別離方異域 3

The Majestic Tumult Era "If it separates here..."

「ねぇ、何考えてるのよ…」
 花街で出会った名前も知らない女が、ベッドの上で不満を漏らしていた。
「何が」
「私が聞きたいわ。さっきからずっと上の空なんだもの。やる気がないならどいてちょうだい、他の男を捜すから」
 甘栗色の髪を掻き上げて、女は起きあがった。そういえば自分はまだ服も脱いでいなかったな、と今更気付いた。
 手早く服を身につけていく女の揺れる髪を見つめながら、薄くも濃くもないが何処か深みのあるあの人の髪の色を思い出した。
「男って嫌ね。女と違って隠し事がへた」
 くすりと笑いながら、女は化粧を直している。
「それだけいい男なんだから、他人を抱くときは本命のことを忘れなさいよ」
「…………」
 本命なんかいない。
 そう言いたかったのに、言う気が失せた。
「じゃあ、行くわ。ここの宿代くらい、払ってね」
「………ああ」
 短く返事を返して、カーシュラードはベッドの上に身体を投げ出した。

 ヴァリアンテが帰ってしまってから二日ほど経っていた。
 機嫌が悪いカーシュラードを一発で見抜いたラージャは、放課後着替え終わってからそのまま酒場に繰り出した。
 縄張りみたいな一角で、いつも行きつけのバーに入って、座り慣れた隅の席を二人は陣取った。
「今度は何があったんだよお前」
「何も……」
「無くはないだろうが。何年付き合ってると思ってるんだよ。お前が隠してる事なんざ、悪いが俺には全部お見通しだ」
 酒好きだが酒に強くはないラージャが、焼酎を舐めながら親友を睨み付けた。
「……ヴァリアンテに捨てられた」
「ぶはっ」
「………汚いな」
 テーブルに飛んだ酒に眉を寄せて、カーシュラードは文句を言う。
「う、る、せ、え、な!つうか、もう、お前はアホか?」
「………」
「何したんだか、言ってみな。俺が聞いてやるからよ」
 無理矢理聞き出そうとしている癖には随分偉そうなラージャに、カーシュラードは渋々ながらこの間のことを語って聞かせた。
 しばらく焼酎を舐めながら、ラージャは呆れ口調で言う。
「お前が全面的に悪いだろ、それは」
「そうなのか、……やっぱり」
「何だ、罪悪感あるのか?」
 罪悪感があるかと問われれば、それはイエスだ。別れ際に見た少し辛そうな表情が忘れられなかった。
 何故怒るのか、何故辛そうにするのか、本当は揺さぶって問いつめたい。
「罪悪感というか……何だろう、上手く言えない……」
 軽い溜息と共に。眉間にしわを寄せて、今日の酒はまずいな、と思った。
「…………アホらし」
「何だよ。お前が言えと言うから…」
「お前さ、やっぱ先生のこと好きなんだろ」
 またそれか。それだけは、違うと思うのだが。だいたい親父の知り合いだなんて、胡散臭いにも程がある。
「昔っから、好きな子虐めてたもんな、お前」
「………は?」
「認めちまえば?」
 ふん、と鼻を鳴らしたラージャは、悪戯を仕掛けた子供のようにニヤリと笑った。
 あの人を見ていると、イライラする。
 無性に虐めたくなるのは事実だが、いくら何でも子供じゃあるまいし、それが恋愛感情じゃないことぐらい、わかっているつもりだ。つもりだった。
 穏やかに、妙に甘い笑顔で笑うヴァリアンテをふと思い返して、カーシュラードはかぶりを振った。どうして考えてしまうんだ。
 がた、と席を立ってラージャに別れを告げる。今は飲みたい気分じゃない。出来れば女が欲しい。その足で花街へ向かい、最初に眼があった甘栗色の髪の女と宿屋に入った。
 癖のないその髪をみて、どうしてもヴァリアンテを思い出した。
 この女より、ヴァリアンテの方が目許が優しげだ。纏う雰囲気も雲泥の差だし、何より意志の強そうな赤闇の瞳がこの女には無い。
 レース使いが優雅なドレスの胸元を緩めて、そのふくらみに手を這わせた。胸の突起をつまむと、女がぴくりと肩を揺らした。
 その肌に唇を這わせながら、あの人ならどんな仕草をするだろうと考えた。どんな声で、僕を呼ぶだろう…。
「ねぇ………」
 嫌そうな声。
「ねぇ、何考えてるのよ…」
 そう言って、女は帰っていった。
 お陰で、ろくでもないことを、確かに確信してしまった。
 人前では決して口走れないような悪態を付いて、カーシュラードは宿を後にした。

***

 指南役見習いの仕事は忙しい。
 士官学校の一年生に基礎を教えることが主であり、まだ兵士を訓練するには至らない。加えて師である正指南役の雑用もこなさなくてはならなかった。
 ヴァリアンテの師は宮廷最高指南役であり金剛位のイラーブルブ・ゼフォンだ。養父でもある彼との手合わせは休みがない。
 しかしヴァリアンテはそれを苦痛に思わなかった。自分にはまだ可能性がある。今はまだ養父に勝てはしないが、そのうち必ず追い抜ける日が来るだろう。それもきっと遠くない。色々と苦しかった学生時代に比べると、世界が変わったように幸せに思っていた。
 だから、いろいろと他のことに目を向ける余裕ができた。
 まず、一番下の弟が士官学校に入った事を聞いて喜んだ。まだ正体を明かしてはいないが、接点が築ける。できれば、仲良くなりたい。なのに、その弟は学校に来ることが殆どなかった。偶然が重なって、ヴァリアンテが講義をするときに限って必ず欠席が続いていた。
 それが少し悲しかったが、諦めかけてもいた。だから、家庭教師の話を実父が持ち出してきたとき、本当に嬉しかったことを覚えている。

 結果はと言えば、成功とは言い難い。

 考えても考えても抜け出せない迷路みたいで、たっぷりの湯に浸かりながら、疲労を溜息に込めて吐き出した。
 浴槽の縁に頭を載せて瞳を閉じたとき、扉を叩く音が聞こえた。
 深夜ではないがそれに近い時間だ。一体誰が何の用だ。
 間違って扉をたたく酔っぱらいなど、この家の地理的に皆無だ。だから、家の住人を知っている者しか扉を叩かない。
 バスローブを寝室に置いてきていたヴァリアンテは、大きめのバスタオルを腰に巻いて玄関に向かった。
「誰?」
 扉を開ける前に低く問う。
「………僕です」
 呟くようなその声に、ヴァリアンテは眉を寄せた。
 いい方と悪い方と、どっちに転ぶだろうか。
「こんな時間にどうしたの」
 言いながら、それでも扉を開けた。
 外の冷気と共にカーシュラードが室内にはいると、ヴァリアンテの姿を見るなり固まってしまう。
「適当に居間で待ってて」
 まさかタオル一枚でいるわけにもいかないから、バスローブを取りに寝室へと足を向けた。
 カーシュラードは、初めてヴァリアンテの背を見つめた。
 人の手で描かれたのではない、高位魔力保持者にしか顕れない霊印。背中一面を覆うようなその刺青に、カーシュラードは息を呑んだ。彼自身その両肩から手首まで霊印を持っているが、それにしたって、この背中には劣るだろう。
 圧倒、威圧。
 これでは、勝てるわけがない。
 確実に、今のままでは勝てない。
「何?どうかした?」
 カーシュラードは、無意識にその腕を掴んでいた。
 覗き込んでくる赤闇の瞳を見つめ返し、それから、その背中に唇を落とした。
「カーシュっ!」
 それが悪戯の類ではないと察知したヴァリアンテは、咄嗟にきつい口調で名前を呼んだ。しかしそれに怯む様子も見せないカーシュラードは、そのまま腕を引き寄せて、ヴァリアンテの唇を奪う。啄むようなキスを繰り返して、黒曜石の瞳がすうっと細められた。まだ十六だというのに、その真剣な眼差しは男のそれだった。
「…好きです」
 低く、穏やかな声で。
 ヴァリアンテはその囁きを聞き間違いかと思った。
「……何?」
「アンタが、好きです」
「ちょ…、カーシュ?何、いきなりどうしたの…」
 その告白があまりに切羽詰まって聞こえたから、ヴァリアンテは逆に心配になった。とりあえず、玄関先でこんな恰好も嫌だ。
 捕まれたままの腕を引っ張って居間に連れて行き、小さなソファに座らせた。その足で寝室に急いで入り、バスローブを羽織ってすぐに戻ってくる。
「もう少し見ていたかった。…そんなもの着なくてもいいのに」
「………君ねぇ」
 何処までが本気で冗談なのか、いまいち解らない。
「それで、何だって……?」
 せめて冷えた身体を体内から暖めようと、ミルクを小さなポットで沸かした。
「だから………アンタが好きなんです」
「そりゃ、嬉しいけど…。君は私のことを好きじゃないと思っていたから」
「僕もアンタが嫌いだと思ってたんですけど、………駄目だ。アンタはぐらかそうとしてませんか?」
 じ、っと黒い瞳がヴァリアンテを射抜いた。
「一応私も教師の端くれだからね」
「僕はアンタが教師だから好きになったわけじゃない」
「………」
 別に、ヴァリアンテはカーシュラードが嫌いではない。だからその好意を受け入れたとしても全く問題ではないのだ。しかし、いくらカーマ人が性別と年齢に固執せず力に好意を抱くと言っても、それが実の兄弟にまで及ぶことはない。
 七歳年下のカーシュラードとは、血の繋がった兄弟だ。それを知っているのは両親と自分だけだ。カーシュラードが成人するまではヴァリアンテ出生を隠しておくつもりだった。ちょうど難しい年頃の弟二人に、大人の事情(と言うよりは父親の事情)を明かすべきだとは思わなかったから。

 どうしようか……。

 まさか実の兄だと言い出すわけにもいかず、ヴァリアンテは困惑した。
「別に困らせるつもりも、今すぐ抱こうとかも考えてませんよ……少ししか」
 ぼそり、と最後の呟きはヴァリアンテに届かなかったが。
「家庭教師を辞められるのは辛いんですが……」
「君が望むなら、私は喜んで教えるよ。私しか君に教えられないだろうしね」
 とりあえず今すぐにどうこう考えていないらしいと察知したヴァリアンテは、ほっと息を付いた。少しぬるくなってしまったミルクをすすって、安心したように微笑んだ。
 その笑顔をじっとみつめ、カーシュラードはやはりこの人が好きだと思った。自分にだけ笑いかけて欲しい、誰彼かまわず優しく接さないで、と。
 その悔しさと、嫌いという感情を区別出来なかった。だけど、今なら確かに出来る。
「……こんな時間に未成年を帰すわけにもいかないかな」
 そんなことを無邪気に言うから。剣を持っているときとは別人な、バスローブ姿という無防備なヴァリアンテにそっと近づく。
「時間をかけてでも、本気でアンタを落としますから。覚悟してくださいね……」
 耳元で低く囁いて、ちゅ、とキスをした。
「なッ……!!」
 なんて子供だ!
「教師にセクハラする生徒がいるか!」
「今は勉強する時間じゃないんだから堅いこと言わないでくださいよ」 
「………あのねぇ…。もう、いい…。君帰りなさい。君くらい強かったら危険じゃないから………」
 呆れて脱力気味に言うと、カーシュラードは大袈裟にかぶりを振った。
「一応これでも未成年の王族なんで、誘拐されたら困りますから泊めてください」
 にっこりと、今までの態度も顧みず、いけしゃあしゃあとのたまった。

  

とりあえず前半戦終了って感じです。なんだかなぁ(笑)。
2003/12/24

copyright(C)2003-2008 3a.m.AtomicBird/KISAICHI All Rights Reserved.