FOX - 5 -

sep krimo [ TheCovetousness ]

 道は一本だ。探偵事務所のある町へ行かないのならば、戻るしかない。エレボス川を越えなければならないだろう。
  ズボンが湿っている。血だ。幻じゃなくて、本物の血だ。俺の血じゃ無いなら、誰のだろう。トゥルーを殺したのは、誰だろう。
  捕まれば、俺は死刑か。記憶が無くても、死刑なのだろうか。証拠は。あの女はどうやってチェックインした。俺の名前を出しただろうか。畜生。
  元はといえば、この依頼がおかしいんだ。金があるなら、俺なんかに目をつけなきゃいい。ケチで貧乏な男一人破滅させるのは、奴らのゲームに違いない。
  クライアントを呼び出して殺してやる。奴を殺して、それからあの秘書を犯そう。図他ボロにして、俺が楽しみ尽くしてから、殺してやる。
  畜生、巫山戯るな。
  俺は震える指で携帯電話を引き出し、電話帳からダイヤルした。受話器を耳にあてる。コール音。何をしている、早く出ろ。早く出ろ!!
「…ッ!?」
  鼓膜をつんざく電子音に、俺は携帯電話を放り投げた。悪態を付いて視線を正面に戻す。
「畜生…がッ!!」
  白い人影が、道路の真ん中に立っていた。巫山戯るな!馬鹿野郎!何をしているんだ、こんな所で!車が見える筈だろう!!
  ハンドルを一気に切って、何とか人をよけようとした。
  この際、轢いてしまっても構わなかったんじゃないか。
  遠心力だか重力だか、わけのわからない力に引かれ、車ごと草むらに突っ込みながら冷静に思った。ブレーキを踏むことを忘れていた。一体何キロ出ていたのか。目は景色を捉えず、耳は何も聞こえなかった。
  グシャリ。派手な音と衝撃。シートベルトが身体に食い込んで、俺はベルトを着けていた事を意識した。いつのまに着けたのか覚えていなかったが、そのお陰で命拾いした。
  しゅうしゅうと、何か漏れている。ボンネットが木にめり込んでいる。爆発する気配はないが、俺は必死に車から這い出た。咳き込むと、口の中が鉄臭い。つばと一緒に吐き出して、肺が痛んだがどうでもよかった。
「畜生…っ…、なんで俺ばかり」
  足を引きずって、歩く。
「神よ」
  祈りではなく、悪態だ。神には祈る事しかできはしない。奴らが一体何をしてくれる。だからこそ悪魔に溺れる者は減らないのだ。レフィクもベルザも、悪魔信仰には変わりないじゃないか。
「God is not here, today.」
  場違いなまでに冷徹な男の声が響いて、俺は顔を上げた。
  ここは、さっきの場所か。川の側。何時の間にここまで来てしまったのだ。俺はここにだけは戻りたくなかった筈だ。
  サイモンの生首が転がっていた切り株に、黒服の男が座っていた。
「あんた…」
「ここに神など居ない」
  今日は晴れだとでも言うような口調で、ルイス・サイファーが嗤っていた。こんな所で何をしているんだ。そんな当たり前の言葉は出てこなかった。銃でもナイフでもいい、身を守る物が欲しい。
「何から身を守りたいんですか?」
  耳元で聖母のような声が聞こえた。恐怖に鳥肌が立った俺は、飛び退けてよろめいた。
「ミスト…。お前ら、一体…」
  場違いに微笑んでいる彼は、まるで天使の様だった。だが俺は、彼が足を開いて男を咥え込んでいる姿を知っている。間違っても彼は天使じゃないだろう。
  俺は牙をむいて彼を引き下ろした。スーツ姿ではなく、白いローブのような物を羽織っている。布地を引き裂き、両足を掴んで左右に開く。抵抗らしいものは感じず、好き勝手に嬲った。
  俺をこんな目にあわせたんだから、それ相応の責任は取ってもらおう。白い足の間に何度も雄を突き立てて、陵辱の限りを尽くす。
  快楽と言うより、ざまあみろと思う気持ちの方が強かった。男に犯されることが好きな淫乱め、と思いつく限りの罵詈雑言で罵った。
「そう見えますか、私は」
「どうだろうな。俺に犯されてるお前は十分淫乱じゃねぇか」
「失礼な人ですね、本当に…」
  どうして声がするのか、世間話のような会話が。俺ははっと顔を上げて、サイファーとミストが二人一緒に佇んで居るのを知る。では、今俺が抱いているのは何なのだ、と顔を戻して悲鳴を上げた。
「う、…あ、ああああ!!」
  血に濡れた金髪。引き裂かれた首筋。空色の瞳は、死んだ魚よりもどんよりとしていた。
「トゥルー!!」
  下半身を剥き出しにした彼女は、見るも無惨な姿に成りはてていた。
  俺がやったのか?俺が犯したのか?ミストだと思って嬲っていたのは、彼女の死体だったのか!?
「少なくとも、私だったのならば、もう少し抵抗しますよ。サイモン」
  煙草を噴かすサイファーの横で、ミストが微笑んでいた。その姿のどこにも汚れは無かった。
「ちがう…、俺じゃあ、ない」
  違う。俺がやったんじゃない。畜生。違うんだ。
「お前だろう。首を切る前に絞め殺した。抵抗する女を押さえつけて犯した後に」
  後退って首を無茶苦茶に振り乱しながら、俺は違うと繰り返す。
「あなたの指の跡がくっきりついていますよ」
  そんな筈がない。俺は、覚えていないんだ。
「まあ、女はどうでもいい。俺とは関係ない事だ。契約さえ履行されれば問題ない」
「そうですね。サイモン・フォックス。あなたが夢を叶えるために支払う代償は、きちんといただかなければ。利子が付くほど逃げたでしょう?」
「…俺は、フォックスじゃな――」
  小首をかしげたミストの笑みに、俺は口をつぐまずにはいられなかった。いつの間にか立ちこめたのか、辺りは乳白色の霧に覆われている。
【レフィクよ、俺の願いを叶えてくれ。俺の魂を捧げるかわりに、映画俳優として、世界に名を知らしめるんだ】
  霧が男の姿を形作り、腕を振り上げていた。金髪の、サイモン・フォックスがそこにいた。地面に置かれた小皿には、並々と血が注がれている。開かれた黒革の魔導書。そのページ数は166だ。
『レフィクを喚び出す方法』
  トゥルーの声が響く。本当に、サイモンは悪魔を呼び出したとでも言うのか。科学の横行するこの世の中で、そんな非現実的なことがあるものか。
  サイモンの手にはナイフが握りしめられていて、耳障りな呪文を唱え終わってから振り下ろす。小皿を真っ二つに割ったナイフは地面に突き刺さった。零れた血が染みて行く。
【偉大なる悪魔レフィクよ、俺の願いを叶えよ!】
  彼は悪魔が姿を現すと信じ切っているようだった。
  血が染みこみ、ナイフの刺さった地面から黒い光が溢れだして、光の中に男の顔が浮かび上がる。それはルイス・サイファーそのものだった。
「う…うぅ」
  込み上げる吐き気に、俺は自分の口を覆う。
【契約の代償はお前の魂だ。未来永劫の苦しみを覚悟で、俺に契約を持ちかけているのか、人間よ】
【俺は俳優として成功する。俺を馬鹿に奴らを、今度は俺が馬鹿にしてやる番だ】
【では、お前が成功した暁には、その魂を喰らおう】
  悪魔が嗤って、幻が消えた。
【どうしてだ!早すぎる!確かに俺は成功したが、まだだ。まだ全て俺の物にしていない!】
  先ほどの対面から声が聞こえ、俺は呆然と首を回らせた。
  サイモンが逃げている。その影は悪魔の形をしていた。
【このままじゃ俺は死んじまう。まだだ。まだ早い。まだ】
【サイモン、どうした。何を焦っている】
  怯えるサイモンに声をかけたのは、若い頃の俺だった。15年前拾われた姿そのままの、俺だ。
【ロブ…、お前。…そうだ。そうか、その手があるじゃないか】
  サイモンは笑っていた。
【ロブ、息抜きに俺の故郷に、一緒に来てくれないか?ファンを撒くのは俺一人じゃ無理だし、誰にも知られずに戻りたい】
  彼の影が嗤っていた。
「やめろ…。やめてくれ」
  霧は止むことなく、フィルム映画のような映像を映し続ける。俺はもう、殆どわかっていた。
【俺は神に祈ったんだ。スターにしてくれって。叶えてくれた願いに、礼を言わなきゃ失礼だろう】
【ここでその儀式をしたのか?】
【まあな。レフィク派の古い集会場の一つなんだ。お前、見てみたいって言っていただろう?】
  神ではない。俺が喚んだのは悪魔だ。
【代価は、魂なんだ】
【…サイモン?】
【俺の代わりに、お前が死んでくれっ…!】
  誕生日と名が同じ男の魂。肉体と魂の交換方法も、本に書いてあった。悪魔を呼び出せるのだから、これだって出来ないわけはない。
  俺はロブと身体を交換した。ロブは何も知らなかったから、簡単にやつの身体を奪う事が出来た。俺の身体に入ったロブは、何が起こったのか混乱しているようだった。そりゃそうだ。自分の顔が目の前にあるんだからな。自分の顔をした奴に、殺されそうになっているんだ。戸惑わないわけがない。
  俺は契約に使ったナイフを、サイモンの身体に突き立てた。心臓目がけてひと突きだ。
【サイ、モン…ッ!?】
【サイモン・フォックスは、悪魔との契約代償に死ぬんだ】
  俺は、そうやってロブを殺した。
  ここで。
【…サイモン!!】
  五月蠅い。もうそれは、俺の名前じゃない。
  心臓からナイフの柄を生やしながら、サイモンが近付いてくる。俺は恐怖にすくむ足を何とか動かして逃げようとした。だが身体が上手く動かない。
  サイモンが俺の身体を押した。回避することも出来ず、俺は川に転がり落ちた。
  そういう、ことか。
「そういう事だ」
  サイファーが白骨を手に、俺を見下ろしていた。
「二度目の人生はどうでした?」
「黙って見ているのにも、そろそろ飽きてきたんだが、お前は楽しかったのか?」
  サイファーの手にあるのは頭蓋骨で、彼はそれをくるくる回していた。ミストが地面を指さし、指先をちょいと振る。土の中から、頭のない白骨模型のような身体が出てきた。虫に食われ、殆ど残っていない布をまとわりつかせた骨。かつて心臓が有っただろう場所には、ナイフが絡まっている。
  俺の身体で、遊ぶな。
「あなたが捨てた肉と骨ですよ。こんな姿になっても、自分の物と言いますか」
「その欲深さが美味なんだ。成熟させたほうが、食い応えがあるだろう」
「魔王を欺こうという人間は初めてなので、興味はありますけど」
  魔王、だと。悪魔レフィクでは、ないのか。俺は、何を喚びだしてしまったというんだ。「人間の呼ぶ名など、記号に過ぎない。言葉が変わっても、意味は全て同じ物だ」
  レフィク。Lueficrはアナグラムだ。ロブ・クロスと付け方は似ている。この男が名乗った名はルイス・サイファー。そうか、単純だ。
「Lucifer」
「それも記号の一つ」
  異教徒の経典で語られる魔王の名。
  俺は全身から力を抜いた。俺の魂は俺の物だ。悪魔になんぞ、売って堪るか。舌を噛んででも、渡さない。
「肝の据わった人間だな、本当に。ただ喰うだけでは惜しいと思わないか、アルビティエル」
「私の契約じゃありませんから、お好きにどうぞ」
「興味があると言ったくせに、つれないもんだ」
「興味がある事と、タイプかどうかは別なんです」
  俺は彼らの話を殆ど聞いていなかった。目を閉じて、自分の命を、魂を感じる事に必死だった。俺が俺であるということ。サイモン・フォックスだった頃の記憶。忘れたままなど耐えられない。記憶の一欠片だって、俺は持って行く。
「考える時間は気が狂うほどありますよ」
「俺の闇に溶け出して、細胞の一片が消えるまで、お前はお前で居続けられる」
  囚われるものか!俺は草ごと拳を握った。しかし手のひらに草の感触は無い。ずぶ、と沈む。咄嗟に目を見開けば、俺の回りがぽっかりと黒くなっていた。
「やめろ…、なんだ、これは」
  爪先が、腰が、身体が沈んでいく。暖かくもなく冷たくもない。何も感じないくせに、俺を引きずり込んでくる。俺は必死に藻掻いた。身体の痛みなど構わず腕を振り、足がばたつく。
  嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…!
  口の中に、闇が入り込んできた。嫌悪感に、俺は口の中へ指を突っ込んだ。吐き出そうと頑張っても後から後から止め処なく流れ込んでくる。鼻や瞳にまで襲いかかるタールのような闇に沈みながら、白骨が近寄って来る様子を見た。波紋を広げて闇に浸かる首無しの骸骨。俺に、近寄ってくる。来るな来るな来るな。
「話し相手にでもすればいい」
  ルイス・サイファーが頭蓋骨を放り投げた。それは丁度俺の顔から数センチに落ちて、勝ち誇ったようにカタカタと嗤った。
【俺を返せ】
  ロブ・クロスの声だった。
  俺は、絶叫した。

***

「残酷な事をしますね。生かさず殺さず、永劫の闇に溶け出すのを待つだけ、なんて」
「どれだけ長持ちするか、どんな狂い方をするか、楽しみじゃねぇか」
  魔王は立ち上がった。黒い沼が動いて、彼の影に吸い込まれる。
「…いくら貴方の獲物だからって、もうあんなことはしませんからね」
  ほっそりとした肢体で憮然な態度を取ったミストが、腕を組んで吐き捨てる。
「実際喜んでたじゃねぇか。食い千切られるかと思うくらい凄かったんだぜ」
「演技ですよ。演技」
  銀髪がさらりと音を立て、アメジストの瞳が美しく煌めいていた。
「冗談、だよな?」
  唇を引き攣らせながら、サイファーはミストを引き寄せた。ミストは抵抗せず、ただ笑っている。肯定も否定もしないところが、この天使の狡い所だ。
「再現してやる」
「台本を書いてくれたら、考えてあげますよ」
  褥の乱れを演じられたなど、魔王の沽券に関わる。駆け引きは全て勝者で無ければ、プライドが赦さない。
  本気で啼かせてやる。
  ミストの唇を貪りながら、魔王は影を消した。
  闇が瞬いて、後に残ったのは女の死体だけだった。

 真実(トゥルー)は、いつか、誰かが見つけるかもしれない。
  だが今は、ただ川の側に打ち棄てられたまま、眠る。

  

この話は、ルイス・サイファー銘々ネタにした映画からプロットを借りています。
微妙に似てますが、全て同じではありません。深夜番組で一度見ただけなので、タイトルを思い出せない…。なんだったかなぁ…。
※映画「エンジェルハート」ではないかと、教えていただきました!それだ!
2008/03/09

copyright(C)2003-2008 3a.m.AtomicBird/KISAICHI All Rights Reserved.