L'unico - 6 -

- Terzo Intervallo -

 三つある月のうち一つが新月を迎えても、ワルツの負った傷は治らなかった。ほんの少し掠めただけ。自分が落ち着いてから思い出したように痛み出した腕を確認すれば、ひっかいたような細い火傷跡が残っていた。
  退魔ギルドのハンター達は、魔物が太陽に弱いことを知っている。確実にそれが武器であると、長い戦いの年月で培った知識だ。様々な技術を用いて太陽の光を集め、魔物に対抗する武器を鍛え上げていた。
  陽光で打った鋼は、例え侯爵だろうとも痛手を負わせることが出来る。致命傷さえ避ければ回復出来ないわけではないのだが、それは前提に十分な血を得ていることだ。間違っても一番空腹の時に負ってはならない傷だった。
「…せめて、掠っただけで良かった。打ち込まれていれば、腕を失いかねませんよ」
  ハルフォード侯爵は痛ましげに傷口を診ながら溜め息を吐いた。それが失望しているように思えて、ワルツは落ち込んだ。返す言葉もなかった。
「私の血を分けるわけにはいかない。それは理解していますね」
「…はい」
「次は必ず食事をなさい。選り好みしている余裕はありません」
  厳しい言葉だ。ワルツには頷くことしかできなかった。
  なかなか治らない傷に加え、増してくる飢えに動く気力さえ削がれてくる。寝台に横たわったまま寝返りをすれば、それが如実に表れた。
  現実を考えれば、効率や好みを言っていられないだろう。どんな人間でもいい。見付けた相手を喰わなければ、不死の吸血鬼でさえ滅ぶ。
「…あの男は――」
  言いかけて口を噤む。
  あの男は、ワルツを庇った。
  有り得ないことだ。すでに魅了され、虜になった人間ではない。抵抗するか、ハンターに突き出すことが普通だろう。けれど確かに、ワルツが矢を射られることを避けていた。何が目的なのだろう。それが解らず、悔しさと歯痒さでいっぱいになる。
  立てたアッシュブロンドの前髪が月光に輝いていた。美しい吸血鬼を知っているワルツでも、あの男が若く美丈夫であることは解る。巫山戯た態度ばかり取っていたが、きっと女達に持て囃される男というのは、ああいうのを言うに違いない。
  最後に見下ろした時、彼は随分と真剣な顔をしていた。身を案じているような男臭い表情で。
  そして同時に思い出す。
  嗅ぎ取った血の香りが、痺れるような甘さを伴っていたことを。まるで悪い麻薬だ。呪縛とも似ている。これだけ飢えていても、いいや飢えているからこそ、あの血が欲しくてたまらない。一滴でもいいから味わいたいと、身が焦がれる。
「お前は、吸血王にお会いしたことはありましたか?」
  いつのまにかワルツの私室にやってきた老侯爵が、小さくなった背中に声をかけた。
「いいえ」
  ワルツは答える。
「我らが王は、このニュクス唯一の魔族。吸血鬼一族が、魔物の中で高位に在るのは、あのお方の血を僅かでも受け継いでいるからに他なりません」
  それはワルツが吸血鬼となってすぐ教えられた事だ。滅多に姿を見せないけれど、確かな魔力と畏怖でもって世界を支配する吸血王。偉大なる王から直接恩恵を受けている吸血鬼は、ただの魔物と一線を画する。
「吸血王の嗜好を知っていますか」
「いいえ」
「…あのお方は、何者より残忍な性を持ちながら、同時に愛を知っている。我らは同じ属性を継いでいるのです」
  ゆっくりと寝台に近寄ったハルフォードはその枕元に座り、孫のように可愛がるワルツを見下ろした。弱った姿が哀れだが、吸血鬼の理を破る事は出来ない。
「その情は、末端に行けば行くほど顕著に表れる。自我よりも本能が勝る故。矛先は、…例えば、運命の血を持つ相手などへ」
  ワルツは相づちすら打てなかった。告げられた言葉を反芻して、絶望に似た思いすら抱く。そんな事実は知りたくなかった。耳を塞いでしまいたい。
「血に惚れ込むよりも、恋に落ちる事の方が多いと聞きます。愛した相手の血こそが、運命のものになる、とも。報われず滅びを辿る同胞も少なくありませんけれどね」
  それ以上聞いていられない。ワルツは自分の肩を抱いた。人間に好意を持つなど、考えただけでも吐き気がする。長くはない人間生活でも、他人へ愛情を感じたことなど一度たりとも無かった。唯一心を許せた老紳士にすら、信頼と敬服を抱いたとて、愛おしいとは感じなかったのだ。今思えば確かにそれは親類愛なのだが、ハルフォードが突き付けてくることはそうではない。
「血でなくとも、吸血鬼が身体を繋げることで糧を得られる事実は、娯楽ではなくて理にかなっているのですよ。お前はそれにだけは拒絶反応を見せるけれど」
  何も答えようとしないワルツを見やり、ハルフォードは双眸を柔らかく緩めた。色恋に目覚めるより生きることの辛さばかりを突き付けられてきたワルツだ。簡単に認めることも聞き入れることもしないだろう。難儀な性格は、同胞にすら簡単に心を許さない。その事を知っているから、ハルフォードとて変えることは難しい。
  そもそも、身体だけの関係で割り切ったり出来る器用さがあれば、こんな事態になっていないだろう。
「私は、お前が滅びない限り、どんな結果を選んでも否定はしませんよ」
  柔らかい黒髪を撫で、老紳士はそれだけ告げて退室した。
  ワルツは暫く身動きをしなかった。何も考えたくなくて、ひたすら睡りばかりを貪る。気が付けば無意識に腕の傷を撫で、付随して思い出す人間のことを忘れようと必死になり、結果的に強い印象ばかりを植え付けるという悪循環だ。
  月が全て姿を消す新月の時が一番酷かった。削がれた力を嘆き、咄嗟に何かを縋りたくなる。こんな経験などしたことがなくて、対処法すら見当が付かない。
『アンタが俺ばかり狙うのは、俺が選ばれたからか?』
  記憶が勝手に再生する男の声を、ワルツは必死に散らそうと首を振る。貴様を選んだわけではない。ただの偶然。それが重なっただけだ。
『なぁ、ワルツ。アンタは俺の何が欲しいんだ?』
  簡単に呼ぶな。簡単に、記憶の中に居座るな。欲しいのは血であって、貴様ではない。必死に言い聞かせる。自己暗示が逆に相手のことを意識させているのではないかと、疑心暗鬼にすらかかってしまう。
  たった数回出遭っただけの相手だ。そんな短い邂逅で、惚れた腫れたの感情が湧いてくる筈がないだろう。一目惚れなどしていないことは、いくらなんでも解る。
  食物連鎖の頂点に居る自分と、獲物である人間。低確率の偶然で、相手の血が摂取するに効率よいものだった。関係はそれだけだ。欲しいのは血だ。飢えさえ満たせれば、他の人間だって構わない。
  そうやって己を納得させるが、本当に人間ならば何でもいいのかと、同時に問いかける声が聞こえる。なぜ二度もあの人間を探した、と。
  一度目は偶然。二度目は確かめるために匂いを追った。三度目門をくぐった時、他の人間を襲っても良かったはずだ。それなのに、あの人間の傍に同胞が近付いた事を瞬時に察したワルツは、殆ど何も考えずに目的地を定めていた。自分が見付けた獲物を横取りするなという、独占欲に似た感情が湧いたのではなかったか。
『ワルツ、アンタ狩られるぞ』
  あの人間は、どうしてそんなことを言ったのだろう。続く言葉は、逃げろ、というものだろうか。想像に過ぎないが、間違っていないのではないかと思う。ならば、そんなことをしてしまえば、人間達の敵にまわる事に他ならない。すぐ近くにハンター達が居たのだ。あの野蛮人達は、吸血鬼を助けた人間を許すだろうか。
  この力が十分であったのならば救える――、そう考えてジレンマに陥った。
  あの時ワルツの力が満ちていれば、あの人間など捨て置いたに違いない。ハンター達に隙を見せることなく、強者の優越を見せつけていたはずだ。血液だけを奪って去る。庇われるなど屈辱的な事態にはならなかっただろう。
  そもそも救ってやる義理など無いのだ。なのに何故、そんな発想が浮かんでくる。あの人間を助けたいと、かけらでも思ってしまった自分の変化に愕然とする。獲物に対する独占欲なのか、本能に付随する情というやつなのか、判断出来ない。これが本能などと、考えたくもない。
  次の満月を迎えたら、滅びを回避するために人を狩らねばならない。それは確定された事。けれど、何者の血でもいいと大口を叩いても、きっと自分がどうするかワルツは薄々想像が出来た。
  あの人間を、なにより先に探すだろう、と。

 

***

 

 ディルクルムは義賊から逃亡者へ肩書きが変わっていた。この数日追っ手の気配は無かったが、心休まる事も無い。
  自分でも無意識のうちに吸血鬼を庇ってしまった先の満月日、自宅へ戻ったディルクルムはまず怪我の手当を済ませた。新しいシャツに着替え、旅行用の装備を引っ張り出す。貨幣は重いので量を減らし、持ち運べる宝飾品を小袋に突っ込んだ。当座の資金はそれで何とかなる。残りは全て一つに纏め、万が一の時に目印として使おうと決めていた木の下へ埋めた。
  日持ちする食料と、数枚の着替え。本当に最低限必要なものだけを袋に詰め、古ぼけた家を出た。戻ってこれるか解らないが、一応鍵をかけておく。踏み込もうとすれば簡単に扉を破られるだろうから、ただの気休めだった。
  満月最終日の明け方近く、細心の注意を払って酒場の一つに顔を出した。明らかに旅行用と解る革袋は隠し、いつもと変わらない態度で。グラス一杯干す間に、やってくる人々の行動を探った。表立って目立つものは無かったけれど、ハンター達の視線は隠しきれない。普段は見向きもされないディルクルムを一瞬確認する。それだけで十分だった。
  どのような判断を下されたのか解らないまでも、簡単に忘れてくれる訳では無いらしい。要注意人物に指定されたのだろう。
  満月が終わってそれでも数日はタレイヤの街を探っていた。大人しくしてやり過ごせるならば、越したことはない。けれどディルクルムの思惑通り、彼は都市を逃げなければならなくなった。
  賞金首としての値段が上がっていた。注意喚起ではなく、退魔ギルドが罪人を追うに相応しい宣伝。どうやら、発覚するまで時間がかかるだろうと予測していた盗みのほうが罪状らしい。問い詰めたいことは別だろうが、体の良い別件逮捕状も同じだった。確認したその足で、ディルクルムは逃げた。こんな所で終われる程諦めは良くない。
  何も知らない一般人から馬を買って、ひとまず隣の都市へ。潜伏した下町で、事態が案外やっかいだと知る。通常その都市内でのみ有効な賞金首の手配書が出回っていた。退魔ギルドの連携力を、痛感させられる。
  逃げ足の早さは義賊として自慢できるディルクルムは、追撃を器用に避けていた。三国の一つへ渡ろうかという考えも無いでは無いが、もし国家規模で追われてしまったら面倒すぎる。そこまで来たら手に負えない。
  ディルクルムは賭に出た。魔物がやってくると言い伝えられる森の奥へ逃げ込んだ。一般人は立ち入らないし、ハンター達も必要が無い限り簡単に近寄らない。自分のスタイルとしては最悪だが、食料は森で賄える。野生人の生き方など勘弁願いたくとも、命と自由には替えられない。
  もっとも、ハンターから執拗な追跡は逃れられる代わりに、野良の魔物と出くわす可能性もあるが。
「…畜生が」
  小川で身を清め、肌寒さに悪態を付いた。森の四季は知らないが、本格的な冬が来ると流石に拙いことは解る。
  大まかな日付を月の動きで計ることにしたディルクルムは、いつのまにか自分の歳がひとつ増えていることに気付いた。祝う気は無いが、生まれて二十一年目をまさか暗い森の中で迎えるとは、半年前には予想もしなかっただろう。
  順調な義賊生活は、半年以上前の満月にあの吸血鬼と出遭ったことで歯車が狂った。
「ワルツ、か」
  円舞曲に合わせて踊るダンスと、響きが同じだ。気難しそうな吸血鬼は、踊れなさそうだと考えて、思いつきに吹き出す。想像しようとしても無理だった。
  三度出遭った。その間に過ぎた月日を思い起こして、随分長いと哀愁すら感じる。四度目の満月が来れば、九ヶ月。最初は事故みたいなものだと認識していたのに、気付けばワルツの事を考えている。
  街で擦れ違う程度ならば、美形だな、と思うだろうがそのまま忘れているだろう。男相手に血迷ったりしない。
  けれどどうだ。強烈な印象を残してくれたお陰で、彼の一挙一動が楽しみになっていた。どんな人間でも選り好みすればいいのに、毎回決まってディルクルムの前に現れる。人間風情だ餌だと口は悪いし態度は高飛車だが、からかえば冷静さは直ぐに剥がれ落ちた。
  プライドばかり高そうな吸血鬼は、僅かな血で色を変える。自分より年上だろう彼が、その瞬間あどけない表情を浮かべて、アイスブルーの瞳がディルクルムを求める。そんな変化を見せつけられて、征服欲が掻き立てられない筈はない。
  血を奪おうとする瞬間の澄んだ視線に魅了されてしまった。最後に会った時だ。あれは確かに魔力が込められていた。呼吸すら止めて魅入ってしまうほど、美しく刺激的。首筋を舐め取られ感じた歓喜は、どんな愛撫より強烈。
  吸血鬼の常套手段だろうが呪縛だろうが、知ったことか。可愛いと、一瞬でも思ってしまったのだ。飼い慣らしたら楽しそうだと、好奇心に火が付いた。だから、ハンター達の攻撃から咄嗟に守った。そう簡単に狩られては困る。自分が見付けた獲物だ。横取りされてはたまらない。
  あの時は馬鹿なことをしたと後悔したが、自分の行動の原因が解れば然りだ。屋根の上に逃げ、逡巡するように見下ろしていたワルツは、どうしたらいいのか解らないと縋り付く庇護欲をそそる目をしていた。あんな状態で手放してしまった事が惜しまれる。
  そこまで考えて、随分自分はのめり込んでしまったと、苦笑が漏れた。関わらない方が無難なのに、手を出さずにいられない。
「…手間のかかる財宝ほど、盗み甲斐があるってもんだ」
  悪癖も此処まで来れば、行き着くところまで極めてみたい気もする。
  ふいに、満月が来ればもう一カ所逃げ場があることに気付いた。そこは、人間達が住まうこの世界より、より危険で過激だろう。
  自分の取り柄である好奇心が疼く。人間相手より、絶対楽しいに違いない。追われるのも良いが、追う側も愉快だ。都市にも国にも、やり残した未練を感じないことがいっそ潔いほどで。
  満ち欠けの違う月を見つめ、ディルクルムは高らかに笑った。

  

携帯小説配信サイト「BL乱舞♂乙女の箱庭」様で掲載させていただきました。
ふたりでぐるぐる。微妙な温度差。
2009/12/30

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