10.子午線の祈り

Starved+Mortal

 様々な言葉を反芻しながら、俺は窓の外を眺めていた。
 しなだれた枝を持つ大木が、風に揺れて小さな白い花をはらはらと散らせている。首を傾けた拍子に噛み傷の跡が襟に触れ、急な刺激に肩を竦めた。
「何か?」
 フラウロス卿がパイプを燻らせながら、目聡く俺に尋ねる。
「いや、何でもない」
「そうですかな?何かあれば、気にせずに言ってくれて構わないのに」
「何かあれば、な」
 卿の方も見ずに、白い花を目で追う。
「恋愛の相談が聞きたいのなら、悪いけど他をあたってくれよ」
「おや、気を悪くしたのなら失礼。そういうつもりだったのではなかったのだけれど…」
「卿こそ気にしないでくれ。ただ、もし俺とメリーのことだったとしても、これは『恋愛』って問題じゃないような気がしてさ」
 また新しい風が吹いて、甘い芳香と共に花弁が舞う。
 俺は恋をしたいわけではない。それはメリアドラスも同じだろう。
「フラウロス卿は、『恋愛』してるワケ?」
 窓から視線を戻し、真面目とも不真面目ともとれる笑みで卿に聞くと、彼は面食らったように目を見開いた後、考え込むように苦笑してからゆっくりと口を開いた。
「している。まあ、気長にだがね…」
 ふふふふ、と意味ありげに笑う。その幸せそうな笑みに、彼の想いが少し見て取れた。
 何故か、無性に腹が立った。

 結局飯までご馳走になって、食後の散歩がてらに俺は屋敷の外に出た。散歩にまでついてくると言ったフラウロス卿を、考え事がしたいという理由で制した。
 飯は繊細さなど微塵もないハンター御用達の酒場メニューのようで、懐かしくそして美味かった。何より大勢で食べるのが一番嬉しかった。
 当てもなくぶらぶらと歩き、丁度客間の窓から見えた白い花の大木を見つけた。闇夜に映える真っ白な花は、揺れるたびに甘く香る。
「………っかんねぇ…」
 溜息と共にぽつりと漏らす。
 いや、解りたくないだけかも知れない。
 俺は、想うことと想われることが怖い。たとえ愛し合えたとしても、その後の方が怖い。始まる前から終わることを考えてしまう。
「……怖い、か……」
 心の底から惚れてしまったら、俺は縛られることを願うだろう。何を敵に回しても、ただ俺だけを見ていろと、相手を縛るだろう。
 緑香る地面に寝ころんで、また溜息を付く。
「社交界とはワケが違うよな…」
 その場しのぎの淫らな恋愛とはまったく違う。そんな簡単なものとは違うだろう。
 正直、あいつは嫌いじゃない。
 それだから困る。
 あいつだったから好きになったのか、このサバイバルな世界であいつに優しくされたから好きになったのか、その区別がつかない。
 性差と種族差は元々考えてないし……。
 ソロモン以外で初めて愛していると言われたから、それで好意を抱いたのかも知れない。
「………子供か、俺は……」
 一人赤面する。
「何で俺が悩まなきゃなんねーんだよ」
 大の大人が好きだ嫌いだ愛してるって、何やってんだよ。
 ………いや、待て。
 白い花びらが目の前を横切る。
 俺、恋愛したことないかも。一泊二日の恋じゃなく、本当に愛したい相手って、今の今までいなかったんじゃ……。
「……うわ。重傷だ、俺……」
 だんだん情けなくなってくる思考に、頭痛さえ感じる。
 空中を舞う白い破片が、ゆっくりと俺の元へ降りてくるのを眺めながら、何度も深呼吸をして自分をなだめた。
 音といえば風の木々を揺らすざわめきだけ。
 いつも側に居て、今は居ない何かに急に寂しさを覚えた。
 ソロモンが消えてから一人で孤独だったことさえ感じなかったのに、何故今になって淋しいなどと思うのだろう。何故あいつのことが思い浮かんでしまうのだろう。
 十年間他人を警戒して生きてきたが、やっぱりそれは負担だったのか。たった一度気を許したぐらいで、こんなにも脆くなるものなのか。
 渦巻く考えに終止符は打てそうにない。そのうちに微風と白い花に誘われたかのごとく、俺は瞼を降ろした。
「……メリアドラス…」
 囁きに近いその声は、ざわめきに解けて消えた。


***


 肌寒さに目が覚めた。
 やべっ、俺寝てたか!?冬じゃないにしろこんな所で寝てたら風邪ひいちまう。
 焦って勢いよく体を起こすと、ばさりと何かが太股に落ちた。それは灰色の長い毛がついたマントだった。マントを眺めながら、眠り込む前には無かった黒いものが視界の端にあることに気付く。
「来るの、遅ぇよ……」
 何処までも深い優しさに、苦笑が漏れた。
「悪かったな。これでも急いだんだが」
 低音の声は、未だに無機質なままだった。だが、構うものか。
「なあ、メリアドラス。お前、俺の何処がいいんだ?」
 それは長い間気になっていた疑問。だが、振り返って聞けるような勇気はない。
「私を微塵も怖れない心」
 答えは案外早く返ってきた。
「俺を側に置いておきたいか?」
「当たり前だ」
 口調はきつい。
「なら…離れるなよ」
 本音が漏れた。居なければ淋しいことに、居れば安心することに気付いてしまったから。
「………何?」
 珍しく戸惑ったメリアドラスの方へ振り返り、俺は奴の膝に座る。俺からこんなモーションをかけたことはなく、驚きで動きが止まっている彼を後目に、俺は耳元で囁いた。
「……好きだ」 
 少しばかり悩んで、メリアドラスが側に来た時に唯一判ったのはこれだった。
 首に腕を回し、しなだれるように身体を預ける。
「三日もあれば往復して帰ってこれる。お前が居場所をくれるなら、俺は必ず戻ってくるよ。それでも心配なら、ついてくればいいだろ」
 日光に当たっても平気だと以前聞いた。メリアドラスなら三日くらいは大丈夫だろう。 依然返答のないメリアドラスを訝しがって、体を起こし覗き込むと彼は憮然としていた。
「何か言えよ」
「どういう心境の変化だ?」
 そのセリフに、かちんときた。
「てめぇ…、俺が柄にもなく悩んだ結果にそういう返し方するかよ。ったく、やってらんねー」
 メリアドラスの肩を押し、その反動で起き上がって俺は大木の向こうへ歩き出した。
「待て、カグラ」
 呼び止める声が聞こえるが、待ってやる気はない。
 笑って言ったのなら気にもならないが、無表情で言われれば疑っているようにしかとれない。未だ怒りの原因さえ判らないのに、これ以上振り回されてたまるかよ。
「行くな」
 後ろから抱きしめられた。
「……放せよ」
「離れるなと言っただろう?」
 拗ねた子供のような口調で淡々と話す。
 振り払う気など最初からない。俺を追うだろうと確信もしていた。どっちが卑怯だか…。
「カグリエルマ…」
 耳元で呼ぶ声は酷く甘い。俺は反転してメリアドラスの首に腕を回した。
「……何?」
「二言は、ないな?」
 答える変わりに、キスを返した。
 しばらく瞳を開けたまま、深くなる口付けに暫し酔う。だが合わさる舌の動きに気を散らされ、瞼を閉じた。今までの無表情さを翻した情熱的なそれは、淫らに口腔を蹂躙する。絡め合う粘着音がやけに卑猥で、唾液を飲み込むことさえもどかしい。
「……んっ……」
 背中を駆け上がるざわりとした快感の波に、鼻に抜けるような吐息が漏れた。
 正直、自分に驚いている。わだかまりが消えただけで、自らこれだけ大胆になるなんて。女とのキスでさえこれだけ熱心に、奪い合うようなやり方ではなかった。
「…っ……!」
 舌の動きに翻弄されていて、指の冷たさにびくりと体が竦む。腰に回されていたメリアドラスの手の平は気付かぬ間に服の中に滑り込んでいて、脇腹を這い上がる指と微かな爪の軌跡に腰の奥が甘く痺れるように感じた。
 止めさせなくてはいけないのに、止めさせようとしなかった。
 やばいって……。ここ外だって…。これ以上何かされたら、そのまま流されそうだ…。
 お互いに名残惜しく口唇を放し、それでも何度か啄むようなキスをする。その口唇が耳元へ降り、例の首筋で止まった。
 布が触れただけでも甘く疼く傷に、舌で直に嬲られて本気で喘ぎそうになった。だが喘ぎを音で発する前に、開いた瞳がそれを捉えた。
 俺がいた客間の上の階から、アブサロムがこちらを見ている。驚きで硬直しているように見えたが、距離が遠くて詳しいことは判らない。
「………」
 ……未遂で良かった。
 気分が急に冷めた。反応を返さない俺を訝しがり、メリアドラスが俺の顔を覗き込んだ。
「……カグラ?」
 メリアドラスの身体を軽く押す。
「ギャラリー居たら燃えないんだよ、俺は。ったく、お前知っててバックレやがったな?」
「…………気付いたか」
「残念ながらね」
 はだけたボタンをかけ直し、俺は屋敷にむかって歩き出す。
「続ける気は―――」
「ねえよ、アホっ!俺はSだけど露出狂じゃねえの!」
 誰もそこまでは聞いてない、とかぼそぼそ言っているのをシカトする。だが、しっかり俺の後をついてくるので、これ以上どうこうする気はないらしい。
 妙に晴れた気分で大木を横切る。風に香る白い花が、先程より甘く感じた。伸びをしながら歩いていると、メリアドラスに腕を引かれて振り返える。奴は素早く噛み傷に指を走らせ、凄味を帯びた凄艶な笑みでとんでもないことを口走った。
「お前の味を覚えている。忘れられそうにない…」
 開いた口がふさがらなかった。


***


 フラウロス卿の屋敷の門をくぐると、屋敷の主はこちらが扉を開ける前ににやついて出迎えてきた。アブサロムはそこにいない。
「分別があって安心しましたよ」
 見てやがったのか。非難と反省の入り交じった複雑な顔で見返すと、フラウロスは声を上げて笑った。
「どうやら私たちはいらぬ節介を焼いていたようだ。残念だな、今晩はカグリエルマと語り明かせると思ったのに」
 機嫌のいい公爵は両手をあげて降参のポーズを取る。
「期待に添えず恐縮だが、私は今晩こいつの身体に用があってな」
 メリアドラスが飄々と言ってのけた。
「………………あんまりオープンだと笑えねえよ、このエロガキ」
 何で俺、こいつのこと好きだと思ったんだ?本気で悩みそうになった。
「あっはっはっは!あなたって人は!カグリエルマ、あなたのその暴言の勇気に敬意を表しますよ!」
 フラウロスが壁にもたれて爆笑している。……何で?
「私も同感だな。こいつの暴言には私でさえ敬意を表す。おそらく後にも先にもこいつ以外は言えないだろうが」
「…そうですか。ふふふ。御馳走様です」
 ぱたぱたとしっぽが揺れた。
 今更俺に礼儀を求めるなよ。出会いが悪かったんだから。いや、たとえ今からでもこいつに礼儀正しく接しようとは思わない。俺とメリアドラスの関係は、誰に不相応だと言われようが、イーブンでしかないのだ。
 恋愛では、無い気がする。
 俺の求めるものは、永遠に変わらぬもの。
 決して消えぬ情熱。
 俺を束縛する、激しいまでの想い。
 今まで様々な人物に出会ってきたのに、まさかこんなところで欲しいものが手にはいるとは思わなかった。
 寂しい者同士、お互いに欲しいもので埋め合う。悪く言えば利害関係の一致した愛し方。だが裏切りは死を持って償うほど、過激で雁字搦めに餓えた愛。
 ……いいだろう。本領を発揮してやろう。
 喉の奥でくつくつと笑う。
「何だ、カグリエルマ」
「…………いいや?」
 何も知らない風に返事を返す。だが、俺はメリアドラスの前でおそらく初めてこの顔をしたはずだ。
 俺の家が繁栄したのは、ひとえにこの微笑のおかげである。誰に教えられたわけでもない。妖艶で優美で神々しいまでの高慢な微笑みは、外交の手段で右に出る者は居ない。いつも側にひかえる部下や召使いであろうとも、何度見てもその場に凍り付いてしまう。見慣れることはない。これはそんな種類の微笑みである。
 ベルフォリスト家の人間は、この微笑と自分の身体を効果的にかつ大胆に使ってその地位を築いたのだ。そういう卑怯なところが、エゴにまみれていて俺は好きだ。
 叔父はベルフォリストのそれが気に入らず、毛嫌いしてもいた。正直昔は俺もそうだった。祖父はそれに引っかかった一人である。だが遊び人な祖母が唯一子供を作った相手でもある。そして初めてベルフォリストに三行半を叩き付けた人物でもある。
 叔父は自らベルフォリストに家名を剥奪させ、俺の母は俺の毛色を見た途端俺を叔父の元へ捨て去った。
 だが、叔父が消え、ギルド関係の社交界に出席するようになり、俺の生き方は一変した。俺の噂を聞きつけた祖母は、そのあまりに似た容姿と――色は違うが――態度と素振りに、俺にベルフォリストの姓を返すことになった。
 実のところ俺は家名に誇りを持っているわけでもなんでもないし、無ければ無いでどうということはない。しかし辞退する理由も無い。だがこの家名の影響力は思った以上に強く、それを利用しないのは生活の痛手であることを知っていた。
「知ろうとするほど、謎が増えるな…」
 真紅の瞳がほんの一瞬煌々と燃えて見えた。
 それはきっと、お互い様。

 美しい蝶を追い求め、蜘蛛は小さな巣を張った。
 美しい蝶が巣に掛かり、やっとそれを手にしても、
 その芳しき鱗粉の、痺れるような呪縛から、
 逃れる術は何もなく、溺れるだけで身を焦がす。
 しかし蜘蛛から放たれる、時より遅し毒からも、
 逃れる術は何もなく、溺れるだけで身を焦がす。

  

 

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