土の女 - 2 -

The Horn Tablet [ Regina planities ]

 獣の都に人間用の宿屋が一つでもあったことに驚いた。セツは代金を払って奥まった部屋を借りた。宿屋の中は閑散としていて、使用された形跡が殆ど窺えない。しかし調度品がなじみ深い物であるから、来るべくしてこの地に訪れる者のために作られたものかと思った。
「随分と静かだな」
 足音も立てずに着いてくる魔獣に、セツは視線を向けた。
「不満があるなら言えばいい。『察する』なんて殊勝な芸当、俺にはできんぞ」
 他人の思惑など、知ったことか。人を殺すことも、何かを壊すことも、自分が傷付く事も、それらが全部どうでもいい事である。
 主従契約を結んだ者へ手招きし、沈んだ色を見せる二色の瞳を覗き込んだ。
「無理矢理、言わせて欲しいか?」
 どっかりとベッドに腰を下ろしたまま、近付いたリディジェスターを引き寄せた。言葉とは裏腹に、腰に腕を回して見上げる姿は、親が子にするような優しさが込められている。
 ん?と先を促しながら、いつになく上機嫌なセツの張り付いて仮面のようになった笑顔を見下ろした。
「俺に…何をさせたいんだ…?」
 声は震えていた。
 アンタに無理矢理従わされて、縋る者はアンタしか居ないのに、アンタは平気で俺を置いていこうというのだろう。
「不安か…?」
「俺は魔物だ。アンタは俺の主だ。契約を履行している魔物の、至上命令はアンタを守ること」
 僕が主を守るのは当然である。セツはそれすらも許そうとしない。旅に収穫が在るたびに、彼の機嫌は向上する。だがそれは死への旅路である。
 たしかに、束縛から解放を願うのならば、自分を殺せとセツは言った。だがいつのまにかそれが心地よいと感じるようになってしまった。
 主従関係とは違う、名前の解らない感情が渦巻いている。今、一番怖いのは一人になることだ。
「お前は俺から解放されたいだろう?それのついでに俺の躯ごと喰わせてやろう、というんだから、魔物にとっちゃ願ったりじゃないか」
 無責任に、何を言うのか。
「俺は、半分人間だ…。そんなもの嬉しくもない」
 触れられれば安心するのに、その躯を喰えといわれても嫌だ。自分はそんなことをしたいわけではない。
「俺とアンタは、表裏で等しいのに…」
 方や精霊、方や魔物。半分は人間で、同じ様なものだろう。
 それは何気なく呟かれた言葉だったが、セツはぴくりと方眉を跳ね上げた。

『それを叶う為にはまた等しい力がいる』

 ノームの言葉が甦った。等しく対になる力。ああ、そうか。そういうことなのか…。唐突に型がはまった思考。思わず苦笑が漏れて、自分はどこまでいっても最低な奴かもしれないと思った。
「リディ」
「………なんだよ…」
「確かめさせて、くれないか…?」
 見上げる黒曜石の瞳は、どこか邪悪さを含んでいた。

 日が暮れた室内では、明かりを灯すことが忘れ去られていた。
「…ぁっ…!」
 白い装束の胸元を全てひらいて、セツは薄い胸に舌を這わせた。ベッドに押しつけて、何をされるのかすら理解できていない獣を組伏す。主に与えられる刺激に、無意識に声が漏れた。
 汚れを知らないような白い、肌。獣の姿でも高潔な白を意識させる。しかし、その本質は魔物である。口で心で拒否を示しても、躯は忘れることが出来ないだろう。それを思い出させよう。
 そして願わくば、少しでも二人が混ざり合うように。
「人間の男と精霊の女。人間の女と魔物の男。表裏を全て足せば、俺達ほど等しい存在はないだろう」
 肌に唇を合わせたまま、セツは独り言のように呟く。
「俺の望みを、叶えさせてくれるだろう…?」
 くつくつと心底嬉しそうな笑い声が聞こえた。いつからか、作られたと感じてきたその音が、不思議と偽造のない物に感じる。
「マ…スター…?」
「不安か?…安心しろ。精々楽しませてやる」
 伸び上がって身体を起こしたセツは、リディジェスターの頬に手の平を当てた。包み込むようにして、唇を近づける。
「…んっ…!」
 口付けは何処か荒々しかった。飢えたような、貪るような舌が口腔を蹂躙し、リディジェスターの戸惑いを一層深くさせる。
 くちゅ、と何処か淫猥な粘着音を立てながら、セツは革手袋のままの手をゆっくりと確かめるように地肌に合わせてゆく。くすぐったいのか、ぴくりと身体が跳ねる度に愉悦を感じずにはいられなかった。
 そういえば、この魔獣を手にしてから花街に出向くことすらしていなかった。目的が形を表したことで、性欲を忘れていた。
 今まで、手を出さなかったというのも不思議なことだ。
「は…っ…」
 厭らしく糸を引いた唾液を舐めて、セツはベッドに埋められたリディジェスターを見下ろした。
 二色の瞳は今閉じられ、その目尻は朱に染められている。浅く呼吸を繰り返す唇は、ほんのり色付いて熟れた果実を思わせた。つ、と指を滑らせれば、形良い柳眉が寄せられる。そう言う仕草が全て、誘っているようで。
「リディ」
 耳元で低く囁いてやれば、ビクリと肩を竦めた。開いた瞼の奥で、森と空の瞳が濡れている。不安そうに揺れる視線の先は、確かに主に向いていて。
 ひどく、堪らない。
 何も解らなくなるほど、泣かせてしまいたい。
 首をもたげた欲望に、己が興奮していることを嫌と言うほど思い知らされた。半ば実験的に身体を繋げようかと思ったのに、無理そうだ。
「…リディジェスター」
 囁いた声は、掠れていた。いつもの硬質なそれではなく、欲望を滲ませた主の音質に驚きを隠せない。ともすれば、怯えてしまいそうで。リディジェスターは震えそうになる指を、拳に握ることで耐えた。
 軽く開かされたリディジェスターの足の間で膝立ちになり、セツは見せつけるようにして革手袋の紐をゆっくりと外した。中指を歯ではさみ、するりと銜えて手袋を脱ぐ。
 一番の触覚である手の平。様々な情報を読みとれるそれで、暴いていく。
「ッ…、マスタ……?」
 知識は知っていても、行為とそれが繋がらない。与えられる心地よさと、未知の恐怖で涙が出そうになる。
 散々肌を撫でていた指と唇に気を取られて、ズボンに手をかけたそれを止めることが出来なかった。
「ちょっ…や、め…」
 咄嗟に両足を閉じようとしたが、簡単に押さえ込まれてしまった。
「ひぁッ」
 浅く反応しかけていた熱の中心を舐め取られて、小さな悲鳴が口をついた。
 ここに来て漸く、リディジェスターはこれからされるであろう事を理解した。いくら何でも、漸く。いくら藻掻こうとも根本的に従うしかできなくて、魔獣は焦りを見せた。こんな事をされる関係では無いはずだ。
「あまり暴れるなよ…?」
 喉の奥で笑う声が聞こえて、怒りとも羞恥とも付かない感情が沸き上がる。リディジェスターは握った拳に力を入れ、不意に出る声さえ漏らすまいと歯を食いしばった。
 そんな小さな努力に瞳を細めて、セツは良いように僕を嬲る。久しぶりに味わう他人の肌に、己の確信を確かめるために。
 魔導師の使い魔に成り下がることを甘受した獣は、最期まで主に利用されるのだろう。それすら本当は気が付いているのに、必死に顔を背けている。
 従順に付き従う理性と、喰い殺してでも束縛を是としない本能。リディジェスターは本能を押し殺していた。最近では全くと言っていいほど獣の姿にはならず、脅えにも似た恐怖を感じながらセツの背を追った。
 終わる事のない、苦しみを。考えたこともないような物を背負った広い背。自分はその荷を下ろすことができる、らしい。できるのならば、否やはない。
「…っん…、…ぃッ…」
 さすがに、悲鳴じみた物が零れた。
 身の内で快楽を知らされ、そこを散々弄られて、自分でも持て余す程どうにも成らなくなった後で、セツは自嘲気味な笑みを唇に乗せてリディジェスターと身体を繋げた。
 膝裏を持ち上げて、自身を全て埋めて。浅い呼吸と微かな嗚咽を漏らす唇を奪った。
「ぅ…んっ……ッ…、ン、んっ…!」
 塞がれた唇の所為で喘ぎは鼻にかかる甘い吐息に消えた。
 体内を貫いた熱が引かれ、ゆっくりと穿つ。十分過ぎるほど解されたそこは、過度の痛みを訴えることは無かったが、圧迫感と確実な快楽を生んだ。
 訳も分からず、リディジェスターはセツに縋り付いた。震える指が爪を立てる。
 繋がったまま揺さぶって。こぼれ落ちた涙を舐め取って。とりあえずは、目の前の快楽を追うことに専念する。
「…ぁ、ッ…マス…タ、ぁっ…」
「……何だ?」
 聴覚を冒す低音を鼓膜にそそぎ、濡れた音を聞かせるようにその耳を嬲る。
「解る、か?解るだろうな。半分とは言え魔物だ。感じないはずは無い」
 笑みを含んだ唇は、リディジェスターの仰のいだ喉を噛んだ。首の付け根、鎖骨へと下っていく。証明して見えるような自然さで肌に痕を残していった。
「悦い、ぜ…?」
 その囁きにぞくりとした。背を駆け上がる痺れに似た快楽。淫蕩である魔物の性が、容赦なくリディジェスターを打ちのめしていく。
 他人に犯されるなどと抵抗する人の心と、貪欲に楽しもうと熱を貪る身体が危うい拮抗を保っている。
「………気に入った」
「っく……ゃ…、ん…あっ……ァ!」
 ぎしりとベッドが軋む音が聞こえる。それを掻き消すような心臓の鼓動と、喘ぎ混じりの呼吸。一段と羞恥を煽るのは、擦れるたびに淫猥な印象を与える粘着音。
 動きは次第に乱暴になってくる。促すような指がリディジェスターの熱に絡み、ちょっとした刺激でも感じ取って内部を締め付ける。
「リディ…?」
 律動の間に問えば、欲情に濡れた二色の瞳が辛そうに揺れた。焦げ付きそうな体を持て余して、何度もセツの名前を呼ぶ。
 身体が溶けそうで、言いようもない快楽で、リディジェスターはおかしくなりそうだと啼いた。
「受け入れろよ、全部…な」
 凶暴な男の顔をしたセツが、唇を舐めた。腰が浮くほど突き上げられる。
「や…、あッ――――――ぁあっ…!」 
 一番感じる所を的確に抉られて、リディジェスターは一息に高みへ上り詰めた。弾けた余韻で内部を振るわせて、その物欲しそうな動きに触発されたセツが、舌打ち混じりに欲を解放する。
「…ァ…?」
 体奥に熱を感じた途端、それは不思議な感覚だった。単純な異物感ではなく、もっと異質な何かが入り込んでくるような、鳥肌の立つような感覚だった。
 自分の中に、混ざり込むような…。
 眉を寄せて微かな不快を現したそんなリディジェスターを見下ろしながら、セツは何かを企むようにニヤリと笑った。

***

 寝台を抜け出して、リディジェスターはノームの祠が見える丘の上で月を眺めていた。
 燻るような身体の熱が煩わしいと感じるのが半分、心地よいと感じるのが半分。あれから、過剰なまでの触れ合いを繰り返した。セツが放してくれなかった、という方が正しいかもしれない。
 セツの背には、二対の傷があった。肩胛骨を覆うような傷跡だ。人によってずたずたに切り落とされてしまった、翼の痕。
 消えない傷。それを思い出して、眉根を寄せた。一体、どんな生き方をしてきたのだろう。自分がその場にいたら、あんな傷が残ることをさせないのに。
 ぎゅ、と自分の腕を握りしめた。
「あやつ…、一番卑怯なやり方を選びおったな」
 唐突に、声が聞こえた。ノーム、ゲオだ。これだから男は…、と呟く声が聞こえる。
「卑怯…?」
 背後を振り返れば、藍色の民族衣装の裾を揺らしながら、薄い微笑を浮かべた土の精霊が立っていた。あの祠から出てきたにしては、その姿は見えなかったのだが。
 足音も立てずに近付いてみると、ノームが長身であることがわかった。すらりとした体躯に二つのふくらみが女性らしかった。
「お主は、何も知ろうとはせぬのか?あやつの望みを叶えることに、何の疑問も抱かぬのか?」
「…俺は、従うだけだ」
「それは利口ではない。怠惰じゃな」
 そう言われても、文句は言えなかった。セツが与える物に逆らうという意識はない。従うだけで良いというのは、甘えに過ぎない。
 それでも、
「セツの望みを叶えることが、俺の望みだ」
「あやつがお主に殺してくれと言ってもか?」
 腕を組んだノームは、きつい視線で見下ろした。
「それが………、主の望みと言うの…ならば」
 漸く絞り出した答えは、震えていた。
「お主は魔の魂を持っている。契約に従い、主の血肉を喰らう権利がある」
「わかってる…。わかってるけど、俺にそんなことが出来るわけない…」
「出来る出来ないに関わりなく、魔族の契約には逆らえぬよ。我ら精霊の魂を縛り付ける肉体を喰らえ。そのためにあやつは卑怯にもお主と肌を合わせているのだろうから」
 ノームは無慈悲だ。だが、彼女は常に正しい。
「…え……?」
「その身を近づけ、互いを分け合い、比重を同じにしている。おぬしが受け入れれば受け入れるほど、貪欲に精霊の気を身に貯めることができる。ホーンタブレッドの起動を易くするために、な…」
 肉体だけではなく、その想いもより重くなることだろう。
 しかしノームはそれを告げることは出来なかった。ホーンタブレッドを動かすには、情が必要である。
 愛する者に殺させる、それが引き金になる。精霊を作った者は、その制作物を殺すことが忍びなかった。だから最も残酷な方法を残した。葛藤で身を焦がすような方法を。
「卑怯じゃな……」
 応えを求めない囁き声に、リディジェスターは拳を握った。

***

 錬金術師は薄々気が付いていた。
 紙煙草を銜えながら、自嘲的な笑みを浮かべる。何処までも従順な犬は、恐らく望みを叶えてくれるだろう。そのために、出来る限りの技量でもって愛を囁いている。
 契約よりも強い、無償の物を付加するために。
「俺の内の精霊を喰い、それの履行が解放になる」
 ホーンタブレッドの答えは一つではない。それは持つ者によって詳細を異ならせる。だが、結果と基本的な方法は変わらないのだろう。
 煙を吐き出して、闇夜を睨み付けた。
「……死相がでてるぜ」
 窓ガラスに、珍しい人影が映り込んでいた。
「エルドーアン」
 純粋な、魔だった。恐らく背後を振り返ったとしても、そこにその姿を見いだすことはできないだろう。
 彼はただ、その闇の姿をガラスの中に映しこませていた。彼は狡賢だ。この地で姿を見せてしまえば、たちまちノームに攻撃されることを解っていた。
「私の仲間になれば、死など超越できるのに、お前はことごとくその機会を無視するな」
「俺は、生きることに価値を持ってない」
 吐き捨てるような言葉に、魔物は紅い唇を吊り上げた。
「お前が死んだら、その魂を研磨してやろうか…?」
「虫酸が走るな。俺の魂は俺の物だ。再生させずに消滅させるさ」
「忌々しい精霊の魂だ。お前が人の血で穢れていくたびに、その身体は病んでいく。どうせ死ぬなら、村と言わず街と言わず、この地を壊滅させた方が早いだろう?」
 知っていた。
 精霊は殺せない生き物だ。それを冒すことで、少なからず己が損傷していることを。
「生まれてから死ぬまで、お前は私の思い通りにならない」
 エルドーアンは忌々しげに吐き捨てた。
 セツは紙煙草を深く吸い込み、闇の写るガラスに吹き付けた。

「俺は、こんなナリでも人間だからな」

  

2004/08/30

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