VSeI - prologue - 03

Vir-Stellaerrans Interface

静かに涙する顔、悔しさを滲ませた顔、絶望で哀しんだ顔。
笑顔だけが、
思い出せない。

 

***

 

 ベッドサイドに備え付けられている通信機のコール音で目が覚めた。目覚まし用のアラームではない。緊急であれば、律儀にコール音が鳴り続ける筈はないし。
  ルイは音源に腕を伸ばした。指がパネルに触れる。殆ど、無意識の行動。
『ボス、お早うございます。クイーン・リンデンバウムです』
  無機質なコール音の変わりに聞こえてきたのは、よく知った女秘書官の声だった。
「…夢か」
『ボス?寝ぼけてます?』
「いいや。大丈夫。お早う。…いつもの夢だ」
  意識が覚醒してしまえば、プライベートでも無い限りそうそう寝ぼける事はない。一度全身から力を抜いたルイは、ゆっくりと上体を起こした。
『本当に大丈夫なの?まさか緊張してるとかじゃないでしょうね』
「んなわけあるか」
『睡眠心理士のアポでも取りましょうか?』
「――…用件は何だ」
  これ以上子供扱いされては堪らないので、ルイは秘書官を遮って促す。軽く肩を回して、時間を確認する。起床予定の五分前。勿体ないとは思うが仕方がない。
『連絡確認です。標準時0800より四十八時間の休暇申請が通りました。カノウ大佐への引継ぎは終了しています。レカノブレバス本星LVFターミナルへの定期船は通常運航。外出及び入国手続きはオールクリアです』
「武器携帯基準は?」
『レベル2までの銃器及び刀剣が許可されています』
「…オーケイ、殆ど丸腰ってことだな」
  AUGAFF基準のレベル2指定武器とは、殺傷能力はあるが使い手によってはただの鉄屑に成り得る範囲である。もっとも一般人が扱うのならまだしも、訓練されたプロが持てばそれは立派に破壊兵器となるが。
  そんなルイの皮肉に、回線越しのクイーンが呆れた溜め息を漏らす。
『素手でも立派に破壊兵器の貴方が何を言ってるの』
「レカニウム光銃とか持ってこられたら、流石に無傷じゃねえけどな」
『レベル6のそんなものが地上に出回ってたら星間戦争が始まるわよ……』
  馬鹿言ってんじゃないわ、という悪態が通信機から聞こえてきて、これには流石にルイも苦笑を漏らした。休暇直前の会話にしては物騒にすぎる。
  ルイは世間話的な会話を楽しみながら、直ぐ傍の小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、喉の渇きを潤した。もう一度時計を確認すると、すでに休暇が始まっている。
「私用の通信機は携帯しておくから、情報はノアを経由していつでも回せ。ああ、もうひとつついでに頼みたい。遅くても0930の定期船には乗るから、俺の愛車をLVFのエントランスに手配を」
『了解、ボス』
「何かあれば連絡する」
『解りました。それではボス、良い休暇をグッドラック
「…ありがとよ」
  通信ライトが赤く変わったディスプレイに、ルイは半眼で答えた。出撃の応援をされた気分だ。憂鬱感がある分、我が秘書ながら小憎たらしい。

 AUGAFFセントラルスフィアでの宇宙船舶の出入りは激しいが、その全てが厳しい規制の下運営されている。基地への人や物の入出はどんなものであれ記録される。
  通常人々が星間移動する際、国際宇宙港から各惑星の宇宙港へ旅立つ。レカノブレバス星の場合、赤道海上に浮かぶウォーターフロントから静止軌道エレベーターに乗り、軌道上に浮かぶ宇宙港で出星審査を受ける事になるのが一般的である。だが銀河をまたにかけるAUGAFFは特例的に、宇宙港を経由せず地上基地への乗り入れが可能だった。基地内であればどの国家からの制約も受けない治外法権があるからこそだ。
  ルイはレカノブレバス星国家連合首都レカノヴァレスタに設置されている地上基地への直通定期船に乗っていた。公用船とも呼べるそれは、一兵士が使うには少しばかり敷居が高い。作戦行動があればそちらが優先されるし、乗船順位は階級に拠るところが大きいのだ。しかも、レカノヴァレスタに目的がある者でなければ使用する意味はそれほど無かった。
  ルイの実家はレカノヴァレスタ近郊に位置しているので便利なのだが、休暇という扱いは形式的な物で、その実兵力の補充という微妙な任務を得ている状況では気楽さなど微塵もなかった。
  観光船の類ではないので船外の景色など全く見ることはできないけれど、それでもルイの視線は外装より遠く、蒼と緑と人工物に埋もれた惑星を捉えていた。星が何処にあるか、説明するのは難しいけれど、感覚が知っている。懐郷の念とは違う、それは本能の囁きに似ていた。
「ACSLVFF017便これより大気圏突入エントリーに移行。到着予定時刻LB標準時1000、目的地天候快晴。以上」
  素っ気ないアナウンスを聞きながら、ルイは瞼を閉じた。
  何か複雑な感覚を感じる。機長の腕前が心配などではなく、これから起こるだろうことに対して。緊張ではない。戦闘前の高揚感でもない。予感めいた、何かだ。
  それはLVF――レカノヴァレスタ常設駐屯基地に到着してからも離れなかった。
  定刻通り着陸し、特に引き留められることもなく基地内のゲートを通過する。メインエントランスの門兵に軽く礼を返し、片隅にちゃんと止まっている愛車に近付いた。コンピューター制御されている自動車に乗り込んで一息つく。空気の味が違う。ダッシュボードから紙煙草を取り出して噴かした。セントラルスフィアでは空気が一番貴重なので、そう簡単に呑むことは出来ないのだ。軍で販売されている煙草の殆どは無害化されていて、味気ない。やはり天然物の煙草には負ける。
『マスター確認。オンライン。エンジンスタート』
  軍用の高機動多目的装輪車両を民生用に下ろしたその愛車は、実は無茶苦茶な改造が加えてある。見た目は厳ついが中身も同じ。殆ど音もなく走り出した車内で、ルイは煙草を銜えたままハンドルを切った。
  ナビディスプレイにメッセージのアイコンが点滅している。
「ヘレナ、メッセージ再生」
『本日午前9時7分、一件再生します』
  音声入力に対応されている車用AIがルイの声に反応し、抑揚のない中性的な機械声が答える。続いて聞こえたのは初老の男性のものだった。
『お帰りなさいませ旦那様。ジョゼフでございます。大奥様は例年通り侍女とポーターをを同伴し、ご旅行へ行かれております。旦那様の滞在ご連絡は窺っておりませんが、いつお帰りになられても、用意は万全でございます』
「…そんな時期か、そういえば」
『何かございましたら、ご連絡いただければ幸いでございます。それでは失礼いたします』
『メッセージは以上です』
  ルイの実家の歴史は古い。それに見合うだけの財産と屋敷と土地と使用人が居る。長年管理を任せている執事長のジョゼフはルイに取って祖父とも呼べる男だ。戻るかどうか解らないまでも事前に連絡を入れておいたので、気の利く執事は必要な情報を先に告げてくれていた。
  大奥様、と呼称されるのはルイの実母だ。元軍人である母はすでに退役し、未亡人ながらローゼンヴォルト家を護ってくれている。彼女はこの時期、ルイが独り立ちして以来屋敷から消えるのが慣例となっていた。
  それは夫の命日、同時にルイの誕生日にかけての数週間。
「なんだかな…」
  誰も居ない車内でひとりごちたルイは煙草を消した。
「ヘレナ、フォルト協会へ最短ルートで自動走行を開始しろ」
『自動走行へ移行します』
  AIの返答を聞いてハンドルを離した。ヘレナはAIの愛称だ。命令の前に呼称をつければ、AIはそれを実行する。軽い振動の後、車は一定速度で車列と併走をはじめた。全ての機体は自分で動かすことを信条としているルイが自動走行を選ぶことは少ない。彼が運転すれば目的地への到着時間は短いだろう。けれどやはり気が重いのか、彼は流れる景色を見つめながら手のひらでライターを弄んでいた。
  寝覚めは悪いし、妙な予感がするし、フォルト協会とまともな接点を持った事はないけれど、どうも気が進まない。
  レカノヴァレスタは快晴。ルイの心境は曇天だった。
  LVFからフォルト協会へは殆ど都市を横断するルートだ。海辺から大河を遡るように川沿いのフリーウェイを進めば、巨大なビルの林が遠く見渡せた。リニアや海上バス、飛行艇を利用すればもっと早く辿り着くだろう。小一時間も走らせていれば、格段に緑が増えてきた。訪れるのは初めてだ。冠婚葬祭などとは縁遠い。葬式の殆どは軍式が多かったし、結婚式の類に出席出来る機会も少ない。職業軍人とは程遠い代物だ。
『フォルト協会周辺に到着しました。メインパーキングは空車があります』
「ヘレナ、エントランスに一番近い所に――いや、ゲート前で停車しろ」
『了解しました』
  馬鹿正直に受付を通っていいものだろうか。上司であるスルガ・ヴァン=ウルからは連絡は全て終えているので体一つで向かえばいいと言われている。形式張った挨拶や契約書の交換なんて面倒なことを省けるのは幸いだが。
『フォルト協会よりコール。繋げますか?』
  そんなルイの杞憂を、機械音声が破った。
繋げろ レシーヴ
  簡潔な応えに、スピーカーから一度電子音が返る。
『こちらフォルト協会。貴殿の車体を確認した。AUGAFF所属、ローゼンヴォルト殿で間違いないか』
「声紋照合にミスが無ければ本人だ」
  聞こえてきたのは若い男の声だった。どこかで聞き覚えがあるような声だが、記憶のそれより幾分高い。まるで高性能なAIに似ている。
『事前に送られてきたデータと一致。確認した。枢機卿がお待ちしております。誘導を行いたい。そちらのAIとリンクを願う』
  穿ったとらえ方をすれば乗っ取り行為に他ならないが、コンピューター制御されている駐車場などでは車体AIと官制コンピューターとの同期は珍しくない。危機管理的にどうかと考えたのは一瞬で、ルイはシートに体を埋めた。
「了解した。――ヘレナ、走行権を渡せ」
『フォルト協会からの走行要請を受信。リンク実行』
『こちらでも確認した。誘導を開始します』
  軍用大型車はそのままメインゲートを通過する。駐車場の一般車両の間を抜けて進む姿は牧歌的な協会の景色を威嚇するようだ。
『到着後再度連絡を入れる。案内人をそちらへ向かわせます』
「了解。好きにしてくれ」
  機械音声と聞き間違えるような抑揚のない男の声に、漸く見当が付いた。見本のようなイントネーションは、普段よく聞き慣れている。ルイはにやりと口角を上げた。
「ノアが君によろしくと言っていた。俺のヘレナを覗き見するなよ?ロキ坊や」
『…ッ』
  息を呑む音が聞こえ、それが人間らしいと感じる。相手の予測に間違いは無いらしい。
『通信を終了する』
  慌てて切られたが、それではまるで図星だと言っているようなものだ。ルイは喉の奥で笑う。車はゆっくりと駐車場の奥へ進み、地下駐車場への入口に入る。二階下り、さらに奥へ。殆ど車停まっていない区画の壁がぽっかりと口を開けていた。非常灯すら無い。呑み込まれる印象を覚えながら誘導され、微かな機械音で壁が閉じた事を知る。
  濃い色のサングラスを外しても指先すら見えなかった。闇の中、走行音だけが頼りになる。目的地を知られたくない場合、対象の視界を封じて移動させることはよくあるので、そう不安に思うことは無いが不愉快には違いない。AUGAFFの准将に対する警戒だろうか。軍人は王侯貴族ではない。連行されていると感じなくもないが、招待される場所が場所なだけに、妥協する余裕くらいはあった。
  暗闇の中、通信士の態度を思い出してルイは再度笑う。
  AUGAFFの部隊司令室で引き継ぎを終えた折、ルイは旧知の友であり部下でもあるノア大佐から今回の『休暇』の内容について幾つか歓談していた。
「フォルトには僕の弟が居る」
「へぇ」
「『遊撃隊パルチザンコラム』を探っていたよ」
  それは初耳だった。軍用コンピューターと施設統括AIなど全ての機械類を制御できるノアは、俗に言う魔術師レベル以上の情報端末使いだ。生体を機械と順応させたハイブリッドサイボーグだが、分類上は人類の括りにある。AUGAFFでも最高機密の一つ。
「可愛い悪戯だから丁寧に追い返してやったけど、苛めてやらないでくれよ?」
  軍のシステムに侵入しようとする不届き者は掃いて捨てるほど存在する。その全てを焼き殺す凶悪なプログラムを組んでいるノアは、今回ばかりは本人が直接相手をしてやったようだ。それならば軍が損害を被る可能性は皆無。直ぐに報告が来なかったことでさえ、きっと表沙汰の記録に残したくない何かがある。だからルイは咎めない。
  ノアは人工物で溢れ、プログラムで作動する機械の全てを司る。ある意味彼こそが中枢。形式上の階級を尊重してくれているのは、ひとえに信頼のお陰だ。
「お前のシステムかいくぐって来るような貴重な天才があんなとこに居やがるとは、胡散臭いにも程があるな、フォルト協会ってやつは」
「凍結された『機械の仕掛けの子供達マシンチャイルド計画』の兄弟は、中立で強大な組織に封印しておかなくちゃならないからね。君だって僕を使うのだから、理解出来るだろう?」
  巨大なコンピューターシステム群と有線接続しているノアは、苦笑を零す。AUGAFFの軍服に身を包んだ黒髪の青年。年の頃はルイと同じくらいだが、その外装は生身の頃を模写しているだけで、実年齢には関係ない。彼は場合によって体を代える事さえ出来る。軍人が戦闘機に乗るように、彼はボディを端末として乗りこなす。
「フォルトのコンピューターシステムは弟のロキが手がけている。僕がAUGAFFのARKシステムを制御しているのと同じ事だ。僕の敵にはならないから大丈夫。あの子が居たら君には解るだろう。よろしく、とでも伝えておいて」
  悪戯を仕掛ける子供のような笑顔は、プログラムで動かしているとは思えないほど自然な表情だった。
  フォルト協会からの通信相手の声は、そのノアに似ていたのだ。ノアよりも若い音声は、確かに機械的に繕っていたがプログラムとは違う人間の感情を読み取ることが出来た。
  からかってしまったので、対峙する可能性は低いだろう。微妙に勿体ないと興味が沸かないでもないが、今回の目的はノアの弟を見物する事ではない。
『正面に生体反応を確認しました』
  事故防止機能が反応し、愛車のAIがルイの思考を遮る。このまま行けば衝突すると言いたいのだろう。夜間ライトや運転すら外部制御されているのでAIが回避することは出来ない。体感速度は殆ど停車に近いと感じたルイは、返答を保留した。案の定車が停車する。
『こちらフォルト協会。目的地に到着した。車体の安全は保障するので、全ての電源をオフにした後、車外へ。これより以後、こちらの案内人が貴殿を誘導する』
  推定ロキであるだろう声が、先程の困惑を綺麗に隠した声で告げた。
『携帯している武器類は車内に――』
「軍人相手に丸腰で行けと?」
『フォルト協会は敵対行動を取らない。信用するか否かは貴殿の度量次第だ』
  言ってくれる。
  ルイは血色の瞳を細めた。視界ゼロの暗黒でも高度に訓練されたルイにとって障害ではない。攻撃を受ければ応戦の構えはいつでも身についている。
  どんな外交の場でも武器携帯を許可されているルイの特殊な立場を知っているのかいないのか。丸腰では不安だと怯える新米兵士でもあるまいし、度胸がなければ帰ってくれと試されているようで気にくわないが、そんな些細なことで拗れるというのも大人げない。
「解った解った。勝手にしてくれ」
  呆れ声で返してやれば、それをどう思ったのか相手は一瞬の間を置いた。
『感謝する。以上で通信を終了する』
『通信オフライン。コントロールが戻りました』
  電子音の後にAIが状況を告げる。
「ヘレナ、俺が降りたらオートロック。警戒レベル2でシステムオフ」
『了解しました』
  胸のホルスターから拳銃を抜いて助手席に置いたルイは、暗闇の中に降り立った。

 

***

 

 時間は少しばかり遡る。
  フォルト協会周辺は快晴。朝露の乾いた森の中の空気は澄んでいた。
「おはよう、ヴァレン」
『おはよう、アレクシス。いいてんきだね。アレクシスがくるとおいしい』
  朝食を終えたアレクシスは、フォルト協会の最奥で守られた密室の森の中、森の主である太古の獣に会いに来ていた。
  くるくると気持ちよさそうに喉を鳴らす鳥の上半身が太陽の光を浴びて銀色に輝いている。神々しいとさえ思う体躯が、上機嫌にゆったりと歩む。お気に入りの大木の傍、ほどよく日の当たる場所に獣は腰を下ろした。獅子の下肢から伸びる長い尾が揺れている。
『きょうでおわかれかな』
  小首をかしげるヴァルレイヴェンは愛らしい。獰猛なくちばしや爪があっても、彼はそれを使わない選択を選ぶ。
「仕事が終われば帰ってくる」
『かえってくるアレクシスは、きょうのアレクシスではないよ』
  ヴァレンの言葉は哲学的だ。細胞は常に死んで再生されているという点では、一瞬でも同じ状態じゃないが、そういう趣旨ではないだろうと思う。もっともヴァルレイヴェンの思考は複雑すぎて完全に理解できるものではないのだが。
『アレクシスがいなくなるのはさみしいけれど、たのしみだね』
  一人の時間が満喫できると言われたのかと卑屈に考えてしまうが、ヴァレンはそれほど意地が悪くない。アレクシスは、きっと再会が楽しみという意味だろうと捉えた。
「俺も君に会えなくなるのは寂しいよ」
  正直な愚痴にヴァレンは喉を鳴らすだけ。
『破壊がアレクシスをむかえに、この星にかえってくる』
  この数日、ヴァレンは物騒な言葉を残す。意味を考えても仕方がないのだが、アレクシスの憂鬱に拍車をかけていた。
  軍隊は確かに破壊を残すだろう。それだけでは無いと知っているけれど、争いは何かを壊すことから始まる。ヴァレンにとって軍人は破壊の象徴なのだろうか。
  いつものようにヴァルレイヴェンの懐に座り込んだアレクシスが、いつもより元気がないと察知したヴァレンが首をめぐらせてくちばしの先で金髪をつついた。
『わるいことばかりではないよ』
「そうだといいな」
『ヴァレンは破壊をしっている。その愛情も、しっている』
  やはりこの偉大な獣の言葉は難解だ。アレクシスは答えに窮した。
『けものに誇りはあるけど、祈りはない。ヴァレンはアレクシスをそんけいする』
  歌うような声色に表裏があるとは思えない。フォルト協会最高責任者の枢機卿は、ヴァルレイヴェンがアレクシスに敬意を表していると言っていた事を思い出した。
  人のように、例えば神に祈ることは無いという彼は、己の誇りでもって告げるのだ。アレクシス本人も、神という概念は解るが、どんな神であろうと信仰していない。よすがを求めるという事とは縁遠い。しかしヴァルレイヴェンのそれとは感じ方が違うだろう。
  彼らは人が感じる感覚で別のどんなことを知っているのか、問いただしても答えが返ることはないけれど、自分ばかりが無知なようでもどかしい。
  孤児であるアレクシスは、自分の出生を知らない。遺伝子の歴史を知らない。知る必要を感じなかったけれど、隠されていると感じるのは少しばかり気持ちが悪い。きっと彼らに隠匿の意図は無いのだろうけれど。
  羽毛に身を埋めながら天を仰いだアレクシスは、今日の正午前にやってくるだろう迎えを考えて眉を顰めた。
  表向きの仕事は全て、同僚であり友人である者達に任せてある。着替えの類が何処まで必要か解らないが、最低限の物は纏め終わっているし、愛用の武器のメンテナンスは完璧だ。連れ出される先が戦場でないことを願う。
  暫くヴァルレイヴェンと戯れていたアレクシスは、呼び出しの声に立ち上がった。腹を括るしかない。さよならの代わりにヴァレンの首に抱きついて、アレクシスは森を後にした。
『またあおう、アレクシス』
  翼を広げたヴァルレイヴェンを、しっかり瞼に焼き付けておいた。

 枢機卿の館へ立ち入るには、二つの方法しか存在しない。住人達のプライベート空間以外は殆ど解放されているフォルト協会において、この屋敷は例外的にひとの侵入を拒んでいた。元々流れていた河を利用した水堀にかかる橋は通常見えず、物理的に近寄ることもできない。
  館への道の一つは地上から。堀に埋まる橋を浮上させ、外観から伺える唯一の正門を通過しなくてはならない。けれど、そこは本当に限られた者しか出入りすることが出来ず、枢機卿である麒麝が公式に歓迎した招待客でなくては、門を開くことさえ叶わない。
  もう一つは地下からだ。どちらかといえば、こちらの方がより使われている。移動手段を完全に委任して、電子的な監視の元、水堀のさらに下を通る。殆どの場合徒歩で移動しなくてはならず、通路は施設の一つに繋がっていた。非常用の脱出通路は車両の通行が可能で、それは協会施設のメインパーキングに通じている。
  この非常通路はお互いに表沙汰にしたくない関係性を持った者が利用する。
  アレクシスはフォルト協会の社員だ。本当に幼い頃、フォルト協会の者に拾われて孤児院で育ち、そのままフォルト協会が運営する学校に通った。拾い親を慕い、その相手も彼を愛し、血のつながりは無いけれど、ここが家で家族だ。
  拾い親の女性は未婚で、ずっと一緒に居られたわけではないけれど、彼女はアレクシスに様々な術を教え込んだ。そして彼女は、枢機卿の館へ入ることを許された数少ない人物の一人でもった。
  地下道の通行を許された者は、全て、枢機卿直下の私設傭兵部隊のメンバーだ。
  協会支給の黒い制服のまま、アレクシスは地下通路へ向かっていた。館から出るためではない。彼はひとりの客人を迎えるため、薄暗い通路を進む。
  傭兵を雇うクライアント自身がこの場へ訪れることはそうそう無いが、これは枢機卿の望みでもある。その軍人を一目見ておきたいと、年齢も性別も不詳な彼は微笑んだ。
『アレク、あの軍人、何か嫌な感じだ』
  両目を覆うミラーグラスのテンプルには超小型の通信機が内蔵されている。骨伝導で伝わった声はロキのものだった。本来制限されている筈の電子機器だが、ロキの扱うそれだけは例外的に認められている。
『あいつは確かに僕の兄を知っている』
  苛立ちの含められたロキの声色は珍しい物だ。それ程詳しくロキの生い立ちを知っているわけではないから、彼の兄が関与していたとしてもそれがどう働くのか判断要素が無い。
「…麒麝が了解している相手だろう?」
『そうなんだけどさ…』
  口に含むような小声でも通信機は拾う。
監視映像CCTVにノイズが混じるんだ』
  そんな事は今までにあっただろうか。地下通路からやって来るクライアントは、その殆どが要人だが、彼らが何らかの妨害電波を発していたとしても、ロキのシステムが解析してしまう筈だった。
「相手はAUGAFFの特殊部隊だろう?何か高高度装置でも持っているんじゃないか?」
『うーん…。マシンセンスは無いんだけどなぁ』
  武術に熟練した者が人体の気配を読むように、ロキは機械の気配を読み取ることが出来る。その彼が訝しむということは本当に珍事だ。
「それとなく気をつけるよ」
『うん。そうして』
  そろそろ地下通路の外部侵入口の扉が見えてきた。通信が途切れたことを確認したアレクシスは、ミラーグラスの設定を弄って暗視装置を働かせる。
  外部侵入口は案内人であるフォルト協会の者が訪れない限り、外灯の類が点灯される事がない。それは位置関係を把握させない為の措置であり、相手を無抵抗下に置くことを目的とされている。特殊な能力を持っているのなら別だが、殆どの人類は照明などの可視光線がなくては視認が難しい。不作法ではあるのだが、五感をひとつ潰すことは防衛に繋がる。
  地下通路から館へ続く連絡路は通常微かに足下灯が点いているのだが、試しに全て消してみようか。相手が歩行に難色を示したら点灯すればいいし、それで技量を計ることも出来るだろう。
「ロキ、足下灯をオフにしてくれ」
『了解』
  扉を開く前にそう要請すると、意図を察知したロキが短く応えた。明かりが消える。
  真っ暗になった通路でも暗視装置があるアレクシスには問題ない。最も、何度となく利用している通路だから、視界が効かなくとも迷ったり壁にぶつかったりすることは殆どないだろうけれど。
  扉を開ければ、駐車スペースに目的の人物が居る。写真などで前もって人相は証されなかったが、本人確認はロキが行っている。どんな軍人が来るのだろう。僅かに楽しみだ。
  一度深呼吸をしたアレクシスは、一瞬で精神を落ち着けて開閉ボタンに触れた。

  

ルビ多いですね…。ふ、ふんいきで!以下ネタ的なアレ。
すごく必要ないと思ったので書いてませんが、ルイは9時発の便に乗りました。小一時間で到着です。
この時代の自動車は、自動走行車(コンピューター制御で動くことができる:AC)と手動走行車(自分で動かさなければいけない:MC)にわかれている、ということになってます。道路とかですが、タイヤだったり、超振動と静電斥力で浮いてたりはとりあえず保留。
大奥様=プリミジェニーア
AI:Artificial Intelligence 人工知能
マシンセンス:シックスセンス的なアレ
2009/06/24

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