暗闇でも、見えるようになるものだ。
淡い光の玉を前方に浮遊させながら、アルヴィティエルは螺旋階段を昇っていた。身体が未だ熱を引きずっているのが嫌で、外の風に当たりたい。
初めてこの城に連れられた時は、純白の法衣を着ていた。そんなことを思い出して、くすりと笑う。
あの時から、自分は何一つ変わっていない気がする。
最期の階段を昇りきると、城の頂上に出た。瘴気を含んだ風が、渦を巻くように辺りを撫でている。
火照った体には、心地良い。
散々焦らされて、煽られて、何度も解放をそらされて、それこそ泣いて縋りたくなるほど高めたくせに、弾みのように解放したっきり。はっきり言ってこれでは物足りない。それを本人に告げるのなんて癪だからしないが。
どうして、こんなに。飢餓感さえ伴うような、疼きを感じた。
同時に、一番の弱点を噛まれたときの快絶を思い出してしまった。ざわりと総毛立って、それを忘れようと努めるができなかった。
「エスウェドゥ・メラン・ヘスペラー……ノイズフェラー」
独り言のように、ぽつりと名前を呼んでみた。
彼を構成する名前のほんの一部だけれど。自分にとっては大切な物だ。
天界に居た頃は、全ての天使達を愛していた。盲目的な、疑いを知らぬ愛。笑顔を絶やすことはなく、全ての物に愛を振りまいていた自分に吐き気がした。遅かれ早かれ、結果は同じだっただろうと確信している。
他人を呪ったり、嫌ったり、罵ったり、恨んだり。無数にある負の感情。それを否定してはいけないと、そう思った当時の自分と、今の自分では何一つ変わってはいない。付加されたものと言えば、愛情だけだ。
博愛ではない。唯一人だけに向けられた想い。
「……どうしようもない」
愚痴のように呟いた。
何度となく身体を繋げ、何度となく憎んではみたものの、決してその想いを払拭することができなかった。
嫌いだ、顔も見たくないと思うのに、痛む胸の返答はいつも逆だった。彼の持つ闇の深さと、起伏有る感情、何より強大なその力に惹き付けられた。危険だと解っていても傍にいたかった。理不尽に思えるような要求もされるが、時折掠めるような優しさで触れてくる。
本人に告げる気なんか更々無い。自分は、堕ちたとはいえ所詮天界の生き物なのだ。闇に染まれば愛情など忘れられるかとも思ったが、かえってそれは浮き彫りになった。むしろ、愛しているからこそ渦巻く感情の方が豊富だ。
「愛してなど……」
いない。嘘ならいくらでも付ける。だが、それが嘘であることには変わりない。いくら違うと否定しても、この目は彼の漆黒の姿を知ってしまっているし、この身体は彼の愛撫を記憶している。
彼が最初に教えたのは快楽だった。肉体を繋げることの悦さを、それこそ意識のある間中強いられた。
否定することも出来ただろう。だが、その代わりに、アルヴィティエルはその腕を相手の首に絡ませた。
あんな風に自分を乱すことができるのは、ノイズフェラーだけだ。天界の緩い安息の中には、激しい歓喜が存在しない。
時折愛されたい衝動に駆られる。肉体ではなく、その心が欲しい。だが彼は、天界の主が性や悪意を理解しないように、愛することを理解出来るはずがなかった。
だからこの想いは一人よがりなのだろう。
それでも。
彼の片腕として、最も傍にいられるものとしての地位が有る。彼に逆らって見せることも許されている。感傷に浸る間もなく、この身体に触れてくる。
それで、いい。ノイズフェラーの興味が、常にこの身にあるのならば。
たとえ報われなくとも。
***
うっすらと瞼を開ければ、そこは漆黒の闇だった。
瞼を開けているのか、閉じているのか、どちらでも変わらない。まさか目が見えなくなったのかと思って、小さな光球を作り出してみた。あまりに闇が濃すぎて、頼りない光だが、その光が自分の身体の一部を照らしているので、目が見えないわけでは無さそうだった。
「…っく…」
起きあがると、強烈な眩暈に襲われて腕で身体を支えなければならなかった。
辺りの気配を探ってみても、何一つ感じられなかった。意識を飛ばす前まで、傍にいた相手が近くにいたとしても、その気配を感知することが出来るとはいささか疑問ではあるが。
柔軟な身体だとはいえ、あちこちが軋んでいるような気がする。何とかベッドの端まで移動し、床に足をつけるとひんやりとした石の感触が返ってきた。
淡い光に照らされた身体は、何も纏って居ないことを知り、今更ながら羞恥を感じる。シーツを手繰り寄せて身体に巻き付けてから、天界では裸身であることに羞恥など感じたことはなかったことを思い出した。
「…ぁッ…!」
ゆっくりと立ち上がった瞬間。足の間を何かが伝った。体内に出されたものだと気が付いて、色々と思い出す。流れ出る感触が不快で、柳眉を寄せた。
ほんの短い間立っているだけなのに、足が言うことをきかない。立っているだけでやっとだ。だが、膝から力が抜けて、とうとう倒れそうになった。
「辛いなら動かなきゃいいだろうが」
「…ッ!!」
腰を引き寄せられたと思ったら、そのまま倒れ込んでいた。咄嗟に腕を回した場所が、ノイズフェラーの首だと気が付いたのは暫くしてからだ。
「そんなに、離れたくねぇの?」
柔らかく鼻だけで笑われて、頬に朱が走るのを感じる。身体を離そうとしても、腰に回された腕はびくともしない。
しかも不届きにも片手はシーツを捲り上げて素肌に触れてきた。
「…っ…!放して、下さいッ…」
「……溢れてきた?」
内股に滑らせた指が、流れ出たそれを掬った。ぬる、と皮膚を擦られて、ざわりと鳥肌が立った。
指はそのまま這い上がり、散々嬲られた秘部に差し込まれる。
「ぅ…んッ…!」
遠慮なくぐるりと掻き回され、意図しない声が漏れた。ソレを愉快そうに聞きながら、ノイズフェラーは容赦なく掻き回す。
「ぐちゃぐちゃだな。それにまだ柔らかい。…忘れられないんだろ」
「なっ…!」
「ほら、ココとか…。忘れられる筈はないんだよ。俺を受け入れたんだからな」
中で指を曲げられ、身体が強張った。咄嗟に声が漏れ、ぐいぐいとそこを突き上げる指を図らずも締め付けてしまう。
「やッ…ぁ…っ、…あ」
「これなら、すぐ銜えても平気そうだ」
このまま、また彼を受け入れるのかと思ったが、ノイズフェラーは案外あっさりと指を引き抜いた。身体の芯に火を付けられたような、焦れったさが残る。
浅い呼吸を繰り返すアルヴィティエルの瞳を覗き込んで、漆黒の瞳はそれを射抜いた。
「お前の翼が見たい」
「……?」
「アイテールの翼は、純白の筈だろう?」
それはそうだ。天界に住まう全ての者は、穢れ無き白以外の翼は持たない。
「っ…まさか」
その可能性を、忘れていた。
この身体は快楽を知ってしまった。嫌悪と憎悪を知ってしまった。
アルヴィティエルは予感を抱えたまま、六枚の翼を具現させた。辺りが暗すぎてよく見えない。確かに翼を広げた感触があるのに、小さな光球では見ることができない。
「見事だな」
見えない、筈はないのだ。
純白の、しかも天界で二番目の地位にいる六枚羽根の天使ならば、その翼が闇で見えない訳はない。仄かに光を放つはず。それなのに、翼は光らない。
「……っ…」
恐る恐る眼前に持ってきて、淡い光に照らしてみたら、その翼から光は消えていた。夜を吸い込んだような、黒い闇色。
この翼では、天界に戻ることはできない。
天使達と言葉を交わすことも、アイテールの主に会うことすら叶わない。
だが。
「どうだ?」
「……どうでも」
どうでも、いい。絶望するとか、嘆くなんて感情が湧いてこないのが不思議だった。ショックを受けているのに。いっそ清々している。天使としての制約が、一遍に無くなった。
大勢を愛さなくてはいけない。大勢を憎んではいけない。そんな日常は過去になったのだ。
「お前は、自由だ。闇を受け入れ、それを求めるようになる」
「…闇など、恐れるに足りないでしょう」
「ああ。それはお前が内に闇を飼っていたからだ。『素質』があったんだろ」
「堕落することに『素質』なんているんですか?」
確かに、天界にいたことから疑問を秘めてはいたが。
「こうやって俺に跨り、震えもせずに正気を保っている。闇の住人が光を嫌うように、天使共は闇の穢れを嫌う。少しでも素養がなければ、俺に犯されて平気な面なんかできんもんだ。下級の天使は、俺が触れただけで気を失うからな。そうやって自我を守る」
「…詳しいんですね」
「俺を誰だと思ってるんだ」
細めた漆黒の瞳が、笑みを含んでいた。
随分近い位置で、アルヴィティエルはエレボスの主を見つめた。小さな光球が放つ光さえ吸い込んでしまう、闇を溶かしたような髪。寸分狂うことなく整った顔に、薄くはいた笑みと、火傷しそうに冷えた漆黒の瞳。
ああやはり、随分と美しい姿をしている。改めて思った。天界の美とは正反対の、妖しく蠱惑的な美しさだ。
彼の傍にいれば、退屈すら感じる暇がないだろう。静寂すらぶち壊す予感がする。
アルヴィティエルは漆黒に染まった翼を震わせて、挑むような不適な笑みを浮かべて見せた。
「私の……主。……でしょう?」
闇の麾下に下る。その決意は、すでに固まっていた。
「奴隷かもしれねぇぞ?」
見下すように鼻で笑い飛ばしたノイズフェラーに、天界で二番目に美しいと評判の微笑を向ける。秘か に殺気すら滲ませて。
「貴方が私を従えられるのであれば、ノイズフェラー」
天界の主ですら呼び捨てにすることができないのに。挑発するように、天使はわざと闇の王の名を呼び捨てた。
本来ならば、許されるはずもない。殺されても弁解出来ない行為。
しかし闇の主は。
「……上等」
アルヴィティエルを押し倒すことで答えた。
***
コツ。
城の最上部で、靴底の成る音が聞こえた。
「ベッドから抜け出して、何をしている?」
「熱を冷ましに」
「冷ましてどうすんだ」
それを貴方が聞くのか。どうせこちらの意向などなんらお構いなしに、また焦げ付くほどに燃え上がらせるくせに。
ぷい、と顔を背けたアルヴィティエルに、ノイズフェラーは近寄った。
「反抗的だな」
「私ほど貴方に従順な部下もいないでしょうが」
自分で言うなよ。しかしそれは事実だ。跪けと命令すれば、この銀髪の天使は戸惑いもせず実行するだろう。それなのに、敬意は払っていない。力の上下関係で従っているのではないのだ。
「最近、いろいろ考え込んでいるようだが、簡単に答えをやろうか?」
温度のない風に髪を遊ばせながら、慣れた仕草で細い葉巻を銜えて、着火装置も使わずに火を付けた。立ち上っては消えてゆく紫煙を眺めながら。
「愛しているからこそ殺したくなるものだ」
「……は?」
「お前は物事を深く面倒くさく考えすぎてるんだよ。堕ちてるくせに、未だに天使の考え方してやがるだろ。俺達は欲望に忠実に生きている。好きなことしかやらねぇ。苦行堪え忍んで笑ってやがるどっかの馬鹿とはおさらばしたんだろう。悩むことなんざねぇんだよ」
何を真面目に語るのかと、アルヴィティエルは横にしゃがんで葉巻をふかす闇の主を見下ろした。
「お前の考えてる『愛』ってやつは、要するに相手を『慈しむ』ってやつだろう。んな傷舐め合うようなこと、俺達魔族はやらんな」
「でしょうね」
「俺の息子は求め合う事に走って逃げ出した。レグノは思いやって破滅した。ベルテアクスはアレでシタタカだしな。お前の前に二番手張ってた奴は、それこそ俺の二の舞以下で、あまりの無関心で天使共に消滅させられた」
淡々と語るノイズフェラーに、見下ろしたまま身動きすらしなかったアルヴィティエルは恐る恐る尋ねた。
「じゃあ…、貴方は……?」
ゆっくりと蛇のような紫煙を吐きだして。
「『欲するを望む』」
「何…?」
「好きなことしかしたくねぇ、ってわかりやすい規範だな。どうでもいいと思ってんなら、お前なんざ即座に滅してる。いい加減認めておいた方が得だぜ。俺達は、気に入った奴ほど喰って殺したい衝動に駆られる。滅するのと殺すのだと真逆だってのは解るな?」
滅することは、その存在ごと屠ってしまうことだ。殺すのとは違う。殺すことは壊すことに似ている。
「俺はお前を殺してるだろうが。快楽を教え込んだだろう?絶頂はまた、死でもある」
天使であった自分は、言いようによっては確かに殺されている。壊されて、彼の腕の中で堕ちた。
「…あ…」
「ったく。俺に講釈たれさせんなよ。俺は力尽くで教え込む方が得意なんだが、お前の解釈が天使的で参るな」
ガラでもない、と呟いて。確かに、エレボスの王が語るにしては随分と睦言じみていた。
「貴方は愛を知らない」
「知らねぇよ。俺には欲望が全てだ」
だが、それは表現が違っても形は同じである。
「そう言うことだ」
心中を読んだのか、彼にしては随分と穏やかな声で告げた。
なんか、エロエロいってたわりに、エロなんかねーんじゃ…。薬もられて、わけわかんなくなって、どうしようすげーやりたい…。みたいな話を書こうとしていたはずなのに、全く別の話になりました。ああ、ちなみにノイズフェラー、名前の一部はアラビア語だったかな。「ノイズフェラー」自体は創作。なんかやたら優しい人になってる、アンタ誰(笑)。
2004/05/21