小さな翼の少女 - 3 -

The Horn Tablet [ The girl of small wings. ]

 少女が消え去ったその場をじっと見つめていたリディジェは、答えを求めるようにセツを仰ぎ見た。
 原因を知っているような、納得気なセツはリディジェの頭を撫でる。
「……『ゼファ』って何だ?」
 自分をまだ未熟なように扱われたと思い、リディジェは頭上の手を振り払う。
「そよ風」
 人を小馬鹿にしたような笑みを張り付かせ、セツは鼻で笑った。
 そう言われても納得できない。しかめ面になったリディジェは、溜息をついて少女の家だった建物を見つめた。気が付けば日が傾いて、白い建物を桃色に変えている。
 若い女性の嗚咽と叫び声が、戻ってきた風に乗って聞こえてきた。周囲のざわめきが元に戻っても、泣き叫ぶ声に気を留めるものは何処にもいない。
 リディジェは泣き声を聞きながら、少女が消えた木のふもとを見つめた。しばらく黙ってその場を凝視したが、結局何も見つからなかった。立ち去ろうとしたその時、泣き声を隙間から漏らし軋んだ音を立てて、木製の扉が開いた。
 扉から出てきたのは年老いた女性。曲がった背中の肩胛骨からは灰色がかったまだらの翼がはえている。同じ灰色の髪を結い、悲しみに暮れたように細い枝のような指を目元によせる。
 ゼファの言う「おばあちゃん」てやつだな、とリディジェは老婆をじっと見つめた。視線に気付いたのか、老婆が二人の方へと視線を向けた。大通りに比べて半分以下の幅しかない路地の公園、翼の無い二人は道に迷った観光客とも見えるはずだ。だが、老婆はリディジェを通り越し、聞き取れない囁きで何か呟きセツを見つめて硬直した。
 老婆の視線を追うようにセツを見上げたリディジェは、殺気すら込めて不適に笑う主の横顔を目の当たりにした。本能的に畏れを感じるようなその気配に、肌が泡立つ。
「長生きは、損するぜ?」
 ざらついた金属的な声。
「おぬしは…未だその姿で生き続けるのか!?」
 断末魔に似た老婆の叫びは、怒りと悲しみが含まれている。
「我らをあれだけおとしめて、まだ足りないと言うのか!?おぬしなど翼のみならず、ずたずたに引き裂いてやればよかったのだ!!」
 老婆の侮蔑を聞きながら、セツは笑みを深くしていく。場違いな微笑みに、リディジェはかける言葉を失った。
「永遠に呪われて生きるがいい、セツァゼフィルス―――!!」
 その瞬間、老婆の身体は幾本かの槍に串刺された。地面から伸びた円錐が、ぼろ雑巾のようにその身体を翻弄し、どす黒い血液が円錐に染み込んでいった。
 悲鳴も音も無かった。
「………マスター…?」
 不適な笑みをたたえたままでいる主を、怖々と呼ぶ。
 呪文も何もなく魔術を発動させたセツは何事もなかったように老婆に背を向けた。いつもと変わらない金属的な声で、いくぞ、とリディジェに呼びかける。
 路地の暗がりから賑わう明るい大通りに戻る直前、セツは笑みを浮かべて囁いた。
「地面に下りた鳥の末路は長くはない。空という逃げ場を失った老いた鳥ほど哀れな生き物はいないな」
 地面から伸びていた槍が消えると、どさりともべちゃりともとれる濡れた音を立てて老婆の遺体が地に落ちた。灰色の翼はどす黒い赤に染め上げられている。
「行くぞ」
 早足でとっととその場から歩き出すセツに遅れないように着いていくが、リディジェは振り向かずにいられなかった。
 自分は今からでも老婆のもとに駆け寄るべきなのだろうか、それともこのまま主に付き従って老婆を見捨ててしまうべきか。
 琥珀と青緑の瞳には迷いがちらちらと浮かんでいる。セツはそれに気付いていたが、何も言わない魔獣にあえて答えは差し出さなかった。
 結局リディジェは、主に付き従う事を選んだ。

***


 初めて見た海と船と、そして船酔い。

 昼間の暑さからうって変わって肌寒い風が霧を運んできた。辺り一面の白いもやの中、リディジェとセツは甲板の上にいた。星さえ、見えない。
 プルヤルピナ領商業都市港ポポリシェナから、神聖ミネディエンスのディアナポートまでは三日。一等から三等までの船室があり、二人は二等の個室をとっていた。200人まで客は乗り込むことができるが、今の利用者はその七割程度だった。
 船は視界が悪くても、風が無くても運航できる。
 漁船などの小規模の船舶には存在しないが、大型船舶で長距離の航海を目的としたものや、定期的な運行が目的の船には、羅針士と風向士と呼ばれる魔術師達が位置を確認し風を起こす。また、魔物や海賊から防衛するために用心棒の魔術師が船内をうろついていたりもする。
 少女の家の前に老婆の死体を放っておいたので、ポポリシェナは一時騒然となった。だがセツは隠れるわけでもなく実に普通に商店で食物を買って、何食わぬ顔で定期船に乗り込んだ。主の代わりにリディジェが内心狼狽えたほどだった。
 何となく必要以上の会話を交わさなかった二人だが、船が動き出してしばらくしてからリディジェが不調を訴えた。
「船酔いの可能性は考えてなかったな。気分はどうだ」
「……だいぶ良くなった」
 自然風は凪いでいたが、風向士の起こす魔術による風が連絡船を緩やかに滑らせていた。その移動感を初めて味わったリディジェは平衡感覚の異変に、二本足ではなく四本足の獣の姿になれば良かったと思った。
 水分をしっかりと含んだ霧は、海から立ち上って甲板の上にも漂っていた。所々柱からぶら下がったランプの光が、ぼんやりと暖かい光を滲ませている。
「アンタは、何のために俺を連れる?」
 備え付けの椅子の背もたれに身体を預けて、ぶっきらぼうにリディジェは呟いた。
「何故従わせようとする。何故殺さない」
「何を今更」
「今更かもしれない。だけど、常に苦痛と混乱の隣り合わせだった頃に比べて、今は驚くほど思考がすっきりしているから考えられる。アンタは何故俺を連れるんだ?俺は人間じゃないが、全く人間の血が混ざっていないわけじゃない。人間は契約に縛られないことを、アンタは知ってるんだろう?」
 一気に疑問を吐き出したリディジェは、隣に座るセツの言葉を待った。セツはといえば、撥水加工を施した革手袋を片方だけ外して特殊なオイルを擦り込んでいた。
「何故、何故、何故。まるで子供だな」
「茶化すなよ、マスター」
「威勢がいいな」
 真剣に取り合わない態度で、セツはくつくつと笑う。
「俺は何も知らない。知らないなりにアンタに聞く権利がある。アンタから離れようと思ったら、かなり大変だができなくはないと思う。それをやらないのは、俺には目的が無いからだ。アンタが俺を従わせるのなら、アンタの目的が俺の目的にもなる。なのにアンタは何も明かさない。俺は好奇心を感じないような低能ではない」
「主従契約に平等はない。俺はお前の疑問に答えてやっているだろう。それでも不満か」
「俺は道具にも奴隷にもなったつもりなはい。それに、アンタは自分の都合の悪いことに対して過剰に反応しすぎだと思う」
「獣がこの俺に御注進だとはな」
「せめてアンタが何者かわからなきゃ、アンタの手足になれないだろう……」
 まじめに乗ってこないセツの雰囲気に、いささか嫌気がさしてきた。何も束縛のない今のリディジェスターは、自分の大部分が傷つくとしてもセツを殺して逃げることさえ可能だった。なぜそうしないのかは、ただ単にそうする理由が見つからないだけであることと、出会った印象の所為で逆らいたくないだけだ。むしろ、人間はキュヴィエしか知らないだけに、セツに一定の好意を抱いている。
「俺の目的が、お前の目的、か。まさかお前がここまで俺を信用するとはな。この可能性も考えていなかった」
「……マスター」
 にやりと笑ったセツは、革の手袋を下の腕に戻した。
「いいだろう。教えてやる。俺は過去に縛られた人殺しだ。俺が求める物は『角刻版(ホーンタブレット)』という失われかけた碑文」
「『角刻版(ホーンタブレット)』……?」
「それには精霊の命を止める呪文が書かれている」
「何に使うんだ…?」
「俺を生かし続けている精霊を殺すため」
 金属的な声で、セツが笑った。
「一度死んだセツァゼフィルスという名の、聖地パラシュメイアでかつて大僧官だった男を生かし続ける葉姫ガルナを解き放ってやるため」
「一度死んだ………?」
 リディジェは咄嗟に振り返った。
「巫女(ガルナ)との不義密通で翼をもがれて串刺しだ。なかなか個性的だろうよ」
 鼻で笑って、セツは髪を掻き上げる。萌葱色の髪は、霧の湿気で湿っていた。

  

セツって、いっつも笑ってる気がします。泣けないと、笑うしかない。
2003/08/02

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