Koerakoonlased - 7 -

Koerakoonlased "Radid Canine"

 一方ユージーンは、時折痛む頬をさすりながらカーマの下町をぶらついていた。
 ひっかかれる程度の予測はしていたが、殴られるとは思わなかった。顔の形が変わったり、あざが出来たりするものではないが、痛いものは痛い。
「俺が居なくなるかもって匂わせただけで、あんな顔するのが悪い」
 他人に聞こえないような小さな声で呟いて、ユージーンは笑った。
 どうやらミラビリスは十数年前の幻想を未だに抱いているようだが、本来のユージーンは決して大人しいわけでも上品なわけでもない。ミラビリスの前でだけ猫を被っていたようなものだ。付き合った女には「酷い男」と言われ、仲間内では性悪とレッテルを貼られていた。間違ってはいないから否定する気も起きない。もとよりミラビリス以外の人間に興味など無い。
 さて、どうやったらミラビリスの気を引くことが出来るだろう。娼館にでもいって女の匂いをさせて戻れば、文句を言うだろうか。
 自分でもどうしてこれほどミラビリスに執着するのか理解できない。出会ったときはきっと子供特有の一目惚れだ。両親がマクミラン家に勤めるようになったとき、ミラビリスは三歳かそこらだった。遊び相手の代表として接するうちに懐かれ、頼られ、それに快感を覚えた。
 可愛い、と思ってしまえば、それからの行動が全てミラビリス中心になった。
 ミラビリスが首都へやられると聞いて一番ショックを受けたのはユージーンだろう。自分から引き離すものか、と家出計画を練ったが、今から思えばなんて浅慮だったことか。思想を誘導して自分も王都へ進学させるくらいのことをすればよかった。
 離れていた十年近くのうち、想いは甘い腐臭を放つほど美化され、執着は信じられないほど重くなる。
 くつくつと喉の奥で笑いながら、ユージーンは街の奥へと歩いた。ゴロツキにはゴロツキの匂いがわかるのか、絡まれることもない。
 ふと、角に立つ女と目が合った。
 黒髪。赤い唇が弓形にしなり、手招きする。
「白い髪なんて珍しい。でも、瞳は黒いのね。アタシ、珍しい男って好きなの。あなた、ハーフ?」
「さぁ、どう思う?」
 笑みは崩さず、ユージーンは女の腰を抱いた。
「黒髪は好きだ」
「そう?綺麗に染まっているでしょ」
 こんな下町で娼婦になる女性は、血筋が濃いわけではないだろう。わかってはいたけれど少しがっかりする。けれど代わりにするなら丁度いい。
「本物は手に入らないからね」
「そうよ。一晩でも貴族の娘を抱いている気分を味合わせてあげるわ」
 女はそう言ってユージーンにもたれ掛かった。首筋に指を這わせ、ネックレスチェーンをひっぱりだす。いくつかのアクセサリーに混じって、指輪が通されていた。
「ジルコンの指輪?」
「いや、ダイヤらしいよ」
 何気なくそう答えた途端、顔色を変えた女が身体を離した。
「ちょっと、何処から盗ってきたんだい。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだよ」
「俺のなんだけど」
「…なおさら悪いわよ。どこの田舎貴族の坊ちゃんだか知らないけど、とっととママんとこに帰んな」
 女はそれだけまくし立てると、髪をかきあげて大またで去ってしまった。
「んだよ、それ」
 たかが金剛石ひとつのおかげで女も買えないのか。正直に明かすのではなかった。次からは誤魔化してやろうと思っても、娼婦のネットワークは侮れない。目立つ外見をしていると、こういう時に不利だ。
 長嘆したユージーンは、ネックレスから指輪を抜いた。財布の中に突っ込んでその存在を忘れられればいいのに、と思う。一度はめたら二度と抜けないのでは、という疑心が生じるので、指を通すことはしたくなかった。どうせ手綱をつけられるのならば、然るべき相手からのほうが嬉しいし。
 こんな下町でも威力があるのだ。目に付くところに出すのは得策と言えない。
 仕方ない。
 気持ちを切り替えたユージーンは、せっかくの首都だから次の旅に役立つものがないかどうか、面白そうなものを発掘することにした。
 うろうろしている途中で、宿屋のついた食堂を見つけた。日が落ちる時間も早いので、ユージーンは店に入ることにした。いつの間にか柄の悪い地区から抜け出してしまったのか、客層は悪くなかった。むしろゴロツキ連中と付き合う事のほうが慣れているので、拍子抜けする。だが、漂ってくる夕食の匂いは悪くない。
 ユージーンはその日、この宿屋で一晩を過ごすか、とため息を付いた。

 真夜中。
 ユージーンは目を閉じたまま、枕の下に隠しておいた小さなナイフを指に挟んだ。気配を確認して、投げる。
「うぉわあああッ!!」
 少年のような声色の悲鳴と、ナイフが壁に突き刺さる音は同時だった。
 ミラビリスの使い魔である、シャプトゥースだ。悪魔の気配などそうそうお目にかかれるものではないから、ある程度はわかっていたのだが。ユージーンはうつぶせに突っ伏したまま舌打ちをした。
「ぅおおおおおオマエぇぇぇぇ!」
 ぶんぶん飛び回る姿が目に浮かぶけれど、無視する。
「オレ様じゃなくてミラビリスだったらどうする気だこの野郎め!」
「ミラなら寝ててもわかるよ」
「オマエ、ミラの前では猫かぶってるだろ。ホントはすっげぇ性格悪いんだろ」
「そうだね」
「認めやがったし!」
「それで、主の側を離れて使い魔が何をしている?」
 真っ白な前髪の隙間から、漆黒の瞳が悪魔を射抜いた。その眼はミラビリスですら知らない悪魔の秘密を知っているような、やけに愉悦交じりだ。
 シャプトゥースがユージーンの居場所を突き止めることが出来たのは、悪魔の呪をかけているからだ。魔には全て個人の波形があり、それは人間も悪魔も変わらない。ただ、悪魔は魔に敏感なので己の術を辿るなんて芸当が可能なのだ。
「ミラビリスがオマエを探している」
「こんな時間に?…使い魔を使えばすぐわかるのに、何故?」
 やはりユージーンは知っているんだな、と使い魔は忌々しいものを見下ろす。
「そういうトコが抜けてんだよ、ミラは」
「…可愛いな。それで君は、自主的に俺を探しに来たわけ?」
「オレ様、オマエと会話すると妙に疲れんだけど、なんでだ。先が読めてんだったら、確認取らずにさっさとミラんとこ行こうぜ」
 眉間に皺をよせ腕を組んだシャプトゥースは一度大きく息を吐いて、ユージーンの応えも聞かずに窓から飛び出した。この部屋は二階なので、ユージーンにとって飛び降りる事は造作も無いが、宿の従業員は困惑するだろう。
 ユージーンは剣を身に付け簡単に衣服を正して部屋を出た。受付に座っていた宿屋の男に外出の旨を伝えて外に出る。
 息が白くなる事は無かったが、その寒さに身が竦んだ。これは本当に衣類を調達しなくてはならない。
 路地を進むたび、ガラの悪い者が増えてゆく。お世辞じゃなく上品なミラビリスは、いいカモだろう。
 風を避けながら小走りにシャプトゥースの後を追えば、程なくしてミラビリスをみつけることができた。酔っ払いよりたちの悪い風体をしている。どうしたものかと伺っていれば、男の一人がミラビリスに近寄った。
「ぅ…ぐ!」
 野太い悲鳴。一瞬遅れで男がよろめいて、仲間の異変に気付いた周囲が襲い掛かろうと体に力をこめる。
 気配を消して後ろに近付いたユージーンは、背後が隙だらけの男を手刀で沈ませた。
「な、なん――」
 疑問を叫ばせる前に、踏み込みと同時で曲げた肘を叩き込む。
 最後に残った男は、ミラビリスに手首を握られていた。体を屈めている。ミラビリスが手首を握られているのではなく握っていることに疑問を感じながら、ユージーンは一連の動きのまま、男の首に一撃を加えた。
「おぉー。早ぇ早ぇ。一瞬か。剣は使わないんだな」
「相手が抜かなきゃ、俺は抜かない」
 唖然とするミラビリスをよそに、ユージーンは手を払う。これでは体が暖まるだけの運動にすらならない。
「おま、え」
「どうしたの、ミラ。いくらなんでも危ないよ?」
「この程度何とでもなった!いや、そうじゃなくて、こんな時間までお前は何をやっている」
「何って…。ミラを助けに?」
「そうじゃない!師団舎にも戻らず、今までどこにいたのかと聞いている」
 背を伸ばし、毅然とユージーンを見上げる姿は怒りを纏っていた。
 これは、何て答えを返せばいいだろう。ユージーンはすぐに返答せず、ミラビリスを見下ろしたまま苦笑を浮かべる。
「住所名まではわからないけれど、ここからそう遠くない酒場の宿にいたよ。ミラこそ、どうしてこんな時間にここに居るの」
 女を買おうとしたとか、その辺の事情はあえて隠し、ユージーンは正直に告げた。頭を冷やすために側を離れたのに、原因から近寄られたのでは忌避しようがない。
 ミラビリスだとて馬鹿ではない。自分が何をしているかわかっていての行動だろう。意図を正確に把握しているわけではないが、ユージーンにもその程度のことはわかる。けれど、本人の口から聞いてみたい。
「お前を連れ戻しに来たに決まっているだろう。さっきまではヒューも一緒に探してくれていた」
「あいつも?」
 馴れ馴れしくミラビリスの肩を抱いた男を思い出し、ユージーンは顰め面を浮かべる。舌打ちを寸での所で止めた。それに気付かなかったミラビリスは、私的な気持ちを殺して告げた。
 そうしなければ、いけないような気がしていた。
「俺にはお前を監督し、全ての便宜を図らなければいけない任務がある」
「仕事で来たの」
「…そうだ」
 予想していた答えの中で一番面白くないものだ、とユージーンは溜息をついて、笑みを消した。長期戦の駆け引きでは埒があかない。漆黒の瞳が温度を下げ、ミラビリスが何事かと目を見張る。
「なら、戻らない。俺の意思に反してそれでも連れて行きたいなら、相応の報償を支払うか、力付くで対立するか、二つに一つ」
「ジーン?」
「私人の願いというのなら、鑑みなくもないけどね。軍人義務で俺を拘束すると宣言するなら、気を付けて。俺は国に忠誠を誓わない」
 絶対に逆らわない、自分の下部だと心の片隅で思っていたのか、ミラビリスにとって目の前にいる男が信じられなくなる。他の誰に否を告げられようと、ユージーンだけは味方でいてくれるような気がしていた。それこそ、なんて傲慢な考え方だったろう。
「それは…、俺の敵になるという、ことなのか…?」
 真夜中の光源は暗い。まるでミラビリスの心情を表しているようだと、ユージーンは思った。黒い髪に隠れて、ミラビリスの表情は窺えない。声が微妙に震えていた。
「俺はミラの敵にはならないよ。ミラの側で、ミラを守りたいだけ。でも、ミラが俺を拒絶するのなら、俺は消える」
 俯いてしまったミラビリスが寒そうで、ユージーンは手のひらを頬にあてた。暖めようと思ったけれど、自分の手の方が冷たかったかもしれない。
「…俺は、どうすれば、いい」
「受け入れるか、拒絶するか。それはミラが選択するんだ」
 とことん卑怯だ、とユージーンは胸中で嘯いた。
 ミラビリスは、これ以上ないほど困惑していた。心配していたのが大半の理由だが、保護者か案内人気取りで怒り心頭になりながら、ユージーンを見つけたら謝らせてやろうとさえ思っていたのに。意気込みは彼の溜息と、頑固さによって打ち砕かれてしまった。自分は、自分の意志は他者によって簡単に覆されてしまう物だったのだろうか。いや、きっとこれは相手がユージーンだからだ。
 幼い頃からの刷り込みが揺らぐ瞬間、その衝撃に精神が不安定になりそうだった。
「あんまりミラビリスを苛めんなよ、ユージーン」
 黙って様子を伺っていたシャプトゥースが、いつになく固い声でユージーンの目前を飛び去る。どんな扱いをされていても、やはり主人を護るのは使い魔の義務だった。
「苛めてないでしょ。ミラが俺のことを好きか、嫌いか、それだけ知りたいって言ってるの」
 寒さの所為か、ミラビリスは微かに震えていた。
「俺は、ミラが好きだよ。――出会った時から、離れていても、ずっとね」
 頬にふれても拒絶されない。もう少し、触れてみよう。ユージーンは、どうしていいかわからない、と呆然と立ちつくすミラビリスを抱き寄せた。頭一つは余裕で下にある。自分の体躯にすっぽりと収まってしまう身体が、愛おしい。
「好きだよ。俺を、捨てないで」
 漆黒の髪の感触を楽しみながら、ゆっくりと囁いた。
 シャプトゥースが眉間にしわを寄せ、殺気だった表情でユージーンを睨み付けた。使い魔には、彼が本性を現した獣のように見えていた。
「…少し、考える時間を、くれないか」
「そうだね。待つよ」
 ミラビリスを混乱させる原因は、自分の答えによって、またユージーンの生き方を変えてしまうという畏れがあるからだ。しかもそれだけではない。今回は政治と職義が重なっている。
「とりあえず、俺が取った宿に行こう。ここよりは暖かいし、暖めてあげられる」
「…待つ、つったくせに速攻食う気か」
 肩を抱いたまま宿屋へ誘導し始めるユージーンを咎めるように、ミラビリスの使い魔が不平を述べた。
「いくら俺でも、我慢は出来るよ。今くらいは、ね。許可もないのに抱いたりしない」
 ミラビリスの紫色の瞳が、不安げに揺らめいて、ユージーンを見上げた。怯えさせてしまっただろうかとも思ったが、恐怖を感じている視線ではない。
 疑うことを知らないとでも言うような瞳に、思わず苦笑が漏れてしまった。無意識に誘っているんじゃないかと勘ぐりたくなる。けれど、暴くのはまだ早い。
「大丈夫。今は」
 まだ。
 ユージーンは宿へ戻っても、本当に何もしないだろう。激情を潜め、牙を隠し、穏やかな夜空に相応しい落ち着いた眠りを与えるだろう。力尽くで奪うことは出来るだろうが、その結果の関係性というものは、ユージーンが望むものではない。
 けれど確かに、ミラビリスはユージーンが草食動物では無いことを知った。

  

狼、反撃にでる。
2008/10/26

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