずに崩れ落ちた。
その華奢な身体を抱き上げて、宿曜師は溜息をつく。
「……まったく」
魂が抜けたようにぐったりと身体を預けたジーベルスの額に、慈しむように唇をあてた。ぎゅっと抱きしめて、その場を立ち去ろうとしたときに、
「待ちなさい!!」
怒号ともとれる女の声が響いた。
息を切らしながら『砂漠の焔』は、宿曜師へどなった。彼女はその赤毛と宿曜師が同一人物だとは判らなかった。
「その女を、置いていけっ!!」
敵意剥き出しの彼女に向けて、赤毛の男性は見下すように笑うのだった。
「これは人が触れていいものではない。残念だったな、人間」
くつくつと低い笑みだけを残し、赤毛の男は姿を消した。
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