FOX - 4 -

sep krimo [ TheCovetousness ]

『あれから気になっちゃって部屋をひっくりかえしたの。映画のパンフレットにサイモンが書いたメモが出てきたのだけれど…』
  耳障りのよい女の声で電話を受けたのは、昼過ぎもいいとこの時間だった。女の声で起こされるのは悪くないが、夢見が悪かった。あんなもん見せられたら誰でも魘されそうなものだが、この年で寝起きの息子をどうにかしなきゃならんとは、思わなかった。最悪だ。
『ロバート?聞いてる?』
「あ、ああ」
  俺はトゥルーの声に引き戻されて、受話器を握りしめた。
『Erebos Riverって知ってる?』
「そりゃ、俺の町の近くにある川だ。そこ以外にも同じ名前があるってんなら、別だが」
『偶然かしら。一応私が調べてみたけど、他にはそんな名前の川は無かったわ』
  仕事が早くて助かる。
「それ以外に何かあったか?」
『P166、これはページ番号?後は、B…何かしら破られてて、それ以外わからない』
「…一度見せてもらえないだろうか」
『いいわよ。けど、そうね、どうせなら、行ってみない?』
  行くって、何処にだ。まさかエレボス川に行こうとでもいうのか。いや、俺は行くだろうが、車が必要な距離ではあるし、すぐにビーリアルを離れるということは考えていなかった。どうせ調べるものはこれ以上無さそうなんだが…。
「…劇団はどうするんだ、トゥルー」
  俺は無精ひげを掻きながら、どうやって彼女を納得させようかと頭を巡らせた。起き抜けのスポンジでは、どうも上手く回らなかったが。
『どうせ役なんて回って来ないわよ。シーズンオフだし、気分転換に連れて行って。それに、サイモンの故郷も見てみたいし』
「昨日今日出会ったばかりの探偵に、身の危険は感じないのかい?」
『あら、私に何かしたいの?』
  逆に聞き返されて、俺は言葉に詰まった。照れているわけではない。断じて違う。
  結局俺は彼女に押し切られる形で、エレボス川まで一緒に行くことになってしまった。行きは列車を使ったんだが、もし女連れで町に帰ったら何を言われるか解ったものではない。俺はひとしきり唸った後、荷物をまとめて宿をチェックアウトし、中古車屋に行った。 どうせ欲しいと思っていたし、必要経費と言えなくもない。きっと。
  俺は欲張らず手頃な車を手に入れて、ついでに地図を買い求め、劇団ブレーメンへ車を走らせた。待ち合わせた時間に丁度いいだろう。まさか車で来るとは思っていなかっただろうな、彼女も。
  車内で煙草の煙を吐き出して、俺はふいに気が付いた。
『サイモンの故郷も見てみたいし』
  思わずブレーキを踏んだ。老婆が怒っているが、引かなかっただけよかった。
  エレボス川が、俺の町の近くだとは言った。だが、それがサイモンの故郷だと言っただろうか。
  記憶には、無かった。

 いい車ね。
  胸元の開いたキャミソール姿で、トゥルーが言った。
  俺は警戒しながら彼女の荷物を後部座席に乗せ、助手席に促す。しっかりシートベルトを締めた彼女の膝の上には黒革の本が乗っている。
「それ…」
「ああ、後ろに置いておいたほうがいい?」
「いや。どちらでも。重くはないか?」
「別に大丈夫よ。高そうな本ね、アンティーク?貴方の趣味かしら」
「参考資料ってやつさ」
  敢えて誰の物か言わずにいれば、トゥルーが珍しそうにページを捲っていた。その本の存在を、俺は忘れていた。クライアントに見せただけで、どうやら持ち帰ってきていたらしい。これが『約束』の品というわけでは無かったんだろうな。
  俺は車を郊外に走らせ、途中でハイウェイに乗る。途中モーテルに泊まるとして、明日の昼にはエレボス川に着くだろう。
「音楽、かけていい?」
「どうぞ」
  ハンドバックからカセットテープを取り出したトゥルーは、車のレコーダーにそれを入れた。流れてくるのは懐かしいカントリーミュージック。聞いたことがあるけれど、タイトルはわからない。
「これ、昨日のメモと一緒にあったのよ。あの当時流行っていたのね。懐かしいわ。知ってる?」
  十五年前の曲か。そりゃ、俺が知るわけがない。
「その頃の事はよく覚えてないんでな」
「そう。ねえ、ロバート、貴方の生まれ故郷ってどこ?私はセントイテル。田舎でしょう?」
  俺には聞き覚えのない町の名前だった。曖昧に頷いておいて、俺は彼女の好奇心旺盛な瞳をどうかわそうか困っていた。
「ロバート?」
「知らないんだ」
「え?」
  道は変わらない風景を突っ切っている。砂漠と言うより、荒野。大自然をぶった切る道だけが人工物だ。
「今の町に流れついた時には、記憶が無かった。暫く探偵のおっさんに世話してもらったお陰で、同じ職についている」
「…ごめんなさい」
「いや、気にする程でもないよ。自分が誰だかわからなくても、それはそれで生きていけるもんだ」
  リプレイし続ける曲を聴きながら、俺たちは無言だった。彼女からは同情の気配がするので、俺は敢えて何も言わなかった。身分証を持っていたから、別に苦労するでもなかったのだ。食うに困る事は、当時も今も変わりない。
  紙を捲る音がして、俺はちらりと様子を窺った。彼女はあの魔導書だかなんだか、黒革のオカルト本を読んでいる。
「レフィクを喚び出す方法」
「…は?」
  思わずしっかり横を向いてしまい、ハンドルが一瞬逸れる。俺は慌てて正面を向いた。車の運転なんて久しぶりなんだ。ここが直線でよかった。
「116ページよ。別にこの本ってわけでもないでしょうけど、気になっちゃって」
「読めるのか?」
  俺は全く読めなかったんだが。
「高校の専門が古典だったの。全部覚えてるわけじゃないけど、何となく読めるわ」
  文字を指で辿りながら、トゥルーはどこか楽しそうだった。車酔いをしなきゃいいが。
「魂、…契約する、血?随分怪しい本ね。それに、本文の文法がめちゃくちゃだわ。他のページもこんな感じなの?」
「いや、俺は全く読めない」
「ふうん」
  途中で居眠りを挟みながら彼女はその本を読んでいた。車酔いは大丈夫そうだし、詮索されることも無いので俺は放っておいた。腹が減って来たのと日が暮れるのが同時にやって来たとき、漸く途中の町に着いた。
  短いメインストリートでテイクアウトを買って、モーテルに車を止める。部屋は二つ取ったが、食事は同じ部屋で。ルートの確認をしてトゥルーが部屋へ戻ったのは、寝るには早い時間だった。
  金髪の美女だ。蠱惑的に誘ってくるわけではないが、一晩くらい楽しんでも良さそうなのに。彼女は俺を友人だとでも思っているのだろうか。有料放送で抜けるほど、俺は若くないんだがな…。女を買う時間がない程仕事をしちゃならんと思うぜ。
  この仕事が全て片付いたらトゥルーと結ばれる。そんな映画みたいな結末を思い浮かべて俺は笑った。そんな映画には誰も金を払わないだろうな。
  考えるだけはタダだろうと無理矢理納得して、俺は目をつぶった。

 

***

 

 行程二日目は曇り空だった。天気予報では昼から晴れると言っていたが、この際雨が降らなきゃどうでもいい。
  俺は欠伸を噛みしめながら景色を眺めた。カーステレオからは昨日と同じ曲。何だこれは催眠術か。いい加減丸ごと歌詞を覚えてしまった。
  荒野から山に入り、峠を一つ越えた今は森の中だ。町へはまだ遠いが、川を越えて少し行った所に、ガソリンスタンドとモーテルがあったはずだ。
「川がありそうな景色には見えないわ」
  俺にはこれが普通だが、彼女はどんな想像をしているのだろう。長時間トゥルーと一緒に居て解ったことは、彼女が何を考えているのかよくわからないという事だった。嘘をついているんだったら、長年の勘で俺にはわかるんだが、どうもそういう感じではない。
「普通の川だ。上流だからな。二、三時間歩けば源流があるらしい。俺は行った事がないが」
「スニーカーで来てよかったわ」
「…行くとは言っていないんだが」
「あら、そう」
  からかうような視線で、スカイブルーの瞳が笑っている。容姿は問題ないのに、彼女は舞台女優に満足しているんだろうか。映画女優になりたかったのでは、ないのだろうか。
  考えても仕方のないことだ。俺は煙草に火をつけた。
  それから一時間と少しして、車はエレボス川に到着した。橋の手前に車を停車させて、しかし俺は外に出ることを戸惑った。川がどうだというんだ…。
「いかないの?ロバート」
「たとえ15年前にサイモンがここに来ていたと仮定しても、そんな痕跡は残っていないだろうと気が付いた」
「でも、何をしていたか位は解るわよ」
  なんだって。
  唖然とする俺に見向きもせず、トゥルーは本を開いて俺に示す。だから、俺は読めないんだ。
「サイモンはここで悪魔を召還しようとしたのよ。どんな事でも叶えてくれる悪魔を」
「へぇ」
  馬鹿にしたような返事が思わず出てしまった俺に怒ったのか、トゥルーが乱暴にドアを閉めて出て行ってしまった。
「おいッ、トゥルー!」
  慌てて後を追った俺は、なかなか彼女に追いつかない。体力が無い事は認めるが、情けなさ過ぎる。
  川の周りは背の低い草で覆われ、しかし上流へ行くほど木々に囲まれてくる。昼でも暗い。汗が浮かぶ。久しぶりに運動したからか、酷く気分が悪い。
「トゥ、ルー…」
  待ってくれ。それ以上奥に進まないでくれ。
  金髪が珍しそうにあたりを見回し、時折本を開いている。
  なんだ、これは。
  俺は脂汗に濡れた額を袖で拭った。鈍器で後頭部を殴られたような、鈍痛。彼女に近付くにつれ、こみ上げてくる吐き気に唇を覆った。内臓が逆転する。視界が狭くなる。
  暗い。
  俺はなんとか川縁まで行って、吐いた。
  女の声がする。
  聞こえない。暗い。ここは何処だ。

「他所もんにゃ、住み悪いかもしれんが、都会より楽だ。ここの住人は自分に関係のない者に、殆ど感心がない」
  粗末なベッドに寝かされた俺は、皺とシミだらけの老人の言葉を聞いていた。
「宗派があるお陰で、生きていくだけの食い扶持は稼がせてくれる。便利屋だと思っておけ。お前さんのような者がやって行くには、問題なかろう」
  俺は水に浸かることが嫌いだ。俺を拾ったじいさんは、俺が水死体だと思っていたらしい。川から人が流れてくれば、まず死体だとは思うだろうな。
「忘れっちまったものは、忘れたかったから消えたんだ。お前さんが川を下ってくる間に、生まれ変わったと思やいい」
  それから五年もしないで爺さんは死んだ。
  俺はぼやける視界で天井を捉えて、夢を見ていた事を知った。ここは何処だ。軽く頭を振れば、睡魔はすぐに去った。
  ベッドサイドのテーブルに、灰皿があった。備え付けのマッチに書かれたロゴが、モーテルの名前と同じだった。ではここは町に近い方のモーテルだ。
  カーテンの隙間から明かりは差し込んで来ない。腕時計を確認したら、深夜に近かった。どれだけ眠っていたのか、俺は。
  灰皿を文鎮代わりに、メモが挟んであった。
『独りにしてと言うから、部屋は別にしたわ。私は隣の107に居る。貴方は108。起きたら連絡してちょうだい。
  先に教えておくけど、サイモンはやっぱりあそこで悪魔を喚んだのよ。映画デビューを願ったに違いない。本当に魂まで売ってしまうとは思わなかった。
  後で話し合いましょう』
  テーブルの下には俺の荷物が置いてある。その上に黒革の本。
  記憶を順に辿った俺は、川でトゥルーを追った所で跡切れていることに気付いた。そうだ、具合が悪くなったんだ。
  こんな事は初めてだ。張り込みでも風邪を引かない俺は、病気の類とは無縁だった。頭痛がぶり返してくる。
  俺は、エレボス川で拾われたらしい。釣りに来ていた爺さんがボケてなければ、だが。
  車で通過することがあったとしても、川を歩いた事はない。俺は昨日初めてエレボス川に近付いた。一体、あそこに何があるっていうんだ。俺の過去でも眠っていると言うのか。
  俺は頭を抱えた。サイモンの事など忘れてしまっていた。何かに突き動かされるように、車のキーと本を掴み取り、部屋を出た。
  107号室の扉を叩く。
「トゥルー、俺だ、ロバートだ」
  明かりは付いていないから、寝ているのかもしれない。けれど、朝まで待てる余裕は無い。周囲を気にしながら何度か戸を叩いて彼女を呼んだが、出てこない事を悟ると、俺は車に向かった。買ったばかりでさほど愛着が無く、一瞬自分の車がどれか迷ったが、さほど離れていない駐車場にそれを見つけて乗り込んだ。
  車通りはほとんど無い。俺は追われるような焦りを感じながらエレボス川へ向けてアクセルを踏んだ。
  街灯が無くなって少ししてから、漸く橋が見えてくる。最初に来た時と同じ場所へ車を止め、俺は深呼吸を繰り返した。深刻なトラウマでもあるというのか。馬鹿馬鹿しい。
  奥歯を噛みしめ、漸く覚悟が出来た頃、俺は外に出た。肌寒い。枯れ草が靴に踏まれる音を聞き、それ以外が聞こえない事に違和感を覚えた。虫も、鳥も何も。川の流れる音すら遠い。
  だが不思議と昼のような体調の異変は感じなかった。むしろ、妙に思考がクリアに成ってくる。どれくらい歩いたか、まばらに生える木の一本が妙に気になった。木の後ろを覗き込めば、切り株がいくつも剥き出しになっていた。まるで集会場のようだ。
  俺はそこへ、一歩足を踏み入れた。
「ッ…!」
  蹴躓いて転んだ。それは無様に、子供のような転び方で顔面から地面に向けて。切り株の一つに手を突いて、地面とのキスは免れたものの、背筋に冷や汗が伝う。懐中電灯くらい持ってくればよかった。月も出てないのに妙に明るいから、不便は無いが…。
  いつ切り倒されたのか解らないが、滑らかな手触りの切り株を撫でる。
「…なんだ?」
  指先にぬるりと生暖かい感触を感じ、咄嗟に手を引っ込めた。ズボンで拭ってから確認すれば、指先が黒く染まっていた。樹液か何かか。畜生、落ちにくいものを。だが、匂いを嗅いで、俺は戦慄した。
  鉄錆びた、異臭。これは、血か!
  よく目をこらせば、黒ではない。赤だ。指先が赤い。切り株から後退りした俺は、異様な光景を目にした。
  切り口から血の泡を吹く切り株の又に、一塊の物体が転がっている。丸い。まるで人の頭。
「…あ、あ…ッ」
  そうだ。人の、頭部だ。血に濡れた。金髪。男だ。俺は、こいつを知っている。何度も写真で見た。
「サイモン…!」
  俺は無我夢中で走った。何度も草に足を取られながら、車に向かって逃げる。
  何だアレは何だアレは何だアレは何だアレは!
  B級ホラー映画の撮影でもしているのか?一般人を使ったドッキリでもやっているのか?!
  走りすぎて息が苦しい。汗でシャツが張り付いて気持ち悪い。喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきて、俺は耐えきれずに嘔吐した。
  濁った目で、奴は俺を見た。生首だけになって、俺を。生きている筈はない。あいつは代わりに死んだのだ。
「俺の身代わりになって死んだ筈だ…!!」
  叫んで、愕然となった。
  俺は、何を言った。今、何を。
『俺の身代わりになって死んだ』
  どういう、事だ。何なんだこの、記憶は。俺はサイモンなんて野郎は知らない。じゃあ誰を知っていると言うんだ。俺は俺だ。ロバート・クロフォード。身分証には顔写真もあった。偽造じゃない。調べてある。
  財布から身分証を取り出した俺は、名前や本籍地を確認していく。誕生日まで見て、身分証を川へ投げ捨てた。
  俺の生年月日は、サイモン・フォックスと同じだった。
  気が狂いそうだ。川縁にへたり込んで空へ向けて笑い出した俺は、他人が見たら立派に異常者だろうな。
  ロブ・クロスは、芸名だ。
  簡単なことだ。本名をもじったのだから。
  だが、俺は彼じゃない。それだけは、確かだ。確証も何もないが、俺の魂はロブ・クロスではない。あんな二流の役者じゃあ、ない。俺は映画俳優として赤絨毯を踏む男だ。劇団役者と同じじゃ、ない。
  俺は車に戻った。トゥルーに会いたい。彼女を抱いて、忘れたい。
  しかし俺は、二度と彼女に会うことは叶わなかった。
  モーテルに集まるパトカーと野次馬。ゆっくり車で野次馬に近付いて問いただせば、女が一人死んだと言う。首を切られて殺された。女は旅行者で、連れは男だ。

 俺は逃げ出した。
  だれか、だれでもいい。
「カット」
  と、言ってくれ。

  

次で終わります。BLじゃなくてごめんなさい(?)
2008/03/05

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