3 Vagrant of Deck Jungle 「階迷路の放浪者」

Liwyathan the JET 1

魅朧が去ったあとで、カラスはようやく食事に口を付けた。
 やはり腹が減っていたのか、フォークが止まるまでに結構時間がかかった。
 自分の体型より大きめの黒いシャツを脱いで、ソファに掛けられていた自分の服を身につけた。
 身体は今も不調だが、足を引きずるようにして船長室を抜け出した。持っていた武器は消えていたので、変わりに果物籠に入っていたナイフを隠し持った。
 とりあえず、階段を下りることにした。
 人の気配のない方へと隠れながら進んでいく。
 自分がいかに馬鹿なことをしているのか、カラスは理解していた。こんな体調で、敵の本拠地をうろつくなんて、得策じゃないのは判っている。
「…………はぁ…」
 三つばかり階を下ったところで、カラスは膝を突いた。
 辺りを見回して、死角になるような隙間に身を寄せた。昔から、隠れることは得意だ。
「何で俺、こんなことになってんだろ」
 ぽつりと呟いた。
 とりあえず、ここに来るまでに把握しただけでも、この船が馬鹿みたいに大きいことはわかった。大型の客船並である。もっとも、カラスは客船はおろか漁船にさえ乗ったことはなかったが。
 背中を壁に押しつけて、押し殺した溜息を吐く。
 ミネディエンスのクライアントから、あの命令を下されたとき、どこかに引っかかるものがあった。
 風貌だけの特徴で暗殺を依頼してくるのはあまりない。第一、騎士団と教会が暗殺を目論む人物は、教会内のひいてはミネディエンスの政治に関与する者に限られている。
 それなのに、何故あの魅朧を殺そうなどと考えたのだろう。海洋民族の王者とまで謳われるキャプテン魅朧。そんな人物を、自分が殺せるはずはない。
 戻ろうか、と考えた。
 でも、一体何処へ戻るというのだ。
「俺の部屋でいいんじゃねぇか?」
 突然かけられた声は魅朧のものだった。
「………いちいち、俺の心を読むな」
 魅朧の出現に驚いたが、それを表現することをなんとか留めて、カラスは悪態を付く。結局捕まってしまうのだ。
「気になってしょうがねぇんだから勘弁しろよ。それより、辛くないか?よくここまで歩いてきたな」
 物置の影に身を寄せるカラスを無理矢理引っ張り出すようなことはせず、魅朧はすぐ側の壁に寄りかかっていた。自分の姿をカラスが見られる位置に。
「ついでだ。この船案内してやるぜ?」
「そんなことしたら、俺に有利になるぞ」
「いいんじゃねぇの?」
 実に開けっぴろげに笑う。
 油断なのか自分をなめているのかわからないが、ここまで気を許されたのは初めてで、カラスは困惑してしまう。
「ほら、来いよ」
 差し出された手に邪気はなかった。果物ナイフで襲いかかることもできたのだが、そうする意味が見いだせなくて。少し躊躇った後に、カラスは魅朧の手を借りてその小陰から這い出た。

*****

 スケイリー・ジェット号は、喫水下に1デッキ、甲板がそれより二つ上にある。下から順に、ドラフト(喫水)、レジデンス(居住区)ホールド(船倉)と呼ばれているという。甲板には船橋とそれから魅朧の船長室がある。
 海賊船にしては大きな船だ。マストは四本で甲板がだだっ広いのが特徴だった。
 ドラフトまで下りてきていたカラスは、迷路のような階段を昇ってホールドの一角にいた。このホールドデッキには、食堂もあるらしい。幾つかの小部屋と大部屋。ホールにそのまま積み上げられた麻袋や樽。その他船の部品や木材などが雑然と詰め込まれていた。
 小部屋の内の一つ、厳重に鍵の掛かった部屋の中で。
「とりあえず渡しとかなきゃなんねぇ物がある」
 積み上げられたつづらと大小さまざまなチェスト。漆塗りのチェストの引き出しを、魅朧はがさがさと漁った。
 カラスは所在なさげに室内をきょろきょろと見渡す。
「お前を傷つけるのは嫌だから、ピアスじゃあ駄目だろう。指輪ってガラでもねぇしな」
 そう言って出してきた物は、プラチナのバングルだった。精密に鱗模様が施され、その中央にはブラックオニキスが填めこまれている。
「ほらよ」
 どこか誇らしげに、魅朧はカラスの腕にそれをはめた。
「な…、なんで?こんな物貰えない」
 カラスは焦った。その見事な細工は、路地で売っているような安物とは違う。自分の立場をどう考えたって、良く知りもしない相手から、しかも自分をさらった犯人から、宝飾品を貰う所以は無いはずだ。
 咄嗟に外そうとしたカラスの手を魅朧が止めた。
「それは俺の物だという証だ。同時に、俺の部下でありこの船の住人っつー主張になる。他の船員を見てみな。黒瑪瑙の指輪かピアスをしてる」
「………そんな物、いらない」
 カラスは正直に答えた。
 魅朧は大袈裟に苦笑し、突き返そうとするカラスの動きを封じて、強引に唇を重ねた。
「…んんっ……!?」
 抗議の言葉もかけられず、カラスは身をよじった。逃げ出そうとする身体を上手く捕まえて、魅朧はもっと深く執拗に口腔を蹂躙する。一通り満足するまで貪って唇を離すと、カラスがかくんと床へ崩れ落ちた。
 背筋を這うようなそれに、膝の力が抜けてしまっていた。
「素直に受け取っておけ。お前が損する訳でもない」
 くつくつと笑った。

「もしも前が望むなら、船員に紹介しよう」
 船長室に着くまでに、魅朧はそう提案した。だがカラスはそれに否を返す。自分はスケイリー・ジェット号の船員になったつもりはない。左腕のバングルを外してしまいたい。
 船長室に連れ戻されたカラスは、一人そこに残された。魅朧はしばらくしてから着替えを何枚か持ってきて、ソファの上に置いていった。そしてすぐにまた出ていってしまった。
「忙しない…な…」
 カラスはソファの端に座った。こんなに広い部屋は落ち着かない。不安を隠すように、ぎゅと拳を握る。
 突然の環境変化についてゆくことが出来なかった。
 自分は捕虜ではないから、きっと殺されることはないだろう。だからといって、この海原で一体何が出来るだろう。逃げ出すには船を飛び降りればそれで済む。しかしカラスは一度も泳いだことがない。生きて帰れる望みは少ないだろう。
 怠い身体をソファに預けて、そのまま目を閉じた。
 最強の海賊船。キャプテン魅朧。海龍。
 神聖ミネディエンスでの生活。華やかさに隠された汚泥。張り詰めた神経。出来るはずがない信用。
 思い返して、何処に未練があるのだろう。
 利用されてきただけなのに………。


 魅朧が船長室に帰ってきたときには、カラスがソファで眠っていた。またうろついているのかと心配したのだが、疲れ切ったように眠っている。
 まだ、一度も笑顔を見ていない。
 眠る姿をドラゴンの感覚を通して見つめる。意外に長い睫毛が顔に影を落としていた。薄く開いた唇が扇情的で、魅朧は知らず舌なめずりをする。置いていったはずの服には手を触れず、そのままの服装で。ひらいた胸元からは、昨日散々抱き続けた情事の後が生々しく残っている。
 このままカラスを抱くことは造作もない。だが、そんなことをしたら、それこそカラスは傷つくだろう。
 自分の欲望に忠実なドラゴンは、ぐっとそれを我慢した。
 その代わりに、何度かカラスの耳元で名を呼ぶ。
「………ん…?」
 鼻に抜けた甘い声を漏らして、カラスはぼんやりと目を開く。青磁の瞳が、今は淡く濡れて見えた。
「あんまり誘うと食っちまうぞ?」
「………魅…朧?」
「おう。お前に見せたい物がある」
 瞳を開けた途端に警戒を現したカラスを宥めるように、魅朧は穏やかな笑みを浮かべた。その顔を近くで見たカラスは、自分がつけた頬の傷にちらりと視線を向けてから、困惑に眉を寄せた。
「服、気に入らなかったか?女達に選ばせたんだぜ」
「…………俺に、そんな服を貰う価値はないから」
「…あのなぁ、そんな決め方で自己完結させてるんじゃねぇよ」
 魅朧は呆れて言った。
「てめぇ個人の価値を、卑下する必要なんかないだろ。価値を決めるのは己のプライドと信念だ。お前はそんな安っぽいプライドしかないのか?違うだろ。自分の値段なんかねぇさ。自分が望まない服従なんか捨てちまえ」
「…………」
「辛かったんだろうが、今まで。俺にとってお前は財宝と同じだ。大事に守るのは俺の義務だからな。願いがあったら叶えてやるよ。お前を苦しませるような奴がいたら殺してやるさ」
 真摯な言葉に嘘はない。きっと魅朧は、カラスを苦しませる者が居たら本当に容赦なく排除するだろう。
「よし、甲板に行くぞ」
 黙り込んだカラスの腕をひいて。
 船長室は、甲板にある。それなのに、一度ホールドに下りてからじゃなければ、船長室に行くことは出来ない。
 少し眠って身体が楽になったカラスは、魅朧の後ろをしぶしぶついていった。
 階段を昇って扉を開けると、だだっ広い甲板が目の前に広がっている。ちょっと小さな広場並に広い。一体何に使うのだろう。
 甲板を横切って、船の縁で魅朧が地平線を指さした。
 カラスはその指の先を見つめたまま、息を呑んだ。
 言葉が出なかった。
「綺麗だろ」
 ゆっくり、頷く。
 沈みかけた太陽が、きらきらと水面に輝きを落としていた。高い空に幾つかの雲がまばらに散っていて、それが空の藍と混ざって暖かい薄紫色をしている。
 遠い。
 視界いっぱいに広がる一面の金色。
 建物で邪魔されることなく、ありのままの自然がそこにあった。あんなに巨大だと思っていた船が、とてもちっぽけな物に思えてくる。
「この海が、俺が支配しているものだ。これを守ることが誇りだ」
 水平線に溶け込む太陽を睨み付けながら、魅朧は腕を組んだ。夕の潮風にコートがはためく。 
 その声の主をちらりと見たカラスは、夕暮れの一瞬の明るさに、なにか巨大な物を見た気がした。黒い、何かを。
「星空もすごいぞ。オカにいたら絶対に見られない」
 確かにそうだろうと思う。明かりはこの船だけだ。
「そうだ。一日中太陽が沈まない海域もあるんだぜ。お前が望むなら連れて行ってやる」
「だから…、何で俺にそこまでしようとするんだ」
 いつの間にか、恐怖心が消えている自分に気がついて、カラスは苦し紛れにそう聞いた。
「本心は、何なんだよ」
 魅朧は、答える代わりに口付けを返した。

 

  

今更言うのもなんだが、「オカ」って丘のことです。陸とか、大地をさす言葉。
それにしても、他の船員が全く出てこないな(笑)。
2003/10/31

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