Amadiciena Chronicle [ act.2 ]

Amadiciena Chronicle

「雪華(セツカ)、メガイラを呼べ」
 雪華と呼ばれた女性は、夕暮れに光る雪のような金の髪を短く切りそろえた禁軍左軍将軍だ。長身の彼女は女性特有の淑やかさはなく、鞣された革のような印象があった。
「メガイラ将軍は現在後宮の護衛中ですが」
「知っている。だからお前が呼びにいけ。勅命だ。私の身ならば、索冥が犠牲になってでも守るだろうよ」
 ランドールがシニカルに笑うと、雪華は豪快に微笑んだ。
「主上よ、勅命ってのは、そうほいほい使うもんじゃないわよ?」
 唯一女性的ともとれる桃色の瞳が、弟を見るような目つきなのは、端から見てもよくわかった。
「それに覡魁殿をそう困らせるものでもないね」
「こいつが困るわけはないだろう?私の下僕だぞ。時間がないんだ、雪華。行け。メガイラを連れて私の部屋へ出頭しろ」
 鷹揚な笑みを口にはきながら、雪華は敬礼をした。
「御意に」
 そしてそのままずんずんと廊下を歩いていった。あの大女では小走りとなんら変わらないな、ランドールはひとりごちた。
「先のあれはどういうことです」
 気配もなく控えていた索冥が、静かに聞いた。
「主語は何だ」
「…貴方の態度のことですよ」
「私の態度のどこが気に食わん?」
 小声でもその声は冷たく響いた。
「元老を煽ってどうなさる」
「いちいち聞くな。あれで篩にかけるだけのことだ」
「貴方はどうして自ら危険を生み出すような真似をするのか」
「この私が危険を好んでいるように聞こえるが、索冥?私はお前にとって、そんなマゾヒズムを持った変態に見えるのか」
 誇張して答えてやり、ランドールは大げさにため息をついた。王にとって索冥は、眼の端に入ったら小突きたくなる子供のようなものだった。
「貴方を組み敷いているときは、その片鱗が伺えます」
 索冥にとって王は、二言目には嫌味を言わねば気にすまぬ相手だった。
「……阿呆か…」
 珍しくランドールは匙を投げた。あまりにも阿呆らしかったからだ。
 この王にとって、性交はスキンシップの一部にすぎないが――もしくは性欲処理――その行為自体は好きだった。瑞々しい、胸の豊満な女性を特に好んでもいた。王になる以前から、下層街の女達とよく抱き合いもした。おかげで同姓の交合は索冥が初めてだったのだが――これは索冥もそうだが――嫌悪感は無かった。女のように足を開くのに抵抗はあったものの、実際の行為自体は程良い快楽を生んだ。
 索冥は複雑だった。喧嘩の延長上のような取っ組み合いから、なぜこの行為に陥ったのか。お互いに本性剥き出しに珍しく拳の喧嘩に発展するところだったのに、だ。そして、王が抵抗を見せなかったことに。行きすぎた嫌がらせ、泣かせてでもやらねば気が狂いそうだった激情が、欲情に移行したのはいったいどこの時点だったのだろう。その気迫で逞しく見えていた主は、本当は華奢ともとれるような身体だった。腕力もそれほど無かった。細い首など、片手で括りとれそうだった。猛った欲望をねじ込んだ時のランドールの媚態は、高貴な残り香のように反感にまとわりついた。王個人は嫌いだが、彼の身体を陵辱する行為はどちらかといえば好ましかった。
 お互いがお互いに、身体を繋げることはひとつの疑問だった。それは未だに続いている。答えは出そうにないが、その答えなど知りたくないと思っている節がある。やはり、最後の最後でお互いに譲らない頑固さがあった。
 

 王の執務室に向かうと、既に雪華が控えていた。そのすぐ側に雪華より一回り大きな大男が立っている。右軍将軍メガイラだ。
「遅いな、主上」
 その風格を裏切らない太い声が主をたしなめた。筋骨隆々をそのまま人にしたような男だった。日に焼けた肌は雪華と変わらないが、それだけでなくもとから肌の色は濃かったのだろう。焦げ茶色の髪を弁髪にしていた。
「お前達の歩調に勝てる者がこの国にいるわけないだろう。中に入れ、二人とも」
 左右禁軍将軍に笑いかけ、執務室の扉を開けた。
「隠してもしょうがないことだから、あらかじめ言っておく」
 椅子ではなく机に座り、王は二人に言った。索冥は本当に興味なさそうに、備え付けの机から茶を入れている。一応王の分も。
「私と索冥はユンカーに降りる。非公式に、変装して」
「またか」
 呆れたのはメガイラだった。口に出さないだけで、雪華も呆れていたが。
「でもって、また俺達はお預けを食うんだろ?勘弁して欲しいなぁ」
「なんのために禁軍やってるのか、主上相手だと疑問だわね」
「と、言われるのは分かっていたから、お前達にも動いてもらう」
 にやりと笑って二枚の紙を取り出した。それは昨晩正寝の床の上で眺めていた物だった。
「重ねて見ろ」
 二枚は全く違う地図だったが、ある一点でぴたりと重なった。
「七区庁舎とビルゴ下層区がつながっていたのを知っていたか?」
「初耳だ。二区、八区と十二区は公式に認めた、そのほかにも少なくて4つの区はそうだろうと思ってたが、生粋の生娘みたいなビルゴ区が下水に片足をつっこんでたとはな。汚い事なんて知りませんって顔したあの区長が…。主上を非難する前にまず自分から改めた方が良さそうだ」
 メガイラが唸った。両方の地図を見比べながら雪華も眉根を寄せた。
「どっから仕入れたんだいこんな物」
「私が最近遊んでやった女官から」
「何!?涼希嬢か!?ここんとこうつつを抜かしてると思えば、そんなことしくさってたのかっ」
「おいメガイラ。それが王に向けた言葉か…」
「言わせてもらいたいぜ。主上がこれを明かすって事は涼希はもうこの世にゃいねぇんだろう?右軍にも涼希のファンは多かったんだ」
「アンタ、主上の身の安全より女の心配かい」
 雪華がメガイラの腹をどついた。
「こいつはこういう奴だよ。だから私が将軍にしてやったようなものだ」
 王がくつくつと笑った。
「雪華の麾下に七区出身者が多いだろう。その中に、口が堅く卑怯で、女を口説くのが巧い女性はいるか?」
「とっておきなのが二人居る。シャナイヤ分隊長とその部下杜栖だ。卑怯な事で類い希なのがシャナイヤ、無類の女たらしが杜栖だ。二人は示し合わせたように話術に巧みだ。わたしの命令、ひいては主上の命に従う献身さは左軍将軍、この雪華が保証いたしましょう」
「ではその二人を公式に、七区庁舎視察に向かわせてくれ。事情は全て話しておけ。なんとでもいいから七区庁舎内を攪乱しろ。そしてメガイラ…」
「出番か?」
「お前の部下で頭脳派の切れ者を二人、三区へ。内容は七区視察と全く同じにしろ。だが、取り立てて何もしなくてもいい。七区に対する囮だからな。これはどちらにも共通するが、俺の名前をどうだそうと任せるが、お前達は正式に動くな」
 ランドールはいったん言葉を切って、索冥を盗み見る。当の本人は無視を決め込んだようにあらぬ方向を見つめているが、主の言葉に注意深く耳を傾けていた。
「私はこれから急に体調を崩して正寝に引きこもる。3日後に視察を行ってもらう。それまで、箝口令を敷く。お前達は私がどこで何をしているか知らない。ただし一日一回は状況を説明するから、素知らぬ振りをしていろ。私は、再度下層街を制圧してこよう」
 索冥の入れた茶を飲みながら、ランドールは悪党のような目つきを光らせた。
「言葉では無理な事もある。動かせる力があるということは幸福なことだ。私はそろそろ牙を剥かなくてはならないな……」
 ぼそりと呟いた声は二人の将軍には聞こえなかったが、索冥だけはそれをしっかりと捉えていた。

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 嵐弩(ランド)という人物がいた。十区サギタリウス下層街アルトラで名を馳せた青年である。
 荒れに荒れた貧困の吹き溜まり、それがアルトラだった。貧困の落とし子は荒廃と暴力と犯罪の三つ子。青少年からなる賊が横行し、軍も匙を投げるほどだった。強い者はせしめ、弱い者はひれ伏すしかないこの街で、独立国のように太平させた人物の名が嵐弩である。
 彼は一見、優男風だった。だが、その纏う気迫と眼光の鋭さは常人を越えている何かがあった。アルトラの一端から始まり、賊の頭領を従わせるまで約1年。アルトラは全区下層街一安全な街となる。
 下層街は、上層区、中上・下層区の闇そのものを写し込んだ街だ。金やセックスや薬が非合法下で取り引きされ、街自体の収入は莫大だが、それが市民に変換されることはまずない。疎ましく思う上流階級人もどこかで繋がっているため、安易に切り捨てられない重要さもあった。アルトラも例外ではなく、当時の区長はアルトラ総元締――力無い者を力で圧迫する組織的な集団で、総じて善意ではない――と結託し、下街の屑商売で暴利を貪っていた。
 搾取される側だった嵐弩に力を与えたものは、彼自身が引き寄せた魔性の生き物だ。自分の望むことは話し合いでは解決しないと理解し、あまりに非力な己を悔やんでいた頃、嵐弩はそれに出会ったのだ。
「いつまで眺めているつもりだ」
 嵐弩は確かに感じる気配に問いかけた。
<気付いていたとは、やはり我が選び上げただけの器だ>
 含み笑いのような声が応えた。
「御託はいらん。用件は何だ」
< お前は前進する生き物ぞ。決して止まることを知らぬ。我に対するその態度、改めて謙遜する気はないか>
「ないな」
 声はくくく、と笑う。
< お前は自分という国の王。何人も従わせることはできまい。だが、それは成し得ること無し>
「それは違う。おれは王になる男だ。おれ以外の者はこの国の王足り得ない」
< 今のお前ではそれも叶わぬ>
「だからこそ歯がゆい。このちっぽけな街も統一できず、おれは命を灰にする。そう長くはない」
 外は雨だ。中・上層区から濾過されて濁った雨がアルトラに注がれている。
 声は雨音に掻き消されず、しかしその雨音のような音で嵐弩に語りかけた。
< 何の魔力も持たぬ人の子よ。自分を見つめる力だけは飛び抜けているな。短命だとはもったいない>
 嵐弩は瞳を閉じ、再確認するように声を発する。
「お前は死に神か?」
 その問いに、声は笑みを乗せた。
< 我はお前の救世主。お前の魂の誕生を感じ、我が身を喰らわせるために現れた。お前に名付けたのは我だ。お前が望むに関わらず、我はお前を侵し介入する。全ては我とお前のため>
 嵐弩にはいささか理解しかねた。この声の内容は曖昧で、現実味にかけていると感じた。
< 生きて為したくば我を喰らえ>
「拒否権はあるのか?」
< お前はそこまで愚かでは無かろう>
 笑い声が雨に混じり消えた。

< 我が名は鴻嵐鵠。嵐たる堕ちた天使>


 ランドールはトランクを開けながら空想を中断した。過去を思い出し無意識にあえぐ肩を抱き、昔よく着ていた衣服 を引っ張り出す。着古したそれはくたびれていたが、使用に支障が出るわけではなかった。
 肩に流した鋼色の髪をひもで無造作に縛り、しばらく使っていなかった眼鏡をかける。少しばかり度が合っていないが、気になるほどではないと放っておいた。
 たったこれだけでずいぶん印象が変わるものだ。
 その始終を見つめる下僕に目を走らせ、王は無造作に命令をした。
「雨を呼べ。豪雨となるほど酷くてかまわん」
「私の術で、でしょうか?」
 索冥の勿体ぶった言い方にランドールは苛立ったが、感情には出さずにたしなめる。
「私に魔力がないことをお前は百も承知だろう?」
「理由をお尋ねしてもよろしいか?」
「聞いてもいいが答えにくい。私が動きやすく、もっとも力を発揮できるとしか言えない」
 装飾の重い王衣を脱ぎ、着慣れたそれに腕を通したが、以前のような安心感はなくまた懐かしさもないことに驚いた。
 やはり自分は王の錫杖が相応しい、とランドールは胸中でごちて肩をすくめた。
「雨乞いは遅延魔術ゆえ、一時ばかりの猶予をいただきたい」
 低く冷淡に言葉を発し、索冥は王の自室を辞した。ランドールは呆れを含んだため息をつき、支度を整えるために二つ目のトランクに手をかけた。 
 きっかり一時後、暗雲立ちこめる空より雨粒が街に降り注いだ。それはランドールにとって開戦の合図と同じだった。

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 七区庁舎の最上階、区長の自室でその部屋の主である来瀬はゆったりと湯につかっていた。
 薔薇の香油で室内を満たし、清純な乙女に肌を洗わせるのが至福の時である。
「那備(ナビ)はまだなの?」
 艶のある桃色の爪を愛で、満足げに唇をつり上げた。シルバーアッシュの巻き毛が、豊満な胸元にかかっている。熟れた果実を思わせる張りのある肌は、実年齢と照らし合わせると奇跡のような輝きだった。事実、彼女の顔立ちは若々しく、清楚で清純な印象を残している。
 だが、ひとつだけ欠点がある。第一印象だけでは決して現れない、彼女の新緑の瞳。ぎらぎらとした欲望に潤むその瞳が、アンバランスだった。
「嫌な空ね。さっきまであんなに雲が綺麗だったのに」
 来瀬は浴槽から広い窓を眺め、ため息を付いた。雨雲と思われる黒い雲を遠くに見つめ、眉間にしわをよせて立ち上がった。
「よろしいのですか、来瀬様?」
「もういいわ」
 陶然と立つ主人の身体を、二人の侍女が柔らかいタオルで拭いてゆく。身体の水気が無くなりいくつかの手入れをした後、身体のほとんどを覆う露出の少ない黒のドレスに身を包んだ。そのドレスは肌が出ない分、身体のふくらみを強調するようなスタイルだった。
「ねえ、那備から連絡はない?」
 いらいらと侍女を問いつめたが、二人の侍女は控えめにまだ着ていない事を伝え、おずおずと退出していった。
「召使いをあんな使い方するなんて、いっただけないなぁ」
「遅いわ、那備」
 薄暗い、一見では分からない通路から、背の高い男が顔をのぞかせた。
「どうしていつも玄関から入ってこないの?あの子達だけには貴方が来ることを伝えておいたのよ?」
 来瀬の言葉を聞き、那備は目をむいた。だがそれは一瞬だけで、来瀬は気付くことはなかった。踊るような足取りで、来瀬は部屋の奥へ進んでゆく。シルバーアッシュの髪を指でくるくると巻きながら、備え付けのバーカウンターから那備が好むワインを取り出した。
「区塔の修復はどうだ?」
「貴方の壊し方のおかげかしら。時間も費用もそれほどかからなくてよ」
「禁軍からは何か言われたか?」
「いいえ」
 那備は薄く笑い、うなずいた。来瀬がワインをつぎ、それを那備に渡す。二人は愉悦に口元をゆがめ、グラスを額ま でかかげた。
 ビルゴ区を見渡せる大きな窓に、一条の雷が走った。

 那備は勝手知ったるビルゴ区庁の中を、影のようにするすると移動していった。まるで全身が色の変わる生き物のごとく、那備はそこに溶け込んでいた。
 もともと那備にとって隠密は得意であり、気配を消して行動することは息をすることと何ら変わらない行為だった。
 足音を立てずにターゲットを見つけ、猫のしなやかさで近づいていった。
「………っ!!」
「静かにした方が、身のためだよ?」
 少女の口を手で覆い、がっちりと羽交い締めにしながら耳元で囁いた。そのまま暗がりまでずるずると引きずっていき、那備は少女の首に小刀を突きつけた。
「大丈夫。コレで殺す気は無いからさぁ」
 来瀬と対面していたときとは別人のように陽気な声で、那備は少女を脅しつける。小振りのナイフに雷光が反射し、暴力を知らない少女にはそれは単なる凶器以上の存在に映った。
「リディアを探しに来たのかな?」
 尋ねると、少女は小さく頷いた。なぜこの男が自分の同僚の名をを知っているのか、何故自分がこんなに怖い思いをしなければならないのか、少女は必死で考えたが答えはどこからも返ってこなかった。
 そもそも、この少女が勤め始めてから、区長のフロアで男性を見たことなど一度もなかったのだ。
「那備って知ってる?」
 先ほどの問いと同じく、少女はこくりと頷く。
「そりゃ残念」
 大げさにため息を付いて、那備は窓辺に近づいた。もがく少女の首筋、ある一定の部分を強く押さえて失神させ、片手で少女を窓から落とした。それは自然な動作で、その結果少女がどうなるのか分かっていないような無邪気な雰囲気が漂っていた。
 少女は悲鳴も上げずに落ちてゆく。階数はそれほどでもない区庁舎は正面玄関以外をぐるりと堀で囲んであった。その堀は地面を掘って作った物ではなく、そのまま穴となり下層区へと続いている。
 下層区の者は忌々しげに見上げ、上層階の者は優越に見下げるその穴に、少女は物言わず落ちてゆく。リディアと同じように。
 雷を生じさせた雨雲だけが、穏やか見守っていた。

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 二人の少女がその短い人生を終えた頃、ランドールはユンカーの入り口を帰宅者の波と一緒に通り抜けた。
 下層区の労働者の顔色は暗い。止むことのないこの雨のように沈んでいた。自分たちが上層区、中層区でどれだけ働いても、そこへ住むことは決してないことを知っていた。労働者は労働者であり、経営者にはなれない。払拭することのできない錆びのようなものが、彼らの心には根深く蔓延っている。
 ランドールは彼らの顔を見つめ、ぎりと唇をかんだ。容赦なくこの国を切り開いていく今王程、自国の民を思い煩う者はいない。だがそれを理解している者はほとんどいなかった。
「主上、雨にあたります。どこか室内へ」
 索冥が見かねて主を急かした。
「……ああ」
 ゆっくりと返事をして、ランドールはユンカーの奥へ分け入った。

 アマディシエナには13の区がある。第一区は王の住まう螺蛇(ラダ)区、第二区アリエス、第三区タウルス、第四区ゲミニ、第五区カンケル、第六区レオ、第七区ビルゴ、第八区リブラ、第九区スコルピウス、第十区サギタリウス、第十一区カプリコヌス、第十二区アクアリウス、第十三区ピスキス。
 一区は国の上部、天に近い部分を占めている。面積は一番狭いが、そこは国の象徴であり輝かんばかりの荘厳さに包まれていた。残りの区は、その下から円を区切るように約30°ごとに分割されて配置している。
 アマディシエナは横から見ると菱形のような形態で、真上から見れば真円を描いていた。上部から地位の高い者が住み、下部に行くほど地位が低い。菱形の中部は総じて人の出入りが多い。それはさまざまな仕事場や学校、役所などが広い面積を閉めているからだ。
 下部――下層区は一区を除き全ての区に存在し、それぞれがあまり治安がいいとはいえなかった。だが、中には上部と何ら変わらないほど平和な下層区もいくつかはあった。
ビルゴ区もその一つで、12区(一区は区であり区ではないので、12区と言えば第一区を除く12の区の事を表す)の中では治安のいい部類だった。それは住民に女性が多いことが第一の理由だが、下層区ユンカーを取り仕切る集団が暴力に訴えなかったからである。
 しかし住民は、だからとて幸せだとは言えなかった。目立った暴動でもなくば、お上は下層区に目を向けない。この集団はしたたかだった。
 下層区を下ることは、地上に近づくことだ。だからとて地平からの高さは小さな山が一つ分程、近いというのは言葉のあやだ。そして、アマディシエナの周りは一面海であり、地平は遠くに見える島のような存在だった。
 ランドールは海も見えぬ下層区の奥へ奥へと足を進め、雨を避けながら無言で歩んだ。通った道をしっかり頭に刻み、まわりに何があるのかも把握していった。
 ユンカーの内部に入るに連れ、寂れた雰囲気が漂いはじめ、人通りもまばらになる。この一帯に来ると、上部の建物の所為で雨もさほどあたらなかった。
 建物の中から住宅は減り、次第に酒場が増えてきた。酒場は主に宿屋か娼館と一体であり、どこも賑わいは界隈まで溢れていた。ランドールはそのひとつ、目立たない質素な宿を見つけた。看板には板に黒字で『デリラ(裏切り女)』と書かれてある。ビルゴ区には女性が多い。命名者はきっと男だろう。心理状態が伺える名前だ。
 入る前に索冥を見つめ、主は困ったような笑ったような複雑な顔をした。
「何か?」
 感情のこもらぬ声で索冥は主に尋ねる。
「下層街にはいささか不釣り合いだな」
 ランドールがそう表すのもうなずける。豪華だとか華美だとか、そんな形容など見合うはずもない貧しい服装をしているが、その仕立ては上等だと言えなくもない。第一褐色の肌に白髪、という取り合わせは珍しい。額の霊印を隠すために長いバンダナを巻いているので見ようによっては、砂漠の都サチャ=ユガ地方の者だととることもできる。なるほど、どことなくそれを意識した装いだ。高位の魔術師でもある索冥が、今は帯剣している。日常生活では決して帯びない剣だが、索冥の剣技は禁軍将軍に匹敵することをランドールは十分知っていた。
「琥珀の瞳を持ったサチャ=ユガ人というのも珍しいが、この区層ではそれを気付く者もいないだろうな」
「私の姿を知る者など、ここにはおりません。それに主上とて、このような治安の悪い街にはあまり存在しない人種にお見受けいたします」
 主を見下げて言った。
 この国の王は今、単なる優男にしか見えない。中途半端に結んだ後ろ髪と眼鏡で、一見して学生か何かのように見えた。肉体労働者ではなかった。こじつけるなら何かの技師が精一杯というところだ。
 どう見られても、この地域の住民にとって外部者であることには変わりない。ランドールはあっさり考えを改めて、ずんずんと宿屋に入っていった。
 室内はざわついており、客は7割といったところだ。皆一様にランドール達を見つめ、興味なさそうにまた話し出した。
 カウンターには小太りの男が一人、黙ってグラスを磨いている。小卓は全部で十。それぞれに椅子が最大四つまであり、賭け事をする男や歌を歌う女達が適当に座っていた。二人に無関心を決めているが、たいがい誰かがちらりと盗み見ていた。
「部屋は空いているか?」
 ランドールはカウンターの男に聞いた。
「よそ者に貸す部屋はねえな」
 顔も上げずに男がぼそりと言った。ランドールはそれを予想していたので、銀貨を1枚こっそり置いてから話を続けた。
「角の部屋だ。ベットは二つ」
「角部屋で空いているのは、床が一つしかない。予備の床を出すぐらいなら他の部屋に入ってくれ」
 男は銀貨を懐にしまい、やはり顔も上げずにグラスを磨き続けた。
「ならそれでいい。二、三日借りる。金は一日ごとに銀貨一枚払うがそれでいいか?」
「もめ事をおこさねえならそれでいい。俺の店でその色黒の傭兵の腕を試すような真似はすんじゃねえ。いいな」
 色黒の傭兵呼ばわりされた索冥は、男を睨んだが言葉を発することはしなかった。ランドールはさらに一枚の銀貨をテーブルに置いて、部屋の鍵を受け取った。カウンターの奥から少年が出てきて、無表情で二人を導いた。ぎしぎしと音のする階段を上り、廊下の一番奥まで進んでいく。扉の数は全部で9つ。左に5つ、右に4つだ。右の部屋の方が幾分広いのだろう。少年は廊下の突き当たり、右側の扉を開けて実に適当な部屋の説明をして出ていった。部屋に入り、少年の気配が消えたところでやっと索冥は口を開いた。
「銀貨一枚は、このランクの宿にしては出し過ぎでしょう」
「ああ。そのかわり素性はおろか名前さえ聞かれなかったがな」
 金はあるに越したことがないな、と呟いて、ランドールは室内を見渡した。窓はない、一見してそう見えたが、おざなりにポツンと壁に小窓があった。使用意図が分からないほど小さな窓だ。まるで監獄のようだ。小さな洗面台と飾りのような小卓に椅子。壁にはランプが灯っていて、かろうじて室内を明るく見せていた。寝心地がいいとはお世辞にも言えないベットは狭く、座ればきしんだ音を立てそうだった。だが、その割に清潔でシーツには染み一つなかった。
「これからどうするのですか」
 索冥は問うた。ランドールは身振りで椅子を指し、自分はベットに座った。案の定ベットは重みで軋んだ音を立てる。壁を叩いて薄さを調べ、索冥に魔術で遮蔽するように命令し、それからやっと口を開いた。
「酒場を巡る。店が閉まるまで活動するからな。そのかわり朝は動かん。夕方まで寝る」
「ここで、ですか」
「他にどこで寝るんだ。いちいち城へ帰るとでも思ったか。お前が城に帰るのはメガイラと雪華に報告する時だ。寝たいならそのときに寝てこい」
 索冥は反論しなかった。ランドールとこの狭いベットに寝ることだけは願い下げだったからだ。
「できるだけ派手に動く。私はこの地区を制圧しに来たのであって、スパイではないからな。下層区を取り仕切る首領をさっさと潰して、あの女を引きずり出してやろう」
「丸腰でどうなさる」
 下僕の指摘にも、王は不遜な態度を崩すことはなかった。
「雷雨はおれの味方だ。久々に伝家の宝刀を抜かせてもらおう」

  

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