L'unico - 4 -

- Seconda Intervallo -

 満月が終わり、人々は夜を安心して過ごすことが出来る。それでも三つ子月の三日間からそれ程時が経っていないので、宵の口には大人しく家へ帰る者が殆どだった。
  荒くれ者共が集う場末の酒場は、月の満ち欠けに関係なく繁盛している。ディルクルムはカウンターの片隅でブランデーを舐めながら首筋を擦っていた。
  それは数日前、二度目の襲撃で吸血鬼に残された傷跡だ。牙を突き立てられたのだから、下手したら死んでもおかしくないと後から思ったのだが、鏡を見て確認すれば不思議と目立たない。針を刺したような赤い点と、後遺症のように尾を引く快楽の痺れが、あの出来事が夢ではなかったと告げている。
  その痺れが、やっかいだった。
  襟が擦れる度にぞくりと首筋が粟立つ。質の悪い女に引っかかったような気まずさを感じ、ディルクルムはその度に舌打ちを繰り返した。
「よう、盗賊。景気悪そうなツラしてんじゃねぇか。色男が台無しだぜ?」
  ディルクルムの横の席にどっかりと腰を下ろした男は、あまり大っぴらに出来ない知り合いのハンターだ。お互いずる賢いので、魔物の裏取引について口に出すようなことはしない。表面上は呑み仲間だが、腹の内を明かすことはないだろう。休閑期の退魔ギルドに、盗賊捕縛の依頼がかかれば敵同士になるのだ。
「ブルーノか。アンタは随分上機嫌じゃないか」
「まあな。今回は随分稼がせてもらったからよ。吸血鬼はいい値がつく」
  頼んだビールのジョッキを太い指で掴んで、ブルーノは旨そうに喉を鳴らした。
「吸血鬼ね…」
  ディルクルムは言葉を繰り返した。
  あの後――血を吸った吸血鬼が姿を消した後、ナイフをしまったディルクルムの横をハンターの集団が通り過ぎた。何かあったのか問い詰められたが、現場を見られていないこともあってのらりくらりと追求をかわしたのだが、やはり事実を伝えることはしなかった。
  自分を襲った吸血鬼のことを、簡単に言ってしまうことは何故か勿体なく思えたのだ。懸賞金をかけて討伐してもらう気も金も無い。命の危機を感じていながら、けれど相手に憎しみも感じない。そう思う自分の感情が、よく理解できずにいる。解らないものは忘れてしまえと放り投げたいが、首筋の違和感がそれすら許さない。
「何だ。…捕まえたのか?」
  ブルーノは物憂げなディルクルムを横目で睨んで、低く呟いた。暗に、その獲物は買い取るぞと言っている。
「いいや。期待に添えなくて悪いな」
  ハンターが単独で吸血鬼を狩ることは難しいので、ブルーノ自身もまさか考えていなかった。答えに満足して、ジョッキのお代わりを頼んだ。
「吸血鬼なんて、どうやって捕まえるんだ」
「珍しいな、お前がそんなことを聞くなんざ」
「そうか?見たこともないからな、興味くらい沸くだろ」
  懐具合も機嫌も上等なブルーノは、何かあったんじゃないかと思いはしたが、敢えて聞き出すことはしなかった。ディルクルムのことだ、大方女か仕事に関することだろうと目安を付ける。縄張りを侵さなければ、酒の肴にするくらい問題ない。
「奴等の討伐は大抵依頼が来る。野良ってのは珍しい。干涸らびるまで血を吸われたやつ、じゃなきゃ、血を吸われて虜にされかけたやつの、親族とか恋人とかその辺からの依頼だ。オーク共を殺すのとは違う方法じゃなきゃいけねぇから、金もかかるのさ」
「へぇ…」
  ブランデーのグラスに口を付けたディルクルムは、気のない素振りで相槌を打つ。内心根掘り葉掘り問い詰めたくてしかたなかったが、ぐっと我慢。
「魔物の虜なんざ、ぞっとしないな」
「まあな。夢魔に憑り殺されても堪んねぇけどよ。吸血鬼はタチが悪い」
「何で」
「夢魔は祓えば二度目は殆どねぇが、吸血鬼はそうもいかねぇ。一度決めた獲物を、簡単には変えない。そのくせ獲物の方から奴等に首もと差し出しちまうよう仕向ける術を持っている。その性質があるから、張り込みする方にしちゃ、楽だがな」
「…そりゃまた」
  確かに質が悪い。ディルクルムは少し気まずかった。別段自分から血を吸ってくれと言う気は起きないが、あの心地よさは問題だ。常用性があることについては理解できた。
「殆ど中毒だぜ、ありゃあ。何でも、セックスより善いってんだからな」
  ブルーノの言葉に、思わず笑みが漏れた。体験する前なら鼻で笑っただろうが、事実なだけに下手なからかいは命取り。ディルクルムの笑いを、下種なものだと受け取った男がつられてにやける。
「試してみてぇってツラしてんぜ?これだから若造は」
「好奇心旺盛が俺の取り柄だからな」
「吹くんじゃねぇよ。いつか身を滅ぼすぜ?」
「…俺は女の上で滅びるほうがいいんでね。忠告だけ聞いておくさ」
  低く笑って言葉を濁せば、何とか誤魔化すことは出来たようだ。自分の面の皮が厚くてよかったなんて考えていれば、他の客をあしらっていた筈のマスターが顰め面を浮かべて近寄ってきた。
「もう一つ忘れてるぞ、ブルーノ。酒が脳にでもまわったか」
  この酒場の主は、元ハンターという噂だ。怪我で引退したと言われているが、本人は何も語らない。グラスを磨きながら、どこか自慢げに、後輩に教えるような口調でマスターは語った。
「吸血鬼の食事方法は血だけじゃない。性交でも腹を満たす。食人鬼と淫魔の性を持っている。なんせ美形揃いの技巧派だからな、毒牙にかかれば人間相手じゃ物足りない」
「この若造が興味持たんように敢えて言ってねぇんだよ」
「………」
「ほら見ろ!こいつの顔!絶対何かやらかすぞ」
  確かに、稼ぎの大部分は酒と女に消えるような生活をしているので、そちらの方面で興味は湧くけれど。誤解されている内に首を引っ込めた方が良いとディルクルムはブランデーを舐めた。

 ディルクルムはねぐらに帰る時、暫く尾行を警戒して遠回りを繰り返していた。この街に住み着いてから、定住場所を誰一人教えていない。おそらく今後も、相棒でも出来ない限り教えることは無いだろう。その可能性も低い。
  それは彼が定職に就かず、泥棒まがいの事を生業にしているからというのがひとつ。もうひとつは、育て親の方針を受け継いでいることだ。
  ヘメレという世界は、都市と国家間の繋がりが異常に薄い。三つの都市は相互扶助の関係にあるけれど、国家はそれひとつで自給自足出来る。土地に関する支配欲というものが希薄な所為で、人間同士の戦争というものも殆ど皆無に等しい。そもそも魔物という明白な敵が存在しているのだから、人間同士で争っている暇はなかった。
  ディルクルムは今住み着いているタレイアという都市ではなく、ウルズという名の王国から流れてきた完全な余所者だった。自分の出自を証すことはないが、移住は珍しいことだ。
  彼はウルズ王国の下町に捨てられていたと聞いている。貧富の差が激しいウルズ王国は、捨て子や孤児が多かった。野垂れ死ぬかもしれない所を拾われたので、育ての親は同時に命の恩人とも言える。育て親の女は、彼を明け方に拾ったので、ディルクルムと名付けた。古代語で暁という意味らしい。
  その女性は大凡母親という生き物からは遠く、裏家業に生きる女だった。悪徳貴族の財産を掻っ払っては、貧しい者達に分け与える。所謂義賊だ。仕事の邪魔になりそうな赤子を、何を思って育てたのか教えてくれることはなかったけれど、ディルクルムは立派に彼女の相棒として成長した。
  喧嘩っ早いくせに、頭が切れる。男達相手でも引けを取らない。美人ではなかったが、いい女だ。酒も女も盗みの技も、生きることに必要な全てを彼女から学んだ。
「盗むにも学が居る。教養は金よ」
  それが口癖で、下町に暮らす者としては、ディルクルムの育ちは良かった。
  そんなディルクルムがウルズ王国を離れタレイヤに流れ着いた理由は、主に独り立ちが大部分を占めている。義賊など、群れて暮らすことはできない。当時の彼女には、すでに数人の部下が居た。十代の終わりには盗みの技も一流となっていたので、古巣に止まり続ける理由は無かった。
  勿論、育ててくれた恩はあるけれど、彼女自身もプロの義賊だ。同じ縄張りから巣立たせるには良い機会だったのだろう。ディルクルムが出て行くという言葉に、仲間と一緒になって盛大な送別会を開いてくれた。それっきりウルズ王国に戻っていないので、彼女達が今どうしているのか知らないが、きっと元気にやっているだろう。殺しても死ななそうな女だ。
  ウルズ王国は広いから、違う区画で生活してもよかったのだが、ディルクルムは敢えて違う国を回ることにした。国を回り、都市があることを知った。魔物の脅威の最前線にいる都市に興味が湧いて、新しい世界を知りたくなった。
  軍や警察ではなく、退魔ギルドという組織が暗躍する都市は、王国の縮図のようだった。貧富の差は顕著だが、荒くれ共が生活するには問題ない。むしろ、根底に魔物を狩るギルド員で成り立っている。余所者に冷たい一般人と違い、下層階級は心地よかった。それぞれ特色のある三都市から、戦都とあだ名されるタレイヤを気に入ったディルクルムは、暫く此処で稼ごうと腰を落ち着けた。
  タレイヤの住人達は気が強い。男も女も反骨精神が旺盛だ。金持ちはがめついし、貴族も同じような者で、盗む先には事欠かなかった。
  洒落者だった育て親を見て育ったからか、ディルクルムは大層な伊達男だった。そのスタンスを貫き通すなら、やはり金が必要だ。ただ、決して貧しい者と正しい者には手を出さないのが信条。略奪は美学に反する。
  若く見目の良い彼は、主に女達に持て囃された。宝飾品を加工し直して与えることも少なくない。酒場でも娼館でも金払いのいいお陰で、すんなりとタレイヤの下町に馴染むことが出来た。
  現金ではなく財宝は換金のため他の都市へ持ち込むこともあるが、そう何度も渡りを繰り返せないので、自ずと素性が漏れてしまうのは仕方がない。換金業者も裏の住人なので、簡単にディルクルムを訴える事はしないが、賞金首として手配されるのは殆ど有名税のようなものだった。
  時折孤児達に小銭を落とすけれど、義賊と胸を張って言えるような事はなく、知り合いのハンターに盗賊と呼ばれても反論出来ないところが不満だ。泥棒と言われないだけまだマシかもしれない。
  そんな職業が職業なので、いつ役人達が本気になるかわからない。自分の住処を証すことだけは絶対に出来なかったが、ハンター達の職分に首を突っ込まない限り安泰と言えた。小銭より命の方が大切な都市だから、単身の盗賊など幾らでも編み目をかいくぐることが出来る。
  住人達が住み着くことを嫌う、森に近い墓場の奥にディルクルムのねぐらがあった。打ち棄てられた荒ら屋を住めるように改装することは骨が折れたが、生活する分には問題ない。
  寝台に身を埋めたディルクルムは、酒臭い息を吐いて天井を睨み付けた。女物の香水が、幾分薄れている。彼が買った女の移り香ではなく、愛用の香水が女物なのだ。育て親は男物を使っていた。それは残り香で素性を混乱させる事になると言っていたが、きっと自分が押し入ったのだという証明を残したかったに違いない。もっともディルクルムにはどちらの理由でもよかったが、倣ってしまうというのは愛着があるのだろう。
  深く息を吸って、全身の力を抜く。
「…ッ…」
  途端、首筋に残る痺れを感じて舌打ちした。
  あの吸血鬼は、甘い匂いがした。艶やかで柔らかそうな黒髪、気位の高そうな冷たい瞳を思い出す。
  吸血鬼を見た事は無かった。ディルクルムの中で吸血鬼は、美しい見た目を持った血を吸う化け物程度の認識だった。
  確かに間違ってはいないだろう。事実、見惚れてしまう程美しかった。年齢などわからないけれど、自分よりは年上だと思う。少年時代を過ぎ去った、立派な青年姿。縦長の瞳孔で見下ろす挙動は貴族か高官に近い。
  それなのに、一瞬見せたあどけない表情が忘れられなかった。淫蕩とさえ表現出来るかもしれない。いい大人がなんて顔をするんだ。不覚にも武器に手を伸ばすことを戸惑った理由は、その姿が好みだったからだ。自分の新たな一面を突き付けられた気分。
「情けないな、義賊ディルクルム」
  言い聞かせるように唸った声色は、微妙な迷いが滲んでいた。
  女たらしと男達に揶揄される己の好みは、確かにお堅い美人が多かったけれど、まさか男相手にまで同じ趣味だと思わなかった。滅多に無いとは言え、男を相手にした事が無いわけではない。好みではないが。
  しかし、あれは魔物だ。
  酒場で仕入れた吸血鬼の情報を反芻して、ディルクルムは何度目か解らない溜め息を吐き出した。
  自分から首筋を差し出す気は未だに無い。けれど気になる。中毒になるような快楽を知ってしまったから、あれ以上深入りしてしまえば身の破滅だと解っている。しかし殆ど本能とも言えるディルクルムの好奇心が、あの吸血鬼をどうにかしたいと告げていた。
「馬鹿馬鹿しい。忘れろ。相手が悪い」
  独り言が増える。話し相手が居ないので仕方がないけれど、自分に対してそんな暗示をかけなきゃならないとは腹立たしく思えてしまう。
  盗む宝を手に入れるため、侵入するのに難しい場所であればあるほど燃える。なかなか足を開かない堅い女ほど落とし甲斐があって気合いが入る。そういう自分の性格が今ほど恨めしいと思ったことは無いだろう。
  きっと、これはやっかい事だ。魔物相手に遊んでしまえば、退魔ギルドが黙っていない。いつ追われるか解らない賞金首ではあるが、それでも得られたこの平穏な生活を一変させる気か。
「…まいったな」
  立てた前髪を指でかき混ぜ、ディルクルムは悪態を付いた。
  けれど、その唇は期待に満ちて楽しそうに歪んでいた。

  

携帯小説配信サイト「BL乱舞♂乙女の箱庭」様で掲載させていただきました。
ディーのターン。興味をもってしまいました!
2009/12/27

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