Liwyathan the Jet 2 RISE - 3 -

Liwyathan the Jet 2 RISE

「…ッ」
 ガラスの柩の中に浮かぶ物に、カラスは言葉を無くした。
 薄暗い闇の中、うっすらと浮かぶ青緑の光は、まるで光に照らされた海に似ている。
「これが、カナリーナ」
 カラスの背後で、錬金術師は錆びた笑みを浮かべた。

 白く光を反射させる海原が地平線上に見え、翼を一度震わせる。あっというまのスピードで陸地を越え、海の色がエメラルドグリーンから藍色へと変わった途端に飛沫も少なく海中へと身を沈めた。
 空気中では小回りの利かない巨体だが、海中に潜ると一変する。黒い流線型の身体は水の抵抗など感じさせないような高機動をやってのける。
 魅朧より先に海に潜ったのは孔雀だが、それは魅朧がわざと先に潜らせたのだ。全ての龍たちの長である魅朧がスピードで負ける筈は無い。
 小魚たちは逃げまどって岩場に隠れ、二匹の龍の動向を窺う。より深く深くへと海流を駆け抜けて行くパヴォネは、必死に逃げるしかない。魅朧に勝とうなどとは思っていないし、魅朧とてパヴォネを殺そうとしているわけではない。
『俺の力加減なんて、それこそ見ただけで解るだろうに!』
 光の届かない深海まで潜ったパヴォネは胸中で舌打ちし、闇の中に溶け込んだ。気配を殺して漂う。彼は光や影を利用してその鱗の色を変化させ、周囲に溶け込む事が特に上手かった。相手が魅朧でなければ、見付けられることもないだろうにと、悪態ばかりが口に付く。
 正面を睨み付けてじっとしていたパヴォネの目に、悠然と黒い影が近寄ってきた。魅朧だ。
『俺たちは一過性の生命だと言うことを、お前ほどの力を持っていれば解らない筈はないだろう、孔雀』
 海底の闇ですら塗りつぶせない、黄金の瞳が冷たく輝いている。
『じゃあ、お前は、俺が唯一愛した女が死ぬところを黙って見ていろと言うのか!?』
『それが摂理なら、曲げることは出来ない。お前で前例を作れば、その次も出てこないとは限らない』
 潮流が凪いでいた。動きのない不自然さは、二匹の龍によって行われている。
『来世で会いましょうなんて、人間みたいな事は、俺達にはねぇんだよ!わかってるだろう、魅朧!』
『魂は常に一つしかないからこそ、俺たち龍はこの世界の頂点に君臨することが出来ている。それを覆すような事はするなと言っている』
『それでも俺は、納得なんてしないからな。俺の一生にカナリーナが居ないなんてことは、認めねぇ。絶対に。どんな手使ったって、俺はあの女を手放すことなんざ出来ねぇ』
『…お前の気持ちはわからなくもない』
 パヴォネ。魅朧には孔雀と呼ばれるその男は、龍族の中で上から三番目に強いという男だ。売られた喧嘩しか買わない魅朧とは違い、パヴォネは率先して略奪行為を楽しんでいる根っからの海賊だった。
 男も女も気に入れば犯し、殺したければ殺す。流石に同族に手を出すことはしなかったが、それ以外のことは協定ぎりぎりの範囲内で色々とやってきた。女と見まごう美貌で好き放題生きている男。
 しかし、そのパヴォネは一人の女と恋に落ちた。海賊というには些か芯の細い女だった。淫猥な肢体を持つ美姫ではなく、それこそ力も美貌も劣っている、海賊船の中でも地位は高くない女だ。
 自分の系列ではない龍族の海賊船からその女を攫うように連れ出し、パヴォネは一心に彼女に構った。その暴挙に文句を言ってきた者達を全て力でねじ伏せてまで、彼は本気だった。
 ありとあらゆる洋服や宝石、女が興味を引くだろうものなら全て集めて彼女に送ったが、女はしかし全てを受け取ることは無かった。
 どうしたら愛してくれるのかと子供のように縋り付いたパヴォネに、彼女は優しく笑いかけ、他の女や男に手を出さないで私の歌だけ聴いてちょうだいと願った。
 たったその一言で、パヴォネはカナリーナに繋がれた。
『俺からあいつを奪わないでくれ、魅朧』
 もっとも傲慢な性格を持っていると怖れられ、暴君とまで囁かれた男の、それは紛れもない懇願だった。感情を読む能力が最も高い魅朧は、パヴォネの心が痛いほどわかる。血を流しささくれた悲痛な想いは、その重さゆえに眩暈さえ起こしそうだった。
『……』
 龍族で力が弱いということは、その命も弱いという事だ。カナリーナを側に置いたまま暴虐を行う事はなかったが、パヴォネと生きるにしては弱すぎた。力の差は歴然としすぎていて、彼女は彼の仔を身籠もることすらできない。
『そんなこと百も承知でカナリーナを娶ったんじゃないのか』
『あいつが死ぬなんて、俺は信じちゃいねぇよ。あいつは俺の側でずっと歌っていると思ってた』
『だから、カナリーナを“創った”というのかッ!』
 怒声が振動になって海中で波紋を拡げた。
 魅朧の怒りに晒されたパヴォネはそれでも怯むことなど無かった。
『そこに手段があれば、実行しない筈はないだろう!あの錬金術師を生かしておいた自分に悔やんでくれ。俺は彼女を生き返らせて、これ程嬉しい事はないんだからな!!』
 パヴォネは吠えた。
 音波に似たそれに、魅朧が牙を剥き出しにした。そのままパヴォネへと攻撃をしかけてくる。
『お前の命と力を代償に、悪魔と契約を交わすことが、龍族に許されているとでも思い上がったか!』
 その翼で潮流を生み、水抵抗など元から感じない早さでパヴォネの前に肉薄した魅朧は、鋭い爪でパヴォネの身体に傷を付けた。避けることなどできないパヴォネはその傷が少しでも軽傷になるよう身を翻して逃げる。
 ほんの少しだけ空いた距離に器用に身体を反転させたパヴォネは、精神を集中させて放電するブレスを放った。
『俺の躯をどう使おうと、俺の自由だ!』
 立て続けに球体のブレスを弾丸のように放ち魅朧へと仕掛けるが、避ける素振りすら見せない魅朧は真正面をとてつもないスピードで飛んでくる。放電するその攻撃が当たっていないわけではないのだが、それが魅朧を止めるほどの威力は無かった。
『この程度の力でッ!』
『…っ』
 叫び様身体ごと体当たりを喰らわされ、パヴォネは海底に叩き付けられた。巨体から延びる尾や翼に、海底の地形が変わるほど叩き付けられる。
『今のお前はキャプテンの名に恥じる力しか無いだろう、孔雀』
 龍は力が全てだ。強い者ほどその自由度は上がる。弱ければ従うしかなく、強ければ群れの長として好きに船を仕切ることが可能だった。
 魅朧から見たパヴォネは、以前に感じたよりも数段力が削がれていた。エルギーに手が届きそうな力を保持していたのに、今では遙か及ばない。丁度、力の弱い龍の一匹か二匹ぶんの力量がごっそりと抜け落ちている。
 加えてその魂に龍とは全く関係ない、魔の楔が巻かれていることを確認していた。
『俺から船を取り上げるなら、好きにすればいい。だが、カナリーナを奪うことだけは、例え魅朧であろうとも許さねぇ!アイツが俺の横で歌っていられるなら、神だろうと悪魔だろうと何にだって、俺の魂くらいくれてやる…!』
 岩と砂の残骸から長い首を持ち上げたパヴォネは、海底を利用して一気に海面へと駆けた。
『だから、俺の邪魔をしないでくれッ!』
 俺が劣ったというのなら、その目で見ればいい。雷の燐光を所々残して浮上する。そこそこなダメージを生む雷光は、時間が経つ事に小爆発を繰り返す。魅朧はその小型地雷をブレスで相殺させながらパヴォネを追った。
 このままいけばスケイリー・ジェット号の近くに出る事だろう。パヴォネは船を人質代わりにでも使う気なのか。しかし、その船員の大半が龍族である海賊船では、盾にもならないことは解っている筈だろう。例え船自体が大破したとしても、乗組員達が死ぬことは皆無に等しい。
 だが追跡者はまるで気にすることもしなかった。悲痛な感情しか読み取れないおかげでパヴォネの意図は魅朧には解らない。
 俺はアイツに灸を据える事しか出来ないし、確かにそれが義務でもある。上昇に伴って水圧の変化を微々と感じながら、魅朧は胸中で呟いた。
 誰かを守る為には、それ相応の意志と力が無くてはならない。
 我が儘だけで理を曲げる為にも、それに値する意志と力が無くてはならない。
『割に合わない仕事ばかり、俺に降りかかってきやがる』
 海原の王者は、唸り声に紛れて呟いた。

 

***

 

 それは怖ろしくも神秘的な光景だった。
 身体の中心から少しずつ面積を増やしてゆく身体。砂のような粒子が段々を形作っていく。右胸と顔は判別出来たが、それ以外は無かった。
 柩にたゆたう姿は辛うじて女と解る。室内に漂う魔の気配と、この異様な物に、カラスは唾を飲み込んだ。怪奇小説のグロテスクさを感じない事がいっそ不思議だった。
「生きて、いるのか…?」
 乾いた問いかけに、錬金術師は喉で笑い応える。
「まだ生きているわけではない。これが柩から外に出て自律活動を行って初めて、生きていると言える」
 正直、自分の扱える範囲の魔術ですら手こずって編み出している身で、錬金術の講釈なんて殆ど理解できないだろうとカラスは思った。魔術が生み出すのは一過性の物だ。攻撃に使うとすれば、その用途が終われば消えてしまうし、防御に使おうとしても魔力の程度によって効果時間は違うと言えどもそのうち消える。
 しかし錬金術は、魔術や魔導の力を加えて物を生み出すことができる。生み出された物は破壊されるまで永続する。無論、時と共に朽ち果てることはあるが。
「これ…」
 人間のなれの果てというか、人間の形になりかかっている物に対して、コレ、という表現をしていいのか迷ったカラスはしかし、それ以外の単語は思いつかなかった。
「これは、何なんだ?」
「依頼されて造ったものだ。依頼内容は契約によって俺が明かすことはできないがね」
「造った…、って。こんな物を造ることができるのか」
「そのレシピさえ解れば、何でも造ることはできる。それが錬金術師というものだ。そして、制作過程で生じる術や魔を、お前に提供することも吝かではないというわけだ」
 何が面白いのか、錬金術師は張り付いた笑みを崩すことはない。
「お前が行ってきた『姿止め』より、もっと簡単にその姿のまま生かしてやることが、俺には出来る」
 揺るぎなく言い切った言葉の無いように、カラスは息を飲んだ。
 高位の魔術師や地位のある者が求めて止まない物を、目の前の男が行うことができるというのか。
 甘言にカラスはぐらついた。この上なく甘い誘惑に、思考がフル回転している。自分を今の姿のまま止め置けるというのなら、一も二もなく飛びついてしまいたい。
 例えば老い、独りでは歩けなくなったとしても、魅朧はきっと何一つ変わらないかも知れない。けれど、そんなことは許せない。彼の横で立って戦えない自分に価値はない。魅朧であろうとも、この決意だけは揺るがせられないものだと思っている。
 セツは笑ったまま。きっと何か裏がある。そこまで予想は付いているのに、逸る気持ちは抑えきれない。
「…俺が施術してくれと頼んだら、あんたは俺からどんな報償を期待するんだ」
 期待に声が上擦らないかと心配になるほど、カラスの心臓は鐘のように早く打っていた。
「悪魔との契約」
「………は?」
「と言ったら、どうする?」
 その内容に一瞬呆けるも、からかわれていると解った途端、カラスの機嫌が硬化した。
「生憎と、俺の魂は既に売却済みだ」
 足りない身長差を補うように睨み上げてやれば、セツは鼻で笑った。参ったと両手を上げて。
「俺自身、制約なんてクソ喰らえと思ってる質でな。契約なんてのはしたくはない。魂なんて物も結構だ。間に合っている。だから、そんなに睨まなくてもいい」
 セツは一端言葉を止め、地下室をぐるりと見回した。
「錬金術師は蒐集家でな。資料の一つとしてお前の―――」
「セツ…!またドラゴンだ!一体なんだっていうんだ今日はっ!」
 突然扉を叩く音が響き、外からリディジェスターの声が遮った。叫び声に近い。
「リディ、居間に待たせておけ」
「俺にそんな事が出来ると思ってるのか、アンタ!」
「……」
 大分昔に海賊船を足に使った時から、リディジェスターは警戒を解くことが無かった。頭の片隅でそんなことをちらりと思い出したカラスは、眉根を寄せて黙ったセツを見て長嘆する。
「俺が行くよ。その話はまた詳しく――」
「お前が魅朧無しで来ることが出来るなら、詳しく話せるだろうが。その確立はあまり高くないだろうな。しかし、どうせ多分パヴォネと共に戻るだろう。その時までにどうするか考えて置けばいい」
「……わかった」
 地下研究室から出た途端己に歩きながら魔術を発動させたカラスをちらりと見つめ、実際にその魔術を検分することに成功したセツは一人ほくそ笑む。
 無言で階段を昇り、途中不機嫌なリディジェスターを見付ける。「待っていろ」と優しく声を掛けてその頭を撫で、居間への扉を開けたセツの背後から明るい室内に戻ったカラスは、イライラと腕を組んで仁王立ちをしている女の姿を見て驚嘆した。
「遅い、何やってんのよ」
「ノクラフ!?」
 君こそ何やってるんだと、まったく予想外の出現に、カラスは何か厭な予感を感じた。
「腕の調子はどうだ」
「くっつけた当時から順調よ。ああもう!そんな社交辞令なんざしてる暇はないんだよ!」
 波打つ金髪をターバンで巻いた美女は、身体のラインがピタリと解る黒いレザーのボディスーツ姿だった。スケイリー・ジェット号の操舵主任である夫のエルギーが見ればさぞ喜ぶんではないだろうかと下らないことを考えたカラスは、馬鹿らしいと打ち消した。ノクラフが来るくらいだ、きっと何かあったに違いない。
「何があったかは途中で教えたげるから、とりあえずアンタはアタシと一緒に戻るわよ」
 カラスの腕を引いたノクラフは酷く焦っていた。
「セツ、俺行くわ…さっきの事」
「心配しなくていい。どんな返答でも構いはしない。彼女に暴れられる前にさっさと行くがいいさ」
「…ああ」
 引きずられるように屋外に出たカラスの前で、ノクラフがその姿を変えた。
「!!」
 人間体から龍である本体への変体を見るのは初めてだった。むしろカラスは今まで魅朧のそれしか見たことが無かったのだが、今日に限ってパヴォネとノクラフの二人分まで見てしまうとは、本当に何事かと深刻になる。
『アタシの背には乗せてやれないから、振り落とされないように指にでも捕まってな』
 雄の身体よりもっと美しく優雅な流線を描く巨体が声を発した。長めの鬣に大きめの瞳。角は無い。全てが華奢に感じるのは、魅朧と比べてしまったから。
 差し出された指に手をかけると、カラスの返事も聞かぬまま掬い上げ、黒龍は地を蹴った。二対の翼で加速をかけられて息が止まりそうに成りながら、カラスはそれでも目を瞑ることは無かった。

  

雌はひとまわり小さい
2006 .11.26

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