VSeI - prologue - 04

Vir-Stellaerrans Interface

「お前は優しすぎる」と、あいつは言った。
そんなあいつが一番優しいことを知っていたのに。

 

***

 

 暗視装置が正常に働いているはずなのに、一瞬、その人物が降りてきた時にスノーノイズがちらついた。妨害電波を疑うロキの心境が解る。
  アレクシスは大型の車の傍に立つ男をじっと観察した。薄い色の長髪、長身だがひ弱な感じは受けない。フライトジャケットにカーゴパンツ、ミリタリーブーツ。ゆったりとした服装ではあるけれど、鍛えられていることは一目瞭然。ファッションでミリタリーウェアを好む若者達とは年期が違って見える。
  色合いや細部まで映し出す感度のミラーグラスではないからそれ以上は判断出来ないが、軍人にしておくには勿体ない体型をしているのではないかと思う。多星人種が混在している世の中なのに、何故かアレクシスには彼が同郷の者だと感じた。
「アンタが案内人か?」
  感じる視線を辿って気配を一発で当てたルイは、いつ声をかけてくるのかと待っていた。首の後ろをかきながら、焦れったくなって自分から呼びかける。声の反響でここがそれほど狭くないと判断。視界は全く効かないけれど、戦闘下じゃないのだ。支障はない。
「…出向に感謝する。枢機卿がお待ちです。着いてきてください」
  グラス越しに視線を合わされた。見えている筈はない。偶然か、それとも五感以上の感覚器官を持っている相手なのだろうか。
  それ程多いわけではないが、レカノブレバス人には何らかの超感覚サイを保持する者が存在する。能力の大小や種類は様々だ。これは他星系の種族にも言えることだが、サイを持っている者達には、その能力の開示義務があり、個体識別身分証IDCに特記事項として記載されるのが普通。この軍人のIDCを見る事が出来るかどうかは解らないが、そうでなければ納得し難い。偶然でなければ、通常五感で説明できない。
視覚剥奪のままマスケトミーとは、結構な趣向だな」
  ルイは点灯の気配すら伺えないことに、若干の蔑みを含めて呟いた。相手の視覚を奪って五感を消耗させる拷問方法があることを思い出していた。そんなもので消耗する程、やわな精神構造は持っていないのだが。
「不都合なら鑑みますが」
  そっけない返答に、軍人は肩を竦める。アレクシスには、言葉の正確な意味を理解出来なかったのだが、雰囲気で言いたいことは解った。
「…まあ、いいさ。納得いくまで付き合ってやるよ」
「……」
  位置を違えず近寄ってくる相手を、理解不能だと言うように見つめたアレクシスは、この軍人は得体が知れないと第一印象を決めた。警戒心が湧く。
  状況に悪態は付けども、無視界に対する困惑や不便さを全く見せないのだ。しかもどことなく意図を読まれているような気さえする。
  もし自分が同じ状況に置かれてしまえば、迂闊に動くことは出来ないだろう。生物の気配を追う事は出来なくもないが、簡単にはいかない。悪態を付く余裕が持てるだろうか。
  無言でドアを開けたアレクシスは固い軍靴の音を聞いた。駐車場では無音だったので、これはわざと音を立てているのだろう。反響で構造物の距離を測っているに違いない。そんな相手に背を見せていることが不安にすら思える。丸腰だろうと、この軍人は十分殺傷能力を持っていそうだ。
  緊張を帯びた気配を追うルイは、不機嫌なまでもだんだん楽しくなってきた。通路の幅は大体ひと二人分くらいだろう。戦闘用のブーツではないので足音を消す労力は省く。アレクシスの予想通り、彼は音で状況を判断していた。
  まさか正面から堂々と歓迎されるとは思って居なかったが、ここまで厳重な警戒をするということは、フォルト協会枢機卿が囲う私設部隊は相当表に出しておきたくは無いのだろう。
  それはまあ、いい。だが、軍人の身体能力を試すようなやり方はいただけない。公式の場なら、規約違反で訴訟を起こせる行為だ。一般人に擬態してやってもいいが、何となくプライドが許さない。案内人がどんな人物か知らないので判断出来ないが、茶番じみた暗視歩行に付き合ってやらないのも癪だ。ルイはまだこのとき、自分を案内する人物についてそれ程気にかけていなかった。
  気配が止まる。もしかして出口だろうか。フライトジャケットの懐からサングラスを取り出してかける。
「対光反射にご注意ください」
「ああ。問題ない」
  暗闇から光の下へ出た時に瞳孔が光度を調節する。一瞬の目くらましの注意を促したアレクシスは、それすら予測されている事に気付いた。視線を向ければいつの間にかサングラスをかけている。用意が良い男だ。軍人は皆こうなのだろうか。
  ミラーグラスの暗視装置をオフにして、アレクシスは扉を開けた。

 

***

 

「ご機嫌斜めかな?」
  執務椅子に座っていたフォルト協会枢機卿は、来訪人をじっくり見つめてから声をかけた。立ち上がって応接ソファを勧める。
「さあ?抜き打ちテストを喜ぶ気は無いけどな」
  初対面の相手であっても変わらぬ態度で皮肉気な苦笑を漏らしたルイは、自分が知るAUGAFF総帥と目の前の小柄な人物が『麒麟』種と呼ばれる他星人であることを思い出していた。纏う雰囲気は似ているけれど、見た目はそれ程似ていない。総帥は初老とも呼べる姿であったと思う。もっとも、彼らに見た目と実年齢を問うたとしても無意味なのだが。
「私は麒麝。お見知りおきを、ローゼンヴォルト閣下」
  にこりと静謐に微笑む麒麝は、ほっそりとした手を差し出した。握手とは、また古風な挨拶をするものだとルイは倣う。
「お初にお目にかかります。俺はレイブン・ローゼンヴォルト。AUGAFF准将。将官だが閣下と呼ばれる程のものではない。加えて、今の俺は私人。そのままで結構です」
  手を離して軽く礼を取った洗練された姿に、背後で見ていたアレクシスは瞠目する。
  勧められたソファに腰をかける瞬間、軍人がちらりと視線を向けてきた。サングラスを外した瞳は深紅。窓から差し込む光に、長い銀髪が透けて輝く。
「…ヴァルレイヴェン」
  思わず呟いていた。
  小さな声を聞いたのか、ルイは微かに口の端を吊り上げた。今となっては久しぶり聞いた言葉だ。幼少の頃はよくからかわれた。
「確かに似ているね。この星のお伽話の主人公だ」
  自らお茶を用意する枢機卿が、少女のような涼やかさで笑い声を言葉に乗せる。
「母が少女趣味でね。ヴァルレイヴェン、レイヴェン、レイブン」
「なるほど。しかし悪い趣味ではないでしょう。似合っていますよ、貴方に」
  アレクシスは枢機卿に心の中で感謝した。確かに児童書で描かれる鳥獣の王は、殆ど原形を留めていると言え、アレクシスはヴァルレイヴェンを直に知っている。うっかりフォルト協会の機密を知られるようなミスをしてしまうところだった。
  ティーセットのカートをソファの後ろに押して、アレクシスは無表情を繕ったまま麒麝の背後に佇んだ。ミラーグラス越しで視線がばれなければいいのだが、初対面で視線を合わせるような芸当をやってのける相手だ。迂闊にじろじろ見てはいられないだろう。
  カップを差し出した枢機卿に礼をし、ルイは懐から一通の手紙を取り出した。
「総帥閣下より貴殿宛の親書を預かってまいりました。お受け取りください」
「拝読いたしましょう」
  クリーム色の天然紙が微かな音を立てる。枢機卿がそれを読んでいる間、ルイは彼の背後に立つ青年に視線を向けた。ここまで案内してきた人物だ。声の質で若い男だと見当を付けていたが、実際その通りだ。この場を許されているという事は、枢機卿に近いフォルトの中枢に居る人物なのだろう。
  純粋な金ではなくて僅かに赤みがかった髪質は、確かレカノブレバス赤道周辺に多く生活する民族だった気がする。純血なら褐色の肌だが、彼はそうではないから混血だろうか。あの人種は劣性遺伝子だから、珍しい配色だ。実際、金髪褐色肌の知人が居るので実感できる。顔の半分をミラーグラスで覆っている容貌は解らないけれど、一度見てみたいと興味を持てる程に整っているように感じる。美しい物は嫌いじゃない。色々な意味で。
  あまりにじっと見ていたからか、グラス越しの視線が険呑になっていると感じたルイは、瞬きで視線を外した。
「ふむ。この間通信を貰ったときと変更点は特にないらしい」
「そうですか」
「とりあえず期間は最長半年。金額と支払い方法も結構。こちらの準備は整っているよ。何か質問があるかな?」
  綺麗に手紙を折りたたんで封筒に戻した麒麝は、黄金色の瞳を輝かせた。親書には対面に座る軍人についても書かれていた。枢機卿はそれ以上のことも知っているけれど、おくびにも出さない。今はその時期ではない。
「技量は俺が確かめていいとのことですが」
「ああ。気に入らなければご破算にしてもいい」
  影のようにひっそりと佇んでいたアレクシスは、動揺と呆れを押し隠した。そんな事は聞いていない。何もかも当日だと告げられてはいたけれど、あまりに唐突すぎるのではないだろうか。最長半年の期間は、彼にとっては長すぎる。年契約の傭兵も居るけれど、アレクシスはそれ程長くフォルト協会を空けたことはなかった。
「アレクシス、お相手を」
  彼の胸中を知ってか知らずか、麒麝は振り返りもせずに命令を下した。声色は随分楽しそうだった。
「…彼が?」
  これには予想外だったルイが、僅かな驚きを含め、改めてアレクシスに視線を向ける。まさか秘書では無いと思っていたけれど、この青年が傭兵なのかと己の浅慮さを後悔する。案内と称して、相手はルイを試す正当な理由があったのだ。
「私の秘蔵っ子。ガンナーを所望だったね。彼以上の使い手は、この協会に居ないよ」
  謙遜は何処にもない。確固たる自信でもって、麒麝は言い放った。
「出来れば家具を壊さないで面談を行ってほしいのだけれど?」
  からかうような口調だが、黄金色の瞳は真剣だった。
  ルイはしかし、どうしたものかと思案する。これだけ厳重に連れてこられたのだ。まさか外で実技を試すわけにもいかないし、外野に自分の戦闘力を見られる事は避けたい。一度大きく息を吸って吐き出す。
「射的の精度は?」
  口頭試験というのも、あまり好みではないのだが仕方ない。苦々しいルイの口調に、アレクシスは見下ろしたまま静かに答えた。
「アムネルデパートのバーゲンセールで隣のビルから値札を打つくらいは」
「……。では、射撃の精度は」
「レジスター前の通路を空けよう」
  アムネルデパートのバーゲンセールは毎年怪我人が出る程混雑するし、混沌となる。ワールドニュースで取り上げられる映像を想像したルイは、例えの微妙さに苦笑を漏らした。確かにそれが事実なら、大した実力だ。
「狙撃は?」
  その問いにだけ、アレクシスは僅かに間を空けた。
「…その中の客がターゲットだとして、0.3秒で目標だけを撃破できる」
  射的は無生物相手で、射撃は牽制の意味合いが強い。だが狙撃となると、目標破壊を第一義としている。アレクシスは生物を撃破した事は、直接的に経験が無かった。告げる気はないが。
「サイボーグ?サイオニッカー?」
  どちらか、または両方ならば出来なくもない。
「答えかねる」
「アレクシス」
  そっけない拒絶を、枢機卿が諫めた。
「…生身だ。サイオニクスはネガティブ」
「それはまた」
  珍しい。ルイは口には出さず感嘆する。
「近接格闘の訓練は?」
  取っ組み合いになる機会があるとは思えないが、ルイは試しに尋ねてみた。
「ガンファイト特化。一通りは行っているが、AUGAFF水準かどうかは知らないな」
  その通りだろう。閉鎖的な組織になればなるほど、技術を外部に漏らす事はない。そして傲らない者は己を過大評価しない。
「俺に勝てると思うか?」
  最後の質問だ、と心の中で呟きながら、ルイはミラーグラス越しにアレクシスを射抜いた。
  当人であるアレクシスは、即答を避けた。意地の悪い問いだと思う。相手の能力を全く知らないで、答えることは出来ない。通路で感じた警戒心は、この軍人が地位に似合わず実戦を知る者だと告げている。遠距離ならば勝算はあるかもしれないが、言明出来ない。
「判断しかねる」
「してみろ」
  なんて傲慢な男だろう。無表情を繕っていたアレクシスの眉間に、初めて皺が寄る。ミラーグラス越しに睨み付けると、深紅の瞳は真っ向から挑んできた。
  気配が一瞬で変わる。空気が冷えた。ぴり、と肌を刺すような。背筋がぞっとする。身動きもせず、たった一瞥だけの変化であるのに、目の前の男はまるで違う何かに変わっていた。首筋に切っ先を突き付けられても、これほどではないだろう。
  一瞬の怒りは、冷水をかけられたかのように引いていた。
「…この場では勝てそうにない」
  それでも、恐怖や危機感を覚えなかったのが不思議だ。アレクシスの声は震えもせず端的に告げるだけだった。
  暫し凝視していたルイは、唐突に纏う気配を元に戻した。薄めの唇がつり上がる。血色の瞳は子供のように楽しそうだ。
「オーケイ」
  呆気なく許可したルイに、動向を窺っていた麒麝がつまらなそうに背を丸める。
「生の組み手でも見れるかと思ったのに、残念だな。貴方は狡い」
「お褒めいただき光栄です。俺が何か壊したら請求書が怖いからな。基地に戻って使い物にならないようだったら、最短期間で返送するさ」
  部隊に戻って訓練するのが楽しみだ。冷静で正直。相手の実力を正確に判断できるというのは、求める能力の上位を占める。騎士道精神など必要無い。軍人は見栄や誇りに命を賭けない。
「そのナリでAUGAFFには連れていけない。着替えてきな。二丁拳銃はそのままでどうぞ」
  ソファに身を埋めたルイは、枢機卿が煎れてくれたカップを取って、長い足を組んだ。最後の指摘に、アレクシスの肩がぴくりと震える。
  まさか武器を携帯していると見抜かれていたとは、本当に思いもしなかった。この軍人は、一癖も二癖もある。第一印象は間違っていないと気を引き締めた。

 

***

 

 足早に枢機卿の執務室から飛び出してきたアレクシスは、自室の扉が閉まるや否や、力一杯支給服を脱ぎ捨てた。一度深呼吸。無惨に捨てられた長衣を拾い上げてハンガーを通して、備え付けのクローゼットにしまう。ゆったりとしている外衣を脱ぎ去れば、細身の上半身にはホルスターが巻いてあった。ストラップを肩に回して両脇の下に銃を吊すショルダーホルスターだ。
  元より協会制服で外出するつもりはないから、インナーとズボンはそのままでいい。愛用の二丁拳銃は育て親から引き継いだ物。モデルは骨董品だが、改造が施されているので、よほど特殊な弾丸でなければ対応は易いし、オプションもつけられる。両脇のそれらを隠すようにジャンパーを着て、もう一度深呼吸した。
  普段武装兵の類を見慣れていない一般人や、アレクシスが毎日世話をしている孤児院の子供達、協会スタッフの面々ですら、彼が常時銃を携帯しているなどとは知らない。シルエットを見ても、懐にそんなものを隠しているとは想像すらしないだろう。
  けれどあの軍人は見抜いていた。より身近な品物だからだろうか。傭兵仲間ですら指摘してこない事を見透かされて、アレクシスは正直悔しかった。
「おー…?まだ居たのかよ、アレク」
  チャイムも鳴らさず勝手に扉を開けてアレクシスの私室に入ってきたのは、とても大柄な男だった。
「…ウィリアム」
「物凄い顔で寮に戻って、何かあったのか?」
  刈り上げた茶髪と日に焼けた肌。制服の上半身は脱いで、ベルトで引っかけている。両肩の空いたインナーからは、逞しい二の腕が伸びていた。彼は不在になるアレクシスの代わりに協会の雑務を引き受けた同僚兼友人だ。この場で状況を知るということは、彼もまた傭兵の一人である。
「今から出発だ」
「そっか。んなカリカリしてると舐められるぞ。飴でも食うか?」
「…いらんよ」
  子供達の褒美に使う物を出されても呆れるだけだ。いつもと変わらぬ友人の姿に、アレクシスは肩の力を抜いた。彼はこの協会において、アレクシスの兄のようなもの。
「俺がガンナーだったら代わってやるんだけどなー」
「無茶言うなよ。別に嫌で行くわけじゃない。好きで行くわけでもないが」
「私情挟むと怪我するぞ。――気をつけろよ?」
  苦笑を浮かべたウィリアムは、大きな手で頭一つ半も下のアレクシスを撫でた。金髪を掻き回すような仕草は完全に子供扱いだが、それに苛立つほどアレクシスは幼くない。向けられた心配を茶化す事はしなかった。
「ありがとな、ウィル。後のことは頼んだ」
「おうよ。オレに任せとけ」
  白い歯を見せて爽やかに笑ったウィリアムを見ていると和む。自分が緊張していた事を気付かされた。
  ミラーグラスはこの屋敷を出ればただのサングラスと同じだ。物入れに閉まって、一度部屋を見渡す。きちんと整頓されているので、誰かが掃除に入っても不便は無いだろう。
  予め用意してあったドラムバッグを拾い上げたアレクシスは、胸中で気合いを入れた。どんな仕事内容か、行ってみなくては解らない。けれど枢機卿からの制約はない。好きにして良いのだから、そのように行動するまで。自分は決して軍人になるわけではない。
「じゃあ、行ってくる」
「土産よろしく」
  軽口を返したウィリアムに、アレクシスも「ばーか」と答えた。

 一方、フォルト協会枢機卿執務室では、応接ソファに腰掛けたルイが未だ楽しそうに笑っていた。
「どんな猛者を寄越してくるかと思えば、随分小柄な兵士を選んだものだ。パイロットにするに丁度いい体格だな、あれは」
「あの子がここに戻ったときにマッチョに仕上がっていたら、私は貴方を呪うだろう」
  麒麝のそんな冗談に、ルイの笑みはさらに深まる。
「確約しかねるが、それは無いな。骨格が違う」
  別段小柄だろうと問題はない。求めているのは特殊能力であって、プロレスラーではないのだから。もっと言えば、成人してもルイの腰位置程度という種族ですら精鋭の軍人としてやっていける事を知っているから、この会話内容その物が全て冗談だった。
「しかし、本当に実力を見ないとは拍子抜けだよ、コマンダー」
「見ないとは言っていない」
  香草茶を一度口に含んで以降、ソーサーに置いたままのルイは、薄茶色の液体を見つめながら呟いた。麒麝はうっそりと瞳を細める。
「不躾で申し訳ないが、貴殿を総帥の友人ということで一つお願いがある」
「貴方が言うと怖いね。何だろう。私に出来ることかな?」
  失礼を承知で、笑顔を消したルイの提案に麒麝は小首を傾げた。
「無抵抗で身を任せて欲しい」
「それは何とも」
  一度含みを持たせた枢機卿がひやりと笑う。
「確かに不躾な要望だ」
  断られたとしても、それはそれで仕方がない。ルイも薄く笑む。
「あの青年は、貴殿が危険に晒されたら、その危険を排除するように訓練を受けているのか?」
「私の兵士達は、私を守るように躾けていないよ。まず己の命を優先させている」
「…そうなのか。それは誤算だ」
「けれどアレクは甘い。守る技術があれば惜しまない」
「ふむ」
  ルイは唸った。一か八かの賭かもしれない。挑発に乗せることができると確証はないけれど、こちらだとてプロだ。誤って怪我を負わせるような未熟な技術ではない。
「何か企んでいるのかな。面白そうだね」
「お付き合いいただけますか、枢機卿」
「仕方がないね。貴方はまだ、アレクを雇うと明言していないのだから」
  その指摘に、ルイは唇の端を吊り上げた。仄めかしていただけで、確かにルイは傭兵を雇う事を正式に発言していなかった。フォルト協会を出るまで、せめてこの執務室から退出するまでは土壇場で不採用を告げる可能性を否定しない。
「では、俺からの要望は一つ。彼が戻ったときに、俺の前を歩いてください」
「たったそれだけ?」
「ええ、それだけですよ」
  お互い見つめ合ったまま微笑む姿は、和やかな場に相応しくない薄ら寒さが漂っていた。
  麒麝はこれから何が起こるか知らないが、茶番に付き合う事にした。万が一攻撃されたとしても、彼は無傷で居られる自信がある。今の彼らには、麒麝を滅ぼす事は出来ないと確信さえあった。
  それから間もなく、執務室のドアがノックされた。すぐにアレクシスが姿を見せる。色の濃いジーンズに黒のインナー。懐を隠すジャンパーは半分だけチャックを引き上げている。肩から提げたドラムバックが、一見して旅行者のようだ。
「用意が出来たみたいだね」
  先程の遣り取りを微塵も感じさせず、まず先に麒麝が立ち上がった。出立をねぎらう親の表情を浮かべて。
「お待たせしました」
「行っておいで、アレクシス」
  扉から応接ソファまでの距離は2m強。ルイはゆっくりと、けれどまったく隙のない動作で立ち上がって麒麝の背後を追った。三歩もあれば追いつくだろう。長身の軍人が並べば、枢機卿の身長は胸に届くかどうか。
  ルイは歩行に紛れ、右手を自分の腰元へ回す。グリップの感触。丁度背骨とベルトの接する位置。左足の最後の一歩は、麒麝の真後ろで止まり、差し出した右手には小振りのアーミーナイフが握られていた。
  瞬間、アレクシスは愛銃を抜いていた。銃声は一発。静音仕様だが、それは確かに乾いた音を響かせた。スコープを見るまでもない。腕が、体が定めた位置を知っている。
  狙いは軍人だ。凶器を持つその手の甲。制止もかけず、殆ど衝動で敵を排除するために。
  アレクシスの放った弾丸は、しかし目的を達成することはなかった。
  枢機卿とルイの背後で、陶器が割れる音が響く。続いたのは、ドラムバッグが床に落ちた重い音。
  咄嗟に突き飛ばされた麒麝は、数歩よろけただけだった。近かった二人の距離は、たった一瞬で数歩離れている。体感はとても長い、一瞬の出来事。置き時計の秒針が、漸く動き出す。
「…何の、つもりだ」
  近距離で射線から逃れるなんて離れ業を行った軍人の眉間へ、アレクシスは銃を構え直した。今更になって、武器不携帯の筈ではないのかと疑問が湧いてくる。
「グレイト!いいだろう。枢機卿、彼を正式に雇いたい」
「…本当に貴方は狡い。原因がなんであれ、弁償代はこちら持ちじゃあないか。あの花瓶は気に入っていたのに」
「相手が俺じゃなければ、利き腕吹き飛ばされてたぜ?」
  呆れながら背後を振り返る麒麝と、指先でナイフを器用に回して元の場所へ収めるルイ。ただひとりアレクシスだけが状況に取り残されていた。
「麒麝、これは、一体」
「ごめんね、アレクシス。君を騙すようなことをしたくはなかったのだけれど、彼は強情で」
「行為については素直に詫びよう。俺は見たものしか信じない。反応速度を知りたかった」
  銃口に狙いを定められたままだが、まったく意に介さずにルイは肩を竦めて見せた。ミラーグラスを取った青年を見つめれば、不愉快だと潜められた柳眉の下には澄んだ空色の瞳が収まっている。なかなか美しい。
「…殺気は無かった。害意も。ただの茶番で片付けていいんだな」
  怒りを滲ませた冷え冷えとした声色を聞いて、枢機卿は苦笑を浮かべる。アレクシスのこんな態度は久しく見ていない。怒り散らさないだけ大人だが、きっと胸中は荒れ狂っているだろうと想像は難くない。誰でも不本意に試されることは好まないだろう。仕返しをしたわけではないけれど、ルイの胸はすっとしていた。
  正直、軍が傭兵を雇う事に難色を覚えていたのだが、彼ならいい。病院送りにしてしまった部隊のガンナーよりも余程腕が立ちそうだ。完治までの短い期間だが、きっと楽しいに違いない。
  しぶしぶ銃をホルスターに収めたアレクシスの正面に歩み寄ったルイは、おちゃらけたホールドアップを見せる。
「理性は美徳だ。気に入った」
  その態度から一転、軍靴の踵を合わせ、右手を心臓の上へ持ってきた。AUGAFF式の敬礼。
「俺はレイブン・ルイ・ローゼンヴォルト。AUGAFFセントラルスフィアSOACOM、通称『遊撃隊パルチザンコラム』の作戦指揮官だ。君を歓迎しよう」
  深紅の瞳が、獲物を射抜く獣に似ていた。
「名前を聞こうか」
  突然の自己紹介に、アレクシスは呆気にとられていた。僅かに身を引く。開いた口が塞がらないとは、今のような状態を言うに違いない。
「アレクシス・カレル」
  暫く目の前の軍人を凝視していたが、口を突いて出たのは偽名でもなんでもなくて、紛れもない本名だった。
  一部始終を遠巻きに見つめていた麒麝は、先が思いやられる、と気の抜けた笑みを零した。彼らが最初から意気投合する筈がないと知っている。確信を事実にする為に、敢えて自分の縄張りへ呼んだのだ。今日、初対面である彼らが麒麝を交えて対面する事で、何かしらの変化が顕れるかと微かな願いがあったのだけれど。事はそう上手く運ばない。
  願わくば、これが悪い出会いではありませんように。

  

ルビ多いのはもう諦めた。嫌いな方ごめんなさい。
射的射撃狙撃は諸説あるかと思いますが、詳しくは後の話で語れたらいいなと思います。この時代にもレジスターがあることに驚きをかくしきれない。あるんですよ。きっと。
サイオニクス(サイ)は、全ての超人的能力の事を言う、とします。科学的に実証されていて、割とメジャーです。場合によっては差別されることもあります。
以上でプロローグはおわります。
2009/07/02

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