L'unico - 3 -

- Seconda -

 人間界ヘメレ。魔物の国であるニュクスと対をなす、人間達が数多く住む世界。三つの大都市と、その遠くに位置する三つの大国から成る世界は、三ヶ月に一度の満月を迎えていた。
  世界の境界である黒く広大な森からは、魔物がやって来る。夜になれば一般人は早々に自宅に引きこもり、その代わりに退魔ギルドのハンター達が人間に害為す魔物を狩るべく活躍する。
  ディルクルムは、家業を控える三日間をいつものように酒場から花街へはしごしながら優雅に過ごすつもりだった。
「その傷、漸く薄くなってきたわね」
  ハンターとゴロツキが集まる酒場の一角、馴染みの女店員に頬を触れられたディルクルムは、苦笑を浮かべてグラスを呷った。薄暗い室内の明かりに、指と耳を飾るアクセサリーが鈍く輝く。
「俺の自慢の財産が傷物にされて、可愛い子猫達が泣いて大変だったぜ」
「どうせ傷付けたのだって、真っ赤な爪と唇の猫でしょう?」
  女のからかいに、ディルクルムは肩を竦めて見せた。
  丁度三ヶ月前だ。
  彼は帰宅途中に吸血鬼と出会った。一時は殺されるかと思う程強い相手だったが、その吸血鬼は爪先で引っ掻いた傷を残して姿を消した。
  傷は縫うほどではないけれど暫く跡が残り、鏡を見る度に加害者である吸血鬼を思い出させる。黒髪に冷えた空色の瞳をした、美しい姿。男性体だが、見惚れるような美貌だった。簡単に忘れられるものではない。
  ディルクルムは誰にも告げなかった。倒せなかった恥ずかしさもあるが、それよりも対峙したときの高揚感を上手く伝えられそうになかったのだ。そんな感情を伝えてしまえば、異質な目で見られる事は簡単に想像出来る。
  傷跡を指先でなぞり、このまま帰ろうかと思う。今日は満月の最終日。どうも女を買いに行く気分にはなれない。
  杯を空けたディルクルムは店を後にし、夜道をゆっくりとぶらついた。

 魔物の国であるニュクスから、人間界へ繋がる門をくぐったワルツは、僅かな風に甘い匂いを感じ取った。舌打ち。
  鬱蒼と生い茂る樹木の間に、三つの満月が放つ月光が柔らかく落ちている。不快な気分だ。感じる匂いは、三ヶ月前の満月に知ったものと同じ。それが親愛なる賢老の言葉を肯定するようで複雑だった。
  匂いの元と正反対に向かおうかと一歩踏み出す。人間を喰うのならば、対象は何だっていいはずだ。奴等は餌に過ぎない。三ヶ月間そうやって思いこもうとしていたのに、いざ足を踏み入れてしまうと本能が違う物を求めていた。飢餓感は、前回に比べて格段と増していた。
  一度知ってしまった旨い水を、取り上げられている気分だ。その水は手を伸ばせば届く位置にある。ならば不味い水を取る必要はないだろう。我慢することは難しい。
「忌々しい…」
  吐き捨てるように呟いたワルツは、けれど本能に逆らうことが出来なかった。仕方がない事だと己を納得させ、地を蹴る。これはただの食事だ。一度満足すれば、もう暫くはヘメレに訪れる事などないだろうから、と。
  馬の全速力さえ敵わないような早さで森を抜けたワルツは、強力な吸血鬼に与えられた驚異的な視力と身体能力でもって、目標を探り出した。退魔ギルドのハンター達を器用に避け、闇に紛れて街中を進む。人間に擬態するなど、以前人間であった吸血鬼には易いことだ。
  数十歩先に、アッシュブロンドの青年が歩いていた。貴族には見えないが、品の良い背中。酒と香水の匂いが混じっている。気取られないように距離を保ち、背後から一瞬でカタを付けようと考える。
  人気のない路地を選んで歩くディルクルムは、何気ない素振りを見せながら、背後に付いてくる気配に薄々勘付いていた。
  ここは裏路地で、倉庫や店の壁ばかりが続いている。流石に袋小路へ向かう事はしなかったが、不意打ちではないから何とかなるだろうと楽観視していた。恐怖心より好奇心が勝る。この気配はおそらく、己に傷を付けた吸血鬼のものだ。せめて一言くらい文句を言ってやろう。
  にやりと口角を上げた瞬間、背後の気配が動いた。あまりの早さに一瞬で見失う。
「…い…ッてぇな」
  勢いよく背中がレンガの壁に押しつけられ、ディルクルムは舌打ちと共に呻いた。見せつけられた力の差は歴然だが、我を忘れて慌てるようなことは無く冷静だった。
「やっぱりアンタか。殺気が駄々漏れだったぜ?」
  利き腕をつかまれ、反対の肩は吸血鬼の腕で押さえ込まれたディルクルムは、その状況にも関わらずにやりと笑ってみせる。
  ワルツはアイスブルーの瞳を細め、押さえつける力を強めた。獲物風情が大口を叩いて何になる。
  同じ高さの目線にも関わらず、ディルクルムは見下されているようで腹が立った。絶対的に不利な立場だが、何故か負ける気はしない。最初に出会った頃の方が余程恐怖を感じたというのに。
「殺せないのか?やっぱり腰抜けだ」
「…貴様」
  安い挑発に、ワルツは乗った。長いこと会話の相手は老紳士のみだったことと、その冷たいようで直情的な性格から、上手な切り返しが出来るほど駆け引きに長けていなかったのだ。
「身の程を知れ、人間め」
  低く脅して、開いた唇を押さえつけた男の首筋へ近づける。一瞬僅かに戸惑ったが、尖った犬歯を突き立ててしまえば、我を忘れた。
「ッ、…ぐ」
  為す術もなくディルクルムが身体を強張らせる。感じた痛みに歯を食いしばったが、ぞわりと背筋を這うような心地よさの所為で忘れてしまう。
  何だこれは。
  それは二人が同時に感じた言葉だった。未知の体感に困惑すら感じる。
  牙をずらし、溢れ出た鮮血が口内を満たす。舌で感じた味は、痺れるような甘さを伴ってワルツを混乱させる。心地よい力が全身を満たし、指先まで熱く感じてしまう。これほど極上の血が、他にあるだろうか。一度喉を鳴らせば、喘ぎに似た吐息が漏れた。
  一方、血を吸われているディルクルムは、ヘーゼルグリーンの瞳を歪ませていた。ぴり、と痺れるような鈍い痛みは、牙が皮膚を食い破るたった一瞬だけで、驚愕を凌駕する快楽に取って代わった。首筋に吸い跡を残すような愛撫と同じだが、それよりも強烈だ。こんな悦びを覚えてしまえば、他なんて物足りなくなってしまいそうだ。まるで麻薬じゃないかと、整った貌が愉悦に歪む。
「ん…」
  怒りの所為で籠もっていた力が抜け、ワルツは拘束を緩めた。思いがけず甘い吐息が鼻をぬけ、それを他人事のように聞く。もっと欲しいと強請る意識が、男の首筋に舌を這わせることで顕れる。自分が人間界に居る事実すら、このときのワルツからは消えていた。
  こく、ともう一度喉を鳴らした時、通りの向こうが騒がしくなった。気付いたのはディルクルムが先だった。愛撫と感じるそれは、紛れもない捕食行為だ。続けられれば危ないと、人間の本能が警鐘を鳴らす。
「…お遊びはここまでだ」
  捕まれた腕を振り解いて、目一杯吸血鬼を突き飛ばしたが、自分が思うほど力は入っていなかった。身体が離れた時に、名残惜しそうに首筋を舐められてぞくりと来る。
  ワルツはなすがままによろけ、膝を突いても状況が掴めなかった。目の前の獲物を恨めしそうに見上げる眦が僅かに朱く染まっていた。きつい美貌しか見たことのなかったディルクルムは、そんな艶のある表情を直視してしまってたじろぐ。武器に手を伸ばす事に戸惑いを感じ、馬鹿なことを考えるなと己を叱り付けた。
「口にわりに、甘い野郎だな」
  魔物は須く人間を殺す者だと思っていたのだが、この吸血鬼は違うのだろうか。精々虚勢を張るように罵って、迷いを悟られないようにした。敵だろう相手に俄然興味が沸いてしまうのは、悪い癖だ。場違いな快楽を与えられて、血迷いでもしたのか。
  放心状態だったワルツは、吐き捨てるような言葉を聞いて漸く我に返った。未体験に困惑していたとはいえ、誇り高い吸血鬼の血を持つ自分が犯した失態に舌打ちをしながら立ち上がる。
「…気を許した貴様こそ、俺に八つ裂きにされたいと見える」
「やれるもんならやってみな。ハンター共が来るぜ?奴等の相手をしながら朝日を拝んじゃどうだ」
「腰抜けめ。己だけでは俺に勝てないと吠えたも同じだぞ」
  抜いたナイフの切っ先を吸血鬼に向けたまま、ディルクルムがにやりと笑う。姿は見えないが、ハンター達だと解る声や足音が確かに近付いていた。
  ワルツは、この男を殺すべきかどうか迷った。気に入らないのであれば、一瞬で屠ってしまえばいい。幸い多少とは言え血を得たのだ、人外の力でもって攻撃するは易い。けれど相手は攻撃の意志を見せているのに行動に移さず、それが戦闘意識を削いでいた。
  睨み合いを続けているうち、通りの遠くに居たハンター達がこちらに気付いた気配を感じ、ワルツは忌々しげに舌打ちを残してその場から姿を消した。砂埃を僅か巻き上げただけで忽然と居なくなった吸血鬼に、ディルクルムは呆気にとられる。
「…何なんだ、あいつは」
  それは丁度三ヶ月前、初めてあの吸血鬼と出会って別れた時の言葉と殆ど同じだった。
  嵐のような突発的な出来事だった前回は、怪我と衝撃を受けた所為で、一体何に巻き込まれたのかと憤慨したが、今回はそうでもない。吸血鬼自身に疑問と興味が湧いた。敵であるのに甘い相手。
  やはり、忘れられそうにない、と。

  

携帯小説配信サイト「BL乱舞♂乙女の箱庭」様で掲載させていただきました。
二度目の出会い。
2009/12/19

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