BRUIN - 1 -

sep krimo [ TheSloth ]

「ノイズフェラー…」
  魔界最低層の城の頂上で、魔に堕ちた天使は主の名を静かに呼んだ。主は天を見つめたまま振り返りはしなかった。だが、漆黒の瞳がちらりと視線を向けていた。
「これが終わったら、貴方に甘えてもいいですか」
  囁くような声だった。
  濃い瘴気と雷が大気を振るわせ、堕天使の銀糸の髪をくゆらせている。
「貴方に魂すら捧げる代わりに、貴方の心を私に下さい」
  それは精一杯の願い。自分が消滅するよりも、怖ろしいと感じる本心だ。その堕天使、アルヴィティエルは主の言葉を黙って待った。拒否されるか、許諾されるか、五分の賭けだった。正真正銘の悪魔を、一体全体信じる事ができるだろうか。
  魔王は漸く振り返り、アルヴィティエルの側まで近寄った。表情のない顔で、冷徹な視線で見下ろす。ゆっくりとした動作で腰を引き寄せて、ねっとりと丹念に唇を貪った。
「…楽しみにしておく」
  名残惜しそうに下唇を甘噛みして、魔王は堕天使の耳元で低く囁いた。
  アルヴィティエルはぎゅっと唇を引き締め、王の前に跪いた。差し出された手を取って、その指先に恭しく口付けを落とす。
  堕天使は魔王に忠誠を誓った。
  そしてその漆黒の6枚羽を優美に伸ばし、天へと昇っていった。

***

 最下層である零世界エレボスと最高層に位置する四世界アイテールの溝は深い。方や闇と魔を、方や聖なるを属性とし、その二つは相反する事はあっても融合することはない。
  エレボスの魔物達は残忍である。だが、敵に対する攻撃性はアイテールの民の方が上だった。
  光は闇を消したがる。
  アイテールの天使達は、魔物を殺すためにエレボスへと遠征を繰り返していた。幾度と無く。だが、その殆どが各世界の王の命令によらないものである。アイテールの王もエレボスの王も、お互いを理解できないものとして理解している。
  それでも天使が魔物を殺す本能は止まることはなかった。王の次に強い者が指揮を執り、魔界へ下りる。しかし魔物とてやられっぱなしというわけではない。それ相応の抵抗をしている。天使が魔物を殺すときは楽しむことがない。一瞬で死ねるようある種慈悲じみたものを持っている。対し、魔物は天使を捕まえれば、息が絶えるまで犯し、喰い、そうして殺す。
  その連鎖は、永遠に止まらない。

「ネブラは未だ見つからないのか」
  この質問は何度目だろうか。
  光に満ちたアイテールの天上で6枚羽を持った天使は自らの部下を振り返った。ナタニエラゲネシュ、それが彼の名だ。金を溶かしたような髪は光に透かされると炎のような赤みを放ち、その瞳はエメラルド色をしていた。敵に対する烈火の如き戦闘力やその属性から『炎の烈神(アエトネアン)』の二つ名を冠していた。
  ナタニエラゲネシュは天界で三番目に力を持った神である。だが、現在アイテールには王に次いだ二番手の神が行方不明になっていた。御陰で彼は実質的に二番手の地位を持っていた。
「アイテールへの帰城報告は、未だ届いておりません、ゲネシュ様」
「……そうか、下がっていい」
  バルコニーから身体を乗り出し、ゲネシュは天空の底を睨み付けた。
「エレボスに、いるのか」
  彼は端正な指を唇へ寄せ、忌々しげに呟いた。
  ゲネシュの上位に位置していた神は、王の寵愛が最も深い天使だった。『霧』の異名の通りに儚くそして幻惑的な、それでいて冷静な高潔さを持った、美しい天使だった。魔界への遠征指揮はその天使ネブラが執っていた。
  ゲネシュは討伐の間だ、天界の守護のためにアイテールに残っていた。送り込んだ天使達がぞくぞくと天界へ戻って来るのに対し、その指揮官であるネブラは扉が閉じられても自ら戻ってくるような兆候は全く見受けられなかった。
  ネブラは、下天使を守るために、最期まで魔界に止まった。
  当事者達は、指揮官を守れなかった事へ詫びながらゲネシュに報告した。有り得ないと、ゲネシュは胸中で吐き捨てた。天界で二番に居るということは、並大抵の力ではない。その全ての力を解放でもすれば、魔界にとって大損害を加えることができる程だ。
  それなのに、ネブラは天界の門に姿を現さなかった。
  まさか死んでしまったのかと、ゲネシュはちらと考えた事もあった。心配で胸がつぶれそうになり、自らの王へ目通りを願った。
『死んではおらん』
  王は一言そう呟いた。王の言葉は絶対である。疑うことは無かったが、それならば何故自分の元へと戻って来ないのか、心配だけが募った。
  ギリ、と奥歯を噛みしめる。
「ネブラ…」
  ゲネシュは一言唸ると、法衣を勢いよく翻して室内へと戻った。
  上位天使達が集まるサロンへ足を踏み入れると、部屋の中で散り散りに余暇を楽しんでいた天使達がゲネシュを見つめた。ハープを爪弾く音が途切れる。現在全ての決定権はゲネシュにあった。天使達は炎の聖神の様子を窺う、その途切れたざわめきを取り戻すために、ゲネシュは片手で煙を払うような仕草をする。途端、天使達は視線を戻して会話に興じた。
  彼は噴水の側にある静かなカウチに腰を下ろした。
  背もたれに肘を付き、うっとうしそうに持ち上げた指で顔を支える。考え込むような表情で虚空を見つめる姿に、天使達はひそやかな会話を紡いだ。
「ネブラ様は未だお戻りになられないらしい…」
「ああ。最も高潔で美しい方が、地底でどれほど苦しい目に合っているのだろうか」
「野蛮な魔族達は、我々と違って、一思いに昇華させるような慈悲は持ち合わせていないのだろう…忌々しい事だ」
「しかしネブラ様はアイテールで王の次にお強いお方だ。あの方ならば魔界を壊滅させる事が出来るくらいなのに。……もしかしてネブラ様はもう、―――」
「しッ!口を慎め!ゲネシュ様がいらしているんだ、聞かれては困るだろう」
  口々にのぼるのは行方不明のネブラの事だった。ちらりちらりと耳に入ってくるざわめきに、ゲネシュは聞こえない振りをした。
  彼はあえて先を考えることをしなかった。先を考えてしまえば、吉報は一つも見いだせないだろうから。ゲネシュは全ての天使を愛して居たが、その中でも殊更ネブラが好きだった。自分の力を少しも傲らず、いつも穏やかな笑みを浮かべている。春の花の様な彼に、天使には殆ど無いと言える欲情を感じる程に彼を恋しく思っていた。
  だからこそ、ネブラがエレボスでどんな目に合っているのか考えれば、胸が張り裂けそうだった。魔界の瘴気は長く吸い続けると天使を弱らせる。
「息詰まっているようだね、ゲネシュ」
「ロスアリエン…」
  思考の淵へ沈んでいたゲネシュを、ひとりの天使が引き戻した。軽く肩に手を置いた彼は苦笑を浮かべて横へ腰掛ける。ロスアリエン。天界で第三位にいる神である。女性的な柔和そうな外見に似つかず、その言動は常に事実のみを語ろうとする天使だ。
「ネブラが死んだかも知れないと噂が広がっている。我らが主はそれを否定なさったのだろう?」
「ああ…死んではいないと、そう仰った」
  ふむ、とロスアリエンは頷いた。
「彼はなまじ力がある御陰で、そこらの魔物くらいでは近寄ることができない。近付いた魔物も手痛い怪我を負うだろう。もし魔界で逃げ回っていたとしても、恐らく門へ戻って来ることは出来るはずだ。彼は開門の鍵を持っているのだから」
「……言うな、考えたくはない」
  ゲネシュは同僚の言葉の先を読んでいた。ロスアリエンが言おうとしていることは、それこそ何百回となく考えたことだった。出来れば、聞きたくない、信じたくない事である。
「言わなければならないだろう、僕はそういう性質だ。もし、ネブラが帰ってこれず、そして生きているとするならば、彼は魔物の餌食になっている。それも相当高位な、ネブラで太刀打ち出来ぬような魔物に、だ。そうでなければ、最悪考えたくはないが、彼に帰る意思がないのだろう?これは討伐に値するな」
  魔に下った天使の数は殆ど居ないが、数えられる程度には存在した。その殆どが下級天使であり、上位の神に値する者は例外なく誰ひとり魔に下った者はいない。そうして堕ちた天使は、アイテールの者が責任を持って狩る事が慣例だった。錆は広がる前に削ぎ落とすのだ。
  ゲネシュとロスアリエンは暫し黙って思考に耽った。すると、ロスアリエンが立ち上がり、顎で退室を促す動作をした。聞き耳を立てられてはかなわない。二人は黙って人気のないバルコニーの端へ行き、誘った当人が声のトーンを落として口をひらいた。
「ネブラは魔界へ行く度に思い悩む事が多くなっていたことを知っているか?」
「ああ。俺は何より彼奴を見てきた。彼は時々遠くを見つめては溜息を零していた。その時に限って、声をかければ振り返る一瞬、紫玉の瞳が酷く冷たく思えたものだ」
「………まるで悪魔のように?」
  ロスアリエンは無表情に呟いた。
「馬鹿なことを言うな!!ネブラに限ってそのような事はない!」
「…ゲネシュ、君のそれはある種盲目的じゃあないか?近視眼的とも言えるが」
  ゲネシュは激昂し、侮辱を受けたネブラに代わってロスアリエンの胸ぐらを掴み上げた。されるに任せていた彼は、冷静な瞳でゆっくりと首を横へ振った。落ち着けと言うように、ゲネシュの肩を押し返す。
「俺は…、俺はネブラを愛している。彼奴を愛することは信仰と言ってもいい」
「今の発言は聞かなかったことにしておく。誰かひとりを愛することなど認められては居ないことを貴方は知っているだろう?」
  恋をすることはある、そしてそのまま伴侶になることもある。だが一概にして天使達は皆を平等に愛するのだ。誰かひとりにだけその愛情を傾けることは彼らの主義に反した。それはゲネシュも解っている。彼はネブラに恋をしていたが、彼を自分だけの物にしようとは思っていなかった。
「どちらにせよ、ネブラがエレボスに居ることに変わりはないだろう?」
「ああ。此度の指揮官は俺だ。確かに連れ戻して来るとも。聖なる鉄槌で魔をうち負かして、な」
「……もし、彼が落ちていたとすればどうする」
「決まっているだろう。――…滅するとも。この俺自身の手で」
  バルコニーの眼下を睨み付けながらゲネシュは翠色の瞳を燃え上がらせた。一つの決意を固めた彼は、その足でアイテールの王へエレボス遠征を再開することを報告したのだった。
  ゲネシュは前指揮官であるネブラとは違い、魔界へ遠征する明確な目的があった。負けは許されないその目的のために、通常より何倍も多い天使兵を投入することを決めていた。力に勝てるものは数だ。どれだけ個々の力が強かろうと、圧倒的な数の前では無力であると信じて。事実、それは偽りではない。だがしかし、何事にも例外は存在するのだった。

***

 アルヴィティエルは天界と魔界を繋ぐ堰が切られた事を感じ取っていた。そして、今までにない天使達の数に眉を顰める。加えて、天界にいたときにはよく知っていた気配をかぎつけて苦笑を漏らした。
  天を棄てた者の責務が、アルヴィティエルには合った。
  それを無視することもできる。高位天使が入り込めないような奥地で黙っていればいいのだ。だが、彼はそれを良しとしなかった。
  生温い生活に慣れきった天使達に、自分に表裏があるなど知らぬ天使共に、反旗を翻したことを見せつけ知らしめてやろうと思っていた。天使に狩られる気等毛頭無い。自らを攻撃しようとする者にはそれ相応の対応をしてやるつもりだ。
  現在魔界にいて、際だって上位に位置する魔族は、ミストを抜かせば五位のベルテアクスだけだった。彼は天使をいたぶることを趣味としているので問題ない。隠しもしない気配が楽しそうに嘲笑を浮かべているのが解った。その死の鎌でもって、幾千の天使を屠り、気に入った者を玩具にでもする気だろう。
  他の低級天使に対しても、恐らくエレボスの主であるノイズフェラーが子飼いにしている魔人の60余りが出撃するに違いない。契約を結んだ魔人達は、主の命がなくとも目障りな物は排除する。
  休眠中の三位レグノ、遷座したメリアドラスを呼び戻す程の事はない。
  だがミストは一抹の不安を秘めていた。元々天使で有るが故、彼は天使を殺すための術を持ってはいなかった。悪魔を殺す術ならば幾つでも知っている。だが、聖なる者を殺す術は無いに等しい。
「だが…、私は既に魔に染まっている」
  性質が代われば、術の性質も転化してくれるかどうか。その聖剣は翼と共に闇色に染まっているから問題ない。最悪剣一本でもどうにかするしかないのだ。
  これだけ見ればアルヴィティエルが完全に不利だが、アイテールの天使達は天使達で、魔界の深部へ来るにはそれ相応の力や精神が無くてはならず、瘴気の濃さから言ってもいつもと同じ様な動きが出来るとも限らない。
  勝負は殆ど五分と言っていい。
  だからこそ、アルヴィティエルはノイズフェラーにあんな願いを託したのだった。
  負けてしまえばそこまでであるし、勝ったとしても無傷ではいられないだろうから。

 ナタニエラゲネシュを筆頭としたアイテールの兵士達は、その純白の翼をはためかせてエレボスへ攻め入った。エレボスは横の幅よりもまして高さの方が随分と長い。その最深部がいわば本陣であり、そこへ近付く程魔が濃くなり、魔族の階級も上がってゆく。
  大挙してやってきた天使達の殆どは下級の力しか保持していない。よって、戦闘の殆どは魔界の上層部で行われる。それは灰汁を掬う作業に似ていた。戦場は必ず魔界。魔物達は天界を歯牙にもかけていない。ただ、牙には牙を返すだけだ。魔界の位ある魔族達は、天使の遠征など詰まらぬ物と捉えていた。
  ゲネシュは零世界エレボスに侵入したときより、彼の目的であるネブラの気配を感じ取った。どこか澱んでしまったその気配は、この世界に長く居た所為なのか。
  上層での戦いは囮である。彼は戦線を離れてネブラの気配を探した。最上区を下り、上層区から中層区へと飛翔する。付いてくると行った部下の殆どが、濃さの代わった瘴気に眉を顰めている。これ以上先へ進むのならば、ひとりで行かねばならないだろう。
  そんなときだった。唐突にその気配を感じ取てゲネシュは翼を止めた。
  岩場の上に幾つもある朽ち果てた庵に、淡く光を放つような銀髪を見た。瞳を凝らすと、紫玉の瞳が確かにゲネシュを見つめていた。
「………ネブラ」
  無意識に呟いた言葉を聞いた部下達は、動きを止めて身構えた。ゲネシュはゆっくりと佇む人物に近付いて、その気配の異質さに気が付いた。近くはあるが、確かに届かない距離で様子を窺う。
「お久しぶりですね、ナタニエラゲネシュ。来るなら貴方だと思いました」
  音楽に似た心地良い声は、天界に居た時と全く変わりはない。
「無事だったのか…。ならば何故アイテールに戻っては来ない?」
「あの世界には、私の求める物が何一つ存在しませんから」
  微笑みは、未だ神聖に感じるほどで。ネブラ――、アルヴィティエルは魔界の空気を不快にも思わないようだった。
「何を…」
「判っているのでしょう?それとも、判らないふりをしているのですか?」
  これでも?と、小さく呟いて、アルヴィティエルは黒色に染まった六枚翼を具現させて広げ見せた。途端ゲネシュの背後に控えていた天使達がざわめき各々の武器へ手をやった。目の前でまじまじと漆黒に染まった翼を凝視するゲネシュは言葉を失って見つめるだけしかできなかった。
  唖然とする姿に、アルヴィティエルはただ鈴をふった様に微笑むだけで。ぎり、と奥歯を噛みしめたゲネシュは、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……お前は魔に惑わされてしまっただけだ。私と共に天へ昇り、王へ赦しを請えば、お前は元の聖神として戻ることができる」
「そしてまた、全てを愛していろと言うのですか」
「当たり前だ。万民を全て平等に愛することこそ、我らの尊厳なのだから。誰かひとりを贔屓することは罪になる。それを知らぬお前ではないだろう」
  ゲネシュの熱弁に、アルヴィティエルは立ち上がって拍手を返した。
「御高説痛み入りますが、私は平等に耐えられないのですよ。この身体と心は、唯一人のために尽くす喜びを知ってしまった」
「不敬だぞ、ネブラ」
「敬う…?そんな物、私にとって何だと言うのですか?あなた方には生涯理解できないと思いますが、私は、私を屈することの出来る存在が欲しかった。激しく、強引に私を組み敷く者を望んでいた。ただ易々と、皆を愛し皆に愛されることなど、ただの怠惰でしかありえない」
  アルヴィティエルの瞳は冷めていた。その昔天界に居た頃、遠征から帰る度に見せていた瞳だった。
「我々を怠惰と罵るか」
  ゲネシュは怒りで震える手の平を握りしめた。背後の天使達は動揺を隠せずにそわそわと身動ぎをする者がいた。
  漆黒を纏ったアルヴィティエルは答えず、ただ美しく微笑んでいる。
「お前は魔界に長く居すぎて酔っているだけだ。抵抗はしないでくれ。できるだけ傷は付けたくはない。―――お前を天界へ連れ戻す」
「拒否します」
「ネブラッ!!」
  ゲネシュは炎のような怒りを露わにした。
「私はね、ゲネシュ…。貴方が知っているネブラと同じ、清い身体ではありません」
  黒の法衣のボタンを幾つか外し、胸元をはだけさせた。首や鎖骨、胸元に点々と情事の跡が残っていた。
「この身体で、彼を知らぬ所など無いのですよ。皮膚も、身の内までも、私は彼の熱さを覚えてしまっている」
「無理矢理従わされているのだろう…」
  ゲネシュの声は震えていた。一番高潔で汚れを知らなかった天使を、穢れている者でも見るような瞳で見つめた。信じていた者が、眼前で崩れ去ってゆく。
「いいえ。私は彼と身体を合わせる事を拒否したことはありませんよ。一度もね」
  その昔あれほど仲が良かった二人は、今や数歩の距離を空けて敵対することになった。
「お前はもう俺の知っているネブラではないのか……?」
  決別を確定させるために、ゲネシュは問うた。それに対して、アルヴィティエルは冷酷に笑い飛ばした。
「いいえ。貴方は初めから私の事を知らなかっただけですよ。私の本性も何もかもを…ね」
  鋼を打つ音が、音叉の様だった。アルヴィティエルが危惧していた天使を負かす力だが、その属性が反転した影響か、思いのほか対天使への攻撃力となった。自らの一部を成している聖剣は、光を払う闇の一振りと化した。
  もとより攻撃性の魔術を持っていないアルヴィティエルは、その力の殆どを守護に回していた。
  一番危険な存在はゲネシュである。気を引き締めてかからなければ傷を負う。それに加え、ゲネシュが引き連れてきた天使達の相手もしなければならない。
  この際かすり傷程度を気にしている暇はない。防戦一方の魔術、攻撃は唯一の剱のみ。六枚の翼で瘴気の中を疾走できるだけ、早さは有利だ。
「ネブラァ…ッ!貴様!同胞も手にかけるかッ!!」
  味方を消滅させられ、ゲネシュは吠えた。魔物にさえ慈悲を施していた、あの優しかったネブラとは思えない。
「私は既に堕ちた身だと、何度言えば理解するんですか…!?」
  鋭い突きを払いのけ、アルヴィティエルはゲネシュに斬りかかる。必然的に空いた背中に目掛けて、天使達が一斉に矢をかけた。魔術で防壁を張り巡らせるが、その数の多さに全てを避けきることが出来なかった。天使達の攻撃は、魔物にとって致命傷と成り得る。その身が魔に染まっているアルヴィティエルの身体には、彼らの攻撃が苦痛になった。
  翼に刺さり込んだ鏃もそのままに、血が流れることも厭わずに、堕天使は今まで誰もが見たことすら無いほど好戦的な戦いを繰り返す。
  ゲネシュと戦えばその他の天使達が怒濤の攻撃をしかけてくるし、天使達を主に凪ぎ払おうとすれば今度はゲネシュがそれを止めるために斬りつけてくる。
「……ッ!」
  血に染まるアルヴィティエルを見る度に、ゲネシュは苦渋を飲む。数の利が、押していた。守護魔術に長けているとはいえ、些かその数の多さに辟易する。その血が宙に溶け込む度、瘴気の濃さが増していく。全体への攻撃は、その程度のことしか行うことができなかった。
  ゲネシュとの斬撃と同時にその他の獲物から身を守る。少しでもアルヴィティエルが気を抜けば、戦局がすぐに代わるだろうことは想像に難くなかった。
「それほどまでに!」
  剣を打ち込みながらゲネシュはもう一度叫んだ。
「それほどまでに!お前は我々を否定するのかッ!」
  キィィン、と剱をうち合わせ、そこから衝撃波が広がった。天使達は巻き添えに成らぬよう一端距離を置く。お互いの距離が殆ど零になったゲネシュとアルヴィティエルは、お互いに睨み合った。
「…アイテールを否定しているわけではありませんよ。私は、放って置いて欲しいだけなんです」
「堕ちた天使を放置することは、我々の沽券に関わる」
「貴方ならそう言うと思っていました。だから、戦うんです」
  にこりと、それは開花したばかりの花に似た微笑みだった。闇に堕ちたとしても、彼は何一つ変化してはいない。ゲネシュは唐突に気が付いた。魔に身を浸してはいるが、アルヴィティエルは天使であることに変わりはないのだと。
「殺したくは、無いんですよ…」
  悲しそうな紫玉が、一瞬の隙をついた。
「……ぐッ!」
  アルヴィティエルの剣は、ゲネシュの腹を貫いた。
  その光景を見ていた天使達は、衝撃波の間を縫って一斉に飛びかかってくる。攻撃を避ける為に、アルヴィティエルは自らの防御を最大限に引き出した。矢が槍が軌道をずらされて落ちてゆく。その間にこの場から離脱しようと、飛び上がった。
  その瞬間、ゲネシュの剱が漆黒の羽を捉えた。
「――――……ッ!!」
  六枚の内の一枚、その半ばから折られる形になったアルヴィティエルは、初めて感じる灼かれた痛みに身を震わせた。ゲネシュの一撃は、重い。
  歯を食いしばったその姿に、ゲネシュは第二撃を加えることができなかった。美しい顔が痛みに歪むなど、直視できるものではない。自らが恋したその者を、自らが傷付け、痛みを味合わせる。
  刺された腹から侵蝕する魔を、自らの力で灼きながら彼は身体よりも心が苦痛に喚きそうになるのを堪えた。
  翼をもぎ取られ、バランスを崩したアルヴィティエルは地底へ落ちて行く。光に灼かれた傷を再生させる方法に手間取り、彼は落ちるに任せながら何とか立て直そうと頑張った。
  中下層区まで落ちたとき、唐突に落下を受け止められた。岩場にでも叩き付けられた衝撃ではない。しっかりとした腕が、傷付いた身体を抱きしめている。
「俺の物をここまで傷付けやがったのは、何処の何奴だ?」
  ゆらりと立ち上がり、漆黒を纏う者が天を仰いだ。アルヴィティエルはその腕を逃れようと藻掻いたが、決して解放する気はないように、硬く抱きしめられていた。
「助太刀は、結構で―――」
「黙れ」
  アルヴィティエルが言いかけた唇を、ノイズフェラーがその指で遮った。
「俺は俺の好きなように行動する。…お前をいたぶっていいのは、俺だけだろう?」
「――……はい」
  自信たっぷりに言い返す主に、アルヴィティエルは苦笑するしかなかった。
「なかなか興奮するな。血だらけのお前の姿は」
「何言ってるんですか……」
  呆れた口調で返しながらアルヴィティエルはノイズフェラーの胸に顔を埋めた。翼を体の中に収めてしまった方が再生しやすいだろうと、苦痛に眉を顰めながら。
「気は済んだか?容赦なんぞするから、怪我をする」
「殺す気はないですから、仕方ないんです…、っん…!」
  羽がはらはらと落ちては消えていく。魔王は堕天使の顎を捉え、噛み付くように口付けた。唾液を交換するように深く、丹念な舌は歯列を割って濃厚に絡み付いてくる。
「くッ…、ん…」
  同時に流れ込んできた魔王の力で、アルヴィティエルは翼が蘇生されようとしていることを知る。王気を喰わされていることは判るが、些か強引なそれに身震いする。元々が天使であるだけに、直に与えられた魔は少々苦い。
  あちこちの傷と翼を癒すことが出来たアルヴィティエルは、解放された腕の中から立ち上がり、かつての友であった聖神が下りてくるのを待った。

  

いやぁ…。なんというか、くどいですね…。
2005/04/21

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