砂漠の蜥蜴*3

***聖霊奇譚*"Sand Lizard "***© 3a.m.AtomicBird/KISAICHI***

 

 

 それから一ヶ月。
 万年常夏の砂漠地帯に比べ、ディガムバーラは夏の終わりに向かっていた。しかしはっきりとした四季ではないので、真夏に比べて少しは涼しくなった程度にしか感じないが。
 彼にとって、一月という期間は瞬きのようなものだった。人の十数倍の年月を生きてきた彼は、待つことに慣れきっている。
 それでも、一日に何度もその部屋に入り、ただ黙って浴槽に沈む美しい顔を眺めたりするのだった。


 気がつくと、呼吸がとても楽だった。
 自分が一番安心できる水の中にいるのだとわかるまで、それから少しかかった。体を動かしてみようとも思ったが、気持ちよりも身体がついては来ない。自分が明らかに疲れているとわかったので、そのままもう一度眠ることに決めた。

 次に覚醒したとき、今度は随分とはっきりと周りを意識することができた。水の中で呼吸というのも変な話だが、空気ではなくその水を肺に入れても苦しいとは感じなかった。自分が浸かっているその水が、特殊な液体であることに気付き、その成分を考えた。
 不浄な物を退ける聖水。それよりはいくらか動的な感じがする。汚れを退けるのではなく、焼き尽くすような感じだった。それに混じるようにいい香りがする花の匂いが鼻孔に広がる。それは身体の力を抜いて眠りへと誘った。しかし、もう眠る必要はなかった。
 ゆっくりと瞳を開けると、金色の光が目に染みた。何度か瞬きし、それが朝日であることがわかる。自分が今箱のような中、聖水に満たされた中で眠りについていたことを改めて意識した。
 瞳に映る物は水面越しの朝日の光と、何の変哲もない天井。どこかの室内にいる。そして、彼は時折感じた燃えるような気配を探った。いつも近くにいたような気がする。今もすぐ近くにいる。自分の視界の範囲ではないが、物音がすればすぐに駆けつけることができる程度の近さだ。その気配に何故か安心して、胸の上で組まれていた手のひらを何度か握ったり開いたりを繰り返す。
 自分が目覚めて、そこが危険じゃないとわかっていたことに漠然と疑問を感じ、眠る前に聞いた、優しい低い声を思い起こした。

 ジーベルス。

 彼は声には出さずに囁いた。
 それは俺の名前である。レギアノーマが名付けた、唯一無二の真名。知っている者はこの世に自分とレギアノーマその人だけのはずなのに。
 軽い混乱を覚えながら、ジーベルスは右腕を上げた。濡れた皮膚が水面を離れ、滴をしたたらせながら外気に触れる。そこは乾いていたが暖かかった。自分の手が水面の外にあることを確認し、箱のような物の縁に手をかけて、深く息を吐きながらゆっくりと身体を起きあがらせた。思うように力が入らなかったが、それでも上半身を起こした。
 肌に張り付く布が最後に自分が着ていた服と同じものであることを確認した。濡れて青みを増した銀髪が、背中や首にまとわりついている。
 何度か咳をして、水の代わりに空気を肺に入れる。肺に残っていた水はそのまま吸収してしまう。
 背後に例の気配を感じて、ゆっくりと振り返った。

「お早うございます」

 その男は、ゆっくりとした口調で告げた。

「もう、起きて平気ですか?」

 労るようなその視線に、ジーベルスはこくりと頷いた。
 ジーベルスは近づいてくる男を、まじまじと見つめた。まさに燃えるような深紅の炎と瞳。それを象徴する威圧的で烈火のごときその気配。全てを焼き尽くすようなその中に、ジーベルスは一点だけ灰のように黒い、不浄で不吉な気配を見つけた。それがどこからやってきているのかをじっくり見極めると、眼帯に隠された瞳に行き当たった。始まりの女性の記憶を思い出して、それが魔創戦争の折りに聖炎霊が受けた傷であることを思い出した。

「サラマンダー……?」

 上手く呂律の回らない口調で、ジーベルスは尋ねた。

「ええ」
「……何で………?」

 聞きたいことが、山のようにあった。

***

「貴方の想いに答えることは、できないわ」

 華奢な体躯に揺るがぬ意志を持った彼女は、美しい微笑でだがきっぱりとそう言った。
惜しげもなくさらした青銀の髪は長く、毛先は軽く波立たせている。驚くほど引き締まった腰と、豊満な胸が見事なスタイルだった。

「あの人間と共に行くのですか、レギアノーマ」

 短いが燃えるような赤毛の青年は、やはりそうか、と溜息をついた。

「貴方を愛していないわけじゃないのよ。貴方のことは大好きだわ」

 青年の家の居間で、上等なクッションに身体を預け、でもね、と彼女は続ける。

「この世界は私たちから生まれたもの。世界が終わるまで共に生きていかなければならないのなら、私は『私』として生きていく。ウンディーネとしてじゃなく。この『私』が死んでも、次の私が生まれてくるでしょう。それなら、人と同じ一生を過ごしてもみるのもいいじゃない?」
「理解しかねますね」
「貴方はそう言うと思ったわ」

 口元に細い指をあてて、貴婦人のように笑う。

「私が人間に負けるとは、残念です」
「勝ち負けではないわ。そうね。あの人は貴方に比べて背も低いし体力もないし博学でもないけれど、それでも私は彼が好きなのよ」

 にこりともしない青年に、レギアノーマは苦笑を漏らした。

「ねえ、ペルシャ。貴方は何度も私達に好意をよせているわね。でもあまりに優しすぎて、そして奥手だわ。本当に、貴方は残酷なまでに優しいのよ。そんな貴方を愛しているから、だから、貴方にプレゼントを贈るわ」
「……………」
「ジーベルス」

 訝しがるように、青年は方眉を上げた。

「次の『私』の真名よ。貴方にあげるわ、ペルシャバル」

 最後に見た彼女の笑顔は、世界が霞むほどそれは美しいものだった。
 花のように満面の笑みを浮かべたそのカウチの同じ場所に、レギアノーマではなくジーベルスが静かに座っていた。
 全身をぬらす聖水をその魔術で蒸発させて、あらかじめ用意してあった新しい着替えを渡すと、ジーベルスは困惑しながらもそれを受け取って着替えた。誘導されるままに居間のカウチに座らされ、見知らぬ部屋の中をきょろきょろと見回す。
 ほのかに甘い香りのする冷たいお茶を持ってきたサラマンダーは、二つのグラスをテーブルに置いて自分はジーベルスの向かえに座った。

「覚えていますか?」

 聞かれた問いに、ジーベルスはいったい何のことかわからなかった。その仕草に、サラマンダーはもう少し詳しく話さねばならなかった。

「貴方は随分人間の血を浴びていたようです。何があったか覚えていますか?」
「…………あ…」

 やっと合点がいったジーベルスは、小さく声を漏らした。考え込むように少し黙り、それからサラマンダーの方へ視線を戻すと、促すように頷いた。

「レギアノーマに、アンタに会えって言われたんだ」

 少し緊張して、それでも穏やかな音楽的な声で話し出した。

「それで、アンタを探してた。ロイ・ダガルって最東端の漁港にレギアと住んでた。彼女が消える少し前から、まるで遺言みたいに『サラマンダーに会え』って」

 サラマンダーはその澄んだ声色に、微かなレギアノーマの残り香を聞いた。

「アンタの気配を何度も探ったけど、そのたびにいちいち場所が違ってた。西の方にいることは確かなのに、いざ見つけようとなると気配をたぐれなくなる」
「そういう種の魔術で気配を絶っていましたから」
「本当なら見つけられないはずないんだけど、まだ、力が安定していないんだ。召喚獣もほとんど眠らせているし。……正直、大変だった」
「それは、悪いことをしましたね」
「いや、まだ未熟なだけだから。……アンタを探してる内に、資金がそこを尽きそうになって、人間に混ざって仕事をしてたんだ。この外見だから、実入りは良かったけど、あんまりいいことはなかったよ」

 幾分自嘲気味に。のどが渇いて、ジーベルスは水滴のついたグラスを手にとった。口に含むと、ほのかな苦みがあった。

「別に必要もないのに、俺を巡って人間が争いあう。滑稽だよな。最初の内は止めてたんだ。そしてすぐに街を去った。でもさ、一度だけ止めきれなかったことがあった。自分を守るために、相手を殺してしまうしかなかった」

 世代交代したての聖霊は、時として己の力が制御できなくなる。まったく魔術が使えなくなるのではなく、その威力を制御できずにたいていは破壊を生む。

「冬眠しとけばよかったって、思ったよ」

 空色の瞳を伏せて、肩を落とした。顔にかかる青銀の髪が悲壮感を漂わせる。サラマンダーは思わず傍によって抱き寄せたい衝動に駆られた。自分が知っているウンディーネなら迷わずそうしただろう。

「貴方のせいではありませんよ」
「そうかも知れないけど、俺が殺した人間も死ぬ運命に無かった。それから、だんだん身体が制御できなくなっていった。ああ、やばいなって思ったときにはもう遅かった。でも、アンタに助けられてよかった。ありがとう」
「当然の義務ですよ」

 きっぱりと言い放つサラマンダーに、ジーベルスは微笑んだ。蠱惑的というよりは、清廉な笑みだった。

「聞きたいことがある。何で真名を知ってるんだ」

 微笑みは変わらずに、しかしその瞳は鋭く挑むように。

「レギアノーマからの贈り物です」

 よどみなくサラマンダーは答えた。あんまりあっさり答えが返ってきたので、ジーベルスは一瞬呆れてしまった。
 レギアノーマの贈り物。彼女だったらやりそうかもしれない。じゃなきゃ、サラマンダーに会えなんてしつこく言わなかっただろうし。
 軽い溜息と共に納得した。
 真名は普通、自分から明かすのが筋である。しかし、ジーベルスはそのことに憤りは感じなかった。レギアノーマは別の個人だが、全くの別人というわけではない。彼女が真名を明かすくらいの人物なら、信用してもいい。

「それでは私からも一つ聞かせてください。貴方はレギアノーマから『進行の記憶』を受け継がなかったのですか」

 目の前のウンディーネは、確かに聖水霊ではあるけれど、その性別が異なっている。世代交代で全てを受け継がなかった場合、何かが逆に働いてしまうのだ。『古代の記憶』は生まれ変わるのに一番必要な物だから切り離すことはできない。それにくらべ『進行の記憶』はいわば一個人の一生分記憶であり、それを受け継がなかったからといって聖霊になれないわけではない。いわば亜種だ。だが、たいていの場合両方の記憶を受け継がせるのが当たり前である。

「レギアは色々な物をくれたけれど、唯一それだけはくれなかった。レギアの前のウンディーネまでの記憶は確かに持ってる。でも、俺が知らないレギアの記憶は貰えなかった」

 寂しそうに、ぽつりと呟いた。

「なんか複雑」

 


 

  

まだロマンスはないですね(笑)。
頭堅いヒト、サラマンダー。落とすのか落とされるのか。
毎回、代々ウンディーネに思いを寄せるも達成ならず(笑)。

20030810