2 Liwyathan 「海龍」

Liwyathan the JET 1

 こんなに柔らかいベッドで眠ったことは、今までにない。
 清潔なリネンはほんのり石鹸の匂いがする。ベルベットみたいに肌触りのいい毛布は、寒さを寄せ付けない。
 戸籍のない自分が、隠れ家にしている部屋がいくつかある。その中で、絶対に誰も知らないと断言できる部屋のベットが一番上等だったが、それだって硬くて寒かった。安心して一人になれる空間の方に重点を置いていたから、不満に思うことさえしなかったけれど。
 感嘆の溜息が漏れた。
 もそもそと身動きをして、埋もれるように毛布を被る。枕に顔を押しつけて、カラスはちょっとだけ違和感を感じた。
 腰を抱く腕がある。
 暖かいと思っていたのは、毛布だけではなかった。
 首筋に微かな吐息を感じる。
 自分は、一人で眠っているわけではない。ようやくその事に気が付いた。一度意識してしまうと、何故自分がこんなベッドで寝ているのか、その原因まで思い出してしまって、カラスは逃走を思いつく。
 とりあえず、この現状をどうにかしなければ。
 どうにかしなければ、と思うのだが、体が思うように動いてくれなかった。
 あれだけ体力と魔力を消耗した後に受けた、信じられない暴行の結果、体に普段のような自由さが全くない。
「………待てよ、暴行はしてないだろ、俺」
 突然かけられた魅朧の言葉に、カラスは見た目に判るほど驚いた。
「最後の方は覚えてねぇかもしれんが、お互いに良かったじゃねぇか」
 眠そうな声で、欠伸を噛み殺しながら。
 そのまま後ろからカラスを抱きしめて、首元に顔を埋めてしまった。
「………放せ海賊」
「魅朧だ」
 圧倒的な力の差を思い知らされているので、この体勢では逃げることなど不可能だった。しばらく黙って耐えているしかない。目が覚めてしまってからは、他人が近くにいる限り眠ることも出来なかった。これでは体力が戻りにくいな、と思いながらもどうしようも出来なかった。
 他人を警戒せずに眠ることは、カラスにとって死を意味する。睡眠のために意識を手放すと、それだけ判断が遅れてしまう。気が付いたら死んでいたのでは遅すぎるのだ。
 海の向こうにある地獄みたいな祖国――あれでも祖国といえるのなら――のことを考えながら、カラスは少しでも体温から逃れようと身をよじった。
 しかし魅朧は頑として譲らない。
 あちこち怠くて痛い体では、動いた方がより一掃無駄を生ずることをようやく理解した。黙っていると、空腹なことに気付いた。
「……もう昼過ぎだ。そろそろ夕方だぜ。腹減ってて当たり前だ」
 やはりカラスの心情をぴたりと当てて、魅朧はもう一度あくびをした。
「何か食いたい物はあるか?」
 頭上からの声に、カラスは無言で返答すら返さない。
 魅朧は返事を少しだけ待ったが、すぐに諦めた。枕元にあるいくつもの筒の一つのふたを開けて、エナルカ、と呼んだ。
「イエス、サー」
 男の声だった。
「何か食い物持ってこい。二人分」
「アイ、サー」
 ぱたんとふたを閉じて、魅朧は元の位置に戻る。逃げ時を失ったカラスを同じように抱きしめた。
「…………なんで」
「あ?」
「…なんで、俺が思ったことを読めるんだ」
 どんな魔術を使ったとしても、心の中を覗くことだけはできない。魅朧はそれをやってのけている。カラスは表現力が豊かなわけではないのだから。
「読んでない。『感じ』てるんだ」
 ごく当たり前のように言う。
「俺達は人間とは違う五感を持っている。遠くの物まで見渡せて、どんな小さな物でも細部まで見通すこ とのできる『眼』は、見える物の他に内面まで映し出す」
「…………俺達…?」
 魅朧の言葉では、まるで彼が人間でないかのようにとれる。
 確かに、その爬虫類に酷似した金色の瞳は、人間らしさなどない。ミネディエンスの隣国、カーマ人の瞳も縦長の瞳孔で特徴深いが、カーマ人のそれが猫やその類だとするならば、魅朧の瞳は蛇や蜥蜴のそれだった。
「俺は」
 含み笑いを浮かべながら。

「海の龍だ」 

***

 運ばれてきた食事を大きめのテーブルに並べていく男は、筋骨隆々とした大男だった。髪は全て剃り上げて日に焼けた浅黒い肌に、白いベストと裾が広がったズボンを履いていた。
「一応ミネディエンス風の料理も一品作っておいた」
「ありがとよエナルカ」
「お前ぇ、まだここに籠もってんのか?エルギーの旦那が怒ってたぜ」
「心の狭い奴だな。飯食ったら一度ブリッジに顔を出す。鷲(チィオ)に、ミネディエンス沖から遠ざかれ、と伝えろ」
「アイアイ、サー」
 白い歯を見せて笑ったエナルカは、大柄に似合わない繊細な動きで部屋を出ていった。
「腹へってるだろ。ここまで来れるか?」
 ズボンだけ履いた魅朧は、テーブルによし掛かりながら椅子の一つを顎で示した。
 カラスは、返事もせずに魅朧を見つめる。
 金髪と黄金色の瞳は何一つ変わってはいないのだが、明るい日の下で見れば、魅朧は随分と優雅な男だった。人智を外れた美しさを秘めている。一度教会で見た宗教画の、聖霊か何かみたいだ。精悍なその顔の右頬には、くっきりと切られた痕が残っている。それがひじょうに惜しかった。
 無駄のない体のつくり。長身で長い手足は、非の打ち所がない。その胸元にこの船の帆と同じ龍の彫り物がしてあった。
「なんだ、やっぱり歩けないか?」
 面白そうに笑いながら、魅朧はゆったりと歩いてきた。ブーツはベットの足下で転がっているから、裸足だった。
「龍……って…」
「あ?」
「海の龍って、どういう…」
 上半身を起こしたカラスは、抱きかかえられるに任せて魅朧に聞いた。
「ドラゴンの一種。まさかドラゴン知らねぇってわきゃないだろ?」
「……伝説とか、神話にしか名前は出ない」
「…………オカの人間っつーのは酷ぇなあ」
 からからと笑いながら。
「ドラゴンには二種類いてな、天空を舞う種と海を統べる種だ」
 椅子に下ろされて、カラスは目の前の食事を見つめた。今まで食べたことのない量の食事が並べられている。あまり見慣れない料理と、魅朧の顔を見比べた。
 食って良いぞ、と魅朧。
「ドラゴンは、この世界の固有種だ。実質上の支配者なんだぜ」
「でも…聖霊は」
 鳥の足を囓りながら、魅朧は眼だけで笑った。
 聖霊は、世界の理である。それは魔術を扱う者であれば誰しも心得ていることだ。
「聖霊は外来種だ。もともとこの世界に人間はいなかった。そんな昔から俺達は生きていた。勝手にやってきた創主とか魔神とか、人の土地で戦争なんざ繰り広げやがって。置きみやげに人間を置いていきやがった」
 ぐいっとワインのグラスを煽って、鳥の骨を皿に放る。
「そのお陰でお前を見つけたから、まぁ、いいさ。俺の邪魔をしなけりゃ、聖霊だろうと魔神だろうとどうでもいい」
 料理には手をつけず、黙って聞いていたカラスは目の前の男をもう一度じっくりと見つめた。
 姿形は人間だが、今でさえ怖いと思うほどの存在感がある。
「だから、俺はお前の恐怖にはならないって」
 カラスの心を察知して、魅朧は苦笑する。
「そんなに俺は怖いか?」
「…………あんなこと、しておいて、よくそんなこと」
「欲しかったから、俺の物にしただけだ」
 飄々と言ってのけた。
「口で言ってもわかんねぇだろ?それに、俺はお前を傷つけてない」
 まるで子供みたいな言い訳に聞こえたが、図らずも思い出してしまったカラスは、確かに魅朧が乱暴を働いていないことを思い出した。
 でも、自分はそんなこと望んでいない。
「…追々、わかるさ。俺が欲しいと思った物で、手に入らなかった物はない。それに、お前はもうあの街に戻る必要も、常に警戒する必要もないんだ。俺が守ってやるから」
 カラスはただ、返事を返せずに眉間にしわを寄せた。

***

 自分の前では飯を食わないカラスに呆れ、魅朧は船長室に食事とカラスを置いてきた。閉じこめるつもりもないから鍵すらかけていない。
 魅朧はブリッジで金のたてがみをがしがしとかいた。
「面倒くせぇなぁ……」
「何ですか」
 魅朧と同じ様な金髪のこの男はエルギーという。だが魅朧だけは彼のことを鷲(チィオ)と呼んでいた。
 エルギーは癖のない長い金髪を頭上で縛り、そのままだらりと腰まで伸ばしている。魅朧を横目で見ながら、舵を操っている。彼はスケイリー・ジェット号の操舵主任だ。
「ああ?カラスだよ」
「キャプテンがさらってきた人間の名前ですか?また風変わりな」
「おうよ。これで龍なら鴉(ヤァ)とでも名付けてやれるがな。人間つうのは面倒な生き物だな意思疎通の出来ねぇイルカか何かかあれは」
 魅朧の悪態に、エルギーは笑った。
「一つお願いがあります」
「何だ」
「通信管のふたはしっかり閉じておきなさい」
「………………聞こえてたか?」
「たまに。…そういえば、シャツは?」
「あいつに貸したまんまだ」
 魅朧は、黒いズボンに革のブーツ、そして素肌の上に黒いロングコートを纏っていた。操舵室の壁に寄りかかっていた魅朧は、声もなく笑った。
 その時、数ある通信管から声が聞こえた。
『エルギー、魅朧はそこにいるかい?』
 気の強そうな女の声、ノクラフだ。
「何だ?」
『ああ、やっと出てきたんだねあんた。あの餓鬼、ドラフト(喫水。船の水線下)の近くでうろうろしてたよ。放し飼いにしといていいのかい?』
 苛立った怒鳴り声がブリッジに響いた。
「…………ったく。面倒くせぇ」
 天井を見上げて、魅朧が溜息を吐きだした。
「迎えに行くから、手を出すな」
『ご苦労なこったね。さっきネヴァルがからかいに行こうとしてたから止めとくよ』
「そうしてくれ」
『アイ、サー』
 ぱたん、とふたが閉まる音がした。
「お前の上さんは怖ぇな」
「ええ。それが可愛いんですけどね。ところで、ミネディエンスからかなり離れましたけど、いいんですね?」
「ああ。もう用はねぇよ」
 夕暮れがかった雲を眺めながら、エルギーが渋い顔で船長に尋ねる。
「鼠でもいるんですかね」
「どうだかな。カラスにそれとなく聞いてみるつもりだが、まだ無理だろうよ。俺を狙うなんざ肝の据わった人間もいるもんだ。その内出張ってくるぜ。一応警戒しておけと皆に言っておけ」
「アイアイ、サー。………迎えに行くんですか?」
 意地の悪い笑みを浮かべてエルギーが聞くと、艦橋からデッキに下りていく船長は後ろ向きのままやる気無さそうに手を振った。

  

カラス。大人しいやつじゃありません。毛さかなでて、警戒ばりばりの野良猫みたいなもんです。
そして天空の竜ですが、代表的な物にランドシェリオール(鴻嵐鵠)。何世紀も前に死んでいます。
2003/10/24

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