L'unico - 2 -

- Primo Intervallo -

 人間が言うところの魔物の国――ニュクスへ戻った彼は、脇目も振らずに己の館へ急いだ。良くも悪くも冷静さを失わないと評されていたが、今の状態を見れば脆くも崩れ去っている。
  逃げ込むように館の扉に縋り付いて中へ入り、出てきたときと変わらぬ蝋燭の柔らかな光に照らされる室内を確認して、ずるずるとその場にへたり込んだ。
「おや、ワルツ」 
  正面には広い天井に相応しい、バルコニー付きの階段が設えてあり、二階の廊下から顔を出した老人がゆっくりと降りてきた。
  銀とも呼べる白髪を後ろに撫で付け、後頭部で優雅に括った長さは肩で終わる。濃い灰色のフロックコートを優雅に着こなした紳士は、貴族と呼ぶに相応しい高潔さがあった。
「お帰りと言うには、些か様子がおかしい。狩りの邪魔でもされましたか?」
「お爺様…」
  シャツの胸元を押さえ、ワルツは焦りを滲ませて紳士を見上げた。自分にとって、崇拝と敬愛の対象である老紳士の笑みに、安堵のあまり泣きそうになった。こんな感情は、魔物になって初めて感じる。未知の症状は言い知れぬ恐怖を呼んだ。
「血の臭いがしますよ。食事が出来なかったという訳では、無いのでしょう」
  青年はすでに立派な大人だというのに、幼子をあやすような仕草で老紳士は黒髪を撫でた。ワルツはぎゅっと瞳を閉じ、常の自分を呼び戻すために何度も深呼吸を繰り返す。
「何があったのか、私に話してごらんなさい」
「…はい」
  館のエントランスから談話室へ移動したワルツは、カウチの一つに座ってぽつりぽつりと事のあらましを話した。
「ふむ…」
  黙って聞いていた紳士は顎を撫でる。彼は、名をハルフォードと言う。地位も力もある吸血鬼だ。ワルツと同族だが、それよりも遙かに高い能力と権を持っていた。
  吸血鬼は元々人間だ。このニュクスに居る魔物、その中でも吸血鬼や人狼は魔物に堕ちる前は皆人間だった。様々な経緯を経て、魔物に堕ちる。ワルツもその一人だ。
  世界の王を頂点として、力有る魔物には爵位が与えられている。上位魔物は殆どが吸血鬼で占められ、ワルツは男爵の地位にあった。爵位は上から公、侯、伯、子、男となり、下部へ行くほど数が多い。与えられる爵位はその血や力によって左右され、力は年齢と共に高まる。
  ワルツが子爵という地位に収まっているのは、その実例外のようなものだ。彼はまだ百歳に届くかどうかという、吸血鬼としては若輩にあたる。本来ならば男爵に掠る程度。
  なぜ子爵位に上げられたかと言えば、吸血鬼としての血が濃いからだった。
  人間を吸血鬼へと堕とすには、同じ吸血鬼が血と術をもって行われる。与える者は大抵『親』と呼ばれ、その点ではハルフォード侯爵はワルツの親だった。爵位の数は規定があるので、そう簡単に増やせるものではない。侯爵の『子』なら伯を受けるが適当だが、空位が無いため子爵位に収まっている。ワルツは様々な例外の元、その地位にいた。
  そもそもハルフォードは、八人の侯爵の中でも一番の年齢と力を持っている。彼は長い年月のなか自らの血を与えて『子』を作ることはしなかった。ワルツの存在は、その付加もあって価値を増す。
「運が良いのか、悪いのか」
  ハルフォードは長嘆する。
  老紳士は見た目に相応しく、いやそれ以上に博識だ。魔物、とりわけ吸血鬼の事で解らない事象は無い。賢老とあだ名されるに相応しい。
「お前は、人間を食った事が過去にありましたか」
「…一度」
「その時は?」
  ワルツが吸血鬼になって初めての満月の事だ。なりたての吸血鬼は、人間の時間で数えて半年の間に一度以上血を吸わなければ、それ以降生きてはいけない。殆ど本能のまま、我を忘れて人を襲った。
  それ以来、ワルツは血を口にしてはいなかった。
「ただ、飢餓に動かされるまま。今回のような事はなかった」
「そうでしょうね…」
  考え込んだハルフォードの老いても精力的な顔を眺めながら、ワルツは思い出していた。
  吸血鬼は、その能力が高ければ高いほど、人を食わなくても保つ。血は力の顕れであり、弱い者ほど欲しがる。だからといって、強い者が長期間血を採らなくともいいわけでは無い。やはり限界がある。ワルツは己の嗜好から、限界ぎりぎりまでニュクスを出ることをしなかった。
  魔物になって百年近く、『親』から継いだ強さに甘え拒絶していたが、それもそろそろ限界だった。老獪なハルフォードはあっさりとワルツの飢餓を看破し、いい加減腹を据えろと窘めたのだ。だから今回、三つの月が満月となり人間界への扉が開いた機会に狩りに出た。
  三日間という短い期間の、それでもぎりぎりまで粘った。まだ幾ばくかの猶予はある。今回失敗したとしても、最悪次の満月に出向いて人間を襲えば滅びることは無いだろうと。
  ニュクスの境界を越え、世界を繋ぐ門を取り巻いている森の端。警戒心の薄い人間の匂いに、何故か惹き付けられるようだった。単純に飢えの所為かと思っていた。だが、傷付けた肌から流れ落ちた血の臭いに、身体が痺れて動かなくなった。味わってしまえば、我を失うほど甘美で、たった数滴にも係わらず歓喜に震えた。
  あれは、快楽に似ている。
  決して口には出さなかったが、ワルツはその実感に恥じた。なぜ人間よりも強力な吸血鬼が、骨抜きにされなければならない。
「吸血鬼にとって、人間の血はただの食物に違いありませんが、その中に特別なものがあるのですよ」
「…ただの言い伝えでは?」
  食い下がるワルツに、ハルフォードは苦笑を浮かべる。
「滅多に出会う事はありませんけれどね。確かに相性の良い相手という者は存在します。それは、一度味わってしまえば、忘れることは難しい」
「……」
「それ以外の人間など、牙を突き立てる事すら嫌悪するでしょう。所謂運命の相手とさえ言われるその血は、少量でも他のどの血よりも飢餓を満たし、力を増す」
  まさか、偶然出会った男がその相手なのかと、説明から導き出した答えに眉を顰める。今まで散々嫌悪してきた人間の、しかも男相手に感じたくはない運命だ。皮肉に過ぎる。
「お前のシャツに付いている血に、私は何も感じません。けれどお前は違うのではありませんか?」
  優しく告げられ、ワルツは返答に詰まった。指先が無意識にシャツを触る。シャツだけではなく、身に纏うフロックコートに散った僅かな飛沫の場所さえ、見なくても感じる事が出来た。
「…認めたくない」
「たった数滴でお前は数日前より満ちている、それが何よりの証拠」
  ワルツは押し黙った。それでもやはり認めたくはない。オークより劣る、等と暴言を吐いた、あんな男の血など。
「慢心してはいけません。満ちたとはいえ、応急処置も同じ。次の満月では、ちゃんと食事をしなければ駄目です」
  口調は柔らかいけれど忠告は厳しいもので、彼は何も答えられず、憂鬱になった。

 ワルツは人間だった頃について口を開くことは殆ど無い。彼は人間が嫌いだった。嫌悪に近い感情を抱いている。
  彼は孤児院で育った。元々あまり群れるのが嫌いだったのだろうか、孤児院でもひとりで居ることが多かった。義務教育を終え、他の孤児達と同じように下働きに出た。やはりそこでも馴れ合うことは出来ず、十八の歳を迎えて彼は手ひどい言葉と共に仕事を首になった。少ない蓄えを切り詰め、職を探しながら必死に生きていた。だが、貯金も底を尽き始め、このままでは野垂れ死にかと暗く生きていた時、ひとりの老人と出会った。
  ハルと名乗った老紳士を、貴族の好事家だとその時は認識していた。老人はワルツの生い立ちを詳しく聞き、不思議なほど親身になって、随分な金額を出資してくれた。軽い人間不信に陥っていた彼は、裏があるのではないかと訝しんだが、ハルの献身的な態度に感化され、感謝と共に再スタートを決めた。
  ワルツは元手を生かし、金貸しを始めることにした。昔から計算は得意だったのと、豪遊を嫌い辛酸の生活を知っているので、倹約的な生活態度も相まって、それは成功した。
  年に数度訪れる老人を歓迎し、随分と懐いた。ワルツの生活が向上するに従い、訪れる回数は減ったけれど、それでも良かった。ハルは己のことを何一つ話さなかったが、ワルツが心の底から信用し信頼できる人物だった。他人を信じることを知ったにもかかわらず、やはり老人以外を信用しようという心の変化は無かった。
  十年ばかりなかなか良い生活をしていたワルツだが、兆しは徐々に忍び寄ってきていた。金貸し同士横の繋がりはあるけれど、お互いに対立することも少なくない。元より他人を信用しない彼だ。十数人いた部下達は、いつのまにか敵対する金貸し業者に丸め込まれた。外堀を埋められ、逃げ場を断たれ、はめられたのだ。手堅く真面目な仕事をしていたワルツが気付いた時には、逆に返せないほどの借金を背負わされていた後だった。
  歳より若く見え、見目の良い彼は、時代錯誤とも言える脅しを散々かけられた。金を返せないのなら、その身体でも売ればどうかと。娼館が嫌ならお前を買ってやろうと、ワルツをはめた業者の元締めが手ぐすねを引いていた。
  今まで何度か下世話な誘いをかけられ、その都度手ひどく振っていたのだ。恨まれていると知った時には遅かった。部下を失うと同時に、汚い悪意と絶望を味あわされた。
  やはり、他人など信用できるものではない。身の危険を感じ、ワルツは必死に逃げ回った。着の身着のまま、いつ捕らえられるかわからない影に怯えた。訴え出るにも、自分が背負わされた借金は、表面上まったく瑕疵は無い。
  逃亡の数ヶ月は、魔物に堕ちた今ですら思い出したくない出来事だった。
  どこまで逃げても、相手は蛇のような執拗さで追いかけてくる。慰み者になるくらいならば、いっそ自殺でもしてしまおうか。
  そんな思いに取り憑かれた時、ワルツの前にあの老紳士が見計らったように現れた。
  満月の夜だった。
  二度の挫折で耐えられなくなった弱いワルツに、ハルはやはり優しかった。慈悲深い目は、瞼を閉じれば今ですら直ぐに思い出せるだろう。
  ハルはワルツに手をさしのべた。それほど人間が嫌いなのかと、何度も問うた。漸く老人は、己がワルツの遙か遠い血縁の者であると告げた。そして、自分は人間ではないと本来の姿を見せた。
  先の尖った耳、獣のような縦の瞳孔、鋭い牙を目にして、この老人が吸血鬼であったことを知った。今まで疑問に思わなかったことが、愚かしい。彼は出会ってから、老人であることを除いたとしても、まったく老化を感じさせない同じ姿のままだったのに。
「私の名はハルフォード。吸血鬼の位で、侯爵の地位を受ける者」
「…ハルフォード、侯爵」
「ワルトハインツ、私の遠い血縁者よ。この寂しい老人と、共に来ますか?」
  人の生を捨てて。
  差し出された手を取ることに、一分の迷いすら無かった。
  人間達の中でなど、これ以上生きていけると思わなかった。ワルツはこうして、ニュクスへの門をくぐって、吸血鬼に堕ちた。
  魔物の国での老紳士の地位を知り、その力が強大であることを身をもって感じた。そんな血を継いでいる己が、初めて誇らしいとさえ思った。
  吸血鬼は本来馴れ合わない。煩わしい人間関係など皆無で、ニュクスの生活は彼に安らぎを与えた。子爵という地位より、永い年月を経ずに強力な魔力を与えてくれたハルフォードを、己の信仰とも言うべき盲目さで慕った。
  血の力が強ければ、何度も人間を狩らずに済む。捕食すべき獲物だと理解しているが、餌だとしても人間に嫌悪を抱くワルツにとって恵まれた状況だった。
  能力に甘えていたことは認める。ワルツの性格を知っているハルフォードも、強く言うことは無かった。
  血を摂取せずにぎりぎりまで放逐してくれていたが、限界がくれば本能が目を覚ますことも知っていたから、老紳士もそれほど危惧していたわけではない。ただ、唯一己の『子』として生み出したワルツを滅びさせることだけはしたくなかった。
  孫というには遠すぎるけれど、やはり可愛い身内だ。他者に興味のない吸血鬼とはいえ、親愛は感じるらしい。だから狩りをしてきなさいと送り出した先で、まさか運命とも呼べる血を探し出すとは、ワルツの運が悪いのか良いのか、賢老といえ計りかねた。
  好機と考えるならば、ワルツはひとりの人間だけ相手をすればいい。何人も乗り換える手間は省ける。魔物の国へ餌を移動させれば、その人間は外部要因で死なない限り寿命は止まってしまう。最悪飼い殺しにするという手もある。
  だが、これ以上ワルツが弱ってしまえば、人間ひとり捕まえることさえ難しくなるだろう。狩りに関して助言はできても、手伝うことはできない。群れず孤高であるのは、吸血鬼の理だ。ハルフォードはその点だけきつく諭した。
  ワルツはそれからの三ヶ月間、次の狩りをどうしたらいいのか、そればかりを考えてしまった。あの男を捜すようなことだけはしたくない。けれど、不特定多数の人間を襲うより効率がいいのならば、生きる為に仕方のないことではないかとも思う。
  たった数滴の血だったのだから、もしかしたら勘違いかもしれないではないか。久々に口にしたから、身体が驚いただけだ。人間相手に運命など、あって堪るか。
  己が誇るプライドの所為で葛藤は終わらず、不毛な問答ばかりを胸中で繰り返すことになった。

  

携帯小説配信サイト「BL乱舞♂乙女の箱庭」様で掲載させていただきました。
2009/12/06

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