Amadiciena Chronicle [ act.3 ]

Amadiciena Chronicle

 酒場の客は、時間が遅くなるに連れて質の悪い者達になってゆく。ランドールは経験上の勘から適切な人物に当たりをつけて、酒を奢るかわりにさまざまな情報を聞き出していった。
「ナビ?」
「ああ。ここいらを仕切ってるのはナビだ」
 一日中飲んだくれているような、伸び放題の髪もひげもすすだらけの男だった。ランドールが奢ったジョッキを呷りながら、男はくだを巻いて話す。
「どこに行けば会える?」
「さあな、知らねえよ。俺はあいつらとは関わんねえからよ」
 それっきり男は黙り込んで黙々とジョッキを空にするだけだった。ランドールは適当に礼を告げて、音もなく店を出た。
 止まない雨音が遠くで聞こえても、ここまで雨がやってくることはない。空も見えない路地裏で二人の主従は次の店を目指した。
「あまり飲まれると身体に触りますよ」
「思考が朧になるほど飲んではいない」
「酔っぱらいは皆そう言います」
 索冥が呆れて諭すが、ランドールは飄々と首を横に振る。
「お前を騙せているくらいだから、誰にもばれてないらしい。私は本当に飲んでいないぞ。種はあかさないがな」
 得意げに笑って、ランドールは伸びをした。昔、まだ王ではなかった頃に、仲間達と飲み比べをして無敵だったのだ。全く飲んでいないこともあれば、少しばかり飲むこともある。だが大概において酔うほど飲むことはない。イカサマで常に勝ちを得ていたが、ばれない限り卑怯者呼ばわりされることはないと開き直っていた。卑怯でも、勝てばいいのだ。
 それから5軒の店を回っても、先程の話以上のことは聞けなかった。
 ユンカーを仕切っているのは、“ナビ”という名の背の高い男。取り巻きはいるが、団体で行動することはあまり無い。支配は暴力ではなく、これといったパターンもない。だが、その気まぐれのような行動で、何人かは救われその倍の人数は命を落とした。
 それ以外はなんの情報もなかった。
「“ナビ”とは、貴名(きめい)でしょうか」
 しっかりとした足取りで前を歩く主に、囁くように索冥が尋ねた。
「そうかもしれぬし、庶名かもしれない。字の場合もある。音だけでは判断しにくい」
 貴名とはかつて王や貴族等、位の高い者が付けることを許された名であった。庶名は庶民が付けられる名だ。例えば前者が雪華、後者がメガイラである。また、貴名を持つ者は字(実名の他の名、あだな)を持つことも多く、さまざまな場合で使い分けるので厄介である。
 今現在そのような身分制度は残されていないが、貴族達の間では未だに貴名を付けることを止めない。庶民は庶民で、誇りを持って庶名を名乗っている。ごく一部ほんの一握りの者たちはこの身分制度にこだわっているが、ほとんどの国民は――貴族と庶民の両方が――意味のないものとして見ていた。歴代の王達の中には、庶名の王も多く在位したのがきっかけだ。
「どうも初見では胡散臭い奴のようだな」
「胡散臭い、ですか?大した情報もないのに」
「大した情報が無いから、胡散臭いと称したのだ。区の下層街を仕切る奴が何の評判も無いのはおかしくないか?」
 鼻で笑う王に、下僕は眉間にしわを寄せて黙った。それきり会話が途切れてしまい、二人はそれぞれの考えに没頭した。
 宿屋デリラに戻ったときには、真夜中よりは明け方に近かった。それでも酒場には6割方の入りで、ちびちびと酒を飲む者や寝こけている者が三々五々に散らばっていた。
 ランドールはちらりと室内を一瞥し、何事もなかったようにバーのマスターに近づいた。
「端の席にいる赭色の髪の男に、一番いい酒を出してやってくれ」「5銅貨」
 素早く支払って、ランドールは二階に上がっていった。部屋に入るなり索冥は主を問いただす。
「あの男は?」
「あれが“ナビ”だ。恐らく」
「根拠は?」
「おれが店に入った時、おれの顔を見てにやけやがった」
 底意地の悪い笑みを浮かべて、ランドールは振り返った。ランドールの口調が下層街に入ってからしばしば変わっていることに索冥は気付いていたが、あえてそれには触れなかった。高慢な口調だろうと卑俗的な口調だろうと変化を感じる事はなく、どちらも自然でありどちらが本当か区別する必要も無い程だった。
「それだけですか」
 ランドールのその自信に、索冥は呆れた。貴方の顔を見て色目を使ったのでは無いですか、そう聞こうとした言葉は腹の中で留めて置いた。黙っていれば、ランドールは大した美丈夫なのだ。だがランドール本人は、自分の美醜にまったく興味を示さない人物だった。
「私の勘を信じろ」
 威圧的ともとれるこの声で命令されたのなら、索冥に否を言うことはできなかった。

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 索冥は王の側ではなく、首都螺蛇区の王城の中を滑るように歩いていた。報告へ行けと、ランドールに追い出されたのだった。下層街に主を置いていくなどと、正気では決してできない行為をしえているのは、心配の要である主自身に命令されたからである。
 腹立たしいと思う、自分にそして主上に。
 さすがに本気で一人にすることはできなかったので、ランドールの側に使役霊を守護として置いておくことは了承させた。それは二股尾の虎だ。白銀の毛に黒の縞、橙色の瞳を持つ霊獣だ。それは優しい顔つきをしているが、融通の利かなさそうな瞳が索冥にそっくりだった。その獣をランドールに付けるのは初めてではない。この霊獣を信頼していないわけでもない。だが、自分が側にいないというだけで、言いしれぬ不安が胸にわだかまることを索冥は知っていた。
 この城は螺旋城と名付けられている。12区からの階段が螺旋状に城をかたどっているところから命名された名だ。白や銀を主とした色調で、花や緑が事欠かない空中庭園のようだった。まだ明けぬ空は暗雲に沈み、この天気ならば草花も沈んで見えることだろう。
 階段の多いこの城の中で上部へ行く程位の高い者の居住処となっている。したがって、高権力者程多く運動をしなければならなかった。魔法科学で移動する床もあるが、入り組んだ階段を使った方が早かった。
 索冥の向かう先は、左右禁軍将軍の元である。
 覡魁の感覚は、人のそれより上等なものだ。高位の魔術師や剣豪などにはよくみられる。気配や生体反応を読む力。それは大雑把に捕らえる者もいるし、事細かく正確に把握する者もいた。索冥は後者で、さらに個別の生体反応を読むことができる。それによると、雪華とメガイラは同室にいるようだった。アマディシエナ最強の軍団である禁軍の寮は螺旋城の中層区にあり、男女別の住居になってはいるものの、異性禁制ではなく自由に行き来ができる決まりであった。
 覡魁の法衣を纏った索冥が、禁軍寮に出入りしようとも誰一人止める者もなく、皆優雅に黙礼を返すのみ。
 ノック二回で扉を開けると、禁軍の将達は早い朝餉だが遅い夜食をとっていた。
「お早うございます覡魁殿。貴方ご自身が報告に来るとは予測できませんでした」
 索冥の登場に苦笑して言ったのは雪華だった。
「待ちかねて仮眠しかとれなかったぞ、と主上に文句を言って戴きたい。では、聞きましょうか」
 同情するような目を向けたメガイラに促され、索冥は下層街に降りてからのことを全て話した。二人の将軍は黙って耳を傾け、索冥が話し終えると一様に複雑な表情を浮かべた。
「あの男はマゾか何かか?」
「メガイラ…」
 呆れた右軍将軍を雪華がたしなめた。だがメガイラは堪えなかった。
「あの性悪が強いことは何となく気付いていたが、こうも早急に事を運ばんでもよかろう。為損ずるぞ。なぁ、雪」
「同意を求められても困る。私はお前が納得している意味が半分しか理解できない。急いているのには同意するがな」
  そのやりとりに、索冥は無表情に黙っているだけだ。
「主上は今頃動いているぞ」
 メガイラはにやりと口の端をつり上げた。それを聞いた索冥の方眉がぴくりと動いたが、二人はそれに気が付かなかった。
「覡魁殿は、体よく追い出されたのだろう。何かしでかすつもりでなくば、あの主上は覡魁殿を放すわけがない。“ナビ”って野郎への応酬は、今晩中に反応が返ってくる。見るからにただ者ではない覡魁殿がいなくなって、奴らが仕掛けないはずはない。だからわざわざ覡魁殿を宿の玄関まで歩いて行けと言ったのだろうよ」
 のほほんと言ってのけたメガイラに、雪華はこめかみを押さえ、索冥は立ち上がった。
「まぁまぁ覡魁殿、そう焦らなくてもよろしいでしょうよ。あの方はお強いお方だ」
「待てメガイラ、我らが主上は武人でも魔術師でもないわよ。お強い事は認めるけど」
「確信はできないが、9割9分まず間違いない。俺の情報網をフルに使って調べ上げた」
「いったい何を?」
 勿体ぶるメガイラに雪華は詰め寄る。索冥は冷静に見えるが、内心メガイラの胸ぐらを掴んで全てはかせたい一心だった。
「サギタリウス区下層街アルトラの嵐弩(ランド)って人物を知っているかい?」
「そりゃ名前くらいは。確か雷神だとか嵐神だとかいう通り名が……………まさか」
「本人に聞いたことはないがな。覡魁殿ならご存じか?」
 左右将軍の四つの目が索冥に注がれたが、当の覡魁は黙って首を横にしただけだった。それ以前に索冥は嵐弩なる人物さえ知らなかったのだ。それは仕方のないことだが、左右将軍は知り得ないこと。嵐弩の噂が広まり始めたのは先王の末期段階で、索冥はまだこの世に存在してはいなかったのだから。

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 かた、と扉が鳴る音に目が覚めた。予測通りだな、とランドールはにやりと笑った。
 白い獣が枕元で首をもたげ、橙色の瞳でランドールの動きを追う。この獣、身の丈が馬のように大きい。霊獣なので同種の動物はこの世界に存在しないが、その姿は虎に酷似している。虎よりは一回り大きく、長く伸びた犬歯と二股の尾が神聖さと異質さを醸し出していた。
「テンクーン、静かに」
 ぐるぐると喉を鳴らす霊獣にランドールは笑いかけた。
『扉の外に、人間の気配は感じません』
 テンクーンと呼ばれたこの霊獣、霊獣位も高く人語を解す。天の聖霊の眷属であり、一日に3つの国と山を越え、天空から輝く羽を降らすといわれている。
「手紙か」
 扉の下に挟めてある薄汚れた封筒を引き出し、中身を呼んでシニカルに口元を歪めた。
「『目的は何かな?』だと。いけ好かないな」
 機嫌良く笑うランドールは、椅子にかけてあったマントを羽織り外出の用意を始めた。もとよりこれを予測して、マントだけはずして仮眠をとっていたのだから、用意らしい用意は何もない。武器は何一つ持ってはいないし。
『ランドール様よ、どこへ行かれる。我は主より貴方をお守りするよういいつかっております。この部屋は防御魔術を幾重にも張った部屋。ここにおられる方が安全ぞ』
 立ち上がってランドールをベットへ押しやり、テンクーンは扉の前に陣取った。その様子を見て、ランドールは呆れた笑いを口にして獣の頭をなでた。
「お前も頭堅いな、索冥に似て。大丈夫。おれは自分の力をちゃんと知っている」
『ならばお戻りください。我は貴方をお守りするしかできませぬゆえ』
「テンクーン、獣のお前にも、俺の中のものは分からないか?」
『………?』
 霊獣を見つめるその瞳が、ほんの一瞬夜闇にも鮮やかに金色に光った。
「命令だ。退け」
  長い眉を寄せた霊獣を押しのけて、皮肉に口元を歪めたまま扉に手をかけた。

 酒場は数時間前とは打って変わって静寂の空気に包まれていた。客もマスターもこの場には居ない。そのかわりに居眠りを繰り返す薄汚い老人がカウンターにこぢんまりと座っていた。
 ランドールは室内に他の人間が居ないことを確認し、きぃと音を立てて両開きの扉を押し開けた。
 深呼吸をする。朝になる前の凛とした神聖な空気を肺に入れ、ゆっくりと道の真ん中に歩いていった。道といっても、そこは通路のようなところだ。空はない。
 テンクーンはひっそりと気配を消し、また姿も薄く消して、影暗い死角に身を潜めた。いざとなれば身を呈す覚悟だ。
 辺りはしんと静まりかえっている。朝食の支度はもう少ししたら始まるだろうか。住民達は未だ夜の夢の中にいるだろう。
 ランドールは辺りの気配を丹念に調べた。感覚を鋭くし、明けの暗闇に瞳をつぶり、聴覚を最大限に引き出した。
 じっと黙っていると、物陰からわらわらと数人の男達が出てきた。いや、中には女も混ざっている。男が4人、女が2人。まだ他にも隠れていそうな雰囲気だった。皆一様にニヤニヤといけ好かない笑みを浮かべランドールを見つめている。
「何しに来たのかな」
 他の輩より一歩前に出た男が、笑いながらおどけた。
 その問いには答えずに、ランドールは自分を囲む輩をぐるりと見渡した。“ナビ”はいないな、と胸中で呟く。だが絶対にどこかで見ている、そう確信した。
「聞こえないかなぁ?それとも怖いのかな?」
「“ナビ”はどこだ?お前達雑魚に用はない」
 ふざけた態度を崩さない男に、ランドールはじめて言葉をかけた。
「威勢がいいねぇ、お嬢ちゃん」
 周りの男女が一斉に笑い出した。この手の挑発は、区が違っても同じらしい。過去を思い出して呆れ、ランドールは吹き出した。
「その辺で見て居るんだろう、“ナビ”は。とっとと出て来いよ。潰してやる」
「………なんだと」
 ランドールの侮辱の言葉に、取り囲む男女は色めき立った。それぞれ刃物を取り出し、抗戦の構えをとる。何人かは魔術を使えるようだか、その構えをするものはいない。この狭い路地で魔術を使うのは互いに不利だと分かっているからだ。
 それでも笑みを消さない男は、腰に下げたサーベルをいじりながら、ランドール足のつま先から頭までを舐めるように見つめた。抜刀しないのは自分に自信があるのか、ランドールをなめているのか。ぽん、とランドールの肩に手を置いた。
「大人しく足を開けば、お前が探す相手の元へ連れて行こうか考えてやってもいいんだよ」
「黙れ下郎。おれは雑魚に用はないと言ったはずだ」
 ランドールがそうやって笑いかけた瞬間、バチッという音が響いて男は吹き飛ばされた。焦げて煙を出す手のひらを押さえながら、驚愕に瞳を開いている。他の者は何が起きたのかさえ理解できず、ただただランドールを凝視するだけだった。
 テンクーンも姿を現しかけ、やがて元の位置に戻って伏せた。困惑で見開いた橙色の瞳を閉じ、黙って頭を垂れている。
「次は?」
 楽しむように述べたランドールの声に、周りの者が一斉に我に返って動き出した。連中の数は増えている。様々に攻撃を繰り出す連中を軽くあしらう。雪華やメガイラになら可能な動きを、何故何の力もないランドールがやってのけるのかテンクーンは黙って見ていた。
 バチ、と鳴るたびに、閃光が漏れる。空気中がぱりぱりと放電するような異様な空気が立ちこめていた。ランドールに剣を向けても、肉に刺さる前に放電とともに受け流されてしまう。全く微動だにしないランドールに対し、周りの連中は成果のない戦いに疲れの色を見せてきた。
 襲う人数が二十を超えようとした頃、ランドールはつまらなそうにため息を付いた。
「出て来い、“ナビ”。お前が跪くまでこいつ等をいたぶれというのか?」
 

 索冥は急いでいた。服装は既に術で変えてある。雪華とメガイラの話もそこそこに、朝闇に紛れて風の早さでユンカーを目指していた。
「テンクーン、主上はご無事か!?」
 意識で呼びかけると、ぐるるるという唸り声とともに応えが索冥の頭へと帰ってきた。
『ご無事に。優雅に戦っておられます』
 使役の霊獣の言に、索冥は眉を寄せた。忌々しい、と吐き捨てて。
「戦うとは如何か!私はあの方を守れと命令したはずだ」
『主よ御意に。しかし、我があの方に逆らえましょうか。加えて、あのお方に加勢するなど笑止。身の程も弁えぬ獣と、己を恥じることになりましょうぞ』
「どのような意味か?」
 怯えるような畏まったような霊獣の口調に、索冥はがぜん訝しんだ。
『ご覧にならばお解りに』
 霊獣はそれきり語らず、主を苛立たせるのみだった。
 索冥がユンカーの門をくぐり、ランドールの元に戻った丁度そのとき、一瞬という短い間閃光が迸った。
 次には烈風が辺りをひと薙にし、ちりぢりに倒れる人々を床へとへばり付けて静寂が戻ってきた。
「出て来い。そこにいるだろう?隠れても無駄だ」
 くすくすと笑うのは一人立ちつくしているランドールだ。
「主上、説明して戴きたい」
「後だ」
 索冥を一喝する、ぎらりと睨んだその瞳は黄金色をしていた。ぱり、と放電する空気に下僕は堪え黙った。
 振り払うように腕をひと薙すると、先の建物へ落雷した。制御されたような雷がそこに落ちる瞬間、音もなく長身の男が飛び出してきた。
「用心棒が帰って来ちゃったなら、負けだぁね」
 人を食った笑みを浮かべる赭色の髪の男は、ランドールの間合いの外側に降り立った。
「お前が“ナビ”か?」
「そ」
 にっこり笑った、その瞬間。
「那備って名前だ!見知り置け!!」
 怒号と同じ早さで、投げナイフがランドールへ飛んだ。途端に身構えた索冥とテンクーンを気迫で黙らせ、放電が円状に広がり乾いた音を立ててナイフが落ちた。
 第一打が失敗することを読んでいた那備は一気に間合いを詰め、微動だにしないランドールの左上からサーベルを振り下ろした。
 ゆっくりと優雅とも映る動作で左手を上げると、ランドールは那備のサーベルを寸でで止めた。さすがに那備は、その笑みの張り付いた唇を屈辱に歪ませた。金色の瞳で那備を見つめ、ランドールは微笑を返した。
「では名乗ろう。おれは嵐弩」
 一拍おいて、ランドールは見下したようなどこか神々しさを帯びた顔で那備を見た。
「誰に向かって刃を向けている!その狼藉何と心得るか!」
 びりり、と空気を振るわすような声だった。滅多に聞かないその一喝に、索冥でさえ鳥肌が立った。テンクーンに至っては耳を伏せて頭を垂れた。金色の瞳が、発光したかのように凛と輝いた。電撃に打たれたかのようにサーベルを取り落とし、那備はごくりを喉を鳴らして尻餅を付く。
「は……はは…」
 頬を引きつらせた那備は、なんて奴に喧嘩をふっかけたのか、と後悔した。かたかたと震えを感じたがそれを押さえることもできなかった。索冥は改めて感じさせられた主の姿に、片膝をついて平伏した。二人と一匹が感じている感情の名は、畏怖だ。
「私に下れ、那備」
 傲慢なその口調はどこまでいっても神々しかった。上ってきた朝日が建物の隙間から漏れて、その神聖さを増していた。
「サギタリウスの嵐弩ってアンタか……?」
「如何にも」
「うわっ、先に言ってくれよ!勝てるわけねーだろ」
 那備は頭を抱えて、そのまま後ろにひっくり返った。足をばたつかせて悔しがる様は大きな子供のようだ。その様子を見てランドールは毒気を抜かれ、。金の瞳も藤色へといつもの顔に戻っていた。ただ一人、索冥だけはぴくりと方眉を跳ね上げ、剣の鞘に手をかけた。
「大丈夫だ索冥。こいつは俺に平伏する」
「どっから出るの、その自信」
「ならば、刃向かってみるか?」
 ランドールがシニカルに笑うと那備は大手を振って後ずさった。
「結・構・だ!『金目の公嵐』に勝てるかっつーの!いいよいいよ、わかった。下ってやるよ。面白そーだし。何でもやってやるよ。ったく、結構好みの顔してる子が俺のこと嗅ぎまわってるっつって喜んでたらあの嵐弩だし。何よ?いきなり攻撃しなくてもよくねー?このところ性格悪い女に飽き飽きしてたしさー。そうだ!俺別に男でもオッケーなんだけどちょっと一回どうよ後悔させないって。つーか、目的何だよ」
 捲し立てるように話す那備にランドールはぽかんと呆れ、索冥は立ち上がってランドールの前に出た。私の予測は外れていなかったかもしれない、と索冥は胸中で悪態をついた。
「何よアンタ?ただの用心棒が何の用?こんだけ強いんだから嵐弩にアンタなんかいらないんじゃないの?」
「下郎風情が吠えるな」
 見下した索冥は言葉少ないが、威圧だけはランドールに引けを取らなかった。が、那備にはあまり関係ないようだった。
 索冥は那備を見据え、額の霊印を通じて流れ込んできた情報を分析した。王の生命を脅かすような敵にはならない。それは解ったが、初めて感じる不快感に軽く頭を振った。那備には、断定できない二種類の未来のようなものがある。漠然とそう感じた。
「なぁなぁ嵐弩、俺に何させたいの?」
 にこにことまとわりつく那備に、ランドールは伝家の宝刀なんか抜くんじゃなかったと後悔したが、そんなことは後の祭りだった。

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「自分だけ先へ進み、身勝手に家臣を置いていくことを慎んでいただきたい」
 那備と別れ、宿の部屋に戻ってきた途端、開口一番に索冥がランドールを責めた。
「そうか?身勝手なのは王の特権だろう?」
「ええ、そうでしょう。しかし、自ら危険に飛び込んでいくとは言語道断。貴方がそれほどまでに愚かな行為に出るとは失望しました」
「この私が、『愚か』だと?言ってくれる」
 テンクーンは消えている。主が戻ったので住処へ帰ったのだ。
「那備の未来は二股に分かれています。敵ではないが味方でもない。判断を誤ることはないよう」
「利用できる駒は使えるときに使う。危険になったら切り捨てるだけだ」
 どこまでも平行を辿る言い合いに諦めたのは索冥が先だった。口で負かすことは不可能だ、と索冥は初めから理解していた。ランドールは索冥に計り知れない思想が根付いている。それを打ち明けもせずに自らの判断で先へ先へと進んで行ってしまうのだ。索冥にはそれが歯がゆく苛立たしい。だがそんな索冥の気持ちを、ランドールは知っていて何もしなかった。
「あの力は何ですか?貴方に第一に仕える者として、いい加減お教え願いたい。雨が降ると自ずと解る、そうおっしゃいましたでしょう」
 今は藤色の瞳を見つめ返し、索冥は真剣に問うた。
「『天から生まれ落ち 地に浸透し 闇で培われ 空に帰還する』者。天と雷の性を併せ持った嵐呼ぶ堕天使、鴻嵐鵠(コウランコク)と云う」
「天の聖霊に堕とされた凶鳥。名前ならば知っています」
「さすが覡魁。その鴻嵐鵠はおれの望みを叶えるために、おれと同化している。お陰でおれは魔力も無しにあんな芸当ができるのだ」
 ランドールはどこか自嘲気味に吐き捨てた。やっと睡眠をとれるので、マントや上着を脱いで壁の釘に引っかけていく。その後ろ姿に索冥は静かに問いかけた。
「だから私を憎んでらっしゃるのですか」
 身の内に魔物を飼った主の動きがぴくりと止まった。
 鴻嵐鵠、天上を舞っていたころはもっと美しい名前があった。鴻嵐鵠は天の聖霊の妹であり弟である。性別は存在しない。気性は荒く人々を足蹴にするようなその行為に、天の聖霊は心を痛めた。だが、鴻嵐鵠は破壊の天使ではないし、その性格は悪でもない。常人に捉えられぬ器官で考えられた行動だ。しかし天の聖霊は鴻嵐鵠を許さなかった。聖霊の世界では位が全てを左右する。鴻嵐鵠力は莫大だが、天の聖霊より位は低い。拒否拒絶で争おうも、はなから勝てる戦いではない。恨みがましく姉であり兄である聖霊を凝視しながら、鴻嵐鵠は天空より地底へと堕ちていった。それからの鴻嵐鵠は想像に絶する生き方だった。その執念、妄執に身を焦がし、復讐のために自力で地上に這い上がってきたのだ。だがその後ぱったりと消息が消えてしまった。自由になった鴻嵐鵠は一体何が望みだったのだろう。
「…………」
 ランドールは深く息を付いて索冥から目を反らせた。
「沈黙が答えですか?愚かな」
 いつかのランドールの台詞とそっくり似せて、索冥は吐き捨てた。痛烈な皮肉に聞こえたランドールは、眉間にしわを寄せてふるふると首を横に振った。
「……燕雀(えんじゃく)には分からん」
「は?」
「………お前は、燕雀」
 ぼそり、とランドールは呟いた。その仕草は何故か痛みを堪えるようだった。 
「…鴻鵠の志は理解できんだろう」
 遠くを見るようなその瞳は藤色のそれではなく、烟る様な金色をしていた。

  

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