束縛の騎士団 - 1-

The Horn Tablet [ The Knights of bind ]

悲鳴を覚えている。
痛みを覚えている。
絶望を覚えている。

殺してやる。

***

「よぉ…」
 かけられた声は濃厚な邪気を含んでいる。
「エルドーアン」
 セツは短く呟くと足を止めた。
 神聖ミネディエンスの首都ミネディールに着いてから、その気配はセツを追っていた。良く知った気配。それは決して心地よい物でも懐かしい物でもなく、むしろ消してしまえるのなら消してしまいたいような代物だ。
「今度は何を手に入れた?」
 瘴気を含んだそよ風が木々に悲鳴を上げさせた。
「何時になったら堕ちてくる?」
 けたけたと楽しそうに笑う。
 人は眠りについた時間。リディジェスターも宿で眠っているだろう。
「俺は既に堕ちている」
「私の元へ下らないんなら意味がねぇ」
「悪魔に魂は売らんさ」
「お前も悪魔と変わらんだろうよ。それとも、あの犬を代わりに堕とそうか」
 血のように紅い唇が、闇夜に映えた。月明かり一つない路地の影から、黒い霧のような物がセツの近くに寄ってきた。それはだんだんと人の形を取って、最後には黒い髪に黒い服を纏った男の姿になる。
「お前に連れがいるなんざ、信じられねぇな…。趣旨替えか?」
「お前にだけは言われたくないな、エルドーアン」
 エルドーアンと呼ばれた霧から発生した男は、その唇をにぃっと歪ませて、長い爪を持った指である一点をさし示した。
「稀代の錬金術師が造った魔獣。アレは私達の仲間に近いんだぜ?なぁ、俺によこせよ」
「断る」
 きっぱりと、揺るぎなく。
「あの犬に何を求める?何をさせる?」
 エルドーアンはセツの周りを滑るように移動した。その顔は美しいと形容して遜色ない。流れるような漆黒の髪と黒い瞳。そして鮮血をはいた唇。
「なぁ、お前より私の方が上手く啼かせられるぜ?」
 それは黒い悪魔。聖霊と正反対の性質を持った魔族の者。瘴気(ゼファ)。
「お前の代わりに、アレを堕とそうか?なぁ?」
「戯れ言はいいから、寝床に戻れよ、エルドーアン」
「私に対する口の利き方を考えろ」
 瞬時に温度を下げたその気配は、その長い爪をセツに向けて突きだした。
「………ッ!!」
 心臓を一突きされたセツは、血を吹きだす胸元を押さえて膝を突いた。
「頑丈だけが取り柄だよなぁ、お前はよ」
 笑い声と共にエルドーアンは塵と消えた。邪悪なる悪魔の笑みに、セツは舌打ちする。
悪魔の気配は消えていない。きっとあれはリディジェスターの元へ向かったのだ。
「………」
 もう一度忌々しげに舌打ちをして、口汚い罵りが口をついた。そのままセツは宿屋へかけだした。
 胸から流れ落ちる紅い血潮は、鼓動と共に塞がっていった。

「痛みだけは……消えないんだよッ!」

***

 セツがエルドーアンに出会ったのは、あまり思い出したくない昔のことだ。あれは十歳にも満たない幼子のころ。
 彼は、魔力の高い子供が常々そうであるように、人ではない者達を目にすることがあった。元々僧官の家系である。しかし、セツのそれは普通よりやや異なっていた。魔神の血を継いでいるカーマ人と違い、プルヤルピナの有翼人はあまり魔力が高くはない。セツの魔力はあまりにずば抜けすぎていて、いくら僧官の家系とはいえ異常だと大人達を畏怖させた。
 力の制御の仕方は、人間よりも人間でない者達の方が上手く教えてくれた。それが拍車をかけた。セツは知らず知らず、大人達の恐怖の的にされ、その仕打ちはあまりに酷い物になった。
 子供心に攻撃を教えたのはエルドーアンである。エルドーアンは目に見えない物の中でも類い希なほど邪悪だった。神聖と邪悪は紙一重である。幼いセツはそれを見抜くことができなかったが、エルドーアンの囁きには乗ることはなかった。何故なら、彼の傍には常に『大樹の姫神』がいたから。
 セツを疎んじた人間達を諫めた『大樹の姫神』によって、セツはそれまでとはうって変わった生活を送り、成長と共に僧官として出世を繰り返し、成人になったときには既に大僧官の地位を手に入れていた。
 セツにとって目に見えない者達の一人であった『大樹の姫神』は、目に見える存在として近付くことになった。その姫神と接し会う時間が増えるのは必然。
 誤解は多くの悲劇を生む。
 むしろ誤解を隠れ蓑とした妬みが血を流させた。
 全ての僧官達は糾弾という名で弑虐を行った。
 年若き大僧官を、殺そうと。一瞬躊躇った彼の翼をもいで、死の淵まで追いやった。
 その時初めて、セツはエルドーアンの囁きを実行した。愛した女の命を代償に。
 堕ちることは何一つ怖くはなかった。死にたくはなかった。
 宗教という名の束縛など、初めから必要とはしなかったのだから。

**---**---**

 主が部屋を出ていった気配は、なんとなく分かった。
 人間の姿をとっていると、獣のそれでいるより効率が悪かった。二本足で歩くより四本足で歩く方がバランスはとりやすい。それに、無駄な動きに伴う疲労感が付きまとう。それを主は、自分がまだこの身体に慣れていないからだと言うが。
 うとうとと睡魔と戯れる暗い室内に、一瞬にして邪気が充満した。
「……!?」
 かばっ、と起きあがって、リディジェスターは窓から飛び出した。
 重力に逆らわずにそのまま落下して、砂埃一つで着地する。三階にある、たった今飛び出してきた窓が壊れずに揺れていることを確認して、気配を探る。
 ゆらゆらと、揺れた窓から黒い『もや』のような物が、重みある煙のようなゆっくりさで地面に下りてきた。人間ではない感覚が、この『もや』は味方であると認識している。しかし、人間である器官が、最大限の警戒を促していた。
「さすが、あの女の遺品だ」
 『もや』が人の形をとった。紅い唇でにやりと笑う。
「自由になりたくないか?」
 その邪悪な気配に反する聖者のような表情で、エルドーアンは青白い手を差し出した。
「私は、お前を自由にしてやれるぞ」
 真夜中の訪問者は、リディジェスターに笑いかけた。
「………何者だ」
 真意が読めずに、着地したままの姿で問うと、エルドーアンはただ首を傾げた。黒い男から目を離さずに、リディジェスターはセツの気配を探る。驚いたことに主がすぐ側に近付いていた。
 主の元へ行くのが得策か、それともこのまま対峙するべきか…。
 死ぬか生きるかの切迫は感じない。だが無傷で済むほど甘くはない気がする。
「私の名を聞いたら、お前は私の物になるか?」
 物。
 瞬時に、リディジェスターは腹を決めた。起きあがる反動をそのまま跳躍力にして、人の形をした獣は、姿を現した主の元へ飛んだ。
「遅い!」
「黙れ、リディ」
 ちらりと主を顧みると、その服の胸元がどす黒く染まっていた。
「怪我したのか?」
「そんなもの既に治っている」
「…………あいつ、何なんだ」
 セツを守るように前に立ちはだかり、それでもエルドーアンを見据えたまま尋ねた。
「魔族だ」
「魔族!?何故こんな所に!?」
「俺に聞くな、あいつに聞け」
 半ば言い争うような口論を繰り返す二人を、黒い魔族は興味深そうに眺めやる。
「変わったな、セツァゼフィルス。私に殺されるがままだった、あの頃のお前を何処へ捨ててきた?」
「お前に付き合う気が失せただけだ」
 冷酷に吐き捨てたセツは、革手袋を片手だけ外した。
「やる気か?」
「お前次第だエルドーアン」
「その犬をくれよ」
「拒否する」
 エルドーアンの黒い瞳と、セツの黒い瞳がぶつかった。ぴりりとした緊張を孕んだそれが殺気だと気付き、リディジェスターは瞳を細めた。
 紅い唇が弧を描き、黒い身体が霧になり始める。
「行け、リディジェスター。奴を殺せ」
「………イエス、マスター」
 途端に、リディジェスターは獣の形を取った。夜に鮮やかな白い毛並みを持った、狼に似た大型獣が咆吼を上げ、地を蹴ってエルドーアンに突進する。鋭い牙で噛み付かれたエルドーアンは、堪えた様子など見せずに黒い塵だけを残して素早く移動した。
 その様子をしっかりと目に留めながら、セツは傍にあった大樹の幹に素手を這わせる。大木の葉は風もないのにざわりと揺らめいて、それに呼応するように、辺りにある木々という木々がその葉を揺らめかせた。
「ガルナの力を使うか」
 甲高い笑い声を響かせて、エルドーアンがセツを目掛けた。
「彼女の力なんざ必要ないさ」
 その爪を鋭い剱に変えた黒き魔族に畏れることもなく、セツは笑う。振り上げられた剣が降ろされた。白い獣が軌跡を残して駆けつける。その切っ先がセツを貫くことはなく、人の姿に戻りその腕を交差させたリディジェスターが両目に殺気を込めて受け止めた。
「邪魔するなよワン公」
「それは俺の台詞だ、エルドーアン」
 大木から手を放したセツは、霧ともやに姿をやつす魔族に向けたその手を振り上げた。
「自分の属性を考えろ、馬鹿め」
 言葉が終わらぬうちに、辺り一帯が光に包まれた。閃光より強力な、光その物が魔族を焼く。
 瘴気を纏わせた黒き魔族は身体の端から素早く消滅してゆく。盛大な舌打ちを残し、それでもどこか愉快そうにエルドーアンは笑った。
「こすい手ェ使うじゃねぇか…。魔導師なら魔導師らしく戦えよ」
「錬金術の応用だ。お前には使えない芸当だろ?」
「はっ!手品師に転向か?!大僧官!」
「本当に消滅させちまうぞ、早く消えろ」
 忌々しげに吐き捨てる。ふん、と大袈裟に鼻を鳴らして、エルドーアンは光の侵蝕を逃れるように姿を薄れさせていった。
「私はいつでも待ってるぜ」
 そんな捨て台詞を残して。
「……………マスター」
「無事か?」
「俺は、別に」
 煌々と照らし出された周囲に反して、空を見上げれば暗い闇がよりいっそう黒く見えた。不思議そうに見上げるリディジェスターの頬に、一条の傷が走っているのを目にしてセツは顔をしかめた。手袋をつけていない手を後頭部に回し、後ろ髪を引いて傷口に舌を這わせた。
「!?」
 訳が分からず固まってしまったリディジェスターにかまわず、セツは乾いた血を丁寧に舐めとる。そうしているうちに、いつの間にか光は消え去ってしまった。替わりに、金属の軋む音と、蹄鉄が地面を蹴る音と、強い魔力を持つ気配が近付いてくる。
「………来たな」
 ぼそりと呟いたセツは、革手袋をはめながら宿の方へ足を向けた。
「騎士団が着く前に部屋に戻るぞ」
「あ?……ああ」
 状況が把握できなくてただ頷くしかない。
 戻ってきた闇に上手く姿を消しながら、セツとリディジェは玄関ではなく三階の窓から室内に戻った。
 窓を閉め終わったときに、その眼下に見つけたのは四人の甲冑を身に纏った騎士達の姿。

「ナイツオブバインドだ」

  

ザ・名前負け。こんちくしょー!!
2003/09/30

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