「人の血は甘美というものです」
「けれどお祖父様、所詮人間ではありませんか。血は血です」
「お前は頑固だね。試しもせず、決めつけるものではない」
  生きた歳月を皺として刻んだ老紳士は、傍らに跪く青年の頭を撫でた。それは祖父が愛孫に接する仕草と同じで、牧歌的な優しさがにじみ出ている。
「確かにお前は先天的に人と相容れないが、我らは人を糧にしているのだよ。食わず嫌いのままでは、飢えてしまう」
「子爵とはいえ、貴方が『親』です。月光だけでも数百年は保つ」
  頑なな言葉に、老紳士は呆れて長嘆した。幾つ言葉を労しても、きっと理解することはないだろう。こればかりは、実際体験してみなければ。
「私とてこの血に誇りは持てども、永遠には足りない。不死族の若子は、多く獲物を狩らなければ醜く衰えてしまう」
  ロッキングチェアにゆったりと座った老紳士は、すぐ傍でふて腐れる青年の黒髪を撫でた。二人の見た目は、人間と似て非成る。外見上の歳と生きた歳が必ずしも合致しない生き物で在るはずだが、この老人と青年においては例外的に差異はなかった。老人はやはり十分すぎるほど歳を重ねているし、青年もそのままに若い経験しか持たない。
「お前が魔物になって、そろそろ下界の人間は世代を回り終えているだろう。いい加減狩りに出ておいで」
  青年はふい、と顔を背ける。視線の先にある格子付きの窓からは、三つの満月が煌々と輝きを放っていた。

 

L'unico - 1 -

- Primo -

 この世界には月が三つある。満ち欠けの周期が違うそれだが、三ヶ月に一度、全ての月が満ちる時、世界の中心から魔物が餌を求めてやってくる。
  子供でも知っているお伽話だが、まったくのデマという訳ではないらしい。確かに、満月が揃うと色々な魔物が極端に増える。満月以外でも魔物は跋扈しているが、減少したかと思えば、満月を境に補充されてしまう。
  魔物の餌は、人間だ。
  彼らは人間より身体的強度が高い。頭脳はそれ程でもないが、力の面で全て勝っていた。しかし倒せない、という訳ではない。人は学ぶ生き物だ。一人では難しいが退治出来るものならばと、それ専門のギルドが作られた。損得が絡むなら、戦闘だって飯の種。人間は逞しい。
「おっと、何だ。ディーじゃねぇか」
  昼のような月明かりの元では、忍んで歩く事すら出来ない。小道を走り抜けて行こうとした中年男性が呼び止めた青年は、警戒心すら抱かせない洒落た背中をしていた。
「足を止めると獲物が逃げちまうぜ?」
  首だけで振り返った男は、なかなかの美丈夫だ。熟成は足りないが、青年というに相応しい若さ。アッシュブロンドの短い髪が月光に晒されて毛先を輝かせている。逆光で茶色く見える瞳は、本当は緑を滲ませたヘーゼルカラー。貴族のような仕立てを粗野に着こなした体躯は、長身と相まって若さを反映するようなしなやかさがあった。
「今回は店じまいだ。たんまり稼いだから、小物一匹逃がしたって構やしねぇよ」
「そりゃ、おめでとさん。じゃあな」
  彼はそっけなく、背を向けたまま片手をひらひら振った。
  この中年男は、魔物狩り専門の退魔ギルド、その正式なハンターだ。正直あまり長く顔を合わせていたい相手ではない。
「つれねぇな。獲物があるなら買い取ってやっていいんだぜ?」
  中年男の揶揄混じりの言葉に、彼は腰に手を当てて長嘆した。やれやれ、だとか、まったく、だとかスラング混じりに呟く。
「俺の本職何だか忘れてんだろ、おっさん」
「忘れてねぇから言ってんだ。賞金首、盗賊ディルクルム」
「盗賊、ね」
  肩を竦めたディルクルムは、あえて訂正しなかった。意志はどうあれ、盗みは盗み。敢えて言うなら義賊だが、盗まれる側にとっては違いなどない。幸い顔が広いので逃げおおせているが、魔物が減った街ではギルドのメンバーは人間の賞金首を食い扶持に使うので、馴れ合う事はしたくなかった。
  それなのに何故顔見知りかと言えば、月が出ようと魔物が跋扈しようと関係ないと豪語するディルクルムが偶然魔物を退治した際、捨て置くのも勿体ないと欲目を出した所為だった。魔物を換金するにはギルドの正式メンバーでなければいけない。酒瓶一本程度の小遣いになればいいと思ったディルクルムは、この中年男性に魔物の買い取りを持ちかけた。
「盗賊の仕事は盗みでな。魔物狩りは行きがけの駄賃だ」
「良い処世術だぜ、若造。そうやって大人しくしてりゃ、片目を瞑ってやるよ」
  ギルド員以外が魔物狩りで生計を立ててしまうと、組織が潰れてしまう。だからギルド員は不正狩猟に厳しい。だがごく一部、この男のように楽して稼げる金蔓を抜け目なく覚えている者も居ないわけではない。微妙な関係は危ない橋を渡るような危険性があるが、お互い利点があるうちは妥協も生き抜く手のひとつだ。
「ま、お前さん、今日は魔物じゃなくて女を狩って来たくちだろう?風向きには気をつけな」
  口髭を震わせてからかう中年の言葉にディルクルムは鼻をひくつかせたが、正直よく解らなくて顔を顰めた。自分の香水の匂いは殆ど消えているけれど、愛用のそれは女物だから余り違和感を覚えなかったらしい。
「香で魔物を引き寄せる前に大人しく帰んな、若造」
「耳に痛いねぇ。どうせ返り討ちにした獲物はアンタが引き取るくせにな」
  ディルクルムはそれ以上絡まれることを避け、その場からさっさと退散した。何か言いたそうな視線が暫く背中に張り付いていたが、追ってくる気配はない。角を曲がれば一人に戻った。
三つ子月トリニティムーンとは漸くお別れか」
  あと数時間で日が昇る。明日の晩からは、月が欠けていく。こう明るくては、盗みに入る手間がかかって仕方がない。目的の富豪連中は対魔物の警備を固めるから、自然、人間も入り込みにくくなった。
  満月の三日間は、酒でも呑んで情報収集に限る。酒場に娼館、魔物を畏れない度胸有る者達だけに許された特殊な夜。一般人の姿は消え、流れる空気と情報はこの時期特有だ。欲しい物を十分手に入れたディルクルムは、足取りも軽やかにねぐらへ向かっていた。
  住処は裏家業に正しく、人里離れた場所にあった。魔物がやってくると噂される森に近い。その道は墓場へも続くので、こんな時間に人なんか通らない。普段から猫も鼠も走らなかった。かわりに鳴くのは梟と虫くらいだ。しかし魔物の蔓延る夜の所為か、この日は不思議と生き物の声さえしなかった。
  ちり、と。
  妙な違和感を覚えたディルクルムは、歩みを止めそうになった。一瞬にして空気の温度が下がった様な、異様な悪寒を感じる。殺気に似ている、けれど同じではない。本能が警鐘を鳴らしている。酒気はいっぺんに醒めた。振り返ってしまいたいが、そうすれば命を奪われる気がした。タイミングを計る。
  息を詰めたのは瞬きの間だったが、異常なほど長く感じられた。何もなかったように振る舞って歩き続ける事に精神を集中させる。自分の獲物である大振りのナイフを、さりげなく確認した。いつもならばこれで十分だと胸を張れるのに、今は心許なくて仕方ない。
  これは、魔物の気配だ。
  ギルドの連中程身近に感じるわけではないけれど、過去対峙した経験から解る。ぞっとするような悪寒は人間が発する殺気に似ていた。力ばかりで知能が低い小物ではないだろう。満月の三日間、それもあと数時間で終わるというのに、退魔ギルドは何をやっているんだと舌打ちした。義賊ならば真っ当に死ねるなんて思って生きていないが、魔物に殺されるのは真っ平だ。格好が悪い。もっとも死ぬ気はないから、好機をひたすら窺う。
  風が消えた。
  その瞬間、ディルクルムはナイフを抜いた。振り向きざま、殆ど本能で斬りつければ微かな手応えを刃先に感じる。浅い。肉を断ってはいない。月光を遮るそれを力尽くで掴んで引き倒す。
  視界に飛び込んできたのは、人と変わらぬ姿を持った者だった。本当に魔物かと疑ったが、こんな夜更けに襲ってくる相手は人間だろうと魔物だろうと危険は同じ。
  翻るコートを踏みつけ、魔物が振り上げる腕を避ける。瞬間的に首を反らせた。思考を置いてけぼりに、体が勝手に反応したお陰で致命傷にはならなかったけれど、鼻と頬を一直線に掠った。
「畜生がッ!」
  魔物に乗り上げ、がむしゃらに暴れる足の動きを封じる。ナイフの刃先を喉のぎりぎりに押しつけてやれば、その抵抗が止んだ。殺す前に顔くらい拝んでやらなければ気が済まなかった。
  ほんの一瞬の攻防だが、ディルクルムが息を切らすには十分で、やはり生き物の気配すら感じない獣道に荒い呼吸が響く。
「…退け、人間風情が思い上がるな」
  場違いな声だった。
  押さえつけられた魔物は、それを危険と感じていないのか、まったく焦りの無い声色で呟いた。どこか音楽的な低音に、ディルクルムが呆気にとられる。
  気を抜いた訳ではないが、危機感を感じていないらしい魔物を、漸くしっかりと見下ろした。
  それは、一言で表現するならばとても美しい生き物だった。
  艶やかで柔らかそうな黒髪が小柄の顔を覆い、首元を包んでいる。髪の間から覗く耳が尖っていて、人間ではないことを知らしめていたが、不思議と美を引き立たせていた。薄く官能的な唇と、形の良い鼻梁。
  月光に照らされて輝きを放つ瞳は、淡い空色の光彩。それが見開かれ、縦長の瞳孔が人で無いことを示している。輝きの強さだけは獣より凶悪で、ぎらぎらとした視線の強さに惹き付けられた。
  齢二十のディルクルムよりは年上だろう。だが瑞々しい若さを熟成させた表情は、今まで出会ったどんな女よりも極上に思える。残念ながら女のような柔らかさはなく、その体格は男の物であったが。
「アンタ…――」
  続けて何か問おうとしたのに、それ以上の言葉に詰まったディルクルムは、魔物の腕が再度振り上げられそうな気配を素早く察知した。
  惑わされる所だった。ナイフを持っていない方の手を使い、魔物の手首を一纏めに地面へ縫いつける。
「…口の割に、随分軟弱じゃないか」
  あれほどの気配と一撃を与えておきながら、たかが人間に押さえ込まれるとは拍子抜けだ。だからこれは正直な感想だった。
「貴様…」
  優雅な柳眉を寄せ、睨み付ける。ぎり、と食いしばった歯が唇から覗く。人間より長い、獣のような犬歯が目を引く。
「アンタ、……吸血鬼か何かか」
  実際見たことは無かったが、目の前にいる魔物は噂に聞く特徴に酷似していた。
  ――…これほど美しい生き物とは思わなかったが。
  魔物は無言だった。素直に身を証す事はないだろうが、無言は肯定と同じだろう。これは本当に上級の魔物が出てきたものだと、ディルクルムは背筋に冷たい物を感じて気を引き締めた。
  吸血鬼に分類される魔物は、ギルド員でも腕の立つ者でなければ簡単に狩ることができない。いくら腕に自信があるとはいえ、専門家ではないディルクルムの分が悪い。だからこそ、簡単に動きを封じてしまえた事が些か疑問だった。
「何だ。吸血鬼って、強かねぇんだな」
  それとも、油断して見せているだけなのか。
  かまをかけるつもりで蔑んだ台詞に、魔物が牙を剥いた。だがはね除ける力はないのか、ディルクルムが押さえ込める程度の抵抗だ。
「ハンターでも無い俺に押さえ込まれてるなんざ、オークより劣るぜ?」
「貴様ッ!」
  下等魔物であるオークと同列に扱われ、吸血鬼が激昂する。だが、事実だ。今の状況では、巨体で知能の低い人食いのオークを狩るほうがよっぽど体力を使うだろう。
「まあ、小遣い稼ぎには十分だ」
  体勢により互いの顔が近付いているから、魔物の怒りの表情がよく解った。にやりと口角を吊り上げたディルクルムの頬から、血が滴る。爪先で傷付けられた場所から、吸血鬼の白皙の美貌へぽたりと落ちた。
  ナイフを滑らせれば、その細い喉笛を掻き切ってしまえるだろう。どれだけ人間と似た姿をして、どれだけ美しかろうと、ディルクルムにとってこの魔物はただの敵だった。
「我ら吸血鬼の家畜が、戯れ言を――」
  負け犬の威嚇に近いが、随分と激しい怒りを乗せた魔物の言葉が途切れる。
  ぽたりと、鮮血がその唇に零れ落ちた。
  空色の瞳が激昂から驚愕へ変化する瞬間を、ディルクルムは間近で目撃した。
  拭う余裕が無いので放って置かれた傷口から、ぱたぱたと数滴降り注いで、言葉の途中で開かれたままの唇を染めた。
「おい…」
  訝しんで思わず声をかけてしまったディルクルムは、次の瞬間物凄い力で弾き飛ばされた。
  砂埃にまみれながら受け身を取り、片膝を付いた状態でナイフを構える。来ると思っていた次の攻撃は、静かに佇む吸血鬼の姿を捉えて期待はずれだと解った。
  三つの月光の下佇む姿は、黒衣の麗人そのものだ。背は高いが、華奢。人外に相応しい美貌を伴った吸血鬼が、その頬にこびり付いたディルクルムの血を指先で掬い取り、舐める。ゆっくりと味わってから嚥下する吸血鬼の喉元は、先刻まで刃物を突きつけていたとは思えない。それは目を奪われるほど淫靡な光景だった。
  魔物が唇を吊り上げて微笑んだ。酔った様な、どこか淫蕩な色香を滲ませながら。アイスブルーの瞳、瞳孔が獲物を目の前にした猫と似ている。
  やばい。
  ディルクルムが感じた悪寒は、何処か快楽のそれと似ていたが、けれど捕食者を前にした恐怖心からくるものだった。ナイフを握る手が汗ばむ。今までのように押さえ込めていた低能な魔物では無いと実感させられ、今更ながら身が竦む。
  じり、と土を踏んだ音が聞こえ、吸血鬼が襲いかかった。ただで狩られるものかと舌打ちし、徹底抗戦の構えを見せたディルクルムに刃物のような爪先が襲った。
「…ッ!」
  だが、攻撃は寸前で止まった。
「は…?」
  思わず漏れた言葉に応えは無く、吸血鬼が空を仰ぐ。
「…夜が、…」
  囁きに似た低音を落として、突然姿が消えた。人にあるまじき跳躍力と早さでもって、森の奥へと走り去っていく。
  呆気にとられたディルクルムは、ただ呆然とその姿を見送った。魔物の動きをなぞるように空を見上げれば、夜空は色を薄くしていた。太陽はまだ昇っていないけれど、それは確かに朝の気配に染まり始めていた。
「何だったんだよ…」
  未だ止まらぬ傷を手の甲で拭ったディルクルムは、たったこれだけの短い間に蓄積した疲れの所為で、どかりと座り込んだ。どうやら無事に済んだらしい。怪我は負ったが生きている。
  それは、運命的とは決して言えないが、忘れられない出会いだった。

  

携帯小説配信サイト「BL乱舞♂乙女の箱庭」様で掲載させていただきました。
2009/12/02

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