L'unico - 5 -

- Terzo -

 大きさの違う三つの月が、同時に満月になる三日間。生まれたときから変わらぬ自然の摂理に、人間達は疑問を抱くことなく生活している。三ヶ月に一度来る三日間は、明けない夜が無いことと同じレベルの習慣だった。
  それは太陽が存在しない魔物の国ニュクスでも言えるが、こちらでは食料を求める狩りの時期だ。月の光や植物を食むことで生きる魔物も居るが、大半の魔物は人間を餌として生きている。太陽光を不得意とする彼ら魔物は、満月が煌々と照らすなか三ヶ月分減らした腹を満たしに、人間の世界であるヘメレへやってくる。
  獲物は魔物と違って非力だが馬鹿ではない。弱い魔物は逆に狩られてしまうけれど、それも自然の摂理として認識している。喰うか殺られるか、そのスリルは魔物の闘争本能に火を付けた。魔物達は、人間を畏れて餓死するよりも、戦うことを選ぶ。
  月光を浴びて興奮した魔物達が世界を繋ぐ門へ進む姿を、ワルツは館の窓から眺めていた。吸血鬼達は低級のオークやライカンスロープと違い、もっと優雅でスマートな狩りを行う。数が少ない故強大な力を持っているので、姿をさらして門をくぐる事など殆ど無い。
  時間という概念の存在しないニュクスで、唯一の目安である三つの月を見つめる。ここ最近血を求めて、嫌悪感を抱く人間共の地へ踏み込んだが、収穫といえば芳しくない。生まれ変わって以降まったく血を吸っていないのだ、たったあれだけでは足りないと、『親』であるハルフォードの忠告を疑う気は無かった。
  たかが人間狩り。二度も成功していない。若くとも子爵という強力な吸血鬼のひとりであるワルツは、流れる血の誇りを傷付けられた気分だ。
「何を迷っているのですか」
  ひっそりと窓辺に立つワルツの背中に、ハルフォードが声をかけた。老人という見た目に反して、その動きは滑らかだ。彼はきっと、あと数百年は食事を取らなくても平気なのだろう。
「前回の血で、足るのではないかと…」
「たった二口ではありませんか」
「けれど今は、それほど飢餓を感じない」
  子供の言い訳のような口調だったので、ハルフォードは苦笑を浮かべた。
「定期的に摂取するのであれば、それでも構いません。ですがお前が得たそれは、捕食に不慣れな、成り立ての吸血鬼が次の満月の間だけ我慢できる程度のものですよ」
  月が欠けている間、何度となく言われた事だった。
  もし同じように百年近く保たせる為ならば、しっかり満腹を得なければならない。それで人間は死んでしまうかも知れないが、黙っていても容易に増えるのだ。気兼ねすることは無い。今までは。
  だが、ワルツが味わってしまった血は、それを知れば他の何もかもが味気なくて倦厭してしまいそうな極上の血だった。
  最良なのは、その人間を捉えてニュクスへ浚って来ることだが、人間嫌いのワルツにとって無理な話だろう。だからハルフォードは、その点についてのみ告げることは無かった。
  どちらにせよ、決めるのはワルツだ。いくら賢老と呼ばれるハルフォードでも、侵すことの出来ない吸血鬼の理がある。
「…今のお前では、ハンターに狩られかねない」
  その言葉に、ワルツは驚いて振り返った。老侯爵の冷えた瞳は、脅しではなく事実を告げていた。狩り慣れていないワルツは、力は強くても成り立ての若造も同じ。
  秀麗な眉を顰め、ぐっと奥歯を噛みしめる。吸血鬼の『親』自らに、プライドを抉られてしまった。何も知らない他者ならば怒ろうものだが、ハルフォードが相手では反論すら愚かしい。負け犬の遠吠えや、子供じみた我が儘だと呆れられるくらいならば、自尊心に目を瞑る事も仕方がない。
  怒りや憤りを向ける先は、決まっている。
  俯いたワルツが顔を上げたとき、その眼には強い殺意が灯っていた。

 ディルクルムは自分の本業である盗みを終え、夜闇に紛れてタレイヤの下町へ向かって歩いていた。傍目には、魔物に怯えることのない命知らずが散歩でもしているように見えるだろう。
  本来満月の日には仕事をしないのだが、集めた情報によると、どうやら退魔ギルドと魔物狩りにやっきになっている貴族が、別宅倉の警備を緩めるらしいことを掴んだ。案の定侵入は容易く、誰に気付かれることなく懐は暖まった。
  手に入ったのは幾つかの宝飾品で、換金するためには暫く寝かせるか他の都市へ足を伸ばさなければならない。気分転換にはそれもいいかと考える。
  満月が近付けば、嫌でもあの吸血鬼のことを思い出した。今日は二日目の夜。奴は二度とも三日目の深夜遅くにやって来ていた。明日の夜になれば、また来るだろうか。
「…何を期待してるんだ、俺は」
  たった二度、それも合計して一時間にも満たない間のことなのにどうしてこれほど気にかかるのだ。酒場でハンター達が会話をしていると、その中に吸血鬼という単語が混ざっているだけで耳が反応してしまう。お陰で得た知識は多いが、悩みも増えた。
  退魔ギルドのメンバーのように、魔物に耐性がなければ、吸血鬼の眼を見ただけでも虜になりかけるだとか。強い吸血鬼になればなるほど、その魅了は逃れがたく、簡単に術中にはまってしまうだとか。もっと下世話なことであれば、奴等は性別に関わらず淫乱だとかなんとか。
  さすがに対処法や退治するための詳しい武器について口を滑らすハンターは居なかったが、滅ぼすことが容易でないことだけは解った。
  まさかこうやって考えてしまうこと自体、既に吸血鬼の術であればどうしたものか。専門であるハンターに相談することは、曲がりなりにも裏家業であるディルクルムのプライドが許さなかったし、それは同時に好奇心と興味を殺すことだった。
「……俺からそれ除いたら、ただの三下だろうが」
  ズボンのポケットに手を突っ込んだディルクルムは、道ばたの小石を蹴り飛ばす。チンピラみたいで格好が付かないが、他に誰の目も無いので構わない。
  暫くぶつぶつと悪態を付きながら歩いていれば、いつの間にか倉庫街の外れまで来ていた。この辺は居住地ではないので、自ずと人の気配はしない。となれば魔物達の出現率は底辺で、ある意味安全だった。商業系の大きな倉庫が目立つ。馬車がそのまま潜れる大きな扉があるけれど、警護の人間は居なかった。その代わり幾重にも鎖とかんぬきが下ろされ、厳重に鍵がかかっていた。
  しかし低確率というだけで、単身不用心に出歩いている人間に気付いた聡い魔物にとっては、絶好の穴場にも成り得る。独特の獣臭さは感じないので、些か気もそぞろであったディルクルムは、その気配に対して僅か反応が遅れた。
「…あらあら、いい獲物を見付けたわ」
  軽やかな鈴に似た女の声。倉庫と倉庫の間、袋小路の闇の中にそれは居た。
「色男は辛いもんだ」
  ぴたりと足を止めたディルクルムは、肩を竦めて見せた。吸血鬼にモテる周期でもあるのだろうか、あまり嬉しくないが。
「ハンターでも無いのに、随分度胸が据わった人間だこと」
  豊かな金髪の美女が、踵の音も高らかに近寄ってくる。身を包んだ黒いストールとドレスは奇妙なまでに動きがなかった。
  花の匂いが香る。鼻腔を擽る心地よい甘さだが、これは違うとディルクルムは思った。本能を魅了するような強烈な刺激を知っているので、どれ程誘惑的な美女が纏って居ようと心を動かされることはない。
  女は攻撃の構えも見せず、己が絶対強者である余裕すら感じさせる。品定めするような視線は、けれどディルクルムに手が届きそうな距離で止まった。
「ふぅん?」
  胸を強調するように腕を組み、紫色の長い爪が思案するように唇に当てられる。
「貴方、お手つきなの?」
「…は?」
「Number Oneより、Only Oneね。選ばれた血ってこと」
  ディルクルムには何のことだか理解できなかった。
  まるで晩餐会に赴くような優雅さで、女はそのまま横を通り過ぎる。くるりと身体を捻って、どこからか取り出した羽根付きの扇で顔の半分を隠した。
「横取りする気は、なくってよ。ワルトハインツ子爵」
  りんと音楽に似た笑い声を立てる女の視線を辿れば、ディルクルムの真正面にひっそりと黒衣の青年が佇んでいた。
「…お前」
  あの、忘れようとしても忘れられない吸血鬼だ。
  今日は厄日だろうか。一度に二人の吸血鬼が出現するなんて、どんな確率だ。ディルクルムは天を仰ぎたくなった。きっと満月が忌々しく輝いているだけだろうけれど。
「じゃあね、色男(ロメオ)」
  愉悦混じりの吐息と花の残り香を確認すれば、その場から女の姿は消えていた。
  図らずも二人きりになってしまった。ディルクルムは武器を確認する。あの女吸血鬼より、こちらの方が余程危険だ。真っ向から晒される殺気にぞくぞくする。
  ディルクルムには正面に居る吸血鬼の表情は見えない。けれどワルツの眼には、人間の一挙一動、その呼吸まで感じ取れていた。
  ワルツは無表情に、人間を見つめていた。狩りのためヘメレに出てきた女吸血鬼のことは知らなかったが、勝手に手出ししてくれるなと苛立ちすら感じる。ゆっくり、距離を縮めた。
「…毎回毎回、俺に何の用なんだ?味でもしめたのか?」
  ディルクルムは口角を上げて問いかけた。危険は承知だが、それ以上に対峙する吸血鬼への好奇心が湧いてくる。隙だけは一瞬たりとも見せる気はなかったが。
「それとも、…俺に惚れたかい?」
  は、と声を上げて笑えば、吸血鬼がぴたりと足を止めた。まさか図星だったりしないだろうな。冷や汗。
「……口の減らない餌だ」
  ひやりとした声色は、高くもなく低くもない心地よさを持っていた。
  やはりこの人間は気にくわない、とワルツは苛立ちを深める。人間が持つナイフの間合いから、ぎりぎり離れた場所で佇み、どうやって喰い殺してやろうか思案する。
  どこからも出血していなくとも、ワルツには人間の匂いが極上の獲物に感じた。三度目だ。二度は偶然で済ませられるけれど、流石に認めなければならない。忌々しくともやはりこれが己の本能が好む血なのだろう。
「そう簡単に血はやらねぇぞ」
「吸血鬼相手に愚かなことを言う」
「餌は他にも居るだろう」
  ディルクルムは至極真っ当なことを言った。何故自分ばかりを選ぶのか、それが解らない。三度続けば偶然では済まない。この吸血鬼は、自分を探してやってくるのだろうと見当くらいは付いていた。
「…貴様ほど狩りやすい餌は居ない」
  吸血鬼にとって運命の相手であると、馬鹿正直に告げてやる気はない。本来ならば会話も無しに襲うことなど簡単だが、このときのワルツの力は以前より衰えていた。無駄に力を使わず効率よく狩るため、僅かな隙と油断を誘うためにも、言葉を交わすことは仕方がないと己を納得させる。
「その割に俺を殺すことはしないんだな」
「今回もそうとは限らない」
「代わりにおしゃべりか?」
  瞳を細め、両手を胸まで上げて戯けてみせる。巫山戯た態度だが、やはり隙は無かった。今襲いかかっても、返す動作で武器を振りかぶるだろう。
  ワルツはどうやってこの人間から油断を引き出そうか、対峙した今になってあぐねた。
「さっきのいい女は、アンタの知り合いか?」
  黙ったワルツを観察しながら、ディルクルムが話しかけた。答えはそれ程期待していない。
  真正面に向き合って、吸血鬼の視線は僅か低い事を知る。見た目の年齢はやはり自分より上だろう。柔らかそうな黒髪や、アイスブルーの瞳、艶さえ滲む美貌は変わらないが、殺気に混じってどこか草臥れた疲労感のようなものを纏っている事に気付いた。
  それでも堂々と立っているので、ディルクルムは彼が手負いの野良猫に似ているなんて呑気に思う。
「…そういえばあの女が言っていたな」
  世間話のような気安さを気取りながら、視線だけで吸血鬼の爪先からその顔まで観察する。不躾な視線に、ワルツは微かに眉を顰めた。そうすると役人のような気難しい表情に感じて、ハンター達から聞き出した淫蕩な吸血鬼像とは合致しないなと胸中で笑う。
「ワルトハインツ、アンタの名か」
「…貴様が易々と呼ぶな」
「ってことは、アンタの名前でいいんだな。お堅くてぴったりじゃないか」
  どうやら口は上手くないらしい。あの、とか、この吸血鬼ではなく、名前を知ることが出来た。
「そうだな。せめてワルツだ。そう呼ぶ」
「無礼者がッ」
  今になっては『親』であるハルフォードしか呼ばない愛称を当てられ、ワルツは激昂を見せた。怒りに握った拳が震える。図々しいにも程がある。やはり問答無用で追い詰めた方が良かったかと、今更後悔した。
「確かに俺は無礼だが、勝手に俺を襲ったアンタに、人間の礼を尽くす気なんてないぜ」
「せめて怯えて見えれば、まだ可愛いものを」
「無理言うなよ、ワルツ」
「気安く呼ぶな、人間風情が」
  食って掛かる姿が、今度は気ばかり強い小型犬みたいだとディルクルムは呑気に思う。
「…可愛いねぇ」
  完全な揶揄嘲弄にワルツは顔を赤くした。羞恥ではなく、怒りで。
  鋭い爪は武器にも成る。吸血鬼は刃物を使わず、己の能力を駆使し、その爪先ひとつで命を奪う事が出来る。ワルツは一息で間合いを詰めた。
「おっと、照れるなよ!」
「誰がだッ」
  咄嗟にナイフを抜いて猛攻を防いだディルクルムは、その一撃が案外軽くて拍子抜けした。理由は知らないが、やはりこの吸血鬼は以前より弱っているらしい。
「アンタが俺ばかり狙うのは、俺が選ばれたからか?」
  何がどのようにか知らないけれど、女吸血鬼の言葉尻を思い出してかまをかけてみた。すると狙い通り、ワルツの薄青の瞳に強い殺気が籠もる。
  ディルクルムは楽しくなった。何かに選ばれた事など、今まで一度もなかった。どんな相手だろうと、下町生活を送っていればディルクルムではなく彼が持つ金に興味を抱くものだ。
  随分過激だが、こういう求められ方も悪くない。見た目も嫌いではない。どうせ追い回されるのなら、美形の方が嬉しいだろう。女じゃないことが欠点といえば欠点だが。なによりこういう気位の高そうな相手が追ってくるというのだから、闘争心を擽る。
「俺とて貴様のような餌など、本来願い下げだ…!」
  誤魔化すことも出来ただろうに、ワルツは苛立ちの所為でディルクルムに対して肯定したも同然だった。攻撃がかわされてしまうことに、冷静さを奪われる。子爵でも最高の力を持っていても、血を採っていないだけでこの体たらくなのか。
  爪先をナイフで弾き返したディルクルムは、楽しそうに口角を上げる。気を抜けば危ないのだが、あしらえない程ではない。そもそも倒す気がないから、攻撃に使う力は必要なく防御に全力を使えた。
  ただの一般人ならこうもいかないだろう。けれどディルクルムは低能のオークくらいならば一人で倒せるほどの攻撃力を持っている。自衛の為に幼い頃から仕込まれていたのだ。
「なぁ、ワルツ。アンタは俺の何が欲しいんだ?」
  背後に飛び退ったディルクルムは、月光が生み出した倉庫の影に身を潜めた。
  直ぐに近付かないワルツが持つ人外の聴力は、この時複数の足音を感知した。遙か遠いが、ただの人間達の足音ではない。これ以上時間を延ばせば、流石に危ないかも知れない。
  ふっと肩の力を抜いて、ひとつ賭に出ようと決心する。
「…どうした」
  一変した態度にディルクルムが訝しむ。
「一度甘美な水を知ってしまえば、他は泥水と同じだろう」
「何の話だ」
「…貴様の血だ」
  足音を立てない異様さはそのまま、けれど無防備とも言える態度でゆっくりと距離を縮める。アイスブルーの瞳が、閨を誘う女の色香に似ていた。その裏には飢えた獣が居る。
「今度は色仕掛けか?だったら足でも開くんだな。それでも食事は出来るんだろ」
「……」
  纏った化けの皮は、ディルクルムの一言で霧散した。本当に腹立たしい忌々しい度し難い人間だ。
「そっちの強情な目のほうが、色っぽいな」
「減らず口を閉じろ、人間め」
  吸血鬼の瞳は、人間を誘惑する邪悪な魔力を持っている。より近くで直視してしまえば、ハンターでもないかぎり僅かばかり動きを止めることが出来る。今のワルツでは、それすら体力を消耗するのだが。
  闇の中では、ディルクルムの瞳は茶色く見えた。じっと逸らすことなく見つめ、二人の距離は縮まる。ゆっくりと指を持ち上げ、爪先が人間の喉仏を擽った。
「…貴様の度胸に免じて、殺さずにおいてやろう」
  不遜な態度で囁いたワルツは、尖った犬歯を見せつけて唇を開き、旨そうな首筋に近づけた。そこを噛むと宣言するように一度舐め、牙をあてる。
  その時だ。
  ひゅん、という風を切る音が響いて、レンガの壁に何かがぶつかって落ちる。
「チッ」
  舌打ち。すぐ二撃目があることに気付いたディルクルムが、殆ど何も考えずにワルツの肩を抱いて身を逸らす。瞬間、二の腕に焼けるような痛みが走った。
「何を…!?」
  抱き込まれた状況に困惑したワルツは、先程感じた足音が随分近付いていた事を今更になって知る。
  ハンターだ。それも、剣ではなく遠距離武器を持った。
  地に落ちた二本の矢を素早く確認し、けれど急に香った血の臭いで動きが鈍った。すぐ追撃があるだろう。退魔ギルド員にだけ許されている刃物には、吸血鬼を殺せるように太陽の光を集積した炎で作られている。このままでは分が悪い。けれど甘美な獲物の血を、本能が奪えと言っている。
「ワルツ、アンタ狩られるぞ」
「お前」
  何をするのだと問う前に、今度は身体ごとディルクルムがぶつかってくる。避けたその場に狙いを定めた矢が襲う。ちり、と僅かな痛み。
  まさか、庇っているのか。漸くワルツはそのことに気付いた。何を考えている。吸血鬼は須く人間の敵だろう。しかも獲物として襲おうとしていた相手を、どうして庇う必要がある。
  問い詰めたいことは散々あるが、状況がそれを許さなかった。足音はさらに近付いて、罵声の混じった狩人の叫びが聞こえてくる。
  ワルツは身を屈め、持てる力の全てを使う勢いで飛び上がった。倉庫の屋根に降り立ち、地に座るディルクルムを見下ろす。彼は腕を手のひらで掴んでいる。血の臭いはそこから漂っていた。
  矢をつがえて放つ音。これ以上この場に止まることは出来ない。ワルツは自分の住処へ全力で逃げた。姿を消すことも、変えることも出来なかったが、森へ入ってしまえばニュクスへ引き寄せられるように走る。魔物の身体になって初めて、人外の身も息が切れることを知った。
  館に入って暫くは動けなかった。消えたはずの心臓の鼓動が、爆発するような早さで脈打っているように感じた。

「おい若造、こんな時間に何してやがる」
  面倒事は御免だと逃げようとしたディルクルムの背に、鋭い声がかけられた。逃がす気はないらしいと伺える声色だ。
「呑みに出て来たんだが、とんだ災難だったぜ。助かったよ、アンタ達のお陰だ」
「今日がどういう日か知って――お前、ディーじゃねえか」
  数人の男達の中から、知り合いのハンターであるブルーノが顔を出した。どうやらとことんついてないらしい。
「…性懲りもなくお前ぇはよう。神出鬼没にも程がある。酒場はここから遠いだろ」
「満月が綺麗だったもんでね。遠回りさ」
「あげく吸血鬼に喰われかけたってか」
「へぇ、さっきのが吸血鬼だったのか。美人だったからひっかかっちまったな」
  ディルクルムは空惚けて見せた。肩を竦めて、気まずそうな殊勝な態度を取る。上手くいったかどうかは解らない。自分でも今の精神状況は普通じゃないと知っている。
  見知らぬハンターが小声で耳打ちする姿を視界の端で捉えながら、どうやら本当にやばいかもしれないと胸中で悪態を付く。
「……まあ、いい。それ以上怪我しねぇうちに、とっとと帰んな」
「そうするさ。お勤めごくろうさん」
  背を向けて襲いかかられたらという危惧がないわけでもないが、ディルクルムは大人しくその場を去った。自分の武器であるナイフを鞘に戻していることを確認する。無意識で行っていた自分を褒めてやりたい。
「夜道には気をつけろよ」
  ブルーノの硬い声を背中で聞いて、傷を負っていない方の手を振り向かずに上げる。殆ど決定打だ。確実にハンター達に目を付けられた。
  ディルクルムは自宅に戻ってから行わなければならない様々なことを思い起こし、盛大に長嘆する。今更になって、しでかした甘さをがどれ程重大か気付いた。

  

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三度目の出会い。やっちまった!
2009/12/29

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