SCORPION - 1 -

sep krimo [ TheLust ]

  気怠い。
  喉が渇いた。無意識のうちに喉にやっていた手の平をやんわりと絡められ、その指先に口付けられた。
  体内で思うさま責めていた物をぐるりと回してから引き抜かれ、高ぶっていた余韻をひく身体が微かに疼いた。小さな甘い声が口をついて出る。
  漸く解放された。疲れと安堵から、長嘆する。
「アルヴィティエル」
  満足した低い声が、耳元で囁かれた。
  俯せにシーツに沈み込もうとしたアルヴィティエルは、怠そうに声の主へ振り返った。
「やはり此処が安心できるだろ?」
「……さあ、どうでしょうね」
  光を寄せ付けない地の底の闇。ここは闇と魔の世界。
  答えを濁したが、大して期待していなかったのか、声の主は肩を竦めただけだった。アルヴィティエルは身体の力を抜いて、翼を広げた。
  闇を吸い取った、ぬばたま色の六枚の翼。伸びをするような動作で広がるのを、男は満足げに眺めた。彼はこの翼が好きだった。
  自分が染めた、漆黒の六枚羽。
「んっ…ノイズ…ッ」
  ノイズフェラーは翼の付け根に唇を寄せた。柔らかい羽毛に覆われたそこに、甘さを込めて歯を立てる。
「ぅンッ…!」
  天界にいた頃と違い滅多に出すことのない翼の付け根は、最も弱い部分だった。膝から力が抜けてしまう、急所のような所。抵抗することも出来ずに、アルヴィティエルはぎゅっとシーツを握りしめる。
  それは天使同士が行う唯一の愛撫だ。性交を行わない天の者達が唇への口付け以上の愛を伝える、優しい儀式のような仕草。さすがに甘噛みすることは無いが。
  何故闇の王であるノイズフェラーがそんなことを知っているのかと問いつめたい気がしなくもないが、一度として聞けた試しはない。
  果てがない、時という概念さえ存在しないそんな頃から、自分はこの男に絡め取られた。時に酷い行為を強いられ、本気で殺してやろうとさえ思うのだが、どうしてもできなかった。
  愛情も慈悲も理解できない筈の闇の王が、時折見せる信じられないほどの優しさと甘え。もしかしたらそれすらも演技かもしれないし、ただの戯れのひとつかもしれないのだが。それでも、それくらいは信じてみたかった。

 愛しているなんて、口が裂けても言いたくはないし、言われたくもない。
  この非道な男の元から逃げ出さないのは、囚われているからではないと理解している。闇の暖かさと心地よさを知ってしまった時には既に、甘い花の香りの如き静寂と身を焦がすような情動を甘受していた。
  夢や幻に身を委ねるよりも、闇の暖かい激しさをより望む。

 

***

 

「ネブラ様、お急ぎ下さい!忌々しい魔族達が…っ」
  純白の翼を羽ばたかせ、甲冑を身に纏った天使の一人が口早に話しかけた。
「私ならば大丈夫です。それよりも、皆を早く天界へ」
  身長と同じくらいの長さがある銀色の髪をなびかせ、六枚羽の美しい青年が天使達を急かした。漆黒の闇に差し込んだ一条の光へ、天使達が全速力で駆け上る。
  ネブラと呼ばれた青年は、蒼天よりも濃い瞳を眼下に向けた。
  天界で見ることのできない、底のない闇。
  幾度目の討伐だか、忘れてしまった。アイテールとエレボスの戦いは終わりが無く、また始まりもない。
  いいや、これは戦いなどではない。両世界が微睡む夢か、ただの暇つぶしなのではないか。
「ネブラ様!!」
  その一条だけ闇に染まることのない光の元で、天使が叫んだ。大隊の撤退は完了した。今回の討伐も殆ど成功に終わっている。
  まったく、意味のない。
  ネブラはもう一度闇を瞳に焼き付けるように、この世界を一瞥した。
「暗黒を恐れる必要が、何処にある」
「………そうか?」
  一人呟いた筈の言葉に、応えが返された。
  はっ、と振り返ると、目の前に一人の男が浮かんでいた。漆黒の髪と瞳。ネブラはその時初めて、異形ではないエレボスの住人を見た。
  場違いにも、美しいとさえ思ってしまった。
「私の行く手を遮る魔族よ、大人しく立ち去るがいい」
  ネブラは抑揚のない声で告げた。彼はこの世界でも、彼の世界でも妨げる者が居ないほどの力を持っている。並の魔族であれば、近寄ることさえできない神聖さを保持していた。
「我が光で焼かれたくはないでしょう?私は殺生を望みませんが、敵対者に対する容赦は持ち合わせていません」
「それは、天使の慈悲ってやつか?」
  漆黒を纏った男は、楽しそうに腕を組んだ。嬲るような視線でネブラを観察し、唐突に指をさした。その先には、天使達が吸い込まれていった光がある。
「ハウレス、フルカス、エリゴール、門を閉じよ」
  男が命ずると、三つの影がものすごい早さで光りへと向かった。影は人の姿をとり、まず最初に一人の天使を撃ち落とした。純白の羽を散らしながら、深淵へと落ちてゆく。その光景に息を呑んだネブラは、すぐさま光へと向かおうとした。
「行かせぬよ」
  何時の間に近付いたのか、男がネブラの髪をやんわりと握っていた。出鼻を挫かれ、ネブラは視線をもう一度男へと視線を戻さなくてはならなくなった。
  男は髪をゆっくりと持ち上げて、口付ける。芝居がかったそれに、ネブラは総毛立った。魔族に触れられるなど、あっていいわけがない。
「私を愚弄する気か!?」
  怒鳴りつけ、懐の聖剣を抜いた。聖なる光に鍛えぬかれた、闇を滅する不屈の剱だ。怒りにまかせて、ネブラは鋭く斬りかかった。魔族に触れられた髪の先を断ち切る。剱の衝撃波は男に直撃した。
  だが、傷付けることはおろか、彼を一歩も動かすことすらできず、ネブラは愕然とした。よもや自分の攻撃を受けて微動だにしない存在が居るとは。
「ネブラ」
  男は舐めるように、その名前を呟いた。手に残った銀糸の髪をもてあそび、かぐわしい香りを嗅いでから口付ける。
  天界の生き物へ対する、激しい侮辱だ。
「魔族に呼ばれる名など持ち合わせていない!」
「それは残念だな。だが俺はお前の名を知っている、『霧の聖神』」
  ネブラは両目を見開いた。略称ではない名を知っているのは、唯一人しかいないはずだ。まさかたったあれだけの髪で本質を見抜かれたとは考えたくなかった。
「アルヴィティエル・ネブラ・エル・ファタモルガナ」
「なっ………!!」
  しまった、と思った時には既に闇に囚われていた。
  最期に見た光景は、駆逐される天使の群と、閉じてゆく光だった。

 

***

 

 光と歌声が満ちた世界。
  この世界には影がない。
  大小さまざまの宮廷に、花と緑に囲まれた外観。純白の翼を持つ者達が住まう場所。その世界の一番高い場所へと続く階段を、六枚羽を持った青年が昇っていた。
  建造物の中ですら影一つない。漸く登りきると、テントのような天蓋が下りた一角があった。刺繍の施された薄い絹が幾重にも重ねられ、その中身を不透明に包んでいる。数々のクッションに寝そべるように、その人物は分厚い書物のページを捲っていた。
「アルヴィティエルか」
「お呼びでしょうか、我が君」
  六枚の翼を消して、跪いた。
「我が汝を呼びたもうた理由は、己自身がよく存じておろう」
  光を集めたように輝く銀髪を床に広げ、彼はゆっくりと頷いた。
「エレボスへ行くのは、暫し控えた方がよかろうな」
「…わ、私は」
「我は案じているのだよ。ぬしが易々と闇に魅入られると思ってはいなんだが、疑問をその胸に秘めていることを」
  薄布を押し退け、ゆったりとした動作でその人物は顔を出した。
  黄金が強いプラチナブロンドに、柔らかいターコイズブルーの瞳。性別は判別が付かなかった。女性的でもあり、男性的でもある。
  目線を合わせ、促すように微笑まれ、アルヴィティエルは柳眉を寄せて見上げた。
「私は……、ぬるま湯に浸かっているように思えてならないのです」
  苦渋を吐き出すように。
  この世界は清らかすぎて。疑うことがすでに悪いと解ってはいても、慈愛と慈悲だけを糧に生きていくことが苦痛に感じていた。
  この顔に、怒りや憎悪が浮かんだことを見たことがない。穏やかな笑みを浮かべたまま、アイテールの主はアルヴィティエルの細い顎を指で持ち上げた。
「我への愛は偽りか?」
「そんなことは有りません。私は……!」
「冗談だ。ぬしを疑ってはいないよ」
  アルヴィティエルは俯いて、主の胸に身体を預けた。
  父か母のように慕っていた。この腕の中程安心できる場所はないけれど、ちくりと罪悪感を感じた。
「ごめんなさい」
  何故謝罪の言葉がでるのか解らぬまま。

 

***

 闇の底の底。これ以上ないような深淵で、天使を抱いた男が城の最上部を歩いていた。
  銀と純白を纏ったアルヴィティエルは、闇に映える光に似ていた。その神聖さに惹き付けられ、穢そうと、殺そうと、低位の魔族達がぞろぞろと集まってきていた。しかし闇の主が住まう居城には、たった一歩も近付くことすらできず、魔族たちはそれぞれに威嚇しあい、啀み合い、終いには殺し合いすら始めだした。
  黒い男はそれを感じながらも、まったく気にした様子もなく、目的の場所へと歩みを向ける。
  エレボスの魔族とアイテールの天使達は、相容れる事ができぬ存在としてすでに確定している。両世界の主同士が命じたのではないのだが、お互いに戦い傷付け合うことを許していた。
  魔は聖を汚したくなる。それは抗えない本能のようなものだった。
  螺旋階段を昇り、広いベットに天使を横たえた。どこから持ってきたのか、彼は捕虜や奴隷にするような革の首輪をその細い首に設えた。じゃらじゃらと、鎖が伸びている。
  ぐったりと横たわるアルヴィティエルを侍らしたまま、男は欠けた水晶の破片を取りだした。無造作に床へ放って、謳うような音程を持った呪文を呟いた。
  すると水晶は淡い光を放ち、金髪の人物を映しだした。
「よぉ、アウルム」
  それはアイテールの主の最も簡単な略称の一つだった。
『随分久しいな、エレボスの』
  男の冷淡な笑顔とは対照的に、アウルムの表情に感情はなかった。
「世間話をする仲でもなし、要件はこいつだ」
  じゃら、と鎖を引き寄せて。未だ瞳を閉じたままのアルヴィティエルを引き寄せた。
「アイテールの二番手、『霧の神使』アルヴィティエル・ネブラ・エル・ファタモルガナ。間違いはないな?」
『………おや。ふつりと気配が途絶えたと思えば、ぬしの元にいたのだね』
  アウルムは方眉を上げた。
「俺の部下と多くの魔族を殺させてやっただろう?こいつは俺が頂くぞ」
『それは困る』
「どうだか」
  喉の奥で笑いながら。男はアルヴィティエルの首筋にキスをした。見せつけるようにそのまま舐め上げ、侵すように唇を奪った。
  アイテールの主は汚らわしい物でも見るような目つきでエレボスの主を見つめた。自らが一番寵愛していた僕への扱いに、アウルムは嫌悪を感じずにはいられなかった。天界の生き物にはその行為自体が罪であり悪である。
『返して貰おうか』
「拒絶する。…気付いているんだろう、こいつには『素質』がある」
『………』
  アウルムの嫌悪に満ちた顔を満足そうに眺めながら、エレボスの主はアルヴィティエルの意識がないのをいいことに、純白の法衣の合わせ目に付けられた宝石を一つ一つ外した。
  暴かれていく白い肌にゆっくりと指を這わせ、白磁にぽつりと赤い痕を残してゆく。
「これは、俺の物だ」
  最も深き闇が、冷酷に笑んだ。

  

名前がいっぱいでてきますね…。 ネブラ、アルヴィティエルはミストのことです。ミストの本名、ラテン語の読みがちらほら。
2004/05/21

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