3.絶体絶命回廊<兎の澱(おり)>

Starved+Mortal

 甘い女の囁きが聞こえる。
 前にも聞いたことがある。
 メフィストの声ではない。
 これはもっと、性的に甘い、女の声。
 俺を誘惑する、喘ぐようなかすれた声。
 四肢が重い。頭の奥が痺れる。
 金縛りとも思えるそれは、何のきっかけか急に解けた。
「……う……」
 息苦しさに目を開けても、そこは闇の中だった。瞬間恐怖がよぎったが、光の差さない室内にいることを思い出した。
 一人用にしてはいささか広いベットを這って、サイドボードを手探りで探す。マッチがあったはずだ。
 だが、俺がマッチを探すより早く、サイドボードの燭台に灯がともった。
「……ぅわ」
 室内には誰もいないと思っていた(実際気配を感じなかった)のに、メリアドラスが側にいた。三本の蝋燭にいっぺんに灯がともったので、どうやらマッチではなく彼の魔力でともしたのだろう。
「あんたさ、もうちょっと気の利いた出現の仕方してくれよ。ガラスのように儚い俺様の寿命が減る。つうか、てめぇここで何してんだよ」
「用事があったから来ただけだ」
 ああ、そうかよ。そうでしょうとも。でもなぁ、それじゃ会話になんねーんだよ!
「具体的に言え、具体的に」
 青筋を浮かべながらメリアドラスに詰め寄ると、彼は聞こえなかったとでもいうように答えも述べず、俺の髪を一房すくって口付けた。
「不思議な色だな。瞳とよく合っている」
「んな話してんじゃないっつーの…」
「いいや、最後まで聞け。お前は淫魔(サキュバス)を知っているか?」
「は?そりゃ職業上知ってるけど。それがなんだ」
 どうもこいつとの会話はちぐはぐになる。
「奴らは美しいものを好む。美しく心の弱いものを虜にして、飼い殺しのように少しずつ精気を奪う。お前のように強靱な心を持った者は本来狙われないが、この国に魔物の加護を受けていない人間はお前だけだ」
「だからどうした」
「目を覚ます前に、女の声を聞かなかったか」
「あー……」
 夢じゃなかったのか、あれは。俺の専門は吸血鬼やワーウルフ系だから、まさか夢魔の一種だとは思いもしなかった。
「夢魔は肉体を持たない弱い魔物だ。強い者が来ればすぐに逃げる」
「……追い払ってくれたワケね」
 無口で態度悪いくせに、へんなとこで気が利くやつだな。
「そこまでしてなんで俺にかまうんだ?」
「迷惑か?」
 問いながらメリアドラスはもう一度髪に口付けた。蝋燭の揺らめきで照らされる赤い瞳が美しく微笑んでいる。男にしておくのが勿体ないくらいに綺麗だ。
 自分の顔を含めて俺は面食いで並の美人に見慣れていたが、今までの美人がかすんでしまうぐらいメリアドラスは美しい。
 思わず見とれて黙っていたら、メリアドラスが頬をなでた。とがった爪が軽く肌をたどり、背中にぞくりとしたものが走った。
「お前…もしかして、俺に気があるな?」
 自惚れではない。この仕草は俺を口説いている。社交界のはしたない遊びを知っているだけに、色恋事に関して俺は少しうるさい。だが、男から本気で誘われたことはさすがにない。しかもこいつは魔物だ。
「私はお前が知りたい。私の物にしたい。だがそれよりも……」
 近づいてくるメリアドラスから後ずさるが、すぐに背もたれに追いつめられた。同姓とか近親とか、そんなタブーは持ち合わせてないが、背を這うような不可思議な畏れに身が竦む。
 イエスでもノーでも答えを返さなきゃいけないことは判っている。それなのに言葉が出てこない。
「お前を解き放つために、吸血王の加護を与えよう」
 良く通る低い声が耳元で囁く。シャツの第一ボタンが外された。あたる息に身を委ねそうになって、我に返った。
 何やってんだ、俺!結構いい奴なんじゃないかとか顔がわりと好みだとか金持ってそうとか、そんなことで一回寝てもいいかな?なんて思うな!間違ってるだろ!!
「こ、こらこらこらこら。知り合った間近で何考えてんだお前はっ!」
「お前こそ何を考えている。私はこれでもスタンスを楽しむ方だ。出会ってすぐに寝るような軽い男ではない。………少し黙っていろ」
「ヒト押さえつけて何をぬかすか変態吸血鬼!だいたい加護ってなんだ!!」
「受ければ判る」
 それっきり無言の圧力で俺を抑え込んだ。
 メリアドラスは親指に牙を突き刺して、滲み出した血液を俺の胸――鎖骨の中心より下の方になすり付けた。自分では見えないが、何度も同じ所をたどっているから何かの模様かもしれない。
「これでお前は何者からも害を受けることが無いはずだ。このフロアだけでなく城内やこの国を安心して散策できる」
「そりゃ、どうも……。もっと早くやってくれると嬉しかったがな」
「体調の改善を待っていた」
「改善って…。アンタにとって、俺は食材じゃないのか?」
「最初はそのつもりだった。だが、中身を見て止めた」
「中身……。俺様の何を見たのよ」
 俺が寝てるまに油断も隙もねえやつだ。何となく呆れつつ、先を急かせる。
「魔物に囲まれても泣き叫んで命乞いをしない人間を初めて見た。カグリエルマ、お前の言動を行動を見ていると、不思議に思う。お前は私たちを怖くないと言った。それは本当だろう。だが、ある意味でそれは間違っている」
「………」
 何か…嫌な話題だ。聞きたくない。
「魔物でさえ死を怖れるのに、何故お前は怖れない。生を蔑んでいるように見える。死を怖れないのに、全身全霊で生を望んでいる。莫大な矛盾だ」
「……どうでも、いいだろ。勘違いだ」
「良くないな。私はお前が知りたいのだ」
 忘れていたのに。メリアドラスを気に入りかけていたのに。ここには誰もいないのに。
 脳のフラッシュバックを理性で止める。考えなくていい。もう、関係ないことだ。
 急に黙った俺をどうとったのか、メリアドラスが頬をなでた。振り払おうと考えたのだが、あやすような仕草に感化されて止めた。
「カグリエルマ、甘い物は好きか?」
 返す言葉が、みあたらない。


***


「『苺のミルフィーユとメフィスト神業ブレンドダージリンティー』だ」
 銀色のトレイを片手にメリアドラスはやって来た。
 寝室から場所を移し、城の最上階近くの野外テラスに二人はいた。
「日光もないのに何で苺が育つんだよ」
 素朴な疑問である。朝食のパンだってそうだ。本当に小麦なのかわかったものではない。
「穀物は月光で育つ。草食の魔物は穀物を育てる」
 変な国。変な国だが、俺のいた都市よりはるかに住みやすい。
「この城、意外とでかかったんだな」
「崖の上にあるからだろう」
 その通り眼下は遠い。街の灯が密集している。人の都市と変わらない。
 城の作りにしても、入り組んだ迷宮のようになっている。俺が行動するときに誰かが同伴するのは、監視ではなく迷子防止なのではないだろうか。
「城内を好きに使っていい。城下に行きたいのならいつでも言え。好きなところに連れていってやる」
「ああ」
「何かあれば私の名を呼べ。すぐにお前の側へ行く」
 紅茶の湯気が微風に揺れて、清々しい匂いがした。口に含むと仄かな苦みが心地いい。
「来れるかねぇ」
「必ず行く。私は嘘を言わない」
「……アンタさあ」
 ミルフィーユにフォークを刺しながら尋ねた。
「よくそんなセリフを臆面もなくはけるよな」
「遺憾だ。私がお前に言った言葉で偽りは何一つ無い」
「そーれーが不思議だっての。人間だって平気で嘘をつくぜ。お前ら見てると、俺のハンターとしてのプライドが傷つく」
「何故だ」
「裏切るし嘲るし蹴落とすし蔑むし殺し合うし、嘘なんて何十にも塗り固めて自分を守る。何よりも自分の利益を重大視する、それが俺の知ってる人間なわけよ。俺もそうだし。それでも、身を守ってやってたわけ。なのにどうだ?俺を含めたあんな人間共のために狩り殺してたのは、アンタ達みたいな吸血鬼だ」
 金のために引き受けたから後悔してるワケじゃない。そのテの感情とは違う。
「儲かってたからいいけどな。……あんたにとっちゃよくないか?」
「嬉しい話ではないが、人間にやられる者は弱い者だ。力弱い者が倒れるのはこの世の理だろう。私達のように分別ある魔物の方が数が少ないぞ」
 言ってメリアドラスは急に笑い出した。声を上げて笑ったわけではないが、くつくつとしたそれは顔に似合わず威厳があった。
「発見だな。お前は自分が思うほど汚い人間ではない。十分優しい心を持っている」
「持ってねえよ、そんなもん。子供の時に捨てちまったぜ」
「それも嘘だろう?外への敵対心を己にまで向けることはない。そう自虐的になるな。お前には私がいる」
「……さりげなく口説いてませんか?」
「口説いている。言っただろう、私はお前が欲しいと」
「言ってねえよ!!何で話がそっちに向くんだ、メリーちゃんよぉ!」
 シリアスじゃなかったのか?真面目に話して損したぜ。
 悔し紛れに勢いよくフォークをぶっ刺したら、パイの隙間から苺が逃げ出した。テーブルの目前、皿の端で止まる。……セーフ。
「この私を略称でちゃん付けか。怖い者知らずだな」
 苦笑しながら彼は立ち上がり、俺のそばに寄ってきた。何だ、やる気か?
 メリアドラスの動作は静かだが、まったく隙がない。行動を予測することもできなく、顎を捉えられて果敢
にもキスを挑まれてしまった。
 不覚だ。そこまで許した覚えはないハズだ!!
 初めてされたときのように、このキスが触れるだけでは終わらず、舌で歯列を割ってさらに深くなってゆく。食物を扱う口付けではなく、性的な意図をもったキスだ。
「………ん……」
 意図したわけでもないのに、甘い声が漏れた。抵抗したいと思うのだが、全身の力を奪うように巧みなキスにそれも断念する。
 フォークが手から落ち、皿にあたって不協和音を鳴らした。
 乱暴さは一切無い。丹念なまでに執拗な舌の動きは、快楽中枢を狂わせる。それはある種の麻薬に似ていた。
 キスなんて、セックスまでの単なるステップアップにしか過ぎないだろう。なんて思った今までの認識が馬鹿らしい。
 でも、まて、快楽に恐怖が混じるのは何故だ?委ねてしまえば楽になるだろう。そんな感情が渦巻いている。
「菓子の味を教えてたもれ!!」
 鼻息も荒く、メフィストがテラスにやってきた。
 おかげで正気に戻り、俺はメリアドラスを軽く突き飛ばす。抵抗もなくすんなり離れたメリアドラスは、満足げにテーブルの向かいに戻った。
 正気に戻ったことは戻ったが、身体の奥が痺れている。やなかんじ…。
「なんじゃ、カグラ。もう手を出されたのか?」
 臆面もなく言う。
「……出された」
 ばつ悪く思いながら答えると、メフィストは高らかに爆笑した。
「メフィスト、何をしに来た」
「邪魔しに来たのじゃ!」
「……………」
 メリアドラスがそっぽを向く。……拗ねたのか?
「ミルフィーユを焼いたのは初めてじゃ。味はどうだ?」
「美味かったぜ。売りに出せる」
 上の空で食べていた節があるので、厳密なことを聞かれると困るが、美味かったことは美味かった。
「そうか、ならいいのじゃ。次も期待しておけ」
「……吸血鬼もケーキ食うの?」
「わらわ達は人間の食物は食えん。アルコールや紅茶とかならば摂取できるがの。第一わらわたちに食事はあまり必要ではない。もっとも下位の吸血鬼でさえ三ヶ月は食事をとらなくても生きてゆける。まあ、毎日食事ができればそれに越したことはないがの」
「じゃあ、何で料理できんの?」
「趣味じゃ。毎日が暇なのじゃ。わらわが飯を作れば、吸血鬼でない不死者は喜ぶ。そのおかげでおぬしは飢え死にせずにいるのだぞ。……それより、今度はわらわの疑問にも答えろ」
 メフィストは椅子を引き寄せてちょこんと座った。スカイブルーのドレスが波打っていて、高級なお人形のようにさえ見える。
「おぬしのいた国はどんなところなのじゃ?」
「 嫌味な所だぜ。国ではなくて都市なんだが、アグライアは三つの都市の中で一番根性のねじ曲がった都市だ。領主がまた性悪な女なんだよ。学都って言われるだけに、連中はやたらと頭が良くてな。おまけに容姿も端麗だから手もつけられねーくらい傲慢なのよ」
「おぬしのようではないか」
「可愛い顔して俺をそんな目で見てやがったのか。あいつらに比べたら俺なんて可憐なウサギみたいなもんだぜ」
「だが、おぬしもアグライアの生まれなんじゃろ?」
「まあな。混じりけのないアグライア生まれだぜ。じゃなきゃこんなに美しく育つもんか。いっとくが、顔だけじゃなく頭もいいからな、俺は」
「ぬう。自分で誉めよったな……。なら、何故退魔ギルドに属しとるんだ?学者の類ではないのか?」 
「俺様は一族のはぐれ者なの!つーか、ギルドで思い出した。何でここにいると忘れるんだ。俺の剣と弓は?」
 本当に何で忘れてたんだ?俺がここに来た目的は依頼のためだろう。
「お前の剣は私が預かっている。この城で殺生があっては困るからな」
「なら弓は?」
「私が酒場で見たときに弓矢はなかった」
「大方オーク共にやられたんじゃないかの?」
 ちっ、武器はダメか。
「なら、黒髪赤眼の吸血鬼は他にいないか?」
 今度は答えが返ってこない。メリアドラスの表情は変わらないが、メフィストは複雑そうに顔をゆがめた。
「黒髪で赤眼の吸血鬼は一人しかおらぬ」
「………は?」
 なら俺が見たのはメリアドラスだったのか?だがこいつには矢傷どころか何にもなかったぞ。
「言っておくがの、わらわとウィラメットとメリアドラス様はここ数百年、この国を出ておらぬ」
 八方塞がり?一概に信用していいか判断しかねる。時間の感覚がよくわからないが、この国に来てまだ日は浅い。手放しで信用できないぐらいに日は浅い。
「黒髪の吸血鬼なら心当たりはあるが、教えることはまかりならん」
「なんで?」
 単純に聞くとメフィストはさも嫌そうな顔をした。
「おぬしは仲間を売れと言うのか?」
「…そりゃそうだ。アンタ達は俺の獲物とお仲間でしたね。まあ、どうせ武器もないし何にもできないんだけどな。三ヶ月間暇だから適当に見つけるさ」
 よくわからんがメリアドラスから加護されてるし、素手でぶつかっても最低限俺は怪我しないだろう。
「手負いの吸血鬼は危険だ。探すのを止めはしないが、私に一言いって貰おう」
「えー。メリーちゃんにぃー」
 横でメフィストが大爆笑した。腹を抱えながテーブルをばしばし叩いているが、俺はそんなに面白いこといっただろうか。
「メ、メリーちゃん!?ラス様をっ!!に、似合わない!!似合わな過ぎるのに納得できてしまうのは何故じゃ!!メ、メリ……メリ……」
 めりめり?何語だそれは?
 メフィストはなおも暴れている。そんなに彼女のツボだったのか。笑い倒れる彼女を横目に見ながら、メリアドラスは眉間にしわを寄せた。
「メフィスト、少し黙れ。……カグラ、冗談ではない。傷を負った吸血鬼は復活に多くのエネルギーを使う。長い間眠り続けても回復するが、一番早いのは『食事』をする事だ」
「ふーん」
「真面目に聞け。私はお前を危険にさらしたくない」
 声は怒っているのかと思った。メリアドラスが真剣に言う理由が判らない。
「何故不思議そうな顔をする。自分に向けられる好意は判るのに、心配されていることは判らないのか?」
 心配……?思い煩うとか気がかりだとか不安に思うとかって感情のことか?
「……心配、されてたのか。そっか。されたこと無いからわかんなかった」
 メフィストが笑うのを止めた。
「なんか、いいな、こういうの。判った、メリー。お前の忠告を聞く」
 素直にそう言えるのは嬉しいからだろうか。
「おぬし、可愛いの。ラス様が気に掛けるのも納得じゃ」
 感傷に浸った心情は、メフィストの一言でもろくも崩れ去った。
 こらこらメリーもうなずくなよっ!
「可愛い言うな!美しいと言え!だいたいなぁ、可愛いってのはメフィストみたいなのを言うんだ。二十代成人男性つかまえて可愛いってのはあるイミ犯罪だぜ…」
「おお!自己陶酔しながら、わらわのこともさりげなく誉めておるな。わらわを可愛いとは、おぬし、見る目があるぞ!」
 月明かりの下で、メフィストが高らかに宣言した。

  

家の執着と血統と冷やかしと虐めと蔑み合いの応酬を一身に背負ったカンジ。
「心の傷は塞がらなくてどれほど血を流そうと、転んで立ち止まることだけはしたくないんだ。」

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