「愛している」
同じ言葉を囁いた彼女には二度と会えない。
彼女は俺の世界の中心だった。
受け継がなかった記憶は、どんな経験をしたのだろう。
知識と経験は違う物だと気付くのは、それを体験してからわかるのだ。
その気になれば軽くいなしてやることもできると思ったのに、どうしてだが直面すると身体が動かなくなった。
「嫌なら言ってください。そんな顔をされると、まるで私が貴方を苛めているみたいに感じます」
とろけるような笑みを浮かべたペルシャバルは、いささか長すぎたキスの名残で熱のこもった掠れ声で尋ねた。
気を抜けば膝から力が抜けそうになるジーベルスは、自分がどんな顔をしていたのかわからなくて、すまなそうに柳眉を寄せる。
「そういえば、濡れたままですね。身体が冷えている」
ジーベルスを胸に抱き寄せたまま、ペルシャはその額に口付けた。髪と服を濡らしていた湖と雨の水気が、たちまちに蒸発してしまった。
ペルシャバルは、ジーベルスが着ていた半透明の涼しげな上着のボタンを外して、肩から滑らせて床に落とす。衣擦れの音がぶり返した雨音に消えた。
「キスだけじゃ足りないんですが…」
言外に含みを持たせて尋ねた。両手を腰に回され身動きがとれないジーベルスは、ここが寝室であることを急に思い出してぎくりと身をひそめる。
「私が跪いて懇願する前に、色好い返事をいただけませんか?」
くすくすと笑いながら、ペルシャバルは低く耳元で唸る。あくまでも下手に出る年長の聖霊に、ジーベルスはやっと破顔した。雨空の薄闇の下でその笑顔を確認して、ペルシャはもう一度口付けた。
***
「……ぁ……っはぁ……」
しとしとと止まない雨音に、艶を帯びた吐息が混じる。
整わない呼吸をそのまま乱しながら、ジーベルスはシーツをきつく握りしめたてのひらをゆっくりと緩めた。
初めて感じた、全身を駆け抜けるような快感に半ば放心状態になる。最中に流れ出した生理的な涙は、空色の瞳を潤ませて耐え難いほどの色香を滲ませていた。
縺れるようにベットに転がって、ほとんどペルシャが主導権を握って服が脱がされ、首筋や胸元にキスを落とした。白い肌はすぐに赤い跡を残し、性感帯を探り出したペルシャの指は意地悪く快楽を引き出す。
お互いに夢中だった。怯えるようなジーベルスの仕草を体中に落としたキスでねじ伏せて、ペルシャは丁寧にゆっくりと身体を開かせた。
戸惑いは払拭されなかったが、ジーベルスは一度として嫌だとは言わなかった。それにつけ込むようなことはせず、外れかけた理性をなんとかその場に留めてペルシャバルは熱く熟れたその中に性を放った。
「大丈夫ですか?」
目尻を伝う涙を舐め取りながら囁く。
やっと呼吸が落ち着いたジーベルスは、体内に未だ存在を主張するペルシャバルに眉をひそめつつ、小さく頷いた。
「辛くないです?」
辛いよりも、重いかも。そう思いながらもジーベルスは黙って頷く。あまりに顔が近くにあって、無下にそらすこともできない。決して恥ずかしさだけではなく上気した頬に口付けて、ペルシャは声もなく笑った。
「足りない、と言ったら、怒ります?」
くつくつと喉で笑ったまま、揶揄するようにぐっと、密着した腰をさらに奥へ進めた。途端に濡れた青い瞳がぎゅっと閉じられて、荒い吐息と共に肩をすくめる。
片足をさらに広げ、鎖骨に歯を立てて、首筋に新たな跡を残す。
「いいですか、ジーベルス?」
返答を欲しないような凶暴な欲望を含んだ問いかけに、組み敷かれたままのジーベルスは薄く唇を開いた。誘うようなその紅い唇を軽く啄んで、ペルシャは飢えを隠さずに見上げる。
「我…慢……すんな…よ……」
軽く揺さぶられながら、ジーベルスは途切れがちになる言葉を何とか紡ぐ。そのまま唇を求めて、お互いに呼吸すら忘れて貪りあう。名残惜しく何度か口付けてから唇を離す。
「…足りない…ん…、……だろ…」
熱を帯びた掠れた声で、ジーベルスは挑むように囁いた。潤んだ目元を朱に染めて、羞恥に耐えてやっとふっきれたようなその口調に、ペルシャバルは苦笑を漏らしながらその言葉に堂々と甘えることにした。
「手加減、できませんから」
「別…に…………っ…んっ……あ…!」
負け惜しみになったとしても言ってやろうとした言葉は、急に再開されたペルシャバルの動きによって中断させられた。
一度も抜かれなかったため少しは慣れてきたが、体内にそのまま吐き出された欲望が擦られるたびに淫猥な粘着音を響かせ、ただでさえ持て余し気味な快感に相乗効果をもたらせている。
「…ちょっ………や…ぁ…あ……はっ……!!」
壊れ物を扱うような優しさで抱いた最初と違い、本能剥き出しの律動で、さすがにジーベルスが困惑する。悲鳴と言うより嬌声。受け入れる身体をいいことに、ペルシャバルは容赦ない。
「色々と煽ってくれましたから、私が満足するまで放してあげられそうにない」
「…俺が……いつっ……」
いつ煽ったのか。
「いつも。ずっと我慢してたんです。じゃなければ、傷つけてしまいそうで」
「…ペル…シャ…っ、…ぁっ…」
「泣かせるつもりは、ないんですけど…。その声は好きですよ」
ぎりぎりまで一度抜いて、一気に突き上げると、抑えることもできなかった嬌声が雨音を掻き消した。
ぎしぎしと軋むベットの上で、白い肌を桃色に染めてシーツを握りしめる。震えるその手を開かせて、ペルシャは火照った自らの手を合わせる。
角度を考慮したゆっくりとした挿入だが、一番感じる場所を探り当ててからは、そこばかりを重点的に責め立てた。
「……ぅんっ、…あ…はっ……ぁあっ………!」
「熱い、ですよ……貴方の、中。……随分、貪欲ですね」
繋がった部分を確かめるように指でなぞって、「わかりますか?」と意地悪く聞いた。
「やっ…な……に…」
「初めてにしては、上出来です」
「…ッ……馬………鹿…!!」
「馬鹿ですよ。貴方に辛い思いをさせましたからね」
欲望にけぶった掠れた低音を耳元で囁く。焦れた熱のようなそれは、背筋を伝わって快楽の波に変わってしまった。
「せめて私が満足するまでは…………受け入れてください」
***
雨はいつの間にか止んでいた。
時間の感覚さえ定かじゃなくて、ペルシャバルは上着のポケットに入れてあった懐中時計を探った。夜明けまではまだ間がある。夜の闇でも見まごうことのない深紅の髪を掻き上げて、満足した溜息を深く吐き出す。
傍らにうずくまるようにして眠る青銀髪の青年は、疲れ切った表情で深い寝息を立てている。闇に青みを増した髪を梳いてやり、伏せた瞼にキスをした。
サイドテーブルに置いてある煙管に煙草を入れて銜える。着火装置など必要ない。いつものように深く吸い込んで、同じように吐き出した。最近堪らなく不味く感じた煙草が、今日に限ってやたらと巧く感じる。
「愛してますよ」
頭を撫でながら、もう何度囁いたかわからない言葉を紡ぐ。
汗と精液で使い物にならなくなったシーツは新しいものに変えたし、重石のような疲れを払拭するために簡単にだが水も浴びた。ジーベルスは途中でついに寝てしまったが、それだけ疲れさせたのだ。
随分久しぶりだったことは認めるが、何一つ受け入れたこと無いまっさらな身体に随分とのめり込んでしまった。ウンディーネが元々性交に対して柔軟な生き物だからといえ、いささか常軌を逸していた。それほどまでに含むところがあったし、溜め込んだ感情もあった。
「貴方が何と言おうと、もう決して解放してあげませんから」
紅い瞳を細めて物騒なことを呟く。
「貴方の全てを貰う代わりに、…………私を全て差し出しますよ」
まるで儀式のように、ペルシャバルは眠るジーベルスに口付けた。
***
彼女が消えてしまった朝は、いつもと違う美しい声の鳥が朝を告げていた。
それを珍しくも不思議に思い、彼女にその鳥のことを教えようと家中を探し回ったが、ついに彼女を見つけることはできなかった。
愛していると囁いた、あの優しい声は二度と聞くことがなかった。
世界に一人残された。虚無と孤独と、あとはただただ悲しかった。
一人で目覚める朝が怖い。
囁くような鳥の声に起こされた。
目が覚めて、自分がしがみついている物が毛布の類ではなく、人の腕だと気付くのに大分時間がかかった。
「……んん………」
頬を撫でるその暖かい手のひらに擦り寄って、ジーベルスは一人で目覚めたのではないと確認する。薄く開けた透明な青の瞳が、初めて見る壁や天井を映す。
一瞬ここが何処なのかわからなくて驚いたが、すぐ側にある暖かい気配に安心して気を緩めた。
何で一緒に寝てるんだろう。
四肢が重く、軋んだ音を立てそうだった。どうしてこんなにだるいのだろうか。上手く動かない頭で考えて、昨日自分が半ば投げやりにヒステリーを起こしたことを思い出した。
馬鹿だ。結局、迷惑をかけて甘えている。こんなにも、女々しい。自分があまりに惨めに思い、上手く動かない身体を何とか動かして、すぐ側にいるペルシャから背を向けようとした。
「ジーベルス」
呼び止める声は、酷く甘い。
「起きているんでしょう?こっちを向いてください。……背を向けられると、私が寂しい」
低い笑い声と共に、ペルシャバルは痕の残るジーベルスの首筋に舌を這わせる。ざわりとしたその感触に、ジーベルスは昨晩の情事を思い出して肩をすくめた。外敵から守るように後ろから抱きしめて、ペルシャバルは耳元で囁く。
「愛してますよ」
「…………何…で…?」
「理由が必要ですか?」
質問を疑問で返されて、ジーベルスは言葉に詰まった。
「貴方が悩むようなことは何も無い。私が好きなんでしょう?素直に委ねてしまいなさい。昨日、何度も確かめたんですから…、その言葉と…身体で」
柔らかく、安心できるその声で、確かめるように名を呼ぶ。もう決して放しはしないと、ペルシャバルはジーベルスが安心するまでそう告げた。
「貴方を伴侶にするという誇りを下さい」
瞬間、泣きそうになったジーベルスだが、迷いの類を呼吸と共に飲み込んだ。
「………駄目ですか?」
「違ッ……そんなわけ、無い!!」
落胆したようなペルシャバルの口調に、ジーベルスは形振り構わず叫んでいた。
振り返ってしまったジーベルスを自分の上に抱き上げて、ペルシャバルは嬉しそうに微笑んだ。込み上げてくる愛しさで、腕に力が入る。
「ペルシャ…バル……?」
「もう放しませんよ……………永遠に」
劫火のようなその瞳。凶暴な視線を受け止める聖水霊は、全てを受け入れたような美しい微笑みで。泣きそうなほど、嬉しい。きっとそんな感情。
首に腕を回して、確認するように口付けた。
お互いに。
――――――……飽きるまで、ずっと。
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