Koerakoonlased - 3 -

Koerakoonlased "Radid Canine"

「お」
 まだ薄暗い室内に、奇妙な子供の声が響いた。
「うぉぉおおおおお」
 カウチのクッションの上に移動させられていた使い魔のシャプトゥースは、夢から覚めていつものように食料を漁った後――空いた酒瓶とつまみの残りしかなくて結局あきらめたのだが――、主人であるミラビリスの寝室へやってきて思わず叫んだ。叫んでから、思い出したように自分の口を塞ぐ。
「おお、ついにミラが童貞を捨てたか。いや、この場合どっちだ処女か」
 顎と腰に手をあてて感慨深げに頷く。空中で。
 羽音も静かに近寄ったシャプトゥースは、一人用のベッドに眠る二人分の山を覗き込んだ。
 黒髪はミラビリスだろう。その黒髪を抱くように回された腕の持ち主の髪は白い。ユージーンだ。日に焼けていない白い腕には傷跡が幾つか残っている。剥き出しの肩と手首には、黒い色で刺青が施されていた。長めの髪がかかる首の付け根にもある。どこか犬科の動物を彷彿とさせる幾何学模様。これはミラビリスの顔にあるものと同じ、霊印だ。
 どうしてそこまではっきり解るのかといえば、ユージーンが上着を着ていないからだ。
 二人の頭上を一周した悪魔は、眉間に皺を寄せて腕を組む。ふむふむと一人頷いて嘲笑を浮かべた。見る者が見れば霊印の本性が大体読める。
「こりゃまた、とんだ狂犬だ」
 悪魔の脳裏には十数年前のユージーンが浮かんでいた。当時は発育の悪い餓鬼のくせに、妙に威圧感を感じると思ったが、これで頷ける。根本的なところは変わっていない主人と違って、随分育ったものだ。外も内も。
「獰猛な犬に喰われたもんだなぁ、ミラも」
 切なさなどではなく、笑いを堪えるように肩を震わせて小悪魔は胡座をかく。にしししし、と悪戯っ子のような含み笑いが口から漏れていた。
「ひとのこと犬呼ばわりなんてするもんじゃないよ、羽虫君」
 掠れた低音が返り、シャプトゥースはびくりと肩を揺らした。長くて先の尖った尾が逆立っている。
「起きてやがんのかよ、いけすかねぇ」
「職業柄、ね」
 その腕に抱いたミラビリスを起こさないように声を抑えて、まだ熟睡している青年の額に口付ける。
「昨日は俺が曝睡してる間にお楽しみか?え?」
「さあ」
 シャプトゥースにとって主は契約者で仕える対象だが、素行に関しての制約は無い。むしろ、性交などで発散される気は悪魔にとってはご馳走だ。乱交でもしてくれたほうが喜ばしい。けれど自分の魔力が満ち溢れているわけではないので、何も無かったのではないかとも思う。いや、相手は魔導士だ。結界のひとつふたつなど造作も無い。
 などと埒もあかない事を考えつつ、白髪の頭上に漂う。霊印のある手首がミラビリスの髪を梳いていた。使い魔からユージーンの表情は見えないが、にやけている気がする。本当にいけ好かない。
「ミラの立場は危うい。護るなら半端はやめろよ?全部護れ」
「いきなり何」
「お前が火種になる。平穏を乱す。なんたって剣聖だからな」
「そんなものなる気無いって」
「望む望まざるに関らず。本気で嫌ならカーマを出ないとな。ミラを置いて」
「連れてくよ、出てくなら」
「軍とマクミラン家を敵に回して?ミラビリスを悲しませるのか」
 小さな悪魔は随分強気だ。魔力でいえばミラビリスに遠く及ばず、ユージーンにさえ届かない。むしろこの軍にいる限り、たいした悪さも出来ないだろう。その割にシャプトゥースは従順さが無い。思うところがあるユージーンは、しかし胸中にそれを留めて口に出すことはしなかった。
「剣聖は諸刃だ。けど上手く使えばこれ以上無い武器になる。ミラを護るのに」
「…ミラビリス以外はどうでもいいんだけどなぁ」
「それが本音かよ」
 小悪魔が笑った。その声が漸く耳に届いたのか、ユージーンの腕の中でミラビリスがもぞもぞと動く。
「うー」
 駄々をこねる子供みたいな呻き声。
 微笑ましいけれど悩ましい姿に、ユージーンは苦笑する。寝起きの曖昧さで誤魔化せる自信があるから、少しばかり味見をしてしまおう、と。
「ぅお」
 シャプトゥースが驚嘆の声を漏らした。けれどその瞳は楽しそうに輝き、猫のように尾が揺れている。
 顎をとってミラビリスの顔を捉え、瞼を閉じて繋がる霊印を唇で辿る。微かに開いた唇を舐め、舌を滑り込ませた。
「ンぅ、…?」
 目が覚める。そのぎりぎりでユージーンは離れた。何事も無かったような顔で微笑みかける。
「おはよう、ミラ」
「あ…?ああ、おはよう」
 きょとんとした顔で答えるミラビリスは、目の前に上機嫌の幼馴染が居るという事実を飲み込めなかった。何故だと考えて思い出すために脳をフル回転させる。
「ああ、そうか。お前が床で寝るとか言い出したからか」
「…床でも平気なんだけどね、ほんとに。野宿とか慣れてるから」
「いや…」
 これでは昨晩の二の舞だ。
 客用のベッドが無いから自分のベッドを譲ろうとしたミラビリスをユージーンは必死で止めた。ならカウチで我慢してくれないかと聞けば、床でいいから傍に置いてくれと言う。なんとか思いとどまらせてカウチの上に座らせたのだが、ミラビリスがうとうとしている間にユージーンはベッドに背を置き、剣を抱えて傍に居た。
「近くに居ないと護れないから」
「もう子供じゃないんだけどな…」
 というか、上半身裸の男と同衾しているというのは非常に落ち着かない。それを口に出すのも憚られるので、どうしたものかとミラビリスは悩んだ。
「つうか、なんで裸」
 主を代弁するかのように、小悪魔が呟く。早起きとは珍しい。そんな事を考えながら、ミラビリスはシャプトゥースと朝の挨拶を交わした。
「着の身着のままで旅してるもんで、寝巻きとか持ってないんだよね」
「ミラに借りればいいじゃねぇか」
「借りたんだけどね…」
 言葉を濁すユージーン。ミラビリスは眉間に皺を寄せている。起き上がった二人はベッドに腰掛けて距離を置く。黒髪を数回撫でたユージーンは、立ち上がって眠る前に外した装備を身に付け始める。いくつか傷跡の残る身体は実用的な筋肉で引き締まっている。シャツとリストバンドはまるで、霊印を隠すよう。どうも直視できなくて、ミラビリスが視線を外す。
「大は小を兼ねるけど、小は大を兼ねなかった、かな」
 控えめで遠まわしだが、内容は明白だ。
「ぎゃははは!ミラは小っちぇもんなぁ!」
 ユージーンの体格と見比べて大笑いしだした小悪魔を睨みつけながら、ミラビリスも着替えに立ち上がった。
「ジーンがでかいだけだ。それに大きさでお前に言われたくはない。この羽虫」
「えぇぇいお前等!ひとのこと羽虫羽虫って、悪魔に対してなんて言い草だ!」
 髪を逆立てて怒りながら、シャプトゥースはミラビリスの周りをぶんぶん飛び回る。
 あらかた着替え終わったユージーンは、寝巻きを脱いで魔導士らしい衣服に着替えるミラビリスを後ろから見つめていた。カーマ人らしい白い肌。全体的に細い作りなのか、首も腰もスリムだ。艶っぽい黒髪と相まって、何処となく卑猥。
「好みに育ったなぁ」
 ぽつりと漏らしたユージーンの言葉は人間の聴力をはるかに凌駕する悪魔には聞こえていたようで、にししし、と嫌な笑い声を上げている。
 着替え終わったミラビリスは、寝室のカーテンを開けた。あまり明るさは変わらない。カーマは秋からすでに日の出が遅い。
「朝食は、食堂で――」
 ミラビリスの言葉をさえぎるようなノック音。早朝と言うわけではないが、こんな時間から来客とは何だろう。
 ユージーンに手振りで居間にいるよう指示したミラビリスは、扉を開けた。もう一度ノックをするつもりだったのか、拳を中途半端に上げた青年が立っている。赤茶色の髪。
「――っと、おはよう、M2。随分早いな」
「いつも寝坊しているわけじゃない。ヒューこそ、勤務時間中じゃないのか?」
 寮棟内もそろそろ人通りが多くなる時間だ。入口で話し込むのもどうかと思ったミラビリスは、男を招きいれた。
「お茶なんて気の利いたものは出ないからそのつもりで」
「いつも出てこないじゃないか…。ああ、来客中だったのか、それは失礼」
 失礼といいつつ、出て行く気は無いらしい。男はユージーンを素早く観察した。一瞬だったが、値踏みするような視線にユージーンは微かに眉根を寄せる。
「もしかして、剣聖候補か?」
「…事実上決定項だ。というか、騎士院で厳戒令を敷いているのにどうして部隊長のヒューに伝わってるんだ…」
 昨日騎士院で面接を行ったときに、ミラビリスは担当官に剣聖誕生は内密にするよう指示を出した。上位騎士の発表の通例と同じく、地盤が整うまで公開しないという慣例に則ったのだが、どこからか漏れているらしい。これがただの騎士位ならば問題ないのだが、相手は剣聖だ。広まった時の惨事が目に浮かぶようで頭痛がする。
「上層部の一部にしか広まっていないから、そう心配するもんじゃない」
 眉間をほぐすミラビリスの背を励ますように撫でた男は、ぼんやりとカウチに腰掛けて様子を伺っていたユージーンの傍へ行った。
「魔天師団へようこそ。私はヒュー・シグモンド。第六部隊の隊長を拝命している。黄玉位、魔剣士だ。よろしく」
「ウルフ」
 握手を求めたヒューにそっけなく告げたユージーンは、手を握り返すことはせずに笑顔だけ返した。
 あっけに取られていたミラビリスは、使い魔の漏らす笑い声で我に返る。
「…おい、ジーン。もう少し愛想を良くだな」
 溜息混じりに言ってやれば、ユージーンは肩を竦める。
「ユージーン・ウルフだ。お見知りおきを」
「……」
「……」
 本気で握手を返す気は無いらしく、出鼻を挫かれたヒューは顔を引きつらせている。ミラビリスはそれ以上フォローする事を諦めた。
 めげなかったのは、ヒューだ。黄玉位を持つ魔剣士であるヒューは、剣士と魔術士の中間に位置する。本来魔天師団では戦闘部隊を組まないのだが、昨今の剣士減少傾向の所為で、魔天師団にも戦闘部隊が出来ていた。その部隊長のうちのひとりだ。
「その髪は、染めているのかい?」
「まぁ、そんなとこ」
「南国風の衣装は、趣味?」
「習慣」
「…昨日はここに泊まったのか?」
「そう。ミラと寝たからね」
 仮面のような満面の笑みですらすらと吐き出すユージーンの言葉に、ヒューは固まってしまった。聞くに堪えなかったミラビリスは、ユージーンの頭を小突く。
「…誤解を招くような発言はするな」
「間違ってないけど」
 駄目だ。埒があかない。長嘆したミラビリスは、笑顔のユージーンを放り出してヒューに本題を求めた。
「黒天師団から手紙を預かってる。君宛だ。何か仕出かしたのか?」
 手紙を受け取ったミラビリスは黒い封蝋をはがして中身を読んだ。特に長い文章が書いてあるわけでもないそれを二回読んで、元に戻す。ローブの内ポケットへしまった。
「ジーン、王城へ行かなくてはならない」
「それで準正装なのか、M2は」
 答えたのはユージーンではなくヒューだった。
「召喚状が来ても来なくても行くつもりだったから」
「おーいミラ、腹減ったぞー」
 会話をさえぎるように、使い魔が空中を泳いでいる。いいタイミングだ。ミラビリスは、この機に乗った。
 ミラビリスにとってこういうギクシャクした微妙な雰囲気を捌くのは苦手だった。仕事ならば我慢できるが、私生活で何人もと会話することは得意でない。例えヒューとは例外的に親しいとはいっても。
「勤務中なのに、悪いな、ヒュー。ありがとう。確かに受け取った」
「いや、君の顔が見たかったからな。色々聞きたかったし、今度飯でも誘う」
 ぎこちない会話は扉と共に閉められ、ミラビリスの胃は朝食前に痛んだ。

  

初出:【お嬢様の本棚】様
今度は短くてすみません。脇役のネーミングセンスがなさ過ぎる…。
2008/10/13

copyright(C)2003-2008 3a.m.AtomicBird/KISAICHI All Rights Reserved.